4. 小川 舞 7:57 p.m.
舞は武道館の前にいた。諦められなかったのである。もう泣いてはいなかった。それどころか、再び何とかしてシルバー・レインを一目見てやろうという野心を取り戻してすらいた。今なら、アンコールくらいは間に合うかもしれない、と舞は考えている。舞は迷うことなく入り口に向かって歩いていく。中へ入ろうとする人はもういなかった。先程、「ムーン・ウォーク作戦」を阻止した入場管理の大柴さんが、手持ち無沙汰な様子でほかの係員と談笑していた。
「すみません」
「はい」と振り返った大柴さんは、あからさまに嫌な顔をした。「また、あなたですか」
「中に入れてほしいんです」
「チケットは?」
「ありません。でもどうしても入りたいんです」
「どうしてもって言われてもね」と大柴さんは当惑した表情を浮かべる。
「じゃあ、じゃんけんして私が勝ったら入れてください。もちろん一発勝負で」
「できるわけないでしょう」
「あいこは私の負けでいいです」
「そういうことじゃなくて」
やっぱり、勝率三分の一は高すぎるか、と舞は的外れなことを考える。
「じゃあじゃあ、あっち向いてほいはどうですか? 三分の一×四分の一で勝率十二分の一ですよね?」
「何を言ってるんですか? とにかく、何があっても入れることはできません。諦めて帰ってください」
そう言うと、大柴さんはわかりやすく舞に背を向けた。舞は一瞬怯みはしたが、自らを鼓舞して食い下がった。
「じゃあじゃあじゃあ、電話にしましょう」
大柴さんは、今度は何だ、という表情で渋々振り返る。舞はバッグの中から携帯電話を取り出す。
「今から五秒以内にこの電話に着信があったら、入れてください」
当てがあったわけではなく、完全にとっさの思いつきだった。口にするまで、そんなことを言うつもりはまるでなかった。苦肉の策というのはまさにこれのことだ、と舞は思う。そんなことはありえないと高をくくっていたのか、舞の相手をすることに疲れたのかはわからないが、大柴さんはため息を一つ吐くと、「お好きに、どうぞ」と言った。
舞はやっとチャンスを与えられた気がして、人差し指を立て意気揚々と「いーち!」と宣言した。しかし、二、三、と数が進むにつれ、舞の表情は見る見る暗くなっていく。
「よーん!」と言ったときには、舞は心の中で神に祈っていた。大柴さんは安堵したような、あるいは呆れたような目で見ていた。
「ごー」というその一音を優に五秒は伸ばしたときには、舞ですら諦めていた。やっぱり家に帰ろう、と思いつつ、息を切る。舞の右手に痺れにも似た振動があったのはそのときだった。シルバー・レインの曲が、まるで映画を盛り上げるオーケストラのように流れる。舞自身が一瞬きょとんとしてから、歓喜の声を上げた。
「見てください、本当にかかってきましたよ! 誰ですかね?」
舞は目を爛々と輝かせながら、携帯の画面を見た。そこには見覚えのない番号が表示されていた。「これで入れますよね?」
「入れるわけないでしょう」と大柴さんは吐き捨てるように言う。
「どうしてですか? 五秒以内に着信があったら、中に入れてくれるって言ったじゃないですか?」
「そんなこと一言も言ってないですよ。それに五秒以内と言うなら、あなたが『二』と言ったときに勝負はついてます」
「そんな。でも、本当に着信があったんですよ。これってすごくないですか?」
「すごいか、すごくないかの話じゃないでしょう。それに、失礼ですけれども、誰かに八時に電話してくれるように頼んでたことだって考えられますよね」
そう言って、大柴さんは自分の腕時計を舞の鼻先に突きつけた。確かに八時ちょうどではあった。
「な、私がそんなことすると思います?」
「わかりません」
舞には返す言葉がなかった。それ以上何かを言う気もなかった。舞は黙って踵を返すと、すでにお馴染みになった縁石の上に腰を下ろした。もう泣く気にもなれなかった。そのとき、舞の携帯に再び着信があった。ついさっきと同じ番号からだ。舞は特に何も考えずにそれに出る。
「……のカナコ様のお電話でしょうか?」
最初の部分がよく聞き取れなかった。普通に考えれば名字だと思うが、舞には『義理のカナコ様』と言ったように聞こえた。どちらにしても私じゃない、と舞は思う。
「違いますけれど」
「あ、違いますか?」
「はい、違います」
「あれ、おかしいな」と電話の向こうの女性が呟く。「こちらの番号は、090-◯◯✕✕-△△◯◯で間違いないですよね?」
やたらと、5と7が多いその番号は間違いなく舞のものだった。
「はい。番号は合ってますけど、私はカナコっていう名前じゃないです」
「今日、カード入れを落とされてもいないですか?」
「カード入れは持ってもいないです」
「あれ、おかしいな」と再び呟きが聞こえる。
「あの」
「はい?」
「電話してくれてありがとうございます。でも、ダメだったんです」
「はい?」
舞は電話を切った。ため息を一つ吐き、今度こそ本当に帰ろう、と腰を浮かせる。
「本当に、ただの偶然なの?」
自分に投げかけられたとも思わなかったが、舞は反射的に声のしたほうを向いた。パンツスーツを着た細身で色白の女性が立っていて、その視線は確かに舞に向けられていた。年齢は五十代だろうが、明るい茶に染めた短めの髪型のためか、若々しい印象を受けた。
「さっきの電話、本当に偶然?」
「見てたんですか?」
「えぇ。それで?」
「偶然です。知らない人からで、カード入れを落とさなかったかって。そんなの持ってもいないのに」
彼女に教えるというよりは、ぶつぶつと文句を呟くように舞は言った。
「それはすごいわね」と女性は感心したように言う。
「でも、中に入れませんでした。すごい、すごくないの話じゃないって」
「あなた、そんなに彼らが好きなの?」
「彼らってシルバー・レインですか? 好きです。チケットもないのにここにいるくらい好きです」
女性は舞の顔をじっと見つめていたが、やがて「いいわ」と言った。
「中に入れてあげることはできないけど、代わりに彼らのサインをもらってきてあげる」
「へ?」
舞は思いもしなかった申し入れに素っ頓狂な声を上げた。思わず、そんなことできるわけないじゃないですか、という言葉が口を突きそうになるが、ぎりぎりのところで別の質問とすり替えた。
「あなた、誰ですか?」
「あぁ、そうよね」と言うと、女性はスーツの胸ポケットに手を伸ばした。「私は名和恵子って言います」
「名は、ケイコ?」と舞は訊き返す。
「名和恵子。『なわ』が名字」
「あぁ、なるほど」と受け取った名刺を見ながら舞は言う。「通訳さんなんですか?」
「えぇ。今はシルバー・レインに付いてる」
「シルバー・レインに付いてる?」
「そう。彼らが日本にいる間、彼らと一緒に行動して通訳するのが私の仕事」
「え、じゃあ、シルバー・レインに会えるんですか?」
「会えるも何も、寝るときとトイレとライヴ中以外はへばり付いてるの」
舞の目が再び輝きを取り戻し始めていた。「羨ましい!」と思わず叫ぶ。
「だから、もしよかったら、彼らにサインを頼んでみるけど、どう?」
「どうも何も、ファンタスティックですよ!」
舞は興奮を抑えきれずに、名和さんの手を握った。
「じゃあ、何かサインを書いてほしいもの持ってる?」
舞はバッグの中を探ったが、元々荷物を多く持ち歩かない主義なので、適当なものが見つからない。結局、迷った挙句に舞が選んだのは、先程拾ったシルバー・レインのセカンドアルバムだった。拾ったものにサインをしてもらうのは気が引けると言えば気が引けたが、舞は拾ったこと自体が何かの巡り合わせか、思し召しだと思うことにした。
「オーケー。ライヴが終わってからだから、もう二十分くらい待ってくれるかしら?」
「もちろんです。いくらでも待ちます」
暗闇の中で輝く舞の顔を見て、名和さんは上品な笑みを浮かべた。それからわずかに視線を下にずらしたところで、何かに気づいたように表情を変えた。
「それって、ひょっとしてジッポー?」
名和さんが指差したのは舞のポロシャツの胸ポケットで、その中には確かにジッポーが入っていた。武道館に来る前に新宿のファーストフード店で拾った、誰かの忘れ物のジッポーだ。
「あぁ、すっかり忘れてた」
取り出したジッポーは、外灯に照らされて鈍い光を放っていた。よく見ると、表面に細かい傷がある。
「変わったデザインね」と名和さんは言ったが、ジッポーについて全く知識のない舞には、それが変わっているのかどうかもわからない。
「ねぇ、もしそのジッポーとサインが引き換えだって言ったら、ジッポーを諦める? それともサインを諦める?」
「へ?」
そもそもジッポーは自分のものではないから、もちろん考えるまでもなかった。ジッポーの持ち主に心の中で詫びてから、舞は素直に本心に従う。
「ジッポーを諦めます」
「わかった。じゃあ、それ預かってもいいかしら?」
状況が飲み込めないまま、舞は言われたとおりにジッポーを渡す。
「ひょっとしたら、ジッポーは戻ってこないかもしれないけれど、それでもいいのよね?」
「サインがもらえるなら」
名和さんは舞の意思を確認するように頷くと、「それじゃあ、二十分後に」と言って、颯爽と立ち去った。その後姿はまるで天使のように舞には見えた。
「捨てる神あれば拾う神あり」という諺が、舞の頭の中を駆け巡っていた。
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