たのむ、連呼しないでくれ
キャンプが始まる2週間前、オレとひろみと母上はジャスコに行った。キャンプで色褪せたタオルやゴムの伸びたパンツを持っていくのは恥ずかしいから、新しく買い替えるらしい。他にもいろいろ調達するらしいのだが、詳細は知らない。ひろみは当然だが、オレまで完全に荷造りを母上に任せているのである。
キャンプに行くために準備をする。そんな当たり前のことを知らないひろみは、お出かけにルンルンしているよ。
お出かけは基本的にひろみと母上の二人と決まっているが、たまにオレも加わる。弟のフキョは自閉症の姉と外出したくないので当然こなかった。また、パパ上は母の命令がない限りは同行を控えている。
「そんなんだから、いざという時にひろみのあつかいに困るのよ。それでさらに苦手になって、馬鹿みたい。逃げても良い方向に物事は動かないわよ。悪循環に気づかないカバめ」
避けたがる夫に母はカンカンだ。言いたいことはわかるが、あまりカバを悪く言わないでほしい。カバが可哀想である。
しかし、すでに娘への苦手意識は根を張って、簡単に引き抜けそうにない。家の中であのビブラートの聞いた声を聞くだけで、パパ上はうんざりしている。ひろみは怒っていないのに。相当のストレスがかかっている。考えがかわって受け入れる前に潰されてしまう。
オレやフキョとは違い、パパ上は人生の途中で自閉症が登場し、切っても切れない縁で結ばれてしまった。
前向きで旺盛な母上は「自閉症? なんか知らんけど暮らしていくうちにわかるわよ」と、どっしり構えていた。
しかしパパ上は受け入れる度量を持ち合わせていなかった。会話ができない、どこでも大きな声で歌い出す。だから無理。でも仕方ないじゃないか、自閉症なんだから。みんなに見られても、融通がきかなくて唸り出しても「はいはい」で受け流せよ。
ひろみの父親になって十年以上経っているのに、まだ慣れていないとは情けない。このまま怒っているひろみだけ見て、家族に得体の知れないものがいると怯え続けるのか。
「そういえば、女は8つもキンタマがあるから、男より度胸があるってことわざがあったな」
パンツを買ったあと、母上とひろみはエスカレーター付近の椅子に座った。珍しい。まだ店に入って30分も経っていない。もしひろみが疲れたのなら、さっさと車に連れて避難するが、ひろみは落ち着いている。
だからオレは暇つぶしに会話を始めた。
「それ、肝っ玉じゃない? じゃないと、キンタマがついているお父さんの意気地なしに説明がつかないよ」
「男は外で働き女は家の仕事をするって考えを持っていれば、育児なしな思考でも納得いくな。──お、これうまくないか?」
「愛する妻に24時間労働を強いる度胸だけはあるのね。腹が立つわ。キンタマのせい? 引きちぎってやりたいわ」
「ワオ、バイオレンス」
「あ、あのおー……」
勇気を振り絞ったけど、途中で弱気になった声がオレたちを呼ぶ。若い女性だ。髪を明るい茶髪に染めて、ばっちしメイクをしている。だけど派手な印象はない。一目で「この人は内気だな」ってオーラを放っているせいで、見れば見るほど華やかな外見とのズレを脳に叩きこまれる。
「あ、あ、ごめんなさい。盛り上がっていたのに、邪魔して──」
「あなたがナオスちゃんね! 初対面の人との待ち合わせってなかなか会えないと思っていたけど、意外とすぐ会えたもんだね」
申し訳なさそうに謝るお姉さんを遮って、母上は明るく振る舞った。
そう、謝る必要はない。すっげーくだらない会話をしていたので、お邪魔だなんてとんでもない。むしろ止めてくれたおかげで、モコモコと出かけていたバイオレンス・マザーは大人しくなった。
「あ、この子がひろみちゃんですか。はじめまして。ナオスです」
「なあ母よ、この方はひろみの知り合いか?」
「なないろキャンプのボランティアさんよ。顔合わせするって、出かける前に言ったじゃない」
「そうだっけ? 昼にジャスコでご飯食べるって話以外聞き流していた」
なるほど、この人がボランティアさんか。でないと、積極的にひろみに挨拶なんてしない。
ひろみは、自分の目の高さに合わせて近づいてきた人を一瞥したものの、すぐに視線を手元に戻した。
無反応。しかしこれは良好な手ごたえだ。こんなに近いのに、警戒していないし怒ってもいない。
彼女が無害で、グイグイいくようなタイプじゃないと判断したのかもしれない。
「で、こっちが弟のドン。熱心にひろみをみてくれる」
「はじめまして。あなたは優しいね」
優しい? それは、父や弟のフキョと比べて? たしかに二人を見ていると「家族だから、ひと一倍障がいのあるひろみを気にかけるのは当然だ」と断言しにくい。
「ドンがいてくれるとひろみも落ち着いて行動ができるから、助かっているんですう。あ、これ、ひろみのトリセツ」
「あ。はい。ありがとうございます」
母上はファイルを差し出し、お姉さんはクリアファイルを渡した。って、お姉さんのトリセツもあるのか。
「事前に言葉だけで『キャンプでボランティアと一緒に過ごします』と教えて、ひろみに伝わると思ってんの?」
「難しいかもしれんな。ひろみの知力では、ボランティアや支援が何たるかを理解していなさそうだ」
「ね? だから、前もって顔合わせしておいたり、写真で顔を覚えたりしておけば、キャンプ当日はスムーズにナオスちゃんと行動できるわ」
お姉さんの説明書は、ルーズリーフ一枚だ。名前の下に二種類の顔写真が貼られている。昼間はコンタクトだが、夜はメガネをかけている。
そういえば、ひろみの懐いていた従姉妹が髪を染めた時、ひろみから距離を置かれていたな。外見が変わってしまったからだ。ひろみの知っている従従姉妹と大きくかけ離れていたので、別人あつかいされてしまったのだ。
たまにメガネをかけます。この情報は伝えておくべきだ。
「ひろみちゃん。お買い物したんだね」
「したんだね」
いつも通りオウム返しで応じるひろみ。レジ袋のシワを伸ばして、店のロゴに真剣な眼差しを注いでいる。キャンプでお世話になるお姉さんより、ロゴを目に焼き付ける方を優先しているように見えるが、たんに買い物をしたあとの習慣をいつも通りやっているだけだ。
だから、周りにいる人が代わりに解説する。今日は母だ。
「キャンプに必要なものを買ったんだよね。タオルとか軍手とか……」
「パンツ……」とひろみ。
「そろそろ買い替えようと思っていたから、ちょうどいいタイミングだったわ」
「似合ってる」
今度はハッキリとした声で呟いた。
衣服を買う時、何度も耳にしている言葉だから覚えたのだろう。
「パンツ似合ってる。パンツ似合ってる」
ひろみの声はよくとおる。通行人がひろみの方を見る。この子、今パンツって言った、と言いたげな目線がひろみをとらえる。
母上が気を逸らそうと貰ったばかりの説明書を見せる。
「ほらひろみ。キャンプのお友だちよ。ナ・オ・スちゃん」
「ナオスちゃん。……パンツ似合ってる。ナオスちゃん、ナオスちゃん、パンツ似合ってるう!」
混ざって大惨事になってるう。
オレは下を向いた。姉のトンデモ発言を耳にした人々がもれなく誤解したことなど手に取るようにわかる。なりよりお姉さんの顔を見れない。
「お気に入りのパンツなんだね。よかったね」
お姉さんはひろみに話しかけている。言いたいことは他にあるかもしれない。だが、ひろみとの良好なコミュニケーションを優先した。
ひろみは悪びれずオウム返しをする。
「よかったね……パンツ」
おい、しつこい。
「そろそろお昼になるわ! オススメのパン屋さんがあるの」
1番人の目を気にしているのは母上だ。逃げるように飲食店へ向かい、人の少ないピザ屋へ逃げ込んだ。あれ? パンは?
「うちの娘があ、すみませんでしたあ!」
席につくなり、母上はテーブルに両手の平をつけて、深々と頭を下げた。ゴチンと、おでことテーブルのぶつかる音が聞こえた。
「お母さん! 今、頭打ちましたよね。大丈夫ですか!」
「これくらい、ナオスちゃんの受けた恥ずかしい誤解と比べれば……ひいい! ごめんなさい!」
「なあ母ちゃん。オレ、バジルピザ食べてみたい」
「あとにしてちょうだい! ちょっと、ひろみ。なんであんなこと言うのよ!」
「ウインナー……」
「ひろみはウィンナー好きだもんな。えっと、これとこれと……」
「『ウインナー』じゃなくて『ごめんなさい』でしょ!」
そそくさとピザを選ぶオレとひろみ、鬼の形相で謝る母上、アワアワしているボランティアのお姉さん。
とりあえずお母さんは怒りを沈めた方がいい。周囲の人が何事かとこっちを見ている。
「あたし、気にしていませんから。げ、元気がよくて素晴らしいですね」
元気がいいとパンツを連呼する子だと思われたな。
「チラッとだけ見たんだけど、お姉さんの説明書がすごくわかりやすくて驚いた。身近に自閉症の人がいるから?」
ひろみが顔を近づけてメニューを眺めてるあいだ、オレはお姉さんに質問をした。
大きなひらがなで書いた文字、一余計なことは省き、必要なことはイラストでの説明。そしてなにより、片面だけにまとめている。
見やすくて、わかりやすい。この人は、知的障害の人に伝わるように工夫してプロフィールを制作した。
「なないろキャンプに参加するのは2回目だから。家族に知的障害者はいないけど、大学のキャンプのボランティア募集の広告を見て、自閉症を知ったよ」
「なないろキャンプのボランティアって、みんな大学生なのか! てっきり資格を持った大人や日頃は作業所で支援している人なのかと思っていた」
オレはさらに驚いた。およそ20年も生きてきたら、社会やニンゲン関係や世間のルールがどういうものか理解し、やがて定着する。固まってきたところで「なんじゃコリャ」な自閉症を受け入れたのか。
柔軟性のある人なんだな。オレの親父とは大違いだ。
「オレのアネキは変だけど、悪い奴じゃないから──」
姉を「変」の一言で済ませたけど、具体例をあげるなら、会話はできないくせにひとりごとが大きかったり、普通の人ならできることや通じることがサッパリだったり、怒りが爆発すると大声で喚き暴力的で……あ、最後は普通の人でもありえるか。
でも、みんなが感じる「変」は、自閉症の特徴ではないのか? 自閉症として、当然の反応ではないのか?
「──思い通りに動いてくれなくても、怒らないでください」
ひろみのペースに合わせてくれるのなら、これ以上何も求めない。
普通の人のように、友達になって仲良くしてとは望まない。たった2日だ。何事もなく過ごせられますように。
「相手のペースを守る。これがあたしのモットーだよ」
だから怒ったりしないよ。安心して。
力強くオレを見る目には、揺るがない決意が宿っていた。「怒らないで」の返しが「ペースを守る」。よかった。ちゃんとわかっているから伝わった。
「ぴんぽーん」
と、言いながらひろみが呼び鈴を押した。ピンポーン。
「ひろみ! 勝手に押さないで! まだ決めてないわよ」
「これ。これ」
慌てる母に、ひろみはウィンナー盛りだくさんのピザの写真を見せる。レストランへ行くとひろみは食べたいものを決めたら呼び鈴を押す。だからいつもは隠したり、みんなが選ぶまで注意をそらすのだが、今日は見過ごしていた。
「なるほどね。ひろみちゃんはこのピザがいいんだね」
コントのようなやりとりにボランティアのお姉さんは笑いながらも、ひろみの行動に納得していた。
なんだか今日はいつも以上にひろみに振り回されている。
よく見れば、ひろみの行動は理にかなっている。(周りが見えていないせいで自分本位だが)
それでも、世間一般の人々は自閉症を「変」だと思うのだろう。
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