後編

 バスはほんのわずかな時間調整を終え、早くもつつじヶ丘駅に向けて発車するところだった。

 復路は深大寺小学校を回り込んで三鷹通りに出るルートだった。往路よりいくらか短く、その分停留所も少ない。千尋がショートカットに使ったのもおそらくこの道だ。

 最初に急な坂をのぼるので、今度こそ追いつけるはずはなかった。いずみはもう振り返って確かめることもしなかった。

 乗客は他に一人もいなかった。往路と同じ運転手がバックミラー越しにちらりと見てきたので、いずみはきっと睨みをきかせた。さっきのやりとりを見られていたのだ。

 あーもう、どいつもこいつも!

 四の五の言わず、ちょっと我慢してさせてやればいいのだろうか。減るもんじゃないんだからとか言うやつはいくらでもいるだろう。クラスの女友達なんか、全員そう言いそうだ。

 でも、そんなの全然ズレている。どこがどうとはうまく言えないけど、釈然としないものがあるんだから何か変なのに決まってる。

 自分の方が我慢しなければならないいわれなど、どこにもないはずだ。千尋をこそ、いずみがしたいと思うようになるまで我慢させておけばいいではないか。それで何が悪い?

 いずみは、これが恋愛と言えるのかどうかもよく分からなかった。幼い頃から知っているせいか今更気持ちがときめくようなこともなかったし、千尋の方から好きだとか何とか言ってきたこともないのだ。

 別に反吐が出るほど嫌いというわけではなかった。多分、服にもう少し気を使えば見た目もそこそこイケるやつだし、動物に優しいようないいところもある。蚊を潰すのだってうまい。この夏は何度か刺されかけたところを助けてもらっていた。

 ただ、色々なことがちらついてしまうのだ。昔いずみの家でかくれんぼをして遊んだこととか、幼稚園のプールで千尋が裸になっていたこととか、いずみと千尋が笑いながら頬っぺたをくっつけて写ってるあの写真のこととか。

 それから千尋の心配性のお母さんの顔とか、千尋の性格の悪いお姉さんの顔とか、そういうことが。

 どれもこれも色恋沙汰には邪魔でしかなかった。そういうのがなければと思っても、幼なじみじゃなかったらそもそも付き合うこともなかっただろう。

 千尋の方は何も気にならないのだろうか。幼なじみと付き合うとか、どんだけ人間関係狭いんだよみたいなことを。大学生になって初めての男の話になったりしたら、みんなにバカにされるに決まってる。次にできる彼氏にだって絶対秘密だ。もちろん、次の候補が見つかり次第、千尋とは、はいそれまでよ、だ。次なんて見つかる当てはないけれど。

 面倒くさ。

 ぐだぐだ悩むより、してみて何を感じるか試してみればいいのかもしれない。さくっと済ませて、頭の中でRPGのレベルアップの音でも鳴らしておけばいいのだ。だいたいみんなそんなもんだろうし。

 千尋が調子に乗ってそれ以上を求めてくるようなことがあったら、殺せばいい。それは多分、それくらいの罪だろう。合意なしに強制的にやろうとすることは。

 しゃーない、その線で行ってみるか――。

 いずみはそれでもしばらくためらったあと、やがてあきらめて降車ボタンに手を伸ばした。

 バスは晃華学園で停まると、いずみを降ろして空になって走り去った。

 そのまま停留所でたっぷり五分も待つと、やがて遠目にへろへろになって自転車をこぐ千尋の姿が現れてきた。

 じりじり待つこと更に一分。ようやく追いついた千尋が目の前で停まると、いずみは路肩の自販機で買っておいたペットボトルを上手投げで投げてやった。千尋はそれを顔面で受け止め、情けない声をあげながら自転車ごと倒れた。

「ちゃんと取れよ」

 文句を言いつつ助け起こしてやると、千尋はキャップをひねって中身をがぶ飲みした。熱中症対策にナトリウムも補給できるソルティライチだ。

「あー。生き返った」

「死んでから言え」

「今日暑くね?」

「暑ちぃよ。夏なんだよ」

 何が「暑くね?」だ、あーもう。

「いいからこっち来い」

「え、どこ?」

 いずみは自転車を押して歩く千尋をあとに従えて、すぐ近くの中央自動車道が下に覗ける場所に移動した。排気ガス臭いが、人通りはほとんどない道だ。面倒だから、もうここでいい。

「ここ、平気になったんだ?」千尋が不思議そうに言った。

「何が」

 いずみは意味をつかみかねた。

「昔、怖がってたじゃん」

 言われて思い出した。

 子供の頃、いずみはスピードの出た車やトラックが足元を行き交う光景が怖くて、下を覗けなかったのだ。そういえば、千尋に手を繋いでもらってがんばってフェンス際までにじり寄ったりしていた。

「そんなの昔でしょ」

 いずみは半分照れ隠しで一蹴するように言うと、フェンス越しにひょいと下を覗いた。怖くも何ともなかった。下を走っている車は、昔よりも小さく感じるし、遅くも感じる。トラックなど、屋根に飛び乗ることだってできそうだ。

「あ、平気じゃん」

「だから言ってんだろ」

「ごめん」

 千尋はへらへら笑いながら謝った。

 あーもう、へらへらするな。

「で? すんの?」

 いずみはぶっきらぼうに切り出した。

 千尋は一瞬きょとんとしたが、何の話か理解するとみるみるうちに顔に生気が戻り、首が外れるんじゃないかと思うほど激しく何度もうなずいた。

「するする、する」

 じゃ、ほれ、やるぞ。

 いずみが目で促すと、千尋は自転車のスタンドを立てて停めた。

 いずみは、千尋が焦ったようになって服のほこりを払うのを目をすがめて眺めた。いいから早くしろって。

「はい、はい」

 千尋が、あとは「アクション!」の掛け声を待つだけという感じで向かいに立った。誰も「アクション!」とは言わなかったが、いきなり両腕を思い切り掴まれた。

「痛っ!」

 いずみが下から睨みつけると、千尋は「あ、ごめん」とあわてて力を抜き、手のひらを腕に添えるだけにした。

「じゃ、します」

 します、じゃねーよ。早くしろ。

 いずみは散々文句を飲み込み、心なし顔を背けるようにして顎を引いた。観念して目を閉じ、そのままレベルアップの音を待った。

 ――。

 音はなかなか鳴らなかった。

 まだかと思って薄目を開けてみると、白目になってタコみたいに唇を突き出した千尋の顔がじわじわ近づいてきていた。

 近っ。

 その間抜け面を見て、いずみは反射的に気が変わった。体をよじって腕を払いのけると、あわてふためいた千尋の顎に、下から掌底突きを食らわせた。

「うがっ!」

 千尋は、天を仰ぐようにしてうしろ向きに倒れた。

「暑いんだよ!」

 いずみは吐き捨てるように言うと、くるりと背を向けて歩きはじめた。

「ちょ、いず、いずみ……」

 千尋が哀れっぽい声で呼び止めてきた。

 知ったことか。

 あーもう! 暑い!

「いずみ……」

 いずみは振り返りもせず、猛烈な日差しの中をずんずん歩いた。



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