「丘21」を追え!

つくお

前編

「ちょっと何」

 千尋がおもむろに手を握ってきたので、いずみは怪訝な顔で見返した。

 つつじヶ丘駅前にあるカフェの、奥にある死角になる席だった。二人用のテーブルをくっつけて、予備校の夏期講習のテキストを予習していたのだ。

「何よ」

 千尋は訊いても答えず、へりくだった笑みを浮かべながらその手を今度は太ももに移してきた。いずみは殺意にも似た苛立ちを覚えて、その手を払いのけた。

「やめて」

 千尋はなおも引き下がらず、テーブル下で太もものタッチをめぐる無言の攻防を繰り広げられた。しまいに、千尋が漫画みたいに唇を突き出してキスを迫ってきた。

「やめろって言ってんだろ!」

 腹立ちまぎれに突き飛ばすと、千尋は派手な音を立てて椅子ごと床に転げ落ちた。

「ってー。ちょ、そこまですること――」

 いずみは、文句を言いながら起き上がろうとする千尋の横っ面に、容赦なく回し蹴りを食らわせた。

 千尋は喉からくぐもったような音を出して床に沈んだ。

「死ね、どあほう」

 いずみはテーブルの上をさらうようにして勉強道具をまとめ、怒りに任せて店を出た。

 暑い。

 朝九時にすでに三十度に達していた気温は、すでに三十五度を越えていた。

 あーもう! くそ暑い!

 いずみはささくれだった気分で日陰を求めてロータリーを回り込んで歩いた。すぐに千尋がよろよろとあとを追ってきた。エロいだけでなくしつこいやつだ。本当に殺してやればよかった。

 いずみは始発の停留所で待機していたバスが発車しようとしているのを見つけ、考えるよりも前に飛び乗った。今は顔も見たくなかった。

 ドアが閉まり、バスが動きはじめた。いずみは、だらしなく口を開けてバスを見送る千尋に、車内から中指を突き立ててやった。地獄へ落ちろ。

「丘21」は、つつじヶ丘駅と深大寺を行き来する、片道わずか十五分程度の短い路線だった。

 中学までは深大寺のお祭りに行ったり、部活で市の総合体育館に行ったりするのでよく利用していたが、高校生になってから乗るのはこれが初めてだった。

 空いていた一番うしろの席に落ち着いたいずみは、改めて車内を見回した。乗客は全部で十人にも満たず、冷房は全開だった。

 窓の外には懐かしいが見慣れた風景が流れていた。交番、甲州街道、ケーキ屋、クリーニング店、同級生が住んでるマンション、ぐぐっとカーブする坂道。次に何が見えるか全部言える。

 どこで降りても運賃は変わらなかったし、車内なら涼しくて快適だった。いずみは、このまま深大寺まで行って帰ってくることにした。単語帳でもやっていたらあっという間だ。

 千尋にはうんざりだった。近頃やたらとキスをしたがるが、あれは一体何なんだ。何なんだなんて思うのは変か。だが何なんだ。脈絡もなければ、ムードもへったくれもない。猿か。

 一応付き合っていることになっているのだから、何もするなとは言わなかった。だが、人前ではやめろと約束させていたのだ。それを破ったのだから、あれくらいやっても当然だった。たかだか蹴り一発。テコンドーは小五でやめてるんだし。

 ただ、何もするなとは言わないと言いながら、二人きりになるチャンスを与えないように気をつけていたのもまたいずみだった。キスを許したことはまだ一度もなく、言ってみれば千尋を生殺しの目に遭わせていたのだ。

 別に難しい理屈はなかった。いずみの方でしたいと思ってなかったという、ただそれだけのことだ。

 いずみだってそういうことに興味がないわけではなかった。むしろ、ありありだった。舌と舌を絡ませたらどんな感じなんだろうとか。だが、少なくとも今のところ、千尋としたいとは思ってなかったのだ。半年後だってしたくなるかどうかは何とも言えない。

 停留所をいくつか過ぎた辺りで、いずみはふいに胸騒ぎを覚えた。うしろを振り返ってみると、遠くを走る車越しに何かがちらりと見えた気がした。

 よく目を凝らしてみると、自転車で必死に追いかけてくる千尋だった。まるでジブリ映画そこのけのこぎっぷりだ。

「バカじゃないの」

 いずみは呆れ半分でつぶやいた。

 千尋とはつつじヶ丘にある同じ幼稚園に通った幼なじみだった。小学校と中学校は学区の関係で別だったが、同じ高校に通うことになって久しぶりに再会したのだ。

 行き帰りや校内で何度か顔を合わせているうちに、どちらからともなく付き合うことになった。周りがみんな次々ペアになっていくから、乗り遅れまいとしてそんなことになったのだ。

 考えてみればバカらしい動機だった。そんなことで付き合いはじめた例なんて見たこともなかった。今まで読んだ恋愛漫画の中では。

 漫画の中では、何ていうかもっと、もっとドラマチックだったりとか何かしたはずだ。絶対そうだ。

 ローラー滑り台で一緒に遊んだり、クリスマスプレゼントを交換したりといった思い出を共有している間柄だから、慣れ親しんだ気楽な付き合いではあった。

 それが夏休みに入る頃から千尋に急にエロスイッチが入ったみたいになって関係が少しこじれたのだ。

 千尋は時間も場所もお構いなしだった。もしかしたら、相手だって誰でもいいんじゃないかと思う。同性だっていいのかもしれないし、似たような感触のものなら何でもいいのかもしれない。わらび餅とか。

 そこのところをちゃんと問い詰めた方がいいのかもしれないが、どっちにしてもそんなにしたいというなら絶対にさせてやるつもりはなかった。なぜと訊かれたって、そんなのは自分でも分からない。

 とにかく今は追いつかれたくなかった。いずみは単語帳の同じページを開いたまま、ちらちらと後ろを振り返った。

 上ノ原小学校と晃華学園で続けて停まったせいで距離をつめられたが、中央自動車道をまたぐとあとは神代植物公園まで一直線だった。

 スピードをあげたバスは深大寺東町一丁目と西原を停まらずに通過し、千尋の姿はみるみる小さくなっていった。

 三鷹通りとぶつかる交差点も信号に引っかかることなく通り抜けると、千尋の姿は完全に見えなくなった。いずみはほっとして座り直した。

 どあほうめ。あいつのガッツなんて、どうせこんなもんだ。

 神代植物公園で親子連れが降りると、乗客はいずみ一人となった。ようやく単語帳に集中できると思っていた矢先、もう終点の深大寺だった。

 勉強は進まないし、余計な金はかかるしで散々だった。うんざりしながらバスを降りると、いずみはあっとなって足を止めた。目の前に激しく息を切らせた汗だくの千尋がいたのだ。

「近道、したから」

 千尋は自転車にまたがったまま言った。

 いずみは呆れてものが言えなかったが、それと同時にこの暑さの中を逃げ回るほど愚かにもなれなかった。何なんだこいつは。もう勝手にしろ。

「幼稚園の遠足で来たよね」

 千尋が参道の方を振り返って言った。二人が通っていた幼稚園では、深大寺と神代植物公園は遠足の定番コースだったのだ。

 はいはい、来た来た。いずみは無視して近くの日陰に入った。

「ちょっと見て回る?」

「回らない」

 いずみが呆然と立っていると、千尋が自転車を柵に立てかけておずおずと隣に並んできた。いずみは一歩横にどき、それ以上近づくなと睨みつけた。千尋は分かったというようにうなずきながらも、じりじり距離をつめてきた。

「来んなよ」

「これ、捕まえたらオッケーってやつだよね?」

 千尋がどこか達成感を感じているような顔でお伺いを立ててきた。普段、全力で自転車をこぐことなどないのだ。こいつみたいなアニオタは。

 いずみは頭の中でカチンと鳴るのが聞こえたような気がするほどカチンときた。そんなミッションを課したつもりなどまったくなかった。そこまでしてしたいのか。

「ちょっといい?」

 いずみが作り笑いで誘うように言うと、千尋は従順な子犬みたいに顔を突き出してきた。無防備になったその腹に思い切りパンチを食らわせてやると、千尋は地面に膝をついてうずくまった。

「な、なんで――」

「そんなにしたきゃもう一回追いついてみろ、バカ」

 いずみはそう吐き捨てると、憤然とした足取りで再びバスに乗り込んだ。


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