終章

「…………それで、そのジョゼさんは大人しく絵の中に入ったの?」

「いや、少しは抵抗したよ。でも私が怪我をするほどじゃなかった」


 首を傾けるシビルに、ナタンは小さく笑って肩をすくめてみせた。

 亡き妻に代わって義姉を葬った翌日。ナタンはシビルに旅の目的を語った。彼女は客の嘘をしっかり見抜いていて、客が宿に戻ってくるや、問いつめたのだ。話してくれないとシビルは思っていたが、シビルの手が空いた今日、亡き妻のことも含めて案外あっさりと教えてくれたのだった。

 そっか、とシビルは安堵の息をついた。


「ともかく、それで呪いは解けて、空がこんな色になったのね」

「そう、これが本来の空の色だよ。君にはまだ違和感があるだろうけど」

「ありまくりよ。一面がこんな色だし、夕方になったら赤とか橙とか金とかの色が混じって、その後は藍色とか紺とかになって、黒になって…………空の色がくるくる変わるなんて変よ。絵の中にいるみたいだわ」

「だろうね。でも今からそんな調子だと、これから季節が変わっていくとまた驚きどおしで、身がもたないよ」


 微笑ましそうにナタンは笑うと、足元に置いた、王がいなくなってしまった豪奢な部屋のキャンバスを見下ろした。


「ジョゼ義姉さんが絵の中から出てしまうとまた呪いが復活してしまうかもしれないけど、絵の中の世界に満足して魂が浄化されれば、二度と呪いが復活することもなくなるだろう。……私はその可能性に賭けたい」

「……そうね。私もそうなるといいと思うわ」


 ナタンが足元に置いたキャンバスを見下ろし、シビルは同意した。


「それにしてもナタンさん、十三年前には奥さんがいたなんて……魔法で若作りしてるのね? 本当はいくつなの?」

「歳? ああ、五十八だよ」

「はあ⁉ ちょっと、五十八って父さんよりずっと年上じゃない!」

「魔法で姿を変えているからね。この村には知り合いがいるけど、会いたくなかったから魔法で変装したんだよ」

「詐欺!」


 わなわなと震える指をナタンに向け、シビルは叫んだ。

 悪びれもせずのほほんとナタンは笑うが、シビルとしては騙された気分だ。魔法で姿を変えるにしても、何故年相応の男性にしないのか。せいぜい十くらいしか歳は離れていないだろうと思っていたのに。暴漢から助けてくれたときのときめきを返してほしい。

 これだから男の人は、と口をへの字を曲げ、シビルは両腕を組んでナタンをねめつけた。


「……これからどこへ行くの?」

「王にジョゼ義姉さんのことを報告したいから、ひとまず王都かな。それからサラの故郷へ行くつもりだよ。サラにとっては、故郷の山の上にある空が本当の空だったから。……家族四人でピクニックがしたいって言ってたしね」


 その言葉と共に、ふわりと柔らかで脆い、悲しみに似た色がナタンの秀麗な顔立ちに混ざった。閉じた瞼に浮かぶのは、過ぎた日々の喜びなのか、悲しみなのか。あるいは口にしたばかりの、亡き妻の故郷なのか。

 彼にとって、亡き妻は今も最愛の妻なのだろう。宿に滞在中、彼が女たちの声を無視し続けていたのは、義姉の魂を鎮める絵を描くためだけではなかったに違いない。

 彼にとって自分は、たまたま滞在することになった宿屋の娘でしかないのだ。わかっていたことだけれど、その事実はシビルの胸に突き刺さった。


 シビルにとって居心地の悪い沈黙は、ほんの数拍のこと、ナタンは微笑んでシビルを見た。


「そろそろ行くよ。シビル、世話になったね」

「ええ本当に、世話のかかるお客さんだったわ。また立ち寄ることがあったら、今度は料金に空の絵でも追加してちょうだい。いい場所に飾ってあげるから」

「そうするよ」


 ナタンはくすくす笑うと、シビルに手を振ってから足元のキャンバスを脇に抱えた。シビルに背を向け、歩きだす。

 供をすると言うかのように、まだ過去と未来を結ぶ旅の途中のナタンに向かって風が吹いた。シビルにとっては異質な爽やかな青に染まった空の下、薄紅色の花を咲かせていた木に茂る若葉が葉擦れの音を鳴らしていった。

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空の色 星 霄華 @seisyouka

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