三
それも当然のことなのだ。彼こそが十七年前、この国を支配するため魔女が誑かそうとしたとされる、この国の王なのだから。
しかし、巷に伝わる風聞は真実ではない。あれはこの国の元宰相が作った偽りだ。真実は偽りよりもはるかに人間臭く、美しくも陰謀にまみれている。
魔女――ジョゼはかつて、王城に数多いる優れた魔法使いの一人だった。若かりし日の王はあるときこの美しい魔女を一目見て恋に落ち、ジョゼもまた情熱的で誠実な王に惹かれ、しかし身分の差から周囲に引き裂かれるのを恐れて秘密にしていた。二人の関係を知っているのは、王城に出入りする、逢瀬の手引きをする者たちだけのはずだった。
けれどいかなる手段によってか、宰相が妃を迎えない王の秘密の恋に気づき、激怒した。さりとて、王に注進しても聞いてもらえないのはわかりきっている。だから、ありもしない罪状で魔女を捕らえ、処刑したのだ。そして絶望した魔女は王と国を呪い、自分と王が幾度となく見上げた空に魔法をかけた。
それが、都の青空が失われた真の理由だったのだ。
男――王は魔女の憎悪に構わず、絶えない己の涙も気にせず歩む。これこそが贖罪となるのだとでもいうかのように。一歩一歩、ナタンから離れていく。
「ジョゼ……もうこの国を呪うのはやめてくれ。貴女の憎しみは、私がすべて引き受ける。だから、この国に……民にあの美しい青の空を返してくれ。お願いだ……」
王は魔女の数歩前で立ち止まると、そう懇願した。
魔女の亡骸は無言と憎悪の眼差しのまま、細い腕を前へ差し出した。王なら魔女の亡骸の頬に触れられる距離でも、彼より背の低い魔女の腕では届かない。
しかし、彼女にとってはそれで充分なのだ。
そして魔女の亡骸は腕を――――――――横に払った。
王の身体は無残に切り裂かれ、鮮血が舞った。身体も血も重力に従い、数瞬の空白の後、地面へと落下する。
だが、王の身体は地面に落ちる直前、消えた。血の一滴たりとも地面に染み入らない。
魔女の亡骸がナタンに目を向けてくる。彼女と目が合い、ナタンは肩をすくめた。
「ああ、さっきの王はただの人物画だよ。絵の具に生き物の血を混ぜて偽物を造るのは、私の得意な魔法だからね」
「……」
「だが、絵の具に混ぜていた血は確かに王の記憶と感情を再生していた。彼の言葉と涙は紛れもなく、貴女が知っていた王のものだ。魂の大部分は失せても、そう感じるだけの感覚はまだ残っているだろう?」
皮肉っぽくナタンは口の端を上げて言った。
そう、これが、ナタンが王都から旅をしていた理由だった。かつて魔女と王の関係を知り、ジョゼと王の逢瀬の手引きをしていたナタンは、ならば魔女の亡骸のもとへ王を連れて行けば、魔女の亡骸に残る魂は何らかの反応を返すはずだと考えたのだ。しかし、本物の王を連れて行くわけにはいかない。だから手元にある王の血を用い、王の紛い物を描くことにしたのだ。
「ジョゼ義姉さん、これで少しは気が済んだだろう。貴女を陥れた宰相もその手先も皆、すでに哀れな末路を遂げた。貴女はもう、誰も憎む必要はないんだ」
「……」
「それともまだ足りないのか? サラと、紛い物とはいえ王の命を奪っておいて。それでもまだ殺し足りないと言うのか⁉」
ナタンは声を荒げる。瞳を揺らす魔女の亡骸に、昏い目を向けた。
「ああそうだ。貴女の血を分けた妹であり私の愛しいサラは、死んだよ」
「……」
「本当は、貴女を滅ぼしてしまいたい。十三年前、貴女はサラの心を壊した。私がこの森に駆けつけたとき、サラは生きていたけどそれだけだった。少しずつ彼女の心は病んで…………そして気が狂ったまま、三年前に死んだ!」
ナタンはそう、憎悪と悲しみの声音で事実を告げた。
今でもナタンは鮮やかに思い出せる。この森で姉を救おうとしていかなるものを見聞きしたのか、愛しい女が存在しないものに心奪われ、心ごとこの世の住人でなくなっていく日々を。病み衰えた妻の細い手や痩せた頬、それでも繰り返す意味のわからない呟きを。何もかも、覚えている。
彼女はただ、ゆがんでしまった大切な姉の魂を救いたかっただけなのに。それなのに、心までもがゆっくりと死んでいく病にとらわれてしまった。行かせるべきではなかったと、何度後悔しただろう。だからナタンは立ち直り、この森に辿り着くまで三年もかかってしまったのだ。
「私は貴女が許せない……憎い。でも、サラは貴女を救おうとしていた。王に頼んで血をもらい受け、私が描いた王と共に貴女の魂を浄化するつもりだったんだ。結局、使うことはできなかったけれど。……だから、私は彼女の遺志に従う」
一瞬俯いて唇をきつく噛み締める。そうして、ナタンは先ほどのキャンバスに描かれた壁の何枚もの絵から、一枚の絵を取り出した。
その絵は、王都の公園を描いたものだった。赤煉瓦と臙脂色の漆喰塗りで統一された街並みとかつての色をした空を背景に、木々が若葉を茂らせ夏のはじまりを告げている。どこかへ駆けていこうとする子供たちの笑顔が眩しい、場や見る者の心を明るくさせる一枚だ。
画面の中央には、庶民の身なりをした王が木陰で、空色の服をまとった若い女性と寄り添っている。その穏やかで幸せそうな表情は別人のようであるが、確かに魔女の亡骸と瓜二つである。
「ここに描いてある王もさっきと同じ、王の血を混ぜた絵の具で描いてある。この絵の中へ入れば、貴女はこの女に宿る。この絵がある限り、貴女は王のそばにいられるだろう」
「……」
「貴女にまだ理性と慈悲が欠片でも残っているなら、この絵の中に入ってくれ、ジュゼ義姉さん。サラが取り戻そうとした、貴女の本来の在りようを思い出してくれ」
ナタンはそう冷徹な目と声で、魔女の亡骸に命じるように促した。
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