二
王軍が魔女の亡骸を葬るべく森へ入るという噂話をシビルから聞いた翌日。おそらく昼過ぎには王軍が村を訪れるだろうその日の午前中に、ナタンは森へと足を踏み入れた。
十七年前、その奥深くに魔女の亡骸を抱くことになった森は、一見すると普通の森のようであった。小鳥がさえずっているし、水は清く、木々には瑞々しい葉が生い茂っている。木陰を通りすぎる風は、汗ばむ肌に涼しい。
だが少し奥へ進むと様子は一変し、小鳥の鳴き声は失せ、獣の気配どころか葉擦れの音すら絶え、枯色の葉をつけた木々と痩せた地面の合間を静寂と異様な気配が支配していく。魔力を持たない者でも、ここは決して近づいてはならない場所だと理解するだろう。生命を養う森の奥は、その役目を失い、朽ち果てない亡骸を納めるに相応しい棺と成り果てていた。
逃げたいし、逃げるべきだとナタンもわかっている自分は無力な芸術家なのだ。たまたま、画材を使ってきささやかな不思議を起こす魔法の才に恵まれただけ。心底空の色をどうにかしたいなんて思ってもいない。本当の空の色を知らないあの宿屋の娘に嘘をついてまでこの森へ来るなんて、愚かにもほどがある。
それでも、この森の奥――――魔女の亡骸に自分は用があるのだ。逃げるわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせ、ナタンが足を進めてどれほど経っただろうか。唐突に木立が途切れ、視界が開けた。
ナタンの眼前には、枯れた森の中にあって不自然なほど青々と雑草が茂る盛り土があった。それほど大きくはない。装飾がされた四つの棒が四方に突き刺さっていたがぼろぼろで、魔法道具としての意味を失っているのは明らかだ。
そこに何が封印されていたのか。そんなの、考えなくてもわかる。
「……」
ナタンは唾を飲み込み両の拳を強く握りしめると、盛り土に向かって歩みを進めた。
だが、数歩進んだ直後。眼前に澱んだ強大な魔力の気配が生まれ、ナタンの全身の肌が粟立った。
そして、前方から風がナタンを襲った。
「……っ」
強い魔力によって生まれた風の刃は、しかしナタンを傷つけなかった。代わりに、ナタンが腕につけていた小さな無地のキャンパスに深く鋭い爪痕の絵が一瞬にして描かれる。
これも、ナタンの魔法だ。万一魔法で襲撃されたときに備えて、ナタンは森に入る前にこの道具を準備していた。物理的な力には効かない身代わりなので、武器を振るう輩には対応できないのが難点なのだが、今回はそれで充分だ。
内心安堵するのもそこそこに、ナタンは身代わりのキャンパスから再び前方へ視線を向けた。
それと同時に、腰に届く豊かな黒髪が容貌を飾る、一糸まとわぬ半透明の女が一瞬にして現れた。顔の形といい身体の曲線といい、世界を巡って様々な美を知るナタンでも見たことのない美女である。だが、青ざめた肌やうつろな瞳をしていては台無しだ。元々が美しいだけに、人形よりなお不気味である。
死してなお魂の欠片を朽ちない身に留めた、無感動な漆黒の目をした魔女の残骸を瞳に映し、ナタンは忌々しそうに片頬をゆがめた。
「…………魂の欠片だけになってもまだ、私を覚えていたようだね。……ああ、そうだよ。貴女の義理の弟、ナタンだ」
「……」
「私を殺したいのなら、後にしてくれ。貴女に見せたいものがあるから、私は王軍が貴女の亡骸を滅ぼしてしまう前に無理やりここまで来たんだ」
そう言ってナタンは背負っていた絵を下ろすと、無造作にその中へ手を突っ込んだ。画面いっぱいに何枚もの絵が壁に掛けられた豪奢な部屋が描かれたキャンパスから、簡素だが上品な意匠の赤地の服をまとった壮年の男の手を掴み、無造作に引っ張り出す。画中の男が、現実のものとなる。
魔女の亡骸は、ここで初めて瞳を揺らした。虚ろだったそこに、昏くも燃え盛る炎が生まれる。
現実世界に放り出された男は、眼前の女を見るや硬直した。愕然とした表情で彼女を凝視する。
「ジョゼ…………」
やがて男は、悲しみをにじませた声と眼差しを魔女の亡骸に向けた。
「やはり君の魂は、まだこの世にいたんだな。だから君の亡骸を燃やすことはできず、呪いは解けないままだった。君はこの国で誰よりも優れた魔法使いだったから当然だって、新しい国付きの魔法使いも言っていたよ」
「……」
無理やりといったふうで男は口の端を上げる。しかし魔女の亡骸は答えない。ナタンもまた、口を挟むつもりはなかった。
「………………ジョゼ、私が憎いか?」
血の臭いが混じる重苦しい沈黙を破って、男は意を決してといったふうで問いかけた。
「もしそうならば、私を殺すがいい。あの日、私が貴女を信じきれず、宰相たちから守れなかったために貴女は殺され、今もまだこの世にこうして留まっているのだから。貴女が悪の手先だという宰相の言葉を信じた私もまた、貴女を殺した者たちの一人なのだ」
「……」
「愛していたのに、どうして私は貴女を信じることができなかったのか…………ジョゼ、すまなかった…………」
そうして男は一筋の涙を流し、一歩前へと進んだ。続けてまた一歩、魔女の亡骸へと近づく。
魔女の亡骸は、涙を流しながら近づいてくる男を無言で見つめていた。しかし彼女の目に浮かぶのは、男の後悔の涙のみならず男自身をも燃やし尽くそうとするかのような、燃え盛る炎にも似た憎しみだけだ。
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