看板娘という言葉がこの世にはあるが、シビルはまさしく宿屋‘空の落とし物’の看板と言える。


 背の半ばにかかる金髪と明るい青色の瞳が容姿を際立たせる、美しい娘だ。働き者であるゆえに体に無駄な肉づきは一切なく、手荒れは彼女の容姿をいささかも損なっていない。宿泊目的でなくても彼女に近づく者が絶えないのは、当然と言っていい。

 だが生憎、シビルは己の容姿にもそれにつられる男たちにもさして関心がない。あるのは目下、王都の郊外にあるこの村で父が営む宿の先行きと、とある宿泊客くらいだ。


「ナタンさん、終わった?」


 日が沈む時刻の、淡い青の屋根が目立つ宿の裏の井戸端。そのそばに置かれたキャンバスと向き合っていた青年が息をつき、通りがかった父親と共に様子を見ていたシビルは声をかけた。

 シビルより十は確実に上だろうこのナタンという男は、彫刻が得意だという旅の芸術家だ。シビルが路上で暴漢に絡まれていたところを助けてくれた縁で、数日前からこの宿に滞在している。

 首の後ろで無造作に束ねた肩を過ぎる長さの黒髪に緑の瞳、すらりとした長身の優男で、しかも柔らかな声音と雰囲気とあっては、女性の目を惹きつけないわけがない。しかし彼は女性たちの熱い目をまったく無視し、黙々と絵を描いている。そんな彼の世話を焼くのが、ここ数日のシビルのささやかな楽しみなのだった。


 ナタンの身体が邪魔で、シビルの位置からは彼がどんな絵を描いているのかよくわからない。だがキャンバスの上部は爽やかな薄い青で埋め尽くされているから、昔の屋外が題材であるのは確かだ。下部には石畳があるところからすると、都かどこかの街並みを描いているのかもしれない。

 振り返ったナタンは、シビルが差し出した紅茶入りのコップを受け取って微笑んだ。


「ありがとう、シビル」

「どういたしまして。でもこんなところで描いてないで、部屋で描けばいいじゃない。ここの風景を描いてないんだし」

「そうそう、その絵もいいけど、どうせなら昔の空の絵を描いてほしいもんだな。そしたら買い取って、うちの食堂にでも飾ってやるんだが」

「それは残念ですね」


 シビルの父が太い両腕を組んで豪快に笑うと、湯気を立ち昇らせる紅茶に口をつけたナタンはそう笑い、日が沈みゆく鈍色の空を仰いだ。


 都を中心としたこの地域一帯には、十七年前から空がない。いや、正確に言えば昼夜も季節も問わず、曇っているわけでもないのに鈍色のままなのだ。色のない太陽が地上を照らすようになって久しい。

 空がこうなってしまったのは、十七年前、王位に就いたばかりの国王を誑かし国を支配しようとした魔女がかけた呪いのせいだといわれている。魔女はその美貌を利用して国王に近づいたが、宰相にたくらみを見破られ、選りすぐりの魔法使いや騎士たちによって捕らえた。そして処刑される際、死ぬ間際にこの国と王を呪い、王が愛した空の色を奪ったのだという。


 シビルの父が宿泊客に軽食を頼まれて宿へ戻った後。紅茶を飲み干したナタンは画材を片付けていった。絵を下ろしてイーゼルもたたむと、腰に提げていた袋から何もない部屋を描いた小さなキャンバスを取り出す。

 そして画材を入れた箱を持ち、膝の上に置いた小さなキャンバスに手を近づけると、小さなキャンバスはまるで水面のようにさざ波を立て、ナタンの手を受け入れた。


 ナタンは芸術家であるが、同時に画材に魔法をかけて不思議な現象を生み出す魔法使いでもあるのだ。彼にとってキャンパスは単なる画材であるだけでなく、旅行鞄でもあるのだった。


「そういえばナタンさん、噂を聞いた?」

「噂?」


 片付けを終え、手ぶらで歩きだしたナタンにシビルが話しかけると、彼は目を瞬かせた。


「ここの森に王軍が来るらしいって、さっき来たお客さんが話してくれたの。それも、明日。朝に王都を出るなら、昼過ぎくらいになるだろうって言ってたわ」

「!」

「なんでも、森の奥に捨てられた魔女の死体をどうにかすれば空にかけられた呪いが解けるかもって、城付きの魔法使いか誰かが言ったそうよ。それで、王軍を派遣して魔女の死体を今度こそ完全に燃やしてしまおうってことになったみたい」


 シビルはそう、先ほど訪れた客から聞いたばかりの噂を細かく話した。

 魔女は確かに胸を剣で貫かれ、処刑された。だがその死体を燃やそうとすると、どれほど高温で長時間焼いても決して燃えず、瑞々しさを保つばかり。不気味に思った人々は、けれど下手に遠ざけて何かよくないことになることも恐れて、目が届く場所に葬ることで妥協した。それがこの、王都近郊の村のそばにある森の奥なのである。

 宿の中へ入り、シビルは窓から森がある方へ目を向けた。


「相手は逆恨みで呪いをまき散らしてるような魔女だし、ちゃんとしてなかった後始末をつけるのは当然だけど……死体を掘り返してこの世から消すなんて、なんか後味悪いわよねえ……それに、王軍の派遣にもお金はかかるし……予算の無駄遣いの気がするわ」

「現実主義だね、シビルは」

「当たり前よ。二年前の冬に流行り病で、この村でも三人亡くなってるのよ? あのとき、せめて三割くらい国が薬代を負担してくれてたら、皆でお金を出しあって三人分の薬を買えたかもしれないのに……」


 三年前の冬を思い出し、シビルは唇を噛む。死者の一人はシビルの友人だったのだ。死なないまでも病で苦しんだ知人は何人もいる。あのときほど、国の支援のなさを恨んだことはなかった。

 シビルの心情を知ってか知らずか、ナタンは話題を変えた。


「……シビルは、空の色が元に戻らなくてもいいのかい?」

「ええ。だって、私はこの空の色を見て育ったもの。私にとって、空はこの色よ。生き物も植物もちゃんと育ってるし。空の色がどうとか、興味ないわ」


 空から色が失われた王都とその周辺では、かつての空の色は価値あるものとなっている。シビルが宿泊客から聞いた話では、王都で暮らす王侯貴族はかつての空の色をした宝石を用いた装身具を欲しがり、王都を離れて青空を見に行った数や行った場所の格を競うのだとか。庶民はそうした金のかかる楽しみ方ではなく、絵画を通してかつての空に思いを馳せる。空の色は今や、この国の王都とその周辺においては富を生み出す色であり、過ぎた日々を思い出させる色なのだった。

 シビルには、そうした大人たちの感覚が理解できない。空が色を失った後に産まれ、村から一度も出たことのないシビルにとって、空の色はこの鈍色以外考えられないのだ。いくら大人たちがこれは本当の空ではないと言っていても、色々な絵画でかつての空の色を知っても、そちらのほうが偽物じゃないかとすら思っていた。


「ナタンさんも、空の色は前のほうがいいと思う?」

「さあ、どうだろうね。どうでもいいとは思うけど、そうでもないとも言えるし」

「どっちよ」


 玉虫色の返答に、シビルは呆れた。

 でも、仕方ないのかもしれない。何しろナタンは芸術家なのだ。シビルとて、かつての空の色が美しいことは認めている。芸術家が美しいものを求めるのは、当然だろう。


「どうして大人は皆、そんなに空の色にこだわるのかしら」

「………………さあ、どうしてだろうね」


 物心ついてから何度も思ったことを今日も繰り返すシビルに、本当の空の色を知る青年はそう曖昧な顔で答える。


「どうでもいいと思っていても、やっぱり好きなのかもしれないね」


 そしてナタンもシビルに続いて空を見る。

 二人が見つめる呪われた空を、灰色の太陽がすべり落ちていった。

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