濡れた髪【なずみのホラー便 第19弾】

なずみ智子

濡れた髪

 その異変は、ミキの身を突然に襲った。


「……なんで? どうして乾かないの?」

 髪が乾かない。

 ミキはもう、かれこれ20分以上も、お風呂上りの濡れた髪にドライヤーを当て続けている。それなのに、髪が全く持って乾かないのだ。

 お風呂で温まっていたはずのミキの肌は、とうに冷め切っている。

 しかし、わりと乾きやすいはずの毛先ですら、乾く兆しを見せてはくれない。肩までの長さのボブであるミキの髪は、今にも水滴が滴り落ちんほどにぐっしょりと濡れたままだ。いつもなら、とっくに髪の80%以上は乾いてるはずなのに。


「もおっ、明日は会社の当番なのに……」

 ついにミキは、ドライヤーのスイッチをカチッと切った。

 ドライヤーからは、先ほどまで確かに温風が発されていた。ドライヤーが壊れているというわけではない。

 それなのに、なぜ……?


 洗面所の小さな置時計の針は、すでに深夜0時を過ぎた時刻を指していた。

 ミキは、ランドリーラックより柔軟剤でフカフカになっているバスタオルを取り出し、濡れたままの髪へとグルグルと巻き付けた。

 髪が濡れたまま寝るなんて、百害あって一利なしだ。

 冬場の今は風邪を引いてしまう可能性が格段に高くなっているし、摩擦によってキューティクルも剥がれてしまうため尋常じゃなく髪は痛むし、寝癖もつく。バスタオルで保護しているとはいえ枕だって濡れることは確実だし、何より生理的に気持ちが悪い。

 でも、仕方ない。

 極端に壁が薄いマンションに暮らしているとわけではないが、これ以上、糠に釘としか思えないドライヤーを稼働させ続けると近所迷惑だ。そのうえ、明日は会社の掃除当番でいつもより30分早く出社しなければならない。

 このうえなく、不健康で不美容で不快な状態のまま、睡眠をとるしかないだろう。

 朝、目覚めた時には、きっと――いや”絶対に”髪は乾いているはずなのだから……




 しかし――

「!?!」

 翌朝のミキは、”自分の頭部が水たまりに浸されたまま”であるかのような冷たさと不快感によって、目覚まし時計が鳴るよりも早くに目を覚ますこととなった。


「……え? え? なんで?!」


 朝になってもミキの髪は、全く乾いていなかった! 

 いくら冬とはいえ、物理的に何時間も時間が経過しているのに、まだぐっしょり濡れたままであったのだ!


 膀胱にたまっている尿を放出するよりも先に、乾燥している口内を水分で潤すよりも先に、ミキは洗面所へと走った。

 そして、髪が焦げてしまうのではないかと思うほどに、あるいは、ドライヤーに髪が巻き込まれてしまうのでないかと思うほどに、ミキはドライヤーを濡れたままの髪に密着せんばかりに近づけ、温風を当て続けた。

 けれども、洗面所の時計の針が、出勤時刻ギリギリを指しても、ミキの髪は寸分も乾くことはなかった……




 ミキの身を襲った異変は、この日一日だけでは終わらなかった。

 次の日も、そのまた次の日も、ミキの髪は24時間ずっと濡れっぱなしであったのだから。


 ”髪が濡れている”からといって会社を休むわけにはいかず、ミキは”鼻を啜りながら”会社のパソコンのキーボードを叩いていた。

 社内は暖房が効いているとはいえ、ミキの頭部はずっと”冷”の状態であるため、ミキの全身は悪寒に蹂躙されていた。透明な鼻水が垂れてくるだけじゃない。喉の奥だってもうすぐ痛みで悲鳴をあげそうな予兆を感じていた。


 ずっとずっと濡れたままの髪。

 通勤途中も、吹き付けてくる冷たい冬の風が染み込んでくる。キューティクルもボロボロに剥がれまくっていることは確実だし、ずっと湿原状態である頭皮には痒みだってある。雑菌だってここぞとばかりに繁殖しているのかもしれない。

 ずっとずっと続いている不快感と健康被害。

 それに、何よりも”恐怖”。

 一体、自分の身に何が起こっているというのか?


 この”得体の知れないうえ全く訳の分からない恐怖”を増長させるかのように垂れてくる鼻水を拭うため、机の上のポケットティッシュへとミキが手を伸ばした時であった。


「ねえ、ちょっといいかしら?」

 その声にミキが顔を上げると、ミキの直属の女性上司が立っていた。

 この女性上司は、現在20代半ばのミキより15才以上年上ではあるも、いわゆる”おばちゃん”や”お局様”の要素は極めて低く、良識ある理知的で優しい大人の女性であった。


 女性上司は、自分たちの周りに一時的に人が少なくなっていることを確認したうえ、声を落としてミキへと言葉を続けた。それも、とっても言いにくそうな顔で。


「……あなたの髪、ここ数日、ずっと濡れたままよね。そういいった”濡れ髪風のヘアセット”っていうのが若い人達の間では流行りなのかもしれないけど、ビジネスの場には不向きだと思うわ。正直なことを伝えるとね…………そんなずっと濡れたままの髪って、なんか洗髪していない感じがして不潔っぽいのよ」


 ミキの頬が、瞬時にカッと赤く染まった。

 女性上司の口から発された”不潔っぽい”という言葉が、エコーがかかったかのようにミキの脳内に響き渡った。

 

 しかし、数日前に突如、この異変に襲われたとはいえ、ミキはちゃんと毎日髪を洗っていた。

 この濡れたままの髪を、熱いお湯でまた濡らし、シャンプーで洗って、トリートメントとコンディショナーでケアし、結果としては徒労でしかなかったが時間が許す限り、涙目でドライヤーを当て続けてきたのだ。

 

 ”違うんです、これは……!”と、ミキが自身の身に現在進行形で起こっている現象の説明をする前に、”上司の立場ならび同じ女性として注意してくれた女性上司”は「ちゃんと考えてみてね」と自席へと戻っていった。


 ミキは思い出す。

 通勤電車の中やエレベーターの中で、ミキの近くに立った者が――特にミキの頭が自分の顔あたりにきた乗客の何名かが顔をしかめていたことを。

 ミキの濡れた髪はミキ自身だけではなく、周りの者にも不快感を与えていたのだ。

 得体の知れない恐怖ではなく、周りの者に忌み嫌われてしまうという恐怖までが、新たに生み出されてしまった。



※※※



 休日。

 ミキは自宅で、乾いたタオルで頭をグルグル巻きにしたまま、ノートパソコンのキーボードを叩き続けていた。

 自分の身に起こっている異変について、パソコンで調べるよりも病院に行くのがまずは懸命な判断なのだろう。

 だが、そもそも”何科”に行けばいいのかがまず分からない。

 まさか、自分は世界でまだ発見されていない奇病にかかってしまったとでもいうのか?

 何年かのちに「世界〇天ニュース」や「奇跡体験アン〇リバボー」で取り上げられるレベルの奇病に。自分のこの症状は”濡れ髪症候群”と名付けられてしまうかもしれない。


 それに、家族や友人にこの現象をありのまま話しても「ちゃんと髪を乾かせばすむ話でしょ」とだけ言われてしまうだけなのはも目に見えていた。

 乾かさないのではなく、”乾かすことができない”のに。

 数日前に、注意してくれた女性上司にも話さななくて良かったと今では思う。頭がおかしくなったと思われるだけであっただろうから。



 ミキはなおもキーボードを叩きづける。

 検索エンジンに、幾つかのキーワードを打ち込み続ける。

 

 ついに――

 これが奇病でないなら、何かの”超常現象”なのかもしれないという考えへとミキは到達した。

 幽霊だの、妖怪だの、オーパーツだの、前世だの、宇宙人だのといった、表面をサラッと撫でたレベルの超常現象についての知識はミキも持っていた。


 様々なオカルトや怪奇現象について記されたサイトを、藁にもすがる思いでミキは巡り歩いていった。

 そして、ミキは3つの仮説を立てるまでに至った。


 1つ目の仮設は、誰かからの「念」によるものであるということだ。

 恨みや嫉み、妬みが、自分の髪へと絡みつき、髪を濡れ続けさせているのではと……

 しかし、自慢ではないがミキはそれほど交友関係も広くはなく、その広くはない交友関係の中で(自分が気づいていないだけかもしれないが)こんな呪いをかけてくるほど陰湿な人物の心当たりなどはなかった。

 そもそも、こうして髪だけに呪いをかけて、どうなるのだ。この髪が、シャンプーのCMに出演できそうなほどに麗しく輝いている美髪であったなら、妬みの可能性もあろうが、せいぜい人並み程度であるだろうとも。



 2つ目の仮説は「自分はすでに”水の中”で死んでおり、今見ているこの世界は死したはずの自分が見ている幻である」ということだ。

 全て幻であった。全て夢であった。とは、小説などでよく使われるオチかもしれないが、ミキにとっては相当に恐ろしい仮説であった。

 しかし、ミキが左手の甲を右手でつねると、痛みが走る。ミキは確かに生きている。それだけは間違いない。



 3つ目の仮説は、「この濡れた髪はこれからの自分に起こることを何かを伝えようとしている」ということだ。

 水の事故に遭うということか? 

 しかし、ミキの生活エリアには海はおろか、大きな川や池などもなかった。

 そもそも、ミキは幼い頃からあまり水場が好きではなかった。ミキの兄弟たちは喜んでプールや海に行きたがっていたのに、ミキは水を見ていると、幾重にも連なっている扉の向こうより、”何か”を思い出しそうな感じがして怖かったのだ。

 


 フーッと溜息を吐いたミキは、少し目を休ませた。

 これらの仮説では、3が一番可能性が高いかもしれない。

 でも、いったい、自分の身に何が起こるのだ。濡れたままの髪は、自分に何を伝えようとしているのか?

 まさか、単なる水の事故ではなく、天変地異レベルの災害が起こるということか?



 ミキは財布を手に取った。

 こうして、家の中で仮説を立てて考え込んだとしても何も解決しない。一歩も進まず、単にその場で足踏みしているだけだ。


 コートを羽織り、外へと出たミキ。

 クローゼットの奥から引っ張り出してきたニット帽をかぶってはいるものの、冬の風の冷たさはミキの濡れたままの髪に容赦なく染み込んできた。

 まずは家電量販店に行って、バリカンを購入する。それから、少し電車を乗り継ぐことになるが、ネットで事前に調べていたウィッグ専門店へと行く。


 そう、バリカンで濡れた髪を全部刈り上げて、ウィッグをかぶることにするのだ。

 今はそれが最善の策だ。

 しかし、男性ならまだしも、女性で丸坊主にするというのはなかなかに勇気がいることだ。”髪は女の命”なんて言葉を言うつもりはないが、これほどに濡れた不快な髪であっても髪をなくすのは嫌であった。


 足を進めるミキは、進行方向にある”マンホールの蓋”に気づいた。

 マンホール。

 その蓋をひとたび開ければ、ぽっかりと開いた穴の下にあるのは”下水道”だ。


 だいぶ前に「奇跡体験アン〇リバボー」で紹介されていた海外の事件(2014年5月1日放映)がミキの脳内で強引に再生されてきた。

 それは中国で起こった事件であった。

 確か事件の原因は、金銭がらみであったようにもミキは記憶していた。  

 ある男が知り合いの女性を殺そうとした。その殺害方法というのが、マンホールの蓋を外し、上にダンボールを敷いて落とし穴を作り、その上に女性を誘導して落とすというものであった。

 男の罠にはまり、マンホールに落とされてしまった女性であるも、冷静な判断によって知恵を振り絞り、また幸運も重なり、無事に生還することができたとのことであった。


 こんな異変に襲われる前は、日常の中、気に留めることもなかったマンホールの蓋であったのに、今やミキにとっては更なる恐怖の入り口としか思えなかった。

 マンホールの下に自分の遺体が沈んでいることを想像せずにはいられなかった。



 ミキがバリカンと、数時間も悩んで選び抜いたウィッグを手にトボトボと帰り道を歩く頃には、もうすっかり辺りは暗くなっていた。

 

 家に帰ったら、髪をバリカンで刈り上げる。

 けれども、乾いた髪が生えてくるとは限らない。また濡れた髪が生えてきたら、どうすればいい? また、刈り上げて髪を失うのか?

 ミキの両目にジワリと涙が滲み始めた。

 こんな町中で泣くまい、と思っていたが、滲んだ涙は溢れ、ミキの両頬を濡らしていった。

 しかし、泣き始めたのはミキだけではなかった。


「!!!」

 なんと、ミキの髪が――もともと濡れたままであった髪が、さらにその水気を増し、散々に水気を含んでいるニット帽をさらに重く、縮こまらせ始めたのだ!


「ひ、ひいっっ!!」

 ミキは、濡れたニット帽をべしゃっと道に投げ捨てた。

 冬の夜の外気にさらされた髪の毛先からは、まるで傘もささずに大雨を受けているかのごとく水滴がボタボタと垂れ、ミキのコートを濡らしていく――


 髪が泣いている?!

 震えながら泣いているのだ!


「いやああっ!!」

 悲鳴をあげたミキは、しゃがみ込んだ。

 仮に殺人鬼に遭遇したなら、走って逃げることができたであろう。しかし、ミキにこれほどの恐怖を湧き上がらせているのは、ミキ自身の髪なのだ。逃げても逃げても、額や頬に絡みついてくる執拗にぺったりと自分の髪なのだ。




「あの……どうかされました?」

 道にかがみ込んだまま、しゃくりあげていたミキの背中へと声がかけられた。

 その優しそうな男性の声に、ミキは思わず、瞳からの涙だけじゃなくて髪からの涙でも濡れた顔をあげ、振り返った。


 ミキの滲んだ視界に映ったのは、細面の若い男性であった。

 身長はそれなりにある(おそらく170cmは越えている)も、それほど筋肉を感じさせない中性的な体つきで、最近はあまり聞かない言葉かもしれないが”優男”と形容できる男性であるだろう。


「髪……すっごく濡れているみたいなんですけど、何かあったんですか? 僕で良かったら、その髪、整えますよ」

 ミキに微笑みかけた男性は、そういって自身の背後をクイッと手で示した。


 男性の背後の立て看板には「美容室 Past Life」とあった。”髪を整えますよ”という言葉どおり、この男性はプロの美容師であるらしかった。


「あ、あの……」

 こんな冬の夜に、滝に打たれたかのごとく髪から水滴を滴り落している不審で奇怪な女に、優しい言葉をかけてくれた男性美容師。

 そのことはうれしい。けれども――


「……閉店時間はもう過ぎちゃったんですけど、お困りのようでしたので、思わず声をかけてしましました。実は僕……この個人美容室を開業したばかりでして……お代は結構ですのでモニターになってくれませんか?」

 男性美容師はなおも優しく、ためられているミキに微笑みかけた。

 そのうえ、一国一城を実現させた彼の美容室からはオレンジ色のあたたかな光が漏れていた。


 プロの美容師がこの濡れた髪を無料で整えてくれるというのだ。

 お洒落なベリーショートどころか、スキンヘッドにしたいと言ったら、ビックリするであろう。

 しかし、自宅で自己流の初めてのバリカン刈りをして失敗するよりも、プロに任せた方が安心かもしれないと――



 

 「美容室 Past Life」内へと足を踏み入れたミキの髪からは、”なお一層”水滴がボタボタと号泣しているがごとく滴り落ち、綺麗に清掃されていた床を汚していった。

 だが、男性美容師は嫌な顔をするわけでもなく、襟から肩にかけて濡れまくっているコートを脱いだミキを”まずはシャンプー台へと”案内した。


 シャンプー台の椅子が倒される。

 ミキは仰向けに寝かされた体勢となった。


「それじゃあ、シャンプーしますね」

 先ほどと何ら変わらぬ男性美容師の声。

 心地よい水温のシャワーと爽やかなシャンプーの香りがミキの頭部を包み込んだ。

 そして、優しい指使いがミキの湿原状態であった頭皮をほぐし始めた。

 とっても気持ちがいい。

 もし、ミキに今後、乾いた髪が生えてきたとしたら、この快楽シャンプーだけでも、リピーターになってしまいそうであった。



「あの、お客様……少しだけお話していいでしょうか?」

「……え? あ、はい」

「僕の美容室の名前は、先ほどご覧になられた通り”Past Life(パストライフ)”って言うんですけど……この意味をお客様はご存知でしょうか?」

「え? えっと…………えっと……”過去世”ってことですか?」

「ええ、その通りです」


 いきなりの質問に面食らってしまったミキ。

 しかし、なんとかその質問に対しての正解を答えることができたようだ。


「なぜ、僕が”過去世”なんて名前を自分の美容室につけたかといいますとね。数年前に突然、僕の過去世の記憶がよみがえってきたからなんですよ」

「……………………………………」


 何と答えていいのか、分からないミキ。

 男性美容師はスピリチュアルに傾倒しているのか、それともミキからのツッコミを待ちで、あんまり面白くもないがボケてくれているのか?


「自分の前世を思い出した時、僕は震えましたよ。まるで幾重にも連なっている扉の向こうより、本当の”人生の歓びを知っている僕”が今の僕を迎えてきてくれたんだって…………あ、前世の僕は別に歴史に名を残している有名人とかそういうわけじゃあなかったんですよ。ドジを踏んでいたら、名を残していたかもしれなかったですけど、前世の僕はそんなドジを踏まず、やりたい放題で天寿を全うしたようでしたから」


 ドジを踏む? 

 どういうことなのか?

 そもそも、こんな話は、初対面の相手に――それも客にする話なのか?

 男性美容師は、硬直し始めているミキに気づいていないかのように、いや、絶対に気づいていないないわけなどないのに、なおも喋り続けた。それも、とっても楽しそうに。


「後世にまで、名を残している有名人っていうのは、歴史上の中でもほんの一握りですよ。最近……といっても少し前(2017年11月)に死んだチャールズ・マ〇ソンとかね。彼の死は、日本のメディアでも報道されたから、お客様もひょっとしたら覚えているかもしれませんね? 彼の被害者には、ハリウッドの美人女優やスーパーマーケットの経営者夫婦、それにカリスマ的なヘアスタイリストだっていたっけ…………でも、彼はカルト教団の教祖であったから、厳密に言うと僕とはカテゴリー違いですけど。前世の僕は……メディアがこれほど発達する遥か昔の、それこそ現代でいう中世において若い女性ばかりを狙って”殺(や)りたい放題、殺(や)ってた”シリアルキラーだったからなあ」

「!!!!!」


 ミキは、泡だらけの頭のまま起き上がって逃げ出そうとした。

 けれども、男性美容師は、目にも止まらぬ速さでミキへと覆いかぶさり、ミキをの体を上から押さえつけた。

 ミキの仰向けの全身に男性美容師の体重がのしかかってきた。

 細身な彼の体のどこに、これほどまでの強い男の力が眠っていたのかと思うほどに。

 力の限り叫ばんとしたミキの口を、男性美容師の泡だらけの手が素早く塞いだ。

 もがくミキの口内にシャンプーの苦い味が広がっていく――



「お客様はご自分の前世というものを覚えていますか?」

 楽しそうな――体の下に捕らえた獲物をやっと今からいたぶることができるという歓びに満ちた声。

 ミキは涙をボロボロとこぼしながら、ブンブンと首を横に振った。

 それは”覚えていない”という意志表示ではなく、”お願いだから、助けて、殺さないで”という魂からの懇願であった。


「そうですよね。皆が皆、前世を覚えたまま、いや思い出して、今生を生きていたとしたら大変だ。お客様と同じく他人に殺されて、前の人生を終えた人も世には多数いるわけですし……前世からのPTSDで日常生活に支障をきたしますもんね」

 男性美容師はクスクスと笑う。

「ただね……前世のどこかで出会う縁があった者は、今世のどこかでも出会う縁が紡がれているんですよ。それでね……僕はずうっと念を送り続けていたんでよ。前世の僕が溺死させた女性の魂のうち――”今世でも女性の肉体に生まれついた人たち”の髪が濡れたままとなり、溺死専門殺人鬼の僕への目印になりますようにってね。新規顧客の開拓も大切だけど、まずは今世でもリピーターをガッチリ”捕らえて”からじゃないと♪」






 ――ミキがその頭部を”沈められている”シャンプーボウルから、ついに水が溢れ出し、床をビチャビチャと濡らし始めていた。



「……!! ……うぇ…っ…!! ………ゲホッ……!!」

 ミキの両手は宙をひっかき続けていた。

 神に助けを求めるように。

 いや、今世においてもこんな殺人鬼と巡りあう縁を紡いだなんて非道な采配を行った”運命の神”の頬をひっかくかのようにもがき続けていた。

 もう遅いかもしれない。

 でも死にたくなんてない!!

 今世も殺されて、死にたくなんてない!!!


「やっぱり”今世も”抵抗して、楽しませてくれますねえ♪」

 歓びに満ちた”人ならざる者”の声が、キーンと耳鳴りを起こしているミキの耳の鼓膜を突き破らんばかりに響いてきた。


「た……た…すけ…て……」

 ”一時的に”水責めからは解放されたミキは、水と泡にまみれた真っ赤な顔で、息も絶え絶えに必死の命乞いをする。


「それは無理なお願いですよ。あなたは”シリアルキラー”としての僕の今世での初めてのリピーターなんですから♪ やっぱり初めてのリピーターって、すっごくうれしいモンじゃないですかぁ♪ あ、”後のこと”は心配しなくたっていいですよ。僕は掃除は念入りにしますし、僕たちが生きていた中世にはなかった強力な洗剤とか薬品が今の時代では開発されていますからね。ま、その分、科学捜査も発達してるわけですけど(笑)あなたの遺体は、山奥に穴を掘って埋めたり、重りを海につけて沈めに行ったり、チェーンソーでバラバラにしたりするほどの手間暇はかけたくないんで、隙を見つけて、町の適当なマンホールにでも放りこんでおきますから………」




―――fin―――

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濡れた髪【なずみのホラー便 第19弾】 なずみ智子 @nazumi_tomoko

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