包丁研ぎと僕の冬

八百十三

包丁研ぎと僕の冬

包丁研ぎます 土曜日 10時~16時半 一本500円――


そんな文句が墨で書かれた、装飾も何もない、いっそ潔いまでに簡素な木製の小さな立て看板。

東京都内を走るローカル線の、都心からはだいぶ離れながらもそこそこ賑わいを見せる駅。その北側ロータリーに面した交番の隣の空き地に、それはぽつんと立っていた。

今年の春までは、そこにパチンコ屋があったはずだ。それがすっかり取り壊されて更地になって、今は侘し気に土の地面を晒している。


新しい建物が立つ気配もなく、端の方に雑草が生える寒々しい空間に、まるで浮かび上がったように置かれたそれに、僕は小学校に向かう足すら止めて、見入ってしまっていた。

背後を走る車のエンジン音と、踏切の警笛の音が、どこか遠くに感じる。

金曜日の朝の慌ただしい時間、郊外の駅は通勤や通学に向かう人が多くいて、駅前の通りに立ち尽くす僕はとても邪魔になってしまっている。

空き地の看板をただ無言で眺める僕に、通行人は妙なものでも見るような視線を投げながら、まるで川の流れが岩を避けていくように僕を避けて通っていった。


「包丁……」


小学校中学年の知識を総動員してなんとか読めたそのキーワードが、思わず口から零れ落ちる。

ぎます」は読めなかったが、包丁にまつわる言葉だということは理解できた。包丁に関わる言葉なのだから、きっと切ることに関わるのだろう。

そんな思考が脳内で泡のように浮かんでは消える。なんならこのまま、この看板をしゃがんだままで見ていてもいいくらいだったのだが。


「間もなく、2番ホームを、電車が通過いたします。黄色い線の内側まで、お下がりください――」

「あ!特急!」


駅の構内から聞こえてくるアナウンスに、僕は顔を跳ね上げた。

特急が駅を通過する時間だ。このアナウンスが聞こえるくらいまでこの近辺にいると、大抵ホームルームの時間に遅刻してしまう。

僕は立ち上がって、線路に背を向けて人の流れに逆らわないように歩き出した。本当は今すぐにでも駆け出したいが、これだけ人が多くては走れないし、危ない。

そうして交差点の間際で人の流れが途切れたところで、僕は信号と左右をしっかり確認して、青信号の灯る横断歩道に駆け込むのだった。




学校が終わって、家に帰ってきて、ご飯を食べて、宿題を済ませて。

そんないつもの金曜日・・・・・・・を過ごしつつ、テレビで22時のお笑い番組を見ていると、玄関の鍵が開く音がした。

次いで、ガチャリと音を立ててドアの開く音がする。


たすくー、ただいまー」

「おかえり、お母さん」


スーパーのビニール袋を提げて、お母さんが帰ってきた。

コートのボタンを外しながら、半額シールのついたお弁当をローテーブルの上に置いたお母さんが、ほうと一息ついた。


「あー、こう寒いと家の暖かさが身に染みるわぁ……佑、ちゃんとご飯食べた?」

「うん。ちゃんとお皿も洗ったよ」

「そう、ありがとう。佑がお皿を洗えるようになってくれたから助かるわー」


脱いだコートをハンガーラックにかけて、カーペットの上にどさりと腰を下ろしたお母さんが、微かに笑みを浮かべる。

僕はなんだか照れ臭くって、視線をお母さんの方から笑い声の響くテレビへと向けた。


僕のお母さんは近所のスーパーで働いている。

仕事は昼間だったり、夜だったり、不規則だ。急に翌日の仕事をお願いされることも多い。だからお母さんは、あんまり手ずから料理を作らない。

僕はお夕飯に、お母さんが前日に買ってきてくれた、値引きのシールがついたおかずやお惣菜を、冷凍されたご飯とレトルトのお味噌汁と一緒に食べる。

スーパーのお惣菜は美味しいし、お母さんも野菜とお肉とのバランスを考えて買ってきてくれるから、あまり栄養が偏っている気はしないが、やっぱり時々、お母さんの料理が恋しくなる時もある。


そう言えば、最近お母さんの包丁を握る姿を見ていないな、と思いながら、お弁当の蓋を開けて割り箸を割るお母さんの方に視線を向けた。


「ねえお母さん。今日の朝、前にパチンコ屋だった空き地に『包丁なになにします』って看板が立ってたんだけど、見た?」

「看板?北口の交番の隣にある空き地に?えーっと……」


僕の質問に、唐揚げを割り箸で掴んだまま、お母さんは視線を宙に巡らせた。視線と共に手が動き、箸につままれた唐揚げがふらふらと彷徨う。

やがて唐揚げが口の中に消えると、咀嚼し飲み込まれた後お母さんの口が開いた。


「あぁ、そういえば包丁ぎの看板があったわね。見た見た。なんであんなところにあったのかしらねぇ」

「ほうちょうとぎ?」

「包丁の切れなくなった刃をね、研いでまた切れるようにするのよ。それをお金を払ったら、人がやってくれるわけ」

「切れない包丁が切れるようになるの!?すごい!」


瞳をキラキラさせてテーブルに両手を突く僕に、お母さんがびしりと割り箸を突きつけた。


「行っちゃだめよ、あんな空き地に看板を出して営業するなんて、真っ当な人じゃないに決まっているでしょう?」

「えーっ、でもお母さん、包丁が切れない切れないっていつも言ってるじゃん……」


口をとがらせる僕だったが、お母さんは意に介さない。再びお弁当の唐揚げに箸を伸ばして、もぐりと半分噛み切った。それを飲み込んでから、再び言う。


「大体、今時包丁を研ぐ道具なんて100円ショップでも売ってるし、スーパーでも包丁を買えるのよ。

 うちのステンレス包丁なんて高いものじゃないんだし、買い替えればいいの」

「むー……」


あっさりと、買い替えればいいと言ってのけるお母さんに、僕は反論できなかった。

口を噤んだ僕にちらりと視線を向けて、箸につまんだ唐揚げの残り半分を口に運ぶお母さんは、小さく箸を振った。


「いい佑、確かに明日は土曜日だけど、北口の交番横の空き地には行っちゃ駄目よ。どんな怖い人がいるか分からないんだからね!」

「はーい……」


強い口調でそう言うお母さんに、僕は俯いて背中を丸めた。背後のテレビで流れるお笑い番組の騒がしい笑い声が、僕の頭の上を通り抜けていった。




翌日、土曜日、11時。

お母さんは朝から仕事に出かけていった。朝ご飯を食べた僕は漫然と、部屋でゲームをして過ごしていたのだが。

気付けば何かに導かれるようにして、手提げ鞄にお財布と、台所の包丁を入れて家を出ていた。

包丁はそのまま入れたら確実に危ないだろうから、家にあった新聞紙で刃の部分をぐるぐるに巻いてある。切れ味の悪くなった包丁とはいえ、用心はしないといけない。

家の鍵を閉めて、駅前の商店街を通り、踏切を渡ってすぐのところ。昨日の夜にお母さんから「行ってはいけない」と言われた問題の空き地。


果たして、昨日見かけた立て看板は昨日と同じようにそこにあった。

問題は、その看板の奥。プラスチック製の瓶ビールケースに腰掛けて、コンクリートブロックを何個か積んで板を乗せた台を前にした、帽子を深く被ったが、そこにはいた。

僕の心の中で、感動と恐怖が交互に現れては渦を巻く。本物を前にしたという思いもあれど、お母さんの言っていた通りに怖い人だったらどうしようとも思う。

空き地の隣に立つ時計屋さんの辺りから、空き地の中を伺うように顔を覗かせていると。


「おい」


低く、重たい声が耳に届いた。

飛び上がりそうになるのを堪えながら後ろを振り返る。誰もいない。しかしてすぐに、僕の背中に声がかかる。


「おい、時計屋の前にいる小僧・・・・・・・・・・。用があるんならさっさと来い」


今度こそ、僕は飛び上がりそうになった。

声をかけられている・・・・・・・・・。間違いなく、僕が。空き地にいる包丁研ぎの人に。

いっそのこと、声を無視して逃げ帰ってしまおうかとも思った。しかし僕の持つ手提げ鞄の中には切れ味の悪い包丁が入っている。用があるのは事実なのだ。

僕は意を決して振り返り、空き地の中へと踏み入った。願わくば、包丁研ぎの人が優しい人でありますように。そう一縷の望みを抱きながら。


しかし。僕がその全貌をハッキリと捉えた包丁研ぎの人は。そのおっちゃんは。


「シモの毛も生え揃っていないような小僧が、こんな時分に何の用だ。冷やかしに来たってんなら容赦しねぇぞ」


しわが深く刻まれた顔で、キッと吊り上がった黒く細い目をさらに細めながら、目深に被ったハンチング帽の下から僕を睨みつけるのだった。

帰りたい。逃げたい。心底から僕はそう思った。




恐怖が全身を支配して動けないままでいる僕をねめつけた包丁研ぎのおっちゃんは、僕が左手に持った手提げ鞄に視線を投げた。鞄を数瞬見つめ、そして。

僕に向けてスッと右手を差し出した。節くれ立って、ゴツゴツとした手だ。


「まぁ、客だってんなら小僧だろうと構わんか。包丁、持ってきているんだろう。出せ」


僕はその言葉にハッと我に返った。思わず腰を折って深く頭を下げる。


「ごっ、ごめんなさい!僕……」

「謝らんでもいい。いいからさっさと包丁を出せ」


手を差し出したまま、おっちゃんが顎をしゃくる。その対応に、僕は涙が溢れそうになる目をおっちゃんに向けた。

お母さんの言いつけを守らないで空き地に来て、包丁を持ち出したことを一瞬で見抜かれて、悪いことをしたことを自覚した僕は思わず謝ってしまったのだが、このおっちゃんは僕を客として・・・・見ている。

僕は腕で目をぐっと拭うと、手提げ鞄をまさぐった。中から新聞紙でくるんだ包丁を取り出す。


「あの、これを……研いでください!」

「おう、一本500円だ。先に貰うぞ」


おっちゃんに包丁を手渡したその手で、鞄から財布を取り出す。マジックテープをベリリと剥がし、500円玉を一枚。

おっちゃんの開いた手の上に乗せると、そのごつごつした厚みのある手がぐっと握り込まれた。

その握った手をカーゴパンツのポケットに突っ込むおっちゃん。そこが財布代わりなのだろう。

お金をしまったおっちゃんが、新聞紙の包装を剥いていく。その作業は乱暴だが、新聞を大きく破らないよう気を使っているのが見て取れた。

そして露になった、家にあったステンレス製の三徳包丁をおっちゃんは手に取る。陽光に翳しながら、いろんな方向から刃を見たおっちゃんが、ふぅっとため息をついた。


「こりゃ、酷いもんだな。安物だとしてもこんななまくらじゃ薄皮一枚切れやしねぇ」

「あ……」


おっちゃんの言葉に、僕はちょっとだけ申し訳ない気分になった。お母さんは包丁に頓着しない人だったから仕方がないが、こうまで言われるとなんだか包丁が可哀想な気分になってくる。

少し俯いた僕の顔色を読み取ったか、おっちゃんが帽子の位置を直した。目線を隠して、おっちゃんは言う。


「だが、まぁこの程度なら何とかなるだろう。小僧、そこで座って待っていろ」


帽子から離れたおっちゃんの手が、僕の左側を指し示す。そこにはおっちゃんが座っているのと同じような、プラスチックの瓶ビールケースがあった。上に、薄い座布団が乗せられている。

僕は言われるがままにそこに腰掛ける。するとおっちゃんは座っていたビールケースから立ち上がると、後ろを振り向いた。

と。


「(あれ……?)」


その後ろ姿に、僕は小さな違和感を抱いた。

冬の最中、寒風吹きすさぶ頃合いだというのに、おっちゃんのカーゴパンツはベルトがされていないからかずり落ちていて、腰のあたりに僅かな隙間が空いている。

こんな寒いのに地肌が見える格好をしていたら、さぞかし寒いことだろうに。おっちゃんは腰が冷えて平気な年でもないと思うのだけど。


僕の疑念の視線など意にも解さないという風で、おっちゃんが手に取ったのは水を張ったバケツだ。中から砥石と雑巾を取り出す。

雑巾を硬く絞って台の上に敷き、その上に濡れた砥石を据える。位置を整えたおっちゃんが、僕の家の包丁を手に持って砥石にピタリと当てた。

しばしの位置調整の後に、おっちゃんが包丁を砥石の上で前後させ始める。シャッ、シャッという音が、静かな空き地に響き始めた。

僕は座ったまま、おっちゃんが包丁を研ぐ様子をじっと見ていた。包丁を研ぐおっちゃんの手つきは澱みがなく、迷いもなく、見ていて飽きが来ない。

キラキラした目つきで包丁を研ぐ様子を見つめる僕に、おっちゃんの鋭い視線がチラリと刺さる。そのままおっちゃんは口を開いた。


「……小僧。そんなに面白いか」

「うん、なんか……すごいや」

「そうか」


そうぽつりと零して、また包丁に視線を戻すおっちゃん。再びシャッ、シャッという包丁を研ぐ音が空間を満たしていく。

そしてしばしの後、おっちゃんは包丁を研ぐ手を止めた。研がれた包丁を、再び陽光に翳す。

しばらく刃先を眺めた後に、おっちゃんがじろりと僕を見た。


「小僧、母ちゃんに料理は作ってもらっているか」

「え?……ううん、いつもスーパーのお惣菜ばっかり」

「そうか……やっぱりな。

 日頃から包丁を触らないが、無いと不便だから包丁を持っているって奴の包丁だ、こいつは」


そう、誰に言うでもなく言葉を投げると、おっちゃんは今度は刃の別のところに手を当てて研ぎ始めた。どうやら包丁は、一度の研ぎではよくならないらしい。

再度始まる、おっちゃんの包丁研ぎ。包丁に視線を落とすおっちゃんに、今度は僕の方から声をかけた。


「おっちゃんは、何で包丁研ぎの仕事をしてるの?」

「何で?……そうさな、考えたこともなかったな。

 俺にゃあ、刃物を研ぐことしか取り柄・・・がなかったからな」


僕の問いかけに答えたおっちゃんの目が、寂しげに細められたように見えて、僕はその先の言葉を言えなかった。




包丁の刃を研ぎながらのおっちゃんと僕の会話は続く。

学校はどうだ、友達はいるか、喧嘩はしないか、そんな他愛もない、日常的な会話だ。

そうして何度目かの会話を交わしたのちに、おっちゃんが何度目か包丁を持ちあげた。それまでよりも念入りに、時間をかけて刃先をチェックする。そしてその日初めて、僕はおっちゃんの笑顔を見た。


「よし、これならいい」

「やった……!ありがとう、おっちゃん!」


おっちゃんにつられて、思わず僕も笑顔になる。僕の笑顔を前にしたおっちゃんは少しだけ目を見開いたが、すぐに柔らかい微笑を浮かべた。

すると、おっちゃんが僕へと二度三度、手招きしてくる。誘われるがままに、おっちゃんの傍に寄った僕の肩を抱くようにして、おっちゃんの手がポンと置かれた。

突然のことに驚いた僕がおっちゃんを見上げると、それまでとは想像もつかないくらいに優しい笑顔を浮かべたおっちゃんが、僕を見ていた。

その右手に僕の家の包丁を持ったまま、口を開く。


「いい仕事をさせてくれてありがとうよ、小僧。お礼に一つ、いいもの・・・・を見せてやろう」




そう、優しい笑顔で言ったおっちゃんは。

僕の肩に左手を置いたままで。

右手に持った包丁を大きく振りかざすと。




おっちゃんの前方の・・・・・・・・・空間を・・・、袈裟に切り裂いた。


まさか、僕にその包丁が振るわれるのではないか、と思って硬直した僕の身体が、別の意味合いで硬直した。

空き地の中、僕とおっちゃんは道路に背を向けた形で立っていて、その僕とおっちゃんの目の前の空間が斜めに、パックリと裂けている。

その空間の裂け目から光が漏れていて、中から人の声がするのが分かった。


『……本……うに、たす……は迷惑を……』

「お母さん!?」


裂け目から聞こえてきたのは、間違いない。お母さんの声だ。

思わず裂け目に駆け寄ろうとした僕の肩を、おっちゃんの手がぐっと引き留めた。


「駄目だ小僧、俺から離れるとが解けちまう」

「術?」


状況が飲み込めない僕は、おっちゃんの顔を見上げた。おっちゃんの細い目の中、黒かったはずの瞳が、金色に輝いているのが見える。

裂け目を見据えたままで、おっちゃんは口を開いた。


「俺の術は、研いだ刃物の持ち主の記憶を読み取り投影する。今、そこの裂け目から見えているのは、お前の――母ちゃんの記憶・・だ」

「お母さんの……」


おっちゃんの言葉は真剣そのものだ。裂け目を見つめる瞳にも力が籠もっているのが分かる。

僕は再び、おっちゃんの見つめる裂け目へと視線を向ける。先程よりも広がった裂け目は、確かにお母さんが働くスーパーの中の風景を映していた。

お母さんの姿は見えないが、お母さんの上司だろうか、スーツを着た男の人の姿が見えた。声も先程より明瞭に響いてくる。


西条さいじょうさん、貴女には本当に申し訳ないと思っている。息子さんもまだ母親が恋しい時期だろうに、こうして仕事に駆り出してしまって』

『佑に迷惑をかけているのは、私も悪いと思っています。それでも、佑のためを思えば、仕事の多さくらいなんてことはありません。

 あの子には、私もいっぱい助けられましたから、将来あの子が進む道に迷っても応援してあげられるように、備えをしたいんです』


お母さんの言葉に、僕は言葉が出なかった。

仕事に忙しく、家族の時間が取れない中で、厳しく接してくるお母さん。

それが僕の見えないところで、こんなにも僕を思ってくれていただなんて。

裂け目の中から響いてくるお母さんの声は続く。


『ただ……スーパーの安くなったお惣菜ばかりでなくて、ちゃんとした手料理を、佑に振舞ってあげたいとも、そう思うんです』

『西条さん……』

『ですからチーフ、お願いします。来週の――』


お母さんの声が熱を帯びたところで、ぷつりと声が途切れた。裂け目が急速に閉じて、消えてゆく。

何事かと思った瞬間、左肩にかかる体重。反射的におっちゃんの方を見ると、そこには膝をついて胸を抑えるおっちゃんがいた。


「おっちゃん!?」

「小僧、すまねぇ……時間切れだ……」


胸を抑えるおっちゃんの手や首に、茶色っぽいが生えていた。ずり落ちかけたカーゴパンツの腰のところから、細長い尻尾も生えている。

僕は我が目を疑った。

目の前で蹲る、人間の形を・・・・・辞めかけている・・・・・・・おっちゃんが、僕に黒い瞳を向ける。


「変化も解けかけちまっちゃしょうがねぇな……見ての通りだ。

 俺は鎌鼬かまいたちの一族だ。いわゆる妖怪・・なのさ。こうして人間社会で生きて日銭を稼いじゃいるがな……」

「おっちゃん……人間じゃなかったんだ……」

「そういうこった……すまねぇ、小僧。包丁はそこの水道で洗って、自分でくるんでくれ……俺はちと、休憩せにゃならん……」


見る見るうちに全身を茶色と白の毛皮で覆い、鼻と口が前に突き出し、ハンチング帽の横から三角形の耳が飛び出したおっちゃんが、震える手で右手の包丁を差し出してきた。

おっちゃんが爪の尖った手で差し出した包丁を、僕は両手でそっと受け取る。

持って来た時とは一変してまばゆい煌きを刃先に宿した包丁は、指を軽く触れただけで切れてしまいそうなほどだ。

自分の手を切ってしまわないよう、慎重に水道で包丁を洗い、布巾で水気を切って、持って来た時の新聞紙で丁寧にくるむ。

そうして帰る準備を整えた頃には、おっちゃんは身体つきまで変わって、すっかり鎌鼬かまいたちの姿になってしまっていた。身に付けていた服は殆ど脱げてしまい、帽子に埋もれるような形になっている。


「こうなっちまったら、昼過ぎまでは仕事にならねぇな……小僧、気をつけて帰るんだぞ」

「おっちゃん、ありがとう……!」


後ろ足で立ち上がり、帽子を持ち上げるおっちゃんに、僕は大きく頭を下げた。

小さな手を小さく振るおっちゃんに見送られて、僕は家路についたのだった。




家に帰って、鍵を開けてそっと扉を開く。玄関にお母さんの仕事用の靴はない。ほっと息を吐いた時。


「佑?」

「おっっ、お母さん!?」


僕の背後からかかった声に、僕は慌てて振り返った。仕事から帰って来たお母さんが、僕に訝し気な視線を向けている。

そして何かを察したらしいお母さんが、口元をにぃっと吊り上げた。


「佑……お母さん昨日、交番横の空き地に行くなって、言ったわよね?」

「あ、その、うん……ごめんなさい……」


こうなっては成す術もない。僕は素直に頭を下げた。

その頭を、お母さんの手がぽんと叩く。


「まぁいいわ、包丁を毎回買い替えるのも、なんだか虚しくなってきたし。500円で切れ味が戻るなら安い買い物だわ」

「あっ、うん!包丁、すごく切れるようになったと思う!すごかったよ!」


そう言いながら僕は手提げ鞄をまさぐる。興奮しきりの僕の背中に手をやりながら、お母さんは笑ってみせた。


「さぁ、家に入りましょう。久しぶりに料理を作りたくなったわ」




その後の土曜日も、交番横の空き地で鎌鼬のおっちゃんは包丁研ぎの仕事をしていた。

どうやら包丁以外もいろいろと研げるようで、ハサミやら何やらも持ち込まれては研いでいる。

お母さんから口コミで情報が伝わっていったのか、僕がお願いしに行った時よりもおっちゃんは忙しそうだ。


そして僕は毎週土曜日に空き地に行って、おっちゃんの研ぎを眺めるのが習慣になった。

おっちゃんが刃物を研ぐときの音は綺麗で、研ぐ手の動きも綺麗で、おっちゃんの妖怪よもやま話は切れ味鋭く面白かった。

たまに鎌鼬の姿に戻って、僕の膝の上で昼寝をすることもあった。




そんな、おっちゃんとの摩訶不思議な関係が、いつまで続くかは僕には分からないけれど。

僕もおっちゃんみたいに、仕事に真剣に、丁寧に向き合おう。

そう決意した冬だった。

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