神話になり損なったありふれた暴力に纏わる物語

ピクルズジンジャー

三方を山に囲まれ二本の川が交わる平地のお話

 テラの腹は日増しに膨らんでゆく。

 ツクはそれを毎日見ている。


 変化してゆく体を持て余し、ツクが苦労して手に入れた材料で用意した食事を食いたくないと言っては簡易の寝床に伏せる。半ば義務でツクがテラのそばまで運ぶが、口をつけないことも多く、気分がすぐれないと平気で投げ返した。


「お前は私など死ねばいいと思ってる癖にどうしてこんな真似をする! さっさと殺せばいい」


 と泣いて喚いてそれに飽きるとやがて寝る。

 そうして一晩経っていると、憮然としつつも冷えた食事に口をつけている。だからツクはもういちいち腹を立てない。

 テラは機嫌をそこねるとすぐに殺せ殺せと喚くが、隠れ里から逃げ延びた夜に飢えた獣に食われかけた際、こんな形で死にたくないと泣いて暴れて手持ちの杖で獣を滅多打ちにしたので本気で死ぬ気はないとツクは見ている。だからツクはテラの言葉を信じない。殺せと言われても殺さない。

 面倒だし、腹に子がいる女を殺すのは夢見が悪くなりそうだ。 


「さあ殺せ、早く殺せ。腹の中の子供ごとさっさと私を殺すがいい。お前はそのためにここにいるくせに」

「人の心のうちを勝手に決めつけないでくれ」


 主従でいえばツクは従の方だが、洞窟暮らしが長引くにつれて奴婢仲間のような砕けた口調で接するようになった。

 以前と同じ態度でテラに接すると消耗するだけだと痛感したのである。敬を欠いたツクの態度にテラは別に文句を言うわけではなく、むしろのびのびと素直にどろどろの悪態をつく。


「私を殺せばお前たち氏族の神も御霊もお前を褒めたたえるぞ。子は為せなくとも氏族の汚辱を雪いだ英雄の仲間入りだ」

「そんなことをした所でおれたちの氏族はもういない。だからおれの行いも語られない。やるだけ無駄だ。大体死にたくば一人でとっとと死ねばいい。今の時期山の中にはお前のように腹に子を孕んだヒグマがいる。お望みどおりに殺してもらえるぞ」

「私は殺されたいのだ。食われたいわけではない。食われるのは痛そうだから御免こうむる」


 焼いた川魚の胎にぷちぷちの子がいると、不機嫌を忘れて少しは嬉しそうになる癖に勝手なやつだ。ツクは呆れるに留める。


 結局のところ、テラは生き汚い。

 氏族をまとめる長の家系に生まれた姫と呼ばれる立場の娘であるというのに、潔さが全くない。異族に攻め入られ、女子供を逃す時間稼ぎをするために生きながら体の部位を少しずつ削がれて死んでいったという父親とは大違いだ。

 だから己の運命を受け入れられず、こんな山に逃れて山人のように洞窟に籠って泣いては怒るを繰り返している。日に日に膨らむ腹を見ては、飽きもせず泣いて怒る。

 死にたいというが、自害する気はない。怖いのもあるだろうが、どうしてこんな風に自分が泣いて苦しまねばならぬのかという怒りもまた強いからである。

 

 泣いて苦しむべきは自分ではない、腹の子の男親にあたる者がそうするべきだとテラは考えている。


 テラの胎に子種を産みつけた者の名はスサという。氏族を率いる新たな長の座に就いてから引き継いだ名がスサだ。スサの名を継ぐ前はコトと呼ばれていた。

 コトとはテラ達の氏族のいた二本の河川が流れる豊な平地において一般的な娘の名である。つまりスサはコトという名の姫として育てられていた。テラとコトは氏族の長だった先代のスサを父とするが、別々の女から生れ落ちた子供たちだった。異母姉弟である。テラの母は若くして亡くなった。夫の最期と氏族の惨めな敗走を知らずに死んだは幸福だったか。

 コトが長の息子としてではなく娘として育てられたのは、実の母親であったザナの指示によるものだ。娘のころは巫女として神の声を聞いていたというザナのことをツクは一目も二目も置いていた。かつてコトという名の美しい妹姫だったスサにテラを孕ませるよう命じたのはザナだからだ。そのことをツクはテラに伏せていた。


 くにが平和だったころ、テラとコトは仲の良い姫様姉妹として皆から慕われていた。

 くにが異族の集団に襲われ、先代スサの覚悟と屈辱によってかろうじて命をとどめた者たちのみで落ちのびた山奥で、スサはコトとして生まれてから十数年秘めていたものを打ち明けた。母親は異なれど血のつながった姉に対する想いと、姫と呼ばれるものが持ってはならないものがそそり立つ体を。それは夏の夜だった。

 夏の山は音を吸い取る。なんとか持ち出せた姫としての装束を纏った体にのしかかられた娘の悲鳴と嗚咽を、自分と同じ装束をはぎ取った娘を組み敷く新な長の極まった声を隠した。

 隠しきれていなくとも、誰もテラを助けには来なかっただろう。

 異族に血に汚されていない氏族同士の純粋な子をいち早く生んで増やすは皆の総意であった。


 ザナの指示ではあったが、スサにとっては異母姉を組み敷いて想いを遂げるためには恰好の言い訳にもなっただろうとツクは想像している。ツクはザナをのぞいて、スサの体の事情とその身に課せられた使命を把握していた唯一の人間であった。


 腹違いとはいえ姉だったというのに、そのことをその当日まで知らされてはいなかった。その日その時まで蚊帳の外に置かれていた天真爛漫で無垢な姫だったテラはその日から室に籠った。


 かつては太陽に喩えられた陽気で明るい姫だったのに、皆の前に一切姿を表さなくなった。落ちのびた里の者はその理由を察していたからテラをますます腫物扱いする。やがてコトはスサの名を引き継ぎ、美しい姫から凛々しい長として氏族を取りまとめる立場に着いた。それからテラの不機嫌と乱心は酷くなった。胎の中に子種が根付いたという証が現れだすとますます荒れ狂った。

 夏の暑さが去った頃の満月の夜、テラが隠れ里を抜け出したことをツクは察し、追いかけ、飢えた獣に襲われかけているテラを発見し、二人で倒してから山に入った。


 以来、隠れ里には戻っていない。


「子が産まれたらお前にやろう、ツク。そしてスサとザナとあいつらを皆殺せと吹き込んで育てるがいい。お前たち氏族の仇が討てる。お前が黄泉へ向かうときによい手土産となるぞ」


 秋も深まり冬の気配も強まった頃になると、泣いて怒るも飽きたのか、テラはそのようなことを呟いては幽鬼めいた捨て鉢な笑いをうかべるようになった。腹はだいぶ大きくなっている。

 洞窟の入り口で火の番をしながら、ツクは返す。


「おれの氏族たちは黄泉から異族を呼び寄せお前たち一族への恨みは晴らした。それにおれにはスサ様やザナ様に恨みがない。そんなことをせねばならない理由がない」

「理由が、ない!」


 言葉尻を捉えたテラは笑う。哄笑する。そして、見様見真似でツクが木から削って作った椀を放り投げて怒り狂う。


「そのような体にされて恨みがないとはようも言えたものだ! お前の氏族は今のお前をみて嘆き悲しんでいるぞ、種を断たれた立場を受け入れた腑抜け奴隷になり果てたといってな」

「巫女でもないテラに黄泉にいるものの声を聞けるわけがない」

「それはお前も同じだろう!」

「おれはこの世の理から外されたものだから、稀に幽鬼や神の声を聞くこともある」


 無論これは嘘である。ツクにだって幽鬼や神霊の声を聞くことは叶わない。

 しかし、男でも女でもない身である点は確かであるから、テラは黙った。しごく単純にできているテラは、種を断たれた者には代償としてそのような力を与えられるのかもしれぬと考えたらしい。

 幼い頃に種を断たれたツクは、成長しても声が高く、ほっそりとしてまるで娘のようだった。

 もはや記憶にない大昔、テラたちの父だった先代スサに征服されたツク達の氏族は文字通り根絶やしにされた。男たちは種を断たれて、その傷が癒えなかったものはそのまま死んで、生き延びたものは奴婢として連れてこられた。ツクは生き延びた者の一人である。

 だからツクの股間には傷跡と用を足す為の穴があるだけである。


 男でも女でもない、そして年齢が近いという理由からツクはザナによってテラとコトの傍仕えに命じられたのだ。同じ理由から、コトだったスサから直接さまざまな悩みを打ち明けられていた。

 決死の表情で姫装束の裾を捲り上げたかつての妹姫に切々と訴えられたのは最近のことではない。


「私の体には母様やテラ姉様にはないおかしなものがついている。それは何故かと問うてみたら、いずれ分かる、そしてこの件は誰にも明かすなと母様に怖い顔で命じられた。どうしても知りたいならツクに訊けと宣われた。だから、こうして」


 お前に尋ねている、という言葉をコトだったスサはうつむいて飲み込んだ。姉のテラが太陽に喩えられていたなら、コトだったスサは月や星に喩えられていた。そういう性質の姫だったのだ。

 どうしてザナ自身が説明せずに自分に訊けと尋ねたのかよくわからなかったが、姫として育った者の目には美しいとは思えぬであろう体の一部が示すあられもない有様に脅えてすすり泣く妹姫が哀れだったので自分の股間も晒してみせる。よく生き延びたものだなたと自分でも思えるほど、無残な傷跡の残るそこをコトだったスサは目を見開いて見つめる。


「かつての私のここにはコト様と同じものがあった筈です。しかしそれはこうして落とされました。何故かお分かりでしょうか?」


 ふるふるとコトだったスサは、月や星に喩えられる姫らしく頭を左右に振った。


「それが子を為すのに必要であるためです。子を産むのは女ですが、女ひとりでは子は産めません。種をまくものが必要となります」

「た、種」


 あ、と小さく妹姫は声をもらした。ツクがその部位に触れた為だ。

 姫装束の裾から覗く、指ほどの大きさしかないそれが勃ちあがる様子が痛々しく鎮めてやりたい一心だった。不敬になるかと後から頭によぎったが、息を荒げたコトだったスサが目でやめるなと訴える。だからそのままゆるゆると撫でさする。ツク自身から失われたそれの扱い方を心得ているのは、テラとコトだったスサの父親から武芸とともに仕込まれた為である。


「私の氏族はコト様の父上との戦に敗け、我らが氏族の子らを増やすことはまかりならぬとされました。そして女たちに自分たちの種を蒔きました。その子らは今奴婢として皆さまにお仕えしております。私を含む種を断たれた生き残りもそうです」


 コトだったスサの息はいよいよ荒くなる。

 この頃からテラよりも遥かに賢かった妹姫は、この話がどういうものかを理解したとみえてツクに脅えた視線を向けた。指のような器官を握りしめている目の前の奴婢が自分のそれをむしり取るのではないかというような恐怖と期待に満ちた目をしていた。


「お前にそのような仕打ちを強いた、父様を、さぞかし恨んでいるのだろうな」

「さてどうでしょう?」


 ツクは適当にはぐらかした。

 恨んでないとは言い切れないが、このような出来事はこのあたり一帯では全く珍しくない話である。

 言葉も通じず見たこともない武器を持ち、山を越えてくるほどの力をもつ異族に征服されたテラやスサたちの氏族の敗走を目の当たりにすると、言葉も習慣も大体似ている氏族に飲み込まれたことはまだしも幸運なようにツクには思えたのだ。

 近くでみた先代のスサは、戦になると苛烈ではるあったが、氏族の長としては里の者に暴政を強いるわけでは無く名君の部類と言えた。奴婢の扱いもそこまで手荒くなかった。そんな長も戦に負ければ敵の長に髑髏の盃に作り変えられる。

 

 コトだったスサはツクに縋ってすすり泣いた。


「お前に返せるのであれば、このようなもの、手折られても構わないのに」


 強くしろということか、と、ツクが先を読んで先端をする指先と幹の部分に相当する部分を握る手のひらに力を込めると、ああ、と切なそうに声をあげた。自分の氏族が行なった振る舞いに対する罪悪感と快感をより高めたらしい。


「このようなもの、私は要らない。姉様のことを考えるだけで、これが暴れる。血がたぎる。私の頭を狂わせる。ああ本当に、お前に返せることができたらよいのに」

「そのようなことは仰いますな」


 頭を狂わせるようなものなど自分は要らぬ、ありがた迷惑だと、正直なことを言うわけがない。奴婢の立場を考慮しザナの意図を読んで、コトだったスサに妹姫として育てられているその目的と意図を話す。


「私達の氏族と同じ目に遭わぬためです。コト様の御身が守られれば氏族の種も絶えません。そのためにはコト様が種を持つ身であることは秘さねばなりません」

 

 そして実際ザナは自分の息子を徹底して娘と育てていたわけである。二つの河川が流れる平地一帯の勢力争いをつぶさに見てきた巫女としての判断だったのだろう。思い切った決断をする人だと、このころからツクはザナのことを一目おくようになった。自分の氏族にもザナのようなものがいれば根絶やしになることはなかっただろう。

 そして、ザナがコトだったスサに体のことはツクに訊けと言った理由を考えた。通常ならばツクはこの氏族に敵意を持っていると考える筈だ。

 ザナがそうは考えなかったということは、ツクは使えると判断したのか、それとも謀反の意志の有り無しを計るつもりか。

 ザナは、氏族の命を絶やしてはならぬの一心で実の息子を姫として育て上げた人である。もしツクが不穏な動きを見せたらためらいなく斬り捨てるだろう。ツクはそう考えて、この件は胸に仕舞った。ツクもテラのように生き汚いのだ。


 ここでこのまま死にたくはないなと、平地に流れる川の流れを眺めながらぼんやり考える。ツクはそんな人間だった。

 

 汚いツクに縋って、コトだったスサは短い声を出して果てた。種を作る準備がまだ整っていたなかったのか、気をやっただけでその日は終わった。

 やがてコトだったスサの体で種が産まれる。相変わらず美しい姫だったが、少しずつ背も伸び声の質も変わりだす。体と使命に関する秘密を共有するツクに、もはや指のようではなくなった器官に慰撫を求める日が数日に一回訪れる。手のひらで、口で、他の部位で、ツクはコトだったスサの種を浴びた。


 姫だったはずのスサが何もしらないテラにの胎に首尾よく種を植え付けられたのは、ツクという練習相手がいたからだろう。ツクはその事実をありのままに受け止める。


 ツクがテラの面倒を見ているのは、姫と傍仕えの関係が延長しているだけにすぎない。昔は妹姫に重点的に仕えているが、今は助けの必要そうな姉姫に付き従っているだけだ。

 何しろ氏族の純粋な血を引く御子を孕んだ身であるのだから、テラは。



 秋も去って冬が訪れる。

 洞窟の中は比較的暖かいがそれでも荒涼とした風景はテラの気分を荒ませる。冬の気配が強くなる前に狩りで仕留めて剥いでおいた毛皮をしいた寝床にぐったり伏せる日が多くなる。胎の子が動き始めたというのだ。気が滅入るのもあるが、腸を蹴られるようで肉体的にも不愉快で仕方がないらしい。


「このような気持ちで胎に子を為すとは思わなかった。里の女たちのように誇らしげな気持ちにどうしてもなれない。みじめで仕方がない」


 里が平らげられた夜に女たちには異族の種が植えつけられた事実を見ていたはずなのに、テラは自分ひとりが不幸であるようなことを口にする。

 異母弟とはいえ美しい長であるスサに想われ、乞われて、種を植え付けられたのにそのように自分を憐れんでばかりいる。そんなテラのことを知れば、腹の膨らんだ隠れ里の女たちはどう思うだろうかとツクは考えてみたが無論口にはしない。

 

 そもそも別にテラに対する反感が募るわけでもなかった。


 声がやや低くなり、体が筋ばる。種を持つ性としての徴を見せ始めたにも関わらず姫としての装束を纏い続けているスサは変わらず美しかった。月や星に喩えられていた控えめな妹姫時代よりずっと美しかった。癒えない傷と汚辱の泥に浸かる隠れ里の皆にとって、人間離れしたスサの美しさは救いと希望であっただろう。

 そんなスサを一人激しく呪って恨み怒り続ける、諦めの悪いテラの態度がツクには興味深かった。この世の則になど決して従わないと吠え続けるテラの熱量はツクには無いものだった。要は物珍しかったのである。


 洞窟に籠ってから一度も里に戻っていないはずのツクが何故にスサの様子を知っているのか。

 月が決まった形になる夜に、ツクが隠れ里の傍に向かい、里人が手に入れたわずかな食糧や衣類を受け取っていたためである。そこでテラとその胎にいる子の状態も報告していた。

 単純なテラは自分たちは里と完全に縁を切ったつもりでいるが、そんなわけがない。隠れ里の残党狩りに脅える隠れ里に匿うよりも、山の中に潜んでいた方が何かと安全で好都合だというザナの判断により、放置したと見せかけて保護されているだけである。でなければ山に関する知識に不足する人間が二人、これまで無事に生き延びられているわけがない。


 落ち合う場所にやってくるのは大抵はザナに仕える忠実な側女だが、軽装のスサがいることもあった。種を持つ身であるのに女のなりをしたスサの身は内から光り輝くようだったから、外出を控えた方がよいのではないかと進言したくなった。天女か何かと間違えられそうだ。

 女と子供しかいない里の長として生きるスサは、話し相手を欲してツクに会いに来るようだった。以前のように慰めと懲罰を求めることはない。ただ達観したような声で語る。


「母上が私にこのような生き方を強いたのは何故か分かるか? 万物を生み出した始祖の神は姉と弟の二柱だからだ。我らが氏族が再びあの平地を取り戻すには、始まりの神々の行いを真似るがいい。きっとその子には神々のような力が宿るとお考えになったのだよ」

「不用意なおしゃべりはお控えになるよう。どのようなものの耳に入るやもしれませんので」

 

 スサを前にするとツクの言葉遣いは自然とこうなる。

 そしてツクは何かを悟ったような声で、ツクの返答が何であれ淡々とただ語る。


「私とテラ姉様はただの人だ。ただの人でも神の行いを真似て神の通力が得られると母上の説く理屈が私にはよくわからない。お前はどう思う?」 

「ザナ様が仰るのならそうなのでしょう」


 ツクはそう答えた。ザナの策謀はそのようなまじないに依るものであったか、巫女というものは思いもよらぬ知識を有するのだなと感嘆しつつ、そんな母の考えに疑問を呈するスサにもまた感心していた。実際、神々の行いを真似れば人にも神の力が備わるという考えは筋が通っているようで通っていない。やはりテラに比べてスサは賢い。何事もなければよい長になるだろうと思うに留める。


 ツクの当たり障りのない反応に一言、そうか、とだけ返したスサは、わずかな食糧を手渡す。


「母上の仰るように、吾が子には通力が宿っていることを私も願おう。山の中でもこのような世でも生き抜ける強い子であればよい」


 胎の子への希望めいたものは口にしたが、テラへの言葉は無かった。ただツクに姉と吾が子を頼むと頭を下げるだけだった。


 テラの胎の中で元気に暴れる子に通力が宿っているのだろうか、ツクは考える。 

 もしそうなら、テラが毎日のように吐き散らかすスサへの恨みと怒りを吸い込んだ怪物のような御子になるのではなるのではと想像する。そうなればきっとその御子はスサたちのいる隠れ里をまっさきに襲い、母親が被った屈辱を何倍にして返すだろう。そうなればおそらく、自分たちを征服し二本の河川の間にある肥沃な土地を奪った異族たちへ復讐せよ、そして新しく自分たちの種を蒔けというザナのまじないが成就することはない。

 

 そんなことを考えている間に冬は深まる。

 山が雪で白く染まる。残党狩りに足跡を見つけられるのを恐れ、ツクは洞窟の傍から離れなくなった。秋のうちに用意しておいた保存食で飢えをしのぐ。


 いよいよ腹のふくらんだテラは横になり、スサへの怒りと恨みを口にしながら、腹を撫でさすった。愛着が湧いたようでもないが、内側から蹴られることで腹が形を変えることを面白がることもあり、そういう時はわざわざツクに触らせたり見せたりする。

 ツクはテラの膨らんだ腹が時折形を変えることや、腹ごしに生き物がいる感触を得ることにしみじみと驚いて、時折、おお、と声を上げた。そうするとテラはまるで自分の手柄のようににんまり笑った。

 

 胎の子に通力があるのかないのかは分からないが、この世に無事生まれ出てきては欲しいとツクはごく単純に願った。


 雪が解けて、春の気配が強まった。テラの腹ははち切れんばかりである。

 そろそろ出産の段取りを整えねばと、月が決まった形になった夜、久しぶりにツクは決まった場所を訪れた。しかし待てどくらせどザナの側女もスサも現れない。

 不審に思い一旦引き上げ、夜が明けてから残党狩りに注意しいしい隠れ里を訪れた。が、そこは「隠れ里があった場所」に変わり果てていた。真っ白い雪に一面ずっぽり埋もれていたのである。


 はてさて賢いザナ様も平地の出身、雪崩は予測できなんだか、と、ツクは呆然とした頭でそんなことを思った。ともあれ、悠長にしている時間などなかった。テラの胎にいる子は待ってはくれないのである。冬が深まる前に遭った側女は御子は春に産まれると言っていた。

 とにかく今まで見てきたお産の記憶を必死にかき集める。まず大量の湯がいるのだったな、確か。


 洞窟の入り口の氷柱がすさまじい勢いで溶け始めたある日に、テラの陣痛は始まった。盛大にのたうち回りスサを旺盛に呪い、腰をさすれだ手を握れだとツクに命じながらの想像しい出産は否応なしに始まった。

 とにかくツクは大鍋に湯を沸かし、産着として用いる為にテラの目に触れないよう隠していた装束をとりだし、呼びつけられればテラを宥めすかし、どたばたと出産に及んだ。テラの脚の間から血まみれの御子が滑り落ちてきたのを受け止めたツクには疲労による興奮しかない。元気に泣くその子を湯で清めて装束で身をくるんで汗まみれで脱力しているテラに抱かせる。


「お前の呪いを成就させる為にも強く育てないとならんぞ」


 何を偉そうに、と毒づきながらテラは乳を御子に含ませた。その傍らでツクは黙って一仕事を終えたテラの体を清める。テラの体は酷い状態で、これは長くないのではないかとツクは案じた。

 せめて御子がもう少し育つまではテラの身を気遣わねばならない。ツクは考えた。


 すっかり雪が解け、夏の兆しが見え始めた頃までテラは生き延びた。生き汚いテラらしい踏ん張りをみせたなと、素直に称えながらその亡骸を葬った。知識の足らない者の介添え、清潔とはいえない洞窟の暮らし、十分ではない食糧、その中でぼろぼろになりながらもテラは御子に乳を含ませた。

 まことに醜い、猿のようだと罵り、お前は私をこのような目に遭わせたものを誅するために生れ落ちたのだぞ、と物騒なことを囁きながらテラは生き続け、最終的に命を吸いつくされるようにして逝った。

 獣に食われるのは痛そうで嫌だと言っていたのを思い出し、ツクの体力がゆるすかぎり深く掘った穴の中にテラの亡骸を埋めた。その後、母親が亡くなったことも理解できていなさそうな御子を背負って山を下りた。


 


 山を下りて川にそって歩きながら数年、苦労を重ねながらツクは旅を続けた。そして船が行き交う川湊の町にたどり着いた。交易の中心で随分賑わっていたから妙な親子連れがひっそり住み着いても特に注目されなかった。

 ツクによってオクと名付けられた御子は、その町でありふれた男の子として育ち、自然に船頭を志し、いずれ海をみたいと言い出す若者になって旅立った。ツクはそれを喜んで見送った。


 ツクはオクに出自のことは一切語らなかった。

 川の先にある海というものに心を奪われたオク自身が求めなかったため、その機会がなかったのである。よって上流の平地はもうすっかり異族のくにとなっていた。


 ある時往来を歩いていると、ボロを纏った辻巫女に呼び止められた。お前の背後に喚き散らすうるさい女がいるというのである。


「いずれ王となるはずだった者をお前は殺した。その罰を受けよと喚いている」

「その人は自分の命運を予見できなかった方だ、黄泉から私へ災いを為せるとは思えない」


 数年ぶりにザナのことを思い出したツクは、悪霊払いの祈祷料をもぎとろうとした辻巫女をその場においてすたすたと歩きだす。


 道すがら、ザナの目から見れば自分は長い時間をかけて氏族に復讐を果たしたものに映るのか、と気づいて感じ入り、深くうなずいた。

 ならばテラはどう考えているだろう。

 自分の子供が平地を征する偉大な王になどならず、ただのびやかな無名の男として生きていることを愉快に思ってからからと笑ってくれていればいいのだが。ツクは思いながら家路についた。


 

 本来王になる運命だったものがそうならなかった。

 神話になりそこなった物語はここでお終いである。

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