第四章

上島さん、本当に大丈夫ですか。もう無理せんとって下さいね」

 玄天は言った。上島は華山家人々に挨拶をして、総本山を後にした。今も神楽が付き添ってくれている。

「神楽……すまなかった。結局お前に迷惑をかける形になっちまったな」

「いや? 迷惑だと思ったら最初から一緒になんかいないよ」

 神楽は穏やかにそう受け流しているが、神楽の体には、まだ上島が怪我をさせた痕が残っている。上島は、心底神楽に申し訳ないと思っていた。謝るだけでは済まないようなことをした場合、人はどうやって許しを請えばいいのだろうか? そもそも許されようということ事態が間違いなのか。

「勇朔……本当にあれで良かったのかい?」

 神楽は上島の顔を覗きこむ。何のことを言っているのか、上島はすぐに分かった。

 上島は、結局二週間近く華山家で療養しなくてはならなかった。体はまだ本調子ではなかったが、どこか今までの体と違うようだと感じていた。体が軽い。身体の内側からエネルギーが湧き出してくるようだった。自分でも俄かには信じ難い。あれほどの幽鬼を相手にしながら、五体満足でいられるとは。そんな中、もう少しで普通の生活に戻れるかというときだった。玄天が正式に話があると言って上島を呼び出したのだ。何かと思えば、華山家総本山の者たちも、ぴりぴりとした雰囲気を纏っている。一同がずらりと並ぶ中で、玄天は切り出した。

「上島さん。今や貴方は、現在存在する中で最強の霊媒師です。華山家総本山の当主は、世襲制ではありません。それは貴方もご存知ですね。霊媒能力の強い者が、当主になる。その倣いに従い、俺は、当主の座を貴方に譲ろうと思います。どうか――この華山家総本山を、治める当主になって頂けませんか?」

 玄天は土下座に近い形で頭を下げた。現当主が、正式に頭を下げるなどということは、まずないことだ。

 だが、上島はそれをあっさりと辞退した。いとも簡単に、何のしがらみも無く、こう言ったのだった。

「阿相さん、有り難いですが、俺には当主など無理ですよ。俺は、貴方のような当主にはなれない。勿論、貴方のような考え方をしなくては、ここを統括していけないことは充分分かっています。けれど、俺には、実践出来そうにない」

 どんなに困っている人が居ても、何百人もの人が死んでいても、勝てない幽鬼の依頼は引き受けない。最優先すべき事項は、霊媒師の保存。それは当たり前のことだ。しかし、上島はそのように考えることは、己には出来ないと断言したのだ。当主に必要なものは、冷静な判断力。ときに酷薄な決断を下さなくてはならないこともある。上島は、自分はそれを持ち合わせていないのだと、高らかに宣言した。玄天は、それでも、と食い下がったが、上島は頑として、首を縦に振らなかった。しかし、玄天を除く華山家総本山の者たちの顔は、一様に安堵の表情を浮かべていた。勢力争いの厳しいところに、また新たな勢力が加われば、今まで築いてきたものが一夜にして消えてしまう。それは玄天側の人間も、また玄水側の人間も同じだった。玄天だけは納得がいかないようで、ずっと上島を説得し続けていたが、上島は困ったように笑うだけだった。

「俺は、当主の器ではない」

 横に居る神楽に向かって、上島は呟いた。そんなことはない、と反論しようとする神楽を遮って、上島は続ける。

「本当だ。俺には、玄天のように、派閥の中で華山家を上手く統括出来るなどとは到底思わない。大体そういう面倒なことは苦手だ」

 上島は権力などには興味はない。勿論、当主になれば、毎年政府からの寄付金は数十億にも登るだろう。依頼主からの多額の謝礼金もある。しかし、上島はそんなことに頓着する人物ではなかったし、華山家総本山は玄天が治めていくのがいいと思っている。

「それに……」

 上島はぽつりと言った。神楽が首を傾げる。

「それに、俺が当主になったとしても、じきにまた玄天が治めなければならなくなる。そんな無用な混乱は避けるべきだろう?」

 神楽は瞠目した。咄嗟のことで声が出ない。

「俺は朔になった。けど、朔は寿命が短い。それは神楽も知っている通りだ。だったら、最初から玄天に治めて貰ったほうがいい。そうだろう?」

 上島は微笑(わら)っていた。屈託もなく。上島は、間違いなく自分が早死にすることを知っている。もう、彼はサンユエではなく、怖ろしく寿命の短い、『朔』なのだ。

「そんな顔をするな、神楽。別に自棄で言ってるんじゃない。ただの事実だ。それに――――」

 上島は言いよどんだ。

「それに?」

「いや、何でもない。また後で――そうだな、全て終わったら話すよ」

 俄かに沈黙が降りた。上島の発言が意味深で、神楽は意味を図りかねた。

「けれど、勇朔。不思議だったんだが、何故勇朔は今まで朔にならなかったんだろう。今まではずっとサンユエの属性だったんだろう? どうして、今になってそんな属性が発覚したんだろうと思っていたんだ。玄天さんも千春も、よく分からないと言っていた。君は……何か心当たりが……?」

 二人の間を分かつように、何かが降ってきた。淡い、薄紅の花びら。桜の花だ。上島と神楽の視線は、落ちていく花びらに注がれていた。花びらが地面に触れると同時に、上島は神楽を見つめた。淡く笑んでいる。今にも消えそうな笑い方だった。慈愛に満ちた、母のような笑みだ。全てを赦す者の微笑。今にも壊れて消えてしまいそうだ。

「行こうか」

 神楽は言うと、歩き出した。上島は、先を歩く神楽の背を見ながら、目を閉じた。

「全て終わったら話すよ――――」

 殆ど息の音だけで、その背に呟く。きっと、もうすぐ終わろうとしている何かが、確実に終われば。それまでは今暫く、このままで居て欲しいのだと、上島は願った。


「勇朔。これでいいのかい?」

 神楽は、車の助手席に乗り込むなり、小さな瓶を振って見せた。中は、土が入っている。元は焦げ茶色だったのかもしれないが、今は既に乾燥して、白っぽく変色していた。触れれば粉になってしまうだろう。

「チセイ、有難う。どうだった? 誰にも見つからなかったか?」

「上々だったよ。元々、今日は香乃さん一人しかいないみたいだったし、置いてある場所もすぐ分かった」

「そりゃ良かった。これでやっと真相が判明する」

 華山家総本山から帰ってきて、三日と立たない日のことだった。上島は、小笠原香乃を訪ねていた。とりあえず、預かっていた遺体の返却が目的だ。現在、鋭意調査中であると香乃に伝えると、香乃は涙ぐみながら、よろしくお願いしますと頭を下げていた。だが居小笠原家を訪ねたのは、それだけが目的ではない。上島は、着々と真相に迫りつつあった。


 上島はまた蓮北の小学校の校庭に立っていた。時刻は、既に深夜二時。人っ子一人いない、その静寂の中に堂々と佇んでいる。不気味なまでの静けさも、今の自分には恐れにはならない。むしろ、いっそ清々しいほどだ。この間は満月だったが、今日は月は出ていない。これこそ、太古の昔から人々が感じてきた、本物の闇夜だった。

 バサリと、着物の袖を翻す。いつもの、真白の小袖と、濃紺の袴。勾玉のついた首飾りをかけると、妙に落ち着いた。身体の隅々にまで鋭気が充ちているように感じる。指から足の先まで、力が密集している。恐れるものは何もなかった。

 闇夜の中でも、より濃く染まる自らの影。上島は、神社の鳥居にかけられているような、注連縄を取り出した。この間使用した注連縄は、幽鬼に破られてしまったので、今回は華山家総本山から、最も霊力の強い注連縄を借り受けてきたのだった。注連縄も、昔から使用されてきた「結界」である。現代では忘れ去られているが、れっきとした呪術道具だ。長さ三十メートルはあろうかというその注連縄を、ぐるりと桜の木の周りに捲きつける。これは、邪悪なものが周りに寄ってこないためというような、通常の使い方ではなく、幽鬼がその結界から出られないようにすることが目的だった。

 はらはらと桜が散る。桜は今が満開だ。上島は目を細めて桜を見た。どこか命の終わりを連想させられる。満開を過ぎれば、後は散るだけだ。一年後、またこのように数え切れないほどの桜をつけることを夢見て、桜は眠る。

 しかし、上島には、この桜をやすやすと眠らせてやる気はない。この桜こそが、全ての元凶であり、何人もの人間を殺してきたのだ。

「人喰い桜。そうだよな?」

 桜は、肯定の意を示しているように見えた。

 勇朔は、大きく円を描くように片腕を回し、音を立てて小袖をはためかせた。

「成仏させてやる!! 有り難く思えよ!」

 力が一点に集まってくる。全てのものが、上島を歓迎し、支えてくれるかのようだ。これが、『朔』の力。

「流石、寿命が短いだけはある!」

 上島は抑えきれぬ笑みを口元に湛えながら、己を取り巻く風の中で叫ぶ。

 風が出てきていた。それは自然の風ではなく、上島を中心に取り囲む、上島が生み出した風だった。

 ごうと吹きつけられて、桜は堪らずに花びらを散らせた。

 上島はそれを見届けると、霊媒のときにするように、片膝を立て、地面にしゃがむ。両手を組み合わせ、人差し指と親指をそれぞれ付き合わせた。指先に力が集まる。熱いような、熱のうねりを感じる。こんな感覚は知らなかった。このエネルギーは何なのか。例えるなら、全ての物体を動かす動力の塊のようなものだろうか。温かく、おそらく色で表すなら、黄色か橙色のようだと上島は思う。


「――オン バザラ タラマ キリク」

 腹の底から、自分のものでないような声が辺りに響く。まるで自分の身体を借りて誰かが話しているようだ。

「不(ふ) 生(しょう) 不(ふ) 滅(めつ) 不(ふ) 垢(く) 不(ふ) 浄(じょう)―――不 増 不 減  是 故 空 中 無 色 無 受 想 行 識―――――― !」

 今までの霊媒とは明らかに違うと、上島は意識の底で感じていた。詠唱の一字一字に、魂が宿っている。今までもそう思ったことはあったが、言葉の持つ威力をあますところなく発揮している。

 何時の間にか、桜がどす黒く変色している。赤い、赤い桜。にび色とでもいうべきか。血のような色になっている。上島はそれでも詠唱をやめなかった。どくん、どくん、と桜が脈打っている。それが地面と連動して、一定リズムで揺れている。まるで地面が心臓になったかのようだ。

 桜の脈打つ回数が、明らかに早くなってきた。枝がざわざわと揺れ、赤い花びらを散らす。苦しいのだろう。上島はゆるゆると口の端を持ち上げた。その間も詠唱は続いている。

 上島が、涼やかな呪文を紡ぐ。どれだけの時間が流れただろうか。その時間は、一瞬のようでもあり、また永遠のようでもあった。川のようにゆるやかに、しかし力強く、詠唱は響いている。精魂を極限まで使う呪文の詠唱は、五分もすればたちまちに威力をなくしていくものでもある。霊媒者の能力に非常に左右されやすい。玄天ですら、詠唱は十分が限界だろう。

 しかし、今の上島は、何時間詠唱を続けていようが、全く力の衰えを感じさせなかった。以前サンユエであったときと、基本的な構造が全て違っているかのようだ。呪文の詠唱が問題ではなく、身体を構成する細胞が土台から変わってしまった、というのが近い。声を出すのが辛い、と感じることもない。声が喉から出ているような、そんな薄っぺらな身体ではない。声は、喉などではなく、もっと奥深くから出ている。腹からでも、足からでもない。もっと深い部分。これは――魂から出ているのかもしれない。

 桜から、むくむくと黒い雲のような、霧のようなものが広がりだした。瘴気だ。最早、桜は己の内側に気を留めておくことが出来なくなったのだろう。

 桜の木は巨大なので、そこへ瘴気が広がると、まさに天を見上げるような高さになる。ビルの十階立てほどの高さだろうか。地面に屈んでいる上島は、非常に小さく見えた。やがて瘴気は上島の方にまで及んできた。上島はすっかり黒い霧に囲まれる。瘴気は僅かに腐臭がした。今まで殺してきた人々の怨念が混ざりあっている。

――――これは酷い。

 第三段階の幽鬼の、最も悪質な性質だと言えた。サンユエかユエの属性の霊媒師なら、この腐臭を嗅いだだけでも昏倒するだろう。悪い場合なら、死んでしまうかもしれない。

 それでも上島の詠唱は終わらない。瘴気にまとわりつかれても、今の上島には取るに足らないものだ。ぶわりと、瘴気は身を揺らめかせる。すると桜の木の後ろから、ぞろぞろと何かが這い出してきた。上島は瘴気の中から目を凝らす。その影は人間のものだと分かった。黒い人間の影。上島が、『朔』になる前の夢と同じく、黒いシルエットしか見えないが、墓から這い出してきたゾンビのようなたどたどしい動きで、ゆっくりと上島に向かってくる。その数、既に、何十、何百。幼い子どものもの、大人の男性のもの。それぞれの影が左右に触れている。皆一様に苦しそうな呻き声をあげていた。怒り、悲しみ、憎悪。人間の全てのマイナスの感情が、根こそぎ集約されている。

 より一層強い悪臭が鼻をついた。

 上島の目前に迫った黒い影が、上島の足元へと手を伸ばす。上島は目を閉じた。

「オン(瘟)―――!!」

 今までのなだらかな詠唱とは違う。空気が爆ぜる。その瞬間、黒い瘴気や、人間の影は、消し飛んだ。爆弾を投げ込んだかのように、また水が水面に波紋を描くように、光に飲み込まれていく。サンユエだったときは青い炎を、霊媒の拠り所としていたが、『朔』は白い光を拠り所とするのか。上島は自分の力でありながら、その凄まじさにまじまじと目を見張った。雪のような光は、影たちを飲み込んだあとは、きらきらと反射して地面に落ちていく。その様子は、打ち上げられた後の花火を連想させた。

 しかし、まだ全ての幽鬼を成仏させたわけではない。木の影から、人間が二人、姿を表した。印を組もうとして、上島ははっと顔を上げる。今までのシルエットのような幽鬼ではない。はっきりと形を持った、普通の人間と何ら違うところのない、幽鬼が居た。

 居るのは、若い女性。ウエーブのかかった髪の毛に、優しげな眼差し。白い肌。薄く色づく唇は、笑みの形を作っている。どこか、郁子に似ていた。

「これが――――幽鬼……?」

 何かが違う、と上島は感じた。第三段階の幽鬼が持つ、禍々しさは露ほども感じられない。むしろ、第一段階の幽鬼のように、純粋な魂の清廉さが漂っている。

 もう一人の幽鬼は、男性だった。中年の少し手前ほどの年齢だろう。生前の記憶が強いのか、スーツ姿だ。優しげに細められた目元は、彼の人となりの良さを感じさせる。

「貴方たちは一体……?」

 上島は呆然と呼びかけた。特に、女性の方が気になった。郁子に似ているところも気になるし、何か、自分に近いものを感じるのだ。

 女性は上島に向かって踏み出した。半ば惚けたように、上島はそれを見つめるだけだ。彼女は慈しむような表情で、微笑んでいる。上島は不意に懐かしさを感じた。

 彼女は上島の両手を包み込んだ。

(ありがとう。やっと、出られた)

 頭の中に響く声。上島は必死で思い出そうとしていた。

「貴方は……」

 女性は全て分かっているというふうに微笑むと、上島の頭に優しく手を置いた。

(ありがとう、勇朔)

「貴方は……」

 上島は、まさかと思う。まさか――――まさか。貴方は。

(ありがとう)

 女性は、上島を包み込むように抱きしめると、光の粒子のように、その場からかき消えた。

「お……!」

 呼ぼうとしたときは既に遅かった。光の残滓が、金の粉のように降り注ぐ。やはりあの人はそう(、、)だったのだ。

「そうか……」

 そうか、と何度も繰り返すと、頬に一筋の涙が流れた。記憶をなくしてから、泣いたことはなかった。泣くものか、と思っていたし、失ったものが分からないのに、涙は出なかった。今やっと、失くしたものが分かったのだ。

――俺は、あの人を失くしたのか。

 それは耐え難いことのようにも思われたが、しんみりと納得したことも確かだった。失くしたものは大きかった。記憶のないときに比べれば、今は失ったものの尊さが分かる。

 もう一人の男性はどうしたかと辺りを見回してみると、その男性の姿は既になかった。人の良さそうな、柔和な表情の男性だった。何故、この場に姿を現したのだろう。上島は、あの男性をどこかで見たことがあると感じていた。――それは、どこだったか。わざわざ姿を現してくれたのだ。自分に深い繋がりがあるに違いない。

 上島は立ち上がった。

 最後の戦いをしなくてはならない。

「さあ、始めるとするか…!」

 目の前に聳え立つ巨大な桜を、傲然と見上げる。

 上島は、空中で大きく印を組んだ。己が動く度に、見える、光の軌跡。それはさながら、幼い頃、花火で空中に大きく円を描いて遊んだ、あの軌跡に似ていた。遠目には、その姿は演舞のように見えた。

「オン(瘟)―――!!」

 揺らめく、空気。舞い散る、桜。爆ぜる。遊ぶ。踊る。歌う。舞うのは桜か己自身か。陣を描き終えると、上島は、手を元の形に組み合わせた。これで、印が完成する。

「――オン バザラ タラマ キリク」

 どおん、と地面が揺れた。ここが、地震の震源地になってしまったかと思うほどだ。ばさばさと、支えきれぬとされた桜が散っていく。落ちていく。

「不(ふ) 生(しょう) 不(ふ) 滅(めつ) 不(ふ) 垢(く) 不(ふ) 浄(じょう)―――不 増 不 減  是 故 空 中 無 色 無 受 想 行 識―――――― !」

 息がひゅっと漏れる。既に相当の、倒れてもおかしくないほどの体力を使っている。汗がこめかみを流れた。

「オン(瘟)―――!!」

 その瞬間、桜が弾けた。白い光が中心に集まって、桜を瓦解させる。三百年の歴史を持つ、巨大な桜は、その身を散らせた。長い長い歴史の中で、何十、何百という、人の生き血を吸ってきた、人喰い桜が。

 白い花火だった。拡散して流れ星のように降り注ぐ光は、上島を横切っていく。

 上島は、ぼんやりとその様子を見ていた。身体の中のエネルギーが空っぽになってしまい、身動きも取れない。ただ、荒くつく息だけが、耳にこだまする。じっとりと身体が汗ばんでいるのを感じる。『朔』の今でさえ、これだけ消耗するのだ。サンユエだったとき、道理で歯が立たなかったはずだ。

 上島は瞳を閉じた。その上を、しずしずと汗が伝う。

「終わった……」

 最後の一筋の、白い光が消えた。辺りは、元のように、静まり返っている。今、上島が死闘を繰り広げていたと言っても、誰も信じてくれないだろう。しかし確かに、この手で、幽鬼を霊媒した。あの白い光は、浄化の光だったのだ、と今になって気付く。

 空を見上げると、まさに満天の星空が、地球を見下ろしていた。月は出ていないものの、星のおかげで非常に明るい。

 桜の花びらは、はらはらと散っていた。木に損傷はない。霊媒する前は、浄化すると桜自体もなくなってしまうのかと思っていたが、あくまで魂を祓うものらしい。巨大な桜の木は、いつもと同じように泰然と佇んでいた。だが今まで感じていた、不吉な忌まわしい印象はない。

 上島は、桜の木の根元に座り込んだ。もう足が萎えて立っていられない。腕も足も、鉛が詰まっているような錯覚を覚える。重い腕を何とか持ち上げて、空を仰いだ。冷えた空気に、星空が嘘のように美しい。三等星でさえもしっかりと光っている。光の川だった。上島が霊媒した後の桜の魂が、星となって空に昇ったかのようだ。

 深く呼吸をして、息を整える。こんな満開の桜の下で、星空を眺めていることが、不思議に思えてくる。上島は、小袖の懐からハイライトを取り出した。

病院に、華山家にと、ちっとも煙草をゆっくり吸える場所がなかったので、こうして煙草を呑むのは久々に感じる。

深く息を吸って、満天の星空へと、紫煙を吐き出した。この煙が空に昇って、雲になるのかもしれない、とそんな馬鹿なことを考えていた。桜の花に、薄紫色の煙が流れていく。何とも贅沢な景観だった。煙草を吸ううちに、どうにも気だるくなり、太い木の幹に身体を預けた。幹のごつごつした感触を後頭部に感じながら、上島は思いを馳せる。

上島の前に姿を現したあの女性は――――。

彼女が何者なのか、上島は充分に分かっていた。

「思い出したよ……」

 宙に向かって呟いた。それは安堵から来る独白だった。何だか、生まれて初めて、こんなに安心出来たような気がする。満ち足りた気分だった。

 上島の、煙草を吸っていた手が、地面にことりと落ちる。煙草はその反動で、火が消え地面に転がった。

――――眠いんだ。寝かせてくれ――――

 仕事は全て終わった。上島は、桜に身体を凭せ掛けたまま、重い瞼が圧し掛かってくるに任せた。幸せだった。朔になって、いや、朔に戻れて良かった。そうでなければ、この桜の木を霊媒することも出来なかった。

――――昔を、思い出すことも出来なかった。

 朔の寿命は短い。それは充分に承知している。しかし、空洞のまま生きる長い人生よりも、満ち足りた時間が欲しかったのだと、上島は漸く分かった。

 今は、ただゆっくりと眠りたかった。求めていたものが手に入った。その喜びを噛締めながら、眠りに落ちたい。

『勇朔は、またそんなところで寝て。風邪を引くだろう?』

 苦笑いする神楽が目に見えるようだ。

「そうだな……」

 想像の中の神楽は、ゆらりと歪んで消えた。でも、このまま目覚めなくてもいい。朔の命が短いというならば、このまま眠れば、朝は来ないのだろう。それはひどく楽なことのように思えた。眠るように死ねたなら、それはきっと幸せな死に方なのだろう。満開の桜の下で屍になれたならば、桜の一部になれたならば――それは、上島には幸せなことのように思われた。

 そうだとすれば、あの(、、)人(、)はきっと幸せだったのだろう。

「お母さん……」

 上島は、既に意識をなくしたうわ言で、その名を呼んだ。

「仕方がないなぁ」

 神楽は、桜の下で寝入っている上島を見下ろした。上島は完璧にぐっすり眠っていて、小突いても起きそうにない。溜め息の混じった吐息をついて、神楽は桜を見上げた。そこは満開の咲き誇る桜が、時は来たとばかりに、花びらを雨のように降らせていた。

「これが……人喰い桜か」

 妙な感慨を持って、巨大な木を見つめる。桜の木は物言わぬまま、どこか寂しげに、聳え立っていた。


「……? えっ?」

 上島は、がばっと跳ね起きた。いつの間に家に戻って来ていたのだろうか。考えてみても記憶はない。霊媒に疲れて、桜の木の下で寝てしまったことは覚えている。無意識のうちに、帰ってきていたのか。いや、そんなことはありえないだろう。逡巡していると、寝室の扉が開いた。

「おはよう、勇朔」

 神楽だ。

「チセイ! 何で、ここに」

 霊媒をすることは、神楽には話していなかった。昨日霊媒をしたことも、知らないはずだった。

「どうしてだろうね? まあ、色々と事情があるんだよ。起きられる?」

「あ、ああ……」

 上島は首を傾げながらも、ベッドから降りる。すると、神楽がずいと小瓶を突き出した。

「検査結果。出たよ」

 上島の目つきが急に鋭くなった。

「どう、だった」

「ビンゴ。二つとも同じものだ」

 上島は、頷いた。

「有難う、恩に着る」

「是非とも倍にして返して貰いたいものだね」

 上島は苦笑いすると、支度を始めた。

「もう行くのかい?」

「ああ。早い方がいい」

 上島は、朝食もそこそこに、私服に着替えると、車に乗って家を飛び出した。手には二つの小さな瓶と鑑定書。検査結果に間違いはなかった。車を勢い良く走らせ、門の側に着ける。インターホンを押す前に、家の中から誰かが出てきた。

「あら? 上島さん?」

 小笠原香乃だった。

「いきなり朝からお邪魔してすみません」

「いいえ、午前中は特に用事もありませんから。わざわざ着て頂いて恐縮です」

 香乃は、上島を立派な応接室に通した。天井からぶら下がるシャンデリア。おそらく冬場になれば、床には獣の絨毯が敷かれるのだろう。冬馬の屋敷も――昔上島が住んでいたところも――そんなところだった。無駄に豪奢な調度品が多い。棚の上の、高価そうな写真立てには、香乃と、亡くなった昭雄の姿があった。香乃は未亡人にしては、派手な生活をしている。遺産が多くあるのだろうか。

 そんなことを考えていると、香乃がお茶のセットを抱えて戻ってきた。

「ごめんなさい、今日はメイドの方もお休みで」

「いえ、お構いなく」

 そう言ったが、香乃は紅茶を入れ始めた。食器は、ウエッジウッドだ。苺の柄が描かれた可愛らしいもので、ワイルドストロベリーだと分かる。郁子が好きなブランドだ。

 普段、使用人にさせている割には、郁子は手際よく紅茶を淹れている。程なくして、茶の良い香りがした。

「紅茶はお好きですか?」

「あ、はい。そんなに詳しくはありませんが……」

 紅茶は郁子が好きなので、よく飲んだ。上島はコーヒーも紅茶も平等に好きなタイプで、これというこだわりはない。やはりそういったこだわりは、女性の方があるのだろうか。

「良かった。――紅茶が入りましたわ。ウエッジウッドの、イングリッシュブレックファーストです」

 上島が食器に顔を近づけると、ぷんと爽やかな香りがした。

「アッサム、ケニア、セイロンのブレンドです。英国の朝によく飲まれているものですわ」

「有難うございます」

 早速紅茶に口をつける。上島があまり朝食を食べていないのを見越してか、スコーンも置いてくれてある。

 上島は、どう話を切り出したものか、考えていた。

「先日は、小笠原さんの遺体をお貸し頂きたいなどとお願いして、すみませんでした」

「いいえ。上島さんは霊媒にお使いになられる、ということですから。夫の遺体が警察の方のところにあるよりは、余程良かったと思っています」

 香乃は微笑んだ。心なしか、前よりも顔の色艶が良い。声にも張りが出て、元気が出てきているように見えた。上島の心は痛んだ。これは、真実ではない。香乃は気付いていないが、その上辺だけの彼女の活気さえ、自分が奪い取ってしまうのだとしたら、それは残酷なことだ。

 上島は、ティーカップに映る自分の顔を、見るともなく見つめた。しかし、次の瞬間、意を決したように面を上げる。

「もう一度、事件の概要をお聞きしたいと思い参りました。話して下さいますか?」

「ええ、勿論」

 香乃は、ティーカップを置いて座りなおす。上島は、香乃を鋭く見つめた。

「まず、事件を、順を追って確認させて頂きます。貴方は、小笠原昭雄さんと結婚していた。しかし、昭雄さんは、末期癌で亡くなってしまう。――それは、何年前のことですか?」

「夫を亡くしたのは、二年前のことです。結婚したのは五年前です」

「そして、ついこの間、警察から電話がかかって来る。確か、桜の木に遺体が遺棄してあり、墓に掘り返された後があるから確認しに来て欲しいと。そういった電話でしたよね」

「ええ……」

 香乃は目を伏せた。やはり思い出したくないのだ。上島は、人の傷を抉るような、無慈悲な真似をしていることに、罪悪を感じた。

「そのとき、貴方は、墓を掘り返して確認されましたか?」

「え?」

 香乃は、パッと顔を上げた。今までの確認事項とは違った質問だったからだろう。戸惑いの表情が浮かんでいる。

「いえ……。夫のお墓には、私は一切触っていません」

「昭雄さんの遺体を返された後も?」

「ええ」

 香乃はきっぱりと頷いた。

「では、使用人の方が、昭雄さんのお墓を直しに行ったりも、していないのですね? 使用人の方たちも、スコップで掘り返したりするようなことはなかったと?」

「はい。私が何も言っていないので、そんなことを無断でしに行くような人はいないと思います。夫の亡骸が遺棄されていたときは、私も大変でしたが、お手伝いさんたちにしてみたら、情緒不安定な私の世話の方が大変だったみたいで。心配をかけました」

「そうですか……」

「けれど、それが何か……? やはり、お手伝いさんに夫のお墓を綺麗にして貰ったほうが良かったでしょうか。とにかく、全てが終わってからと思っておりましたので、まだなのです」

 上島は頭を振った。

「いえ、そういうことではないんです。――――では、もう一点だけ。香乃さん。最近、大きなスコップを使われましたか?」

 香乃は不思議そうに首を横に振った。

「いいえ。スコップには一切触れていません。けれど、園芸が好きなので、小屋にスコップを置いています。あれは、私だけしか使わない、専用のものです。庭師さんなどは、ご自分の家からスコップを持って来て使っておられますから。私が使ったとしても、家のお庭だけです。――けれど、スコップが、何か?」

 思ったとおりか。上島は息を吐いた。

「香乃さん、今の香乃さんの言葉で、犯人がほぼ特定出来たと私は考えています」

「本当ですか!? 犯人が?」

 香乃は勢い込んで尋ねた。頬が桃色に紅潮している。早く答えを聞きたいのだろう。シャンデリアに反射して、香乃の瞳は星のように輝いていた。上島は、知らず眉根を寄せた。

――――あと、五分も経たないうちに、この表情を絶望に変えてしまうのだ。

 他ならぬ、自分の発言によって。

 しかし、黙っているわけにはいかない。


「香乃さん――――昭雄さんのお墓を、掘り返しませんでしたか?」


「え?」

 香乃は、声高に聞き返した。何度も目をぱちぱちさせる。

「それは、先ほどお答えしました。夫のお墓には、一切触れていませんと――――。お忘れですか?」

「いや、忘れてはいませんよ。しっかりと覚えています。けれど、そう考えるにはおかしなことがあるんです。貴方が、昭雄さんのお墓に行っていなければ、辻褄が合わないということが起こります」

「それはどういう――――?」

 香乃はさっぱり分からない様子だ。

「まず、昭雄さんの遺体です。私は、霊媒をするに当たって、遺体に何かが憑いているのだと思っていました。しかし、現場に行ってみて、憑いているとしたら桜の木か、昭雄さんの遺体だと感じました。どちらなのか悩みました。対象を特定出来ないと霊媒出来ませんから……。しかし、もし桜の木に憑いているとしたら、決定的におかしなことがあったのです。遺体が墓から桜の木の下にまでどうやって来たのか。それが問題でした。幾ら桜の木と言えども、離れた遺体を掘り起こして持ってくるなどという遠隔操作は出来ないのです。遺体本人に憑いていれば、遺体が桜の木の下にまでやって来たわけが、何とか説明出来ます。――その理由は分かりませんでしたが。なので、私は最初の霊媒を、遺体に憑いているとみて決行しました」

 香乃は真剣に話を聞いていた。疑う素振りは微塵も無い。

「ですが、その霊媒には失敗しました。対象を間違っていたのです。憑いていたのは、桜の木にでした。すると、どうしてもおかしな問題が一つ残る。遺体(、、)は(、)どう(、、)やって(、、、)桜(、)の(、)木(、)の(、)下(、)にま(、、)で(、)来た(、、)のか? こうなると、もう霊だけでは説明がつかない。人間が運ぶ以外はね」

「人間が……?」

 香乃は怯えた目で上島を見た。手が小刻みに震えている。ウエッジウッドのカップが、ソーサーとぶつかり合って神経質な音を立てた。

「心当たりが?」

「いえ、全く……」

 香乃は、震える手を、もう片方の手で包み込んだ。

「昭雄さんの遺体を運んだのは、香乃さん、貴方だと思います」

 上島は核心に触れた。香乃が目を剥く。

「そんな……何を根拠に」

「貴方は、私に言わなかったことがあった。故意にかどうかは分かりません。貴方は、昭雄さんが亡くなった理由を、『末期の癌』だと仰いました。けれど、昭雄さんが亡くなった理由はそうではなく、自殺だったのではありませんか?」

「!!」

 香乃は驚愕していた。血色の良かった頬が、一気に青ざめていく。

「何故……ご存知なのですか」

 上島は俯いた。この期に及んでも、まだ言いたくないという思いがある。だが口は意志に反するように、言葉を発した。

「気付いたのは、二回目の霊媒のときです。あの桜の木では、昔からたくさんの方が首を吊って亡くなっています。本当に、何十、何百という方が、樹齢三百年のあの木に首を吊って……。霊媒のとき、その霊を見ました。その中で、よりはっきりと姿を現した男性がいました。どこかで見た、と思ったのです。男性は何かもの言いたげに、私を見ていました」

 上島は立って、棚の上にある写真立てを手に取った。

「この男性でした。この人は貴方の夫、小笠原昭雄さんですね」


 奇妙な沈黙が流れた。香乃は、唇をわななかせ、何も言えないようだった。


「おそらく、末期の癌というのは、嘘ではなかったと私は考えています。小笠原昭雄さんは、自分が末期の癌だと分かって、自殺したのではないですか?」

 香乃は、張り詰めた表情をふっと解いた。

「はい……。夫は、自殺でした。私が上島さんにそう申し上げなかったのは、夫を自殺だと認めたくなかったからかもしれません……。最期まで一緒に居ようと思っていたのに、それでは迷惑をかけると、あの人は……!」

 香乃は両手で顔を覆った。

「貴方は、昭雄さんのことを大切に思ってらしたんですね……」

「愛していました。何故……あの人が死ななくてはならなかったのか、今でも分かりません」

 香乃は涙ながらに言った。

「そうでしょうね――――昭雄さんの遺体を、桜の下に運ぶほどです」

「上島さん、それは私ではありません。本当に、そんなことはしていないのです。信じて下さい」

 上島は、沈痛な面持ちで頷いた。

「そうでしょう。勿論、貴方のせいではないし、貴方を責めるつもりはありません。記憶にないのも当然です」

「……すみません、仰る意味がよく――――」

「香乃さん、貴方は夢遊病です」


「――――え?」

 香乃は思いもかけなかったことを言われて固まった。上島は続ける。

「夢遊病、という言い方は語弊があるかもしれません。ですが、そうだと思います。香乃さん、事件が起こる前、小学校に行きませんでしたか?」

「い、行き――ました。三月の中頃……事件の二週間前です。その日は身体の調子も良かったので、少し散歩を……」

「そのとき、貴方は桜の木を見かけましたか?」

「はい……。もうすぐ桜の季節だと思い、木を暫く見ていました。まだ蕾だったので、早く咲かないかなぁと」

「そこがご主人が亡くなった場所だとは考えましたか?」

「そういえば……あのときは考えていませんでした……。何故かしら……」

 上島は、ようやく百パーセントの自信が持てた。香乃は、間違いなく桜の木に惑わされていたのだ。

「香乃さん、貴方は、桜の木に幻惑されていたのだと思います。突拍子もないことを言う、とお笑いになっても結構です。ですが、あの桜の木は、樹齢三百年の化け物じみた木です。今までに、何百という人の首吊りに使われています。殆ど、悪霊のようなものです。私が思うに――昭雄さんも、桜に惑わされたのではないかと。自殺願望が少しでもある人が、あの桜に近付けば、たちまち首を吊ってしまうほどのものです」

 香乃の目は、まだ真実かどうか決めあぐねているようだった。無理もない。こんな話は信じられないのかもしれない。

「物的証拠が何もないのは不安でしたので――失礼ながら、勝手に小屋に入らせて頂きました」

「小屋に?」

 小屋とは、小笠原の屋敷に併設されている、小さな建物である。そこは、園芸が趣味の香乃らしく、ガーデニングに使う鉢や、スコップなどがたくさん置いてあった。

「一番大きなスコップを、調べさせて貰いました」

 上島は瓶を取り出す。

「こちらが、墓の土です。こちらが、貴方のスコップについていた土です。これらの成分を、専門家に調べて貰いました。貴方は先ほど、あのスコップは自分しか使わず、且つ庭でしか使わないと言った。けれど、見て下さい。この二つの瓶の土は、全く同じ成分でした」

 鑑定書を取り出して、香乃に渡す。そこには、ぴったりと重なりあった二つのグラフがあった。同じ土である確率、九九・三七パーセントと記されている。

 香乃は呆然とその用紙と瓶を見比べている。

「信じる、信じないは、自由です。私の出した結論に、反対なさっても構いません。とにかく、私が、霊媒の結果出した結論は、以上です」

 上島は深く息をついた。一気に話したので、喉が渇いた。紅茶を飲むと、とっくに冷めていた。

「――元気になったのよ」

 ぽつりと香乃が言う。

「最近、私、ようやく元気になったのよ。夫が死んでから、精神科にも通ったわ。やっと、自分は大丈夫なんだと思うことが出来たのに――――あの事件を起こした犯人は、私……?」

 ぱたぱたと涙が床に落ちた。

「貴方の傷は、おそらくまだ癒えていない。最近元気になったという話ですが、貴方は、意識下の辛さを、無意識の中に押し出してしまったのだと、思います。無意識の中で肥大して、昭雄さんの死を認めたくないという気持ちが強くなってしまった。無意識下に抑圧された貴方の思いは、桜に利用された」

 上島は息を吐いた。

「誰も悪くありません。誰も――――……人の思いが交錯して、こうなってしまったのです」

 香乃は、濡れた頬で顔を上げた。

「だから、貴方も悪くないのです。何も悪くない。貴方は、昭雄さんを愛していた。ただ、それだけです」

 上島は、香乃に言い聞かせるようにゆっくりと言った。それはさながら、自分に言い聞かせているようでもあった。

「では、霊媒の結果も伝えたことですし、私はここで失礼させて頂きます」

 上島は、香乃に一礼する。重い扉を開けて、廊下を歩き出した。

「上島さん!!」

 香乃が、部屋から転がるようにして飛び出してきた。

「――夫は、夫はどんな様子でしたか……!?」

 上島は振り返って、微笑んだ。

「満足そうにしておられました。怨みなどは一切抱いておられませんでした。優しげで、柔和な目元で、笑っておられました。彼は確かに――――幸せでしたよ」

 香乃がその場でくずおれた。

「昭雄さん……昭雄さん………!」

 飽くことなく、香乃は何度も名前を呼ぶ。亡き夫が、生前幸せであったこと。それは、彼女にとっての、唯一の救いであったのかもしれない。そして、死後迷いなく成仏してくれること。近しい者にとって、それは最後の望みなのだろう。

 香乃の泣き声を背に、上島は歩き始めた。彼女も、きっとこれから一歩を踏み出すことが出来るだろう。桜に狂わされた二人が、ようやく呪縛から解き放たれるときが来た。


――――遅咲きの春がやって来たのだ。


「小笠原香乃さんが……。そうだったのか……」

 神楽と、久しぶりに外に出て、喫茶店に入った。お洒落なカフェだった。モノクロを基調とした内装で、中には観葉植物や、アメリカのセピア色のポスターなどがある。外装は赤茶の煉瓦で、全体に大人びた雰囲気のカフェだった。カフェの名は『カサブランカ』。

雑誌などには一切載せていないにも関わらず、口コミで繁盛している。神楽が、患者から紹介してもらった店だという。平日なので、普段は込んでいそうなところだったが、どこかひっそりとしている。

「ああ、俺も、まさかと思ったが……。決定的なのは、桜の木から現れた霊たちの中に、昭雄さんが居たことだ。あの木で首を吊らなければ、桜の木から霊が現れることはありえない。昭雄さんの死因が癌と聞いていたから、おかしいと思ったんだ」

 コーヒーが運ばれてきた。この店の一番のお勧めは、コーヒーだ。どこから輸入した豆を使っているのか、すこぶる美味しい。味は、苦味も酸味も少なめなのに、こくのある味だ。何杯でも飲みたくなる。

 看板娘であるウエィトレスが去ると、会話を再開した。

「しかし……気の毒だね。夫が亡くなったことを、何年も立っているのに、受け入れられないなんて……」

「まあな……。俺なんかにしちゃ、羨ましいけどな」

「勇朔……」

「何だよ」

「結婚したいのかい?」

 勇朔は言葉に窮した。

「何でそうなる」

「違うのかい?」

「全然違う」

 神楽は、秀才で、頭がキレるくせに、どこか抜けている。

「何だ、勇朔が結婚したいのなら、僕の広いコネクションを使って、お嫁さん探しをしようと思ったのに」

 悪気なくにこにこと言う神楽に、上島は頭を抱えた。

「自分の心配をしろよ。お前は、俺の親戚の伯母さんか」

「まあ、でもそういうわけだ。一件落着したってことだな」

 しかし、神楽はふと不安そうな表情を見せた。

「でも、君の記憶は……。そして、『朔』の属性は……」

「霊媒師は、続けようと思ってる。やめて何が残るような俺でもないしな。前より強い力が宿ったんだから、霊媒は楽だろうな」

 それは事実だった。今や、上島は霊媒師の頂点の能力を持つ。

「勇朔、君の記憶は、戻ったのかい?」

 神楽が不安を吹っ切ろうとするように、微笑んだ。

しかし、上島は淡く微笑むだけで、答えようとはしなかった。


 蓮北小学校は、静かだった。あんな事件があった後だ。休みの日ということもあって、わざわざ学校に来る者はいないのだろう。学校側の指示で、校庭で遊ばないように言われているのかもしれない。

 上島は、ラストスパートと言わんばかりに降り注ぐ桜を見つめた。この桜が、三百年ものあいだ、人々を狂わせてきたのだ。そう思うと、ぞっとするような、それでもまだ不思議な気もした。

「こんなところで、何してるの? ゆうちゃん」

「郁子さん」

 突然声をかけられて振り返ると、郁子が立っていた。今日は春らしい、桜色のワンピースだった。お揃いのカーディガンも着ている。色も上品で、大人の女性が着てもよく似合った。しかし、いつもの郁子の趣味ではない。

「今日は、いつもとイメージが違いますね。イメチェンですか」

 上島が言うと、郁子は肩をすくめて笑う。

「いいでしょう、これ。私の趣味ではないけれど、センスは良いわ」

 大事そうに、そのワンピースを撫でた。どうやら大切なものらしい。

「この間の事件、どうだった?」

「ええ。何とか解決に導けました。霊媒に失敗したときは、死ぬかと思いましたけど」

 郁子は視線を落とした。何かを案じているような表情だ。

「この桜の木で、どれだけの人が命を落としたか……。私も、この木のおかげで、たくさんのものを失ったわ」

 郁子は、手で、太い幹に触れる。

 不意に上島が言った。

「それは、俺のことも含めてですか? 姉さん」


――――姉さん。


 そう呼ばれ、郁子は瞬いた。けれど、特に何を言うわけでもなく、ただふう、と大きく息を吐く。

「思い出したのね……」

 郁子は、真正面から上島を見た。上島にとって、郁子は戸籍上の母親だ。ついこの前まで、本当に血の繋がりがあるとは思っていなかった。しかし、上島は『朔』に戻ったことで、記憶を取り戻していた。

「ええ……思い出しました。何もかも。貴方が俺の実の姉だということも、あの桜の木の下で首を吊ったのが、俺たちの母親であるということも……」

 上島が記憶を取り戻したのは、霊媒に失敗した後のことだった。霊媒に失敗して、半死半生の目にあっていたあのとき。上島は、幻に苦しめられながらも、記憶を取り戻したのだ。

「しかし、何故記憶が戻ったのか、俺にはよく分かりません。何故今になって……」

 一寸間を置いて、郁子は話し始めた

「貴方は、元々『朔』だったの。生まれたときからね。けれど、『朔』は寿命が短い。そのことを、お母様はいつも心配していたわ……」

 郁子の口から、お母様という言葉が出たことに、上島は驚いた。郁子が自分の家族に関する話をしたことは殆どなかったのだ。

「あの桜の木で、お母様が首を吊ったことはもう知っているわね。幼い頃の貴方は、そのときお母様と一緒に居たの。貴方は――お母様が首を吊る一部始終を見てしまった。まだ幼かったから、何が起こったか分からずに……」

 郁子は目を伏せた。

「けれど、貴方は昔から聡かった。段々と、お母様が何をしたか感づいてしまったのね。人が首を吊る場面を目の当たりにして、正気ではいられない。貴方は、半ば気が狂ったようになってしまった。そして、相次いでお父様が事故で亡くなったわ。そのことは覚えてる?」

「いいえ……父の記憶は全くありません……」

「お母様が亡くなって、お父様も様子がおかしかった。何かに引き寄せられるように亡くなった。私はそう感じていたの。残されたのは、貴方と、私だけ」

 郁子は息を吐いた。

「心細くて仕方なかったわ。当時、私は二十三歳。大学を卒業したての頃だった。幼い貴方を抱えて、私に何が出来るんだろうと、途方に暮れたわ。就職先は決まってないわけじゃなかった。けれど、正気を保っていられない貴方を抱えて、私の稼ぎだけでは生きていけなかった」

 上島は、苦労など一つもしたことがないような郁子にも、そんな葛藤があったのかと、内心で驚く。

「そんなとき出会ったのが、私の今の夫。彼は、私を支えてくれた。両親を相次いで亡くし、弟である貴方まであんなことになって、私もどうにかなりそうだった。けれど、夫は全てを受け入れてくれた。――そして、貴方を養子にすることを承諾してくれたの」

 郁子は、真直ぐに上島を見つめた。

「貴方は、お母様の首吊り以来、精神を病んでいた。人と関わるのを極端に嫌って、部屋から出てこなくなってしまった。言葉も忘れてしまったように、何も喋らない。見かねた私たちは、貴方を病ませている記憶を封印してはと考えるようになったわ」

 上島の靴底の下で、ぱき、と音がした。枝を踏みつけてしまったようだ。

「でも、それ以上に、貴方が『朔』であるということが、一番の不安だった。『朔』の言い伝えは知っているでしょう?」

「百年か二百年に一人の確率で生まれ、しかし寿命は怖ろしく短い。――そうですよね?」

「そう。私は、貴方まで失ってしまうのではないかと心配だった。両親は助けられなかったけれど、今一緒に居る貴方だけは何とか助けられるはず。私は必死だった。貴方を助けられなければ、私は本当に独りになってしまう、と怯えていたわ。夫が居ても、血を分けた家族がいなくなることは、また別の恐怖だった。どうすれば、貴方を『朔』の属性でなく出来るか。それだけで頭が一杯だった」

 郁子は、髪をかき上げた。

「そんなとき、夫が霊媒師の人から話を聞いてきてくれたの。属性を『朔』から外せる方法はないか。どんな手段を使ってもいい、見込みのない方法でもいいと。あのとき、私たちはやれることなら何でもやった」

 上島は、呆然とした。自分の過去に――こんなことが起こっていたとは。

「そして、霊媒師の人たち――当時の華山家総本山の当主様が話してくれたの」


――――勇朔くんを、朔の属性から離す手段が、一つだけあります。

――――どんな方法でも構いません! あの子が無事でさえあれば……。

――――危険が伴う方法ではありません。しかし、勇朔くん自身も、勇朔くんの周りの方々も、非常に辛い思いをするでしょう。

――――それは、どのような方法なのですか?

――――彼の記憶を、消すのです。記憶は、呪術における対価として支払うことが出来る、唯一のものです。しかし、『朔』の力は並大抵ではありませんから、相当の年数の記憶が必要だ。もしかすると、家族の記憶すらも、消さねばならないやもしれません。

――――記憶、を…………。

――――しかも、このようなことは前代未聞です。今までの『朔』は、皆自分の運命を受け入れていた。勇朔くんに、そう仰られた方が良いのではないかと思いますが。

――――そんな……! 母親が目の前で首を吊り、父親が事故で亡くなったあの子に、そんなことを言えというのですか! 「貴方は寿命が短いから、もうすぐ死ぬかもしれないの」と? ……そんな残酷なこと、出来るはずがありません。ただでさえ、今精神を病んでいるあの子に、そんなこと……! 

――――それに、あの子は私の唯一の肉親です。血を分けた姉弟です。絶対にあの子を死なせやしません。あの子の未来が開けるのなら、あの子自身の記憶も差し出しましょう。あの子は、記憶があるせいで、今のような状態になっているのです。いっそ記憶をなくしたほうが、良いことなのかもしれません。

――――そう仰るなら、その通りに致しましょう。けれど、勇朔くんは、空洞の長い人生を歩むことを強いられるかもしれませんよ。長きに亘る虚無は、充実した短い人生よりも、余程辛いことです。それを、貴方自身も、よく分かって下さい。

――――空洞の人生でなくすればいいのでしょう。私の夫なら、何不自由ない生活をさせてあげられます。着るものにも、食べ物にも困りません。良い学習環境を作って、良い学校へ通わせることも出来るでしょう。私たちも、あの子には誠心誠意優しく、愛情を持って受け入れます。あの子の幸せな人生を、私たちは作り上げてみせます。

――――……分かりました。勇朔くんの記憶を消しましょう。そして、彼の属性を『朔』ではなく、サンユエにしようと思います。『朔』の力は強大ですから、完璧に霊媒能力を消すことは不可能です。普通の霊媒師と同じような力にすること、それが精一杯です。けれど、寿命が短くなるのは、食い止めることが出来ます。

――――有難うございます! あの子のためにも、是非お願いします! 私にはあの子が必要なんです……!

――――長きに亘る虚無を、勇朔くんが自身で乗り越え、未来を切り開く力があることを、願っています……。


「そして、貴方の記憶は消された。貴方の力は強大で、丸々今まで生きてきた分の、全ての記憶を失うことになったわ。貴方の記憶で残っていたのは、学習したことだけ。それはわざと残したんじゃなくて、自然に残るものなの。呪術で対価として支払うものは、記憶。つまり思い出と呼ばれるもの。貴方はその一切合財を失うことになった」

 郁子は、辛そうに眉根を寄せた。上島は、想像を超える話に、感情が追いついていかない。夢の中のような、ふわふわした心地だった。

「勿論、私のことも忘れていた。辛かったけど、私は構わなかった。貴方が元気になって、話も出来るようになった。何不自由ない生活を送らせることが出来た。学校だって、名門に合格した。人より恵まれた暮らしをさせられたことで、私はとても満足だったわ。貴方は、母のことも父のことも忘れてしまっていたけれど、記憶を失う前の状態に比べれば、何のことはなかった。貴方が元気に暮らしていることが、何よりの支えだったから」

 郁子の瞳は潤んでいた。

――――泣いているのか? 豪放磊落な郁子さんが。

「私は間違ってなかった。ずっとそう思い続けてきたの。夫も賛成してくれていたし、これが最善の方法だと信じて疑わなかった。当主様が言っていた、『空洞の長き人生』にも、あまり耳を貸さなかったわ。勇朔の人生は、空洞なんかじゃない。こんなに人並み以上の生活が送れているじゃないかって。言い訳をするわけじゃないけれど、あのとき、私は本当に必死だったのよ」

「けれど、何故、姉さんは俺に言ったんですか? 蓮北小学校で事件が起こったときに、『あれは――――貴方の事件』だと……。桜の木の事件は、母さんのことに直接関係しています。俺が興味を持ったら、こんなふうに、今のように記憶を思い出すことだって考えられたでしょう。なのに、何故わざわざ俺が調べるように仕向けたんですか?」

 郁子は、視線を下げた。

「分からなくなったのよ。私のやったことが、本当に正しかったのか……」

 郁子は、上島が今までに見たことのないような、哀しげな表情で俯いた。

「履歴書……書いたでしょう」

「履歴書――ですか?」

 上島には何のことだか全く分からない。上島は既に三十二歳、履歴書の一枚や二枚は書いていて当然だろう。

「あれは……貴方が大学を卒業するときだったわね。丁度、貴方が就職活動をしようとしているときだったかしら。私、あのときたまたま用事があって、貴方の部屋に入ったの。きちんと片付いていて、整理整頓されていた。入っていくと、ふと、机の脇にあるゴミ箱が見えたの。中のゴミは、全部丸めて捨てられた履歴書だった。三十枚から五十枚はあったわ。最初は、こんなにいっぱい、何が捨ててあるんだろうっていう、興味本位だった、けれど、どれを見ても、中身は全部履歴書なの。しかも書き損じじゃないのよ。写真まできっちり貼って、全部の欄にしっかり書いてあるの。ただ、一箇所を除いては……」

 上島は、思い出した。精神的に疲れていた、あの大学時代だ。自分が何者なのか分からなくて、焦燥が募っていた。自分の経歴が嘘だと分かっていたから、書けなかったのだ。

「空いていた欄は、幼稚園と小学校の名前を書く欄。そこだけが、全て空白だった。中には何とか書こうとしたらしいものもあったけど、消しゴムで滅茶苦茶に消されていた。それは、貴方の記憶がない時代。そう気付いたとき、私、貴方の部屋で泣いたわ。両親を失って以来、流したことのなかった涙だった……。それで、私は考え直したの。私のやって来たことは、本当に正しかったのか、って……。そのときやっと、当主様が言った『空洞の長き人生』の意味が分かった。私は、貴方に、空洞の人生を歩ませていたんだって。周りだけは綺麗に飾り付けてね」

「姉さん……そんなことはありません。俺は、充分に良くして貰いました。そのことは本当に感謝しています」

それは上島の本音だった。記憶がもし取り戻せるとしても、他の家族を持つことを躊躇していた。それでも、郁子は首を横に振る。

「ずっと、ずっと謝りたかった。勇朔の人生を、ここまで変えてしまったこと。貴方を悩ませ続けたこと。本当に、ごめんなさい」

「姉さん!! 謝らなくていい!!」

 上島は、悲鳴のような声を上げた。郁子がしたことは、上島のためを思ってこそだ。喜びこそすれ、謝られることはない。

「姉さんは、いつも俺のことを考えてくれていた。両親が帰らぬ人となったときも、俺が精神を病んだときも……。いつだって、姉さんは俺のことを大事にしてくれていた。そんな大切なこと、ようやく思い出したんだ……」

 郁子は、瞳に涙を浮かべている。朝露のような、透明な水のようだった。

「けれど、私は、どうすることもしなかった。貴方の苦悩に気付きながら、何もしなかった。貴方に真実を思い出させることが怖かった。真実を知れば、貴方の寿命は必然的に短くなる。そんなことが分かっていて、貴方に真実を教える勇気がなかった。

――――だから、私は賭けをしたの」

「賭け?」

「貴方の記憶に関することを、さりげなく匂わせるの。それも機会がなければ出来なかったことだけど――偶然にも、あの桜の木の事件が大きくクローズアップされていたので、あれを使った。私の言ったことに興味を持って、貴方が調べれば、貴方は『朔』に戻ることを選んだということ、貴方が興味を示さなければ、貴方は今のままでいることを選んだということ、と自分を納得させようとしたの。貴方は、意外にも、あの事件に興味を持った。そして霊媒をした。絶対に敵わない幽鬼だと分かっているはずなのに、何故――と、何度貴方を止めようと思ったかしれないわ。死んでしまうかもしれない……。けれど、耐えた。私が変えてしまった、貴方の人生を、元に戻すのだと、信じて。そして、その結果――貴方は思い出した。『朔』の属性に戻って……」

 郁子は、人差し指で、桜の花に触れた。

「今も、自分に問い続けているわ。本当にこれで良かったのかって。貴方は、空洞の人生から抜け出したかもしれない……。でも、貴方は……っ……貴方の寿命は……!」

 郁子は顔を覆った。痛々しいその姿。原因が自分であると思うと、上島は居たたまれなくなった。

「――――姉さん。俺は、後悔していません。『朔』に戻ったことを、恨んでいません。俺は、分かったんです。俺は、確かな自分が欲しかった。名前や経歴が嘘の、根無し草のような存在は嫌だったんです。朔の寿命が短いことは、承知しています。いつ死んでしまうかも分からない。しかし、人間なんて、皆そんなものじゃないかと、俺は思います。誰も自分がいつ死ぬかなんて分かりっこない。明日かもしれないし、明後日かもしれない。それとも十年後かもしれない。皆一緒です。誰も、自分がいつ死ぬかなんて、分かりません。俺は、貴方が俺の寿命を延ばそうとして下さったことには、感謝しています。だから、今まで、三十二歳という長い時間、生きてくることが出来た。たくさんの経験もした。貴方は、俺にとって最善の方法を考えてくれたのです。今は、俺は『朔』になってしまったけれど、それも、後悔していません。俺は、やっと本当の俺になることが出来た。そのことが、酷く嬉しい。貴方には感謝しています。ありがとう、姉さん」

 上島はふと思い出した。確か、父親と母親が一緒に出かけてしまっていて、姉と二人だった、冬の日の夜。上島は急にお腹が痛くなったのだった。そのとき、姉は―郁子は、おろおろしながらも必死で看病してくれたのだ。郁子の泣きそうだが、何とか上島に不安を気取られまいとしている表情が、昨日のことのように思い出される。

 そんなことすら、忘れていた。誰にでも、一度は経験がある、当たり前のことなのかもしれない。おそらく、忘れていても、現在の生活には何ら支障のないことなのだろう。上島のように記憶を奪われなくても、世間には忘れている人がたくさんいる。しかし、そんな些細なこと一つ一つが、今の自分を形成しているのだ。


 郁子は、溜め息をつくと、涙を拭いた。その表情はさっぱりとしていて、何かを吹っ切れたのが見てとれた。

「一つ、聞いてもいいですか。――――母さんは、どうして自殺を……?」

 上島の記憶の中で、母は穏やかで優しい人だった。自殺など、考えそうになかったのだ。

「分からないわ……。私も詳しくは知らない。けど、この土地に引っ越してきてから、お母様は時々塞ぎこんでいたから……。何があったのか……。お父様は知っていたのかもしれないわ」

 郁子は、桜に凭れた。

「分かっているのは、お母様は、この桜に魅入られてしまったということ……。それだけよ」

 満開が過ぎたのか、桜は、飽くことなく花びらを降らせている。

「ねえ、覚えてる? 今日は、お母様の命日なのよ」

 上島は驚いた。

「母さんの、命日……?」

「そう。十二年前の今日、お母様は亡くなったの……。今日、ここに来たのは、そのためよ。この服も、元はお母様のもの」

 この、煙るような花びらの中で、母は亡くなったのだという。穏やかで優しいあの人は、桜に連れ去られたのだ。二度と戻れない場所へと。

 上島は、桜を見つめたまま、何も言うことが出来ない。記憶が、十二年前に遡ったような気がした。十二年前のこの日、母が死ぬさまを、この目で見たのだ。脳裏に焼きついて離れないあの悪夢と、穏やかに笑んでいた母が、同じだとは。

「姉さん、俺の本当の名前は、何なんです?」

 唐突に上島は尋ねた。本当の名前、それはどんな名なのか。

「上島勇朔。それが貴方の本当の名前よ」

「俺の? 本当の名前……?」

「改名しようかと何度も思った。けれど、出来なかった。『勇朔』というのは、お母様がつけた名前。お母様が、この世に居た証。それを変えてしまうことはどうしても出来なかった。姓も、変えてしまえばよかったのだけど」

「――そうですね、冬馬の養子にしたのなら、姓を冬馬にするのが普通のはず」

「私、冬馬に嫁いだでしょう。そうすれば、上島の姓を持つ者は、誰もいなくなってしまう。それに、貴方が上島であるということを忘れて欲しくなかった。お母様とお父様の子どもであったことを、覚えていて欲しかったのよ……」

 上島は呆気に取られた。『上島勇朔』は今まで偽名だと思っていたのだ。自分が嘘だと思っていたものが、真実だったなんて。

「記憶を取り戻せれば、世界はクリアに見えると思っていました。分からないことなんて、何一つない。明らかな世界が広がっていると思った。けれど、そうではないんですね。記憶を取り戻したというのに、それでも分からないこと、忘れていることがたくさんある」

 郁子は、小さく笑みを見せた。

「それが、普通なのだと思うわ。誰でも、自分の過去を全て覚えているわけじゃない。ある場面が抜けていたり、忘れていたり。かと思えば小さなことをいつまでも覚えていたりするものよ」

 郁子は、上島に背を向けた。

「ねえ、勇朔。記憶を取り戻して、良かったと思うことはある?」

 郁子の声が強張っていた。

 その背中は、細く、ただ審判のときを待っているようだと上島は思う。

 上島は微笑んだ。

「たくさんありますよ。けれど、一つだけ、とても良かったと思うことがあります」

 上島は満面の笑みを湛えて言った。

「郁子さんと、赤の他人でなくて良かった。――そう、思いますよ」

 泣き笑いのような表情で振り向いた郁子が、何故か母の表情と重なった。

 性格は全く違うのに、やはり親子は似るものらしい。

 上島と郁子は、暫く桜を見上げていた。

 この世で一番美しい桜だ。そう、思えた。

「恐ろしい桜ね。何百人もの人が、同じ場所で命を落としている。何に魅入られてしまうのかしら。――桜が満開に咲いているから、余計にそう感じるわ」

「桜の木の下には、死体が埋まっていると言ったのは、梶井基次郎でしたか」

 上島は、煙草を取り出して火を点けた。月にかかる雲のように、紫煙が流れていく。

「それも納得出来るわ。こんなに美しい花を咲かせることが出来るのは、根元に死体でも埋まっていないと出来るはずがないもの」

「梶井も、確か同じことを言っていましたよ」

 そうなのかもしれない。日本全国に咲き誇る桜。人々は花見だと浮かれ気分だが、不思議に思う人はいないのだろうか。日本人がどうして桜に惹かれるのか。

 他にも花はたくさんあるのに、何故桜なのか。

 太古の昔から、人間は生まれ、死んできた。あらゆる場所に屍骸が埋められた。それを養分にして、桜は咲いているのではないのか。

 桜は、いつでも犠牲者を待ち望んでいるのだ。

 己を綺麗に咲かせるため、他者を糧にして。


 郁子が去ってからも、上島は独りでそこに居た。

 記憶を取り戻せば、劇的に何かが変わるかと思っていたが、実際はそうではなかった。ただ欠けていたパズルのピースが、あるべきところに収まった。

 そんな思いだ。

 記憶というのは、形のあるものでも、重みのあるものではない。記憶を失わなければ、思い出の価値は分からない。

 一際強い風が吹いて、花びらを一面に散らした。まだまだ、気候は寒い。

「花冷えの季節だ……」

 呟いて、上島は桜を見上げる。

 地面には、桜がまるで絨毯のように、敷き詰められていた。


 人々を狂わせてきた桜。

 上島の運命さえも変えた桜の木だ。

 この桜の木は、ずっと生き続けてきたのだろう。

 これまでも、そしてこれからも、物言わぬ桜は、春だけを纏ってその地に存在し続ける。

 あたかも、呪縛のように。


 薄紅色の桜は、美しかった。

 地面に落ちた桜の花びらを、ひとひら、手に取る。


 しんと冷えた、冷たい桜だった。

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冷たい桜 @shionogi

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