第三章

 欠けた部分の全くない、紛うことなき満月だった。桜はあと少しで満開の九分咲き。車の後ろのトランクには、遺体となった小笠原昭雄が乗っている。小笠原香乃に連絡し、借り受けてきたのだ。死者にとっては、不名誉なこと極まりない。死体の貸し借りなど、死者への冒涜もいいところだが、上島は、昭雄の遺体に幽鬼が憑いているのではないかと考えているので、仕方がなかった。もし幽鬼が憑いている昭雄を再び地に帰しても、また何らかの形で問題が現れるに違いないのだ。

 ひょう、と冷たい風が吹く。これが四月の気候なのかと疑うほどだ。風が上島の穿いている袴をはためかせた。上島は普段着ではなく、霊媒の服装だった。男用の白の小袖に、紺袴という、いたって簡単な出で立ちではあるが、これが霊媒用の服装だ。これは霊媒師全体に共通しているスタイルでもある。もっとも、阿相玄天や玄水、また千春など、華山家総本山に住む霊媒師たちは、いつもこのような恰好をしている。上島も、中学生のときから、夏休みなどは師匠の家に泊まりこんで、修行をしたものだった。なので、この恰好は落ち着くのだ。

 風がやけに強い。足袋を履いた足が既に冷え込んでいる。この白衣に紺袴という浄衣は落ちつくのだが、寒いのが難点だ。冷え冷えとした風に吹かれながら、上島は風呂敷から霊媒道具を取り出した。

 昔から使用している、結界を張る綱。神社で鳥居につけられているのと、全く同じようなものだ。縄をぐるりと丸く描く。そして、札を何枚か懐に忍ばせ、残りの何枚かを残した。手に持った一枚を、縄の端と端が触れ合う部分に貼り、結界は完成だ。トランクを開け、分厚いビニールシートに包まれた小笠原昭雄と対面する。ビニール越しとはいえ、むうっとする臭気が鼻をついた。顔を顰めながらも、丁重に持ち上げ、木の近くに下ろす。丁度結界の中心辺りだ。これからが気の滅入る作業だった。このビニールシートを外し、肉塊と化した実物と対面しなくてはならない。僅かに躊躇していると、人の気配がした。

 こんなところを見られたら、何と言われるか分かったものではない。幻覚だと思いたかったが、誰かがこちらに歩いてくるのが見えた。満月は今雲がかかっていて、向かってくる者の、足より上はあまり見えない。ざっ、ざっ、とグランドを踏みしめる音が近付く。上島はどうすることも出来ず、ただその音が来る一点を見つめていた。十メートルほどに近付いた頃だろうか。月を隠していた雲がさあっと晴れた。また眩しいほどの満月が姿を現す。

「やっぱり、来たね」

 聞き覚えのある、穏やかな声のその人物に、上島は自分の目を疑った。

「……チセイ……」

「危ないって言ったのに。全く君は昔から変わらない」

 何故か得意げに神楽は言う。上島がここに来ることはとっくに承知していたような口ぶりだ。

「何で……」

「何で分かったかって? 玄天さんに聞いたんだよ。勇朔はきっと反対されても霊媒をする。だから、するとしたら何時どこでするものなのかって。流石は玄天さんだな。満月の夜、現場で、か。霊媒師は夜に動くんだね」

 上島は神楽が言ったことも勿論知りたかったが、何故神楽がここに来たかを知りたかった。

「違う! そうじゃない。何で来たんだ、こんなところまで……」

「どういうことだい?」

 神楽は質問の意味が分からなかったらしい。

「どうして……、俺はお前の手を放したんだぞ!! 俺はお前から離れた、お前を裏切ったのに、何で……」

「裏切る? 手を放す? 勇朔が、私の?」

 神楽は不敵に笑った。普段の柔和な表情とは違う。神楽がこういう顔をするとき、誰も神楽を止められないのだ。色素の薄い髪が、風にふわりとなびく。

「あれで裏切ったつもりかい? あれで私から離れたつもりだったのかい。甘いよ、私は全くそんなことは思っていない。今までも、これからも、私は上島勇朔の友人だ。そうだろう?」

 女性が見ればとろけそうな笑みで、上島に笑いかける。上島は呆気に取られた。上島は、神楽にさよならを言ったつもりだったのだが。おそらく、それは勿論神楽も分かっていて、そう言っているのだ。

「お前って、昔から思ってたけど本気で性格悪いな」

 ぼそりと言い返す上島に、神楽は応酬する。

「高校のときも、君にそう言われたような気がするな。私から言わせると、勇朔は昔から変わらずに甘ちゃんだけどね」

 神楽はきっと怒っているのだ。勝手に決断し、勝手に神楽の手を放した、上島を。言葉の端々に、上島への嫌味が詰まっている。神楽は怒らせると怖い。

「……悪かったよ」

 一切合財の謝罪のつもりだった。

「許さないよ」

 神楽は穏やかな、笑いを含んだ声で言う。いっそ激昂してくれるほうが怖くないのに。

「許さない。そんな一言の謝罪じゃ全然駄目だ」

 神楽は、上島が用意していた蝋燭を手に取った。多分使うことはないが、霊媒の七つ道具なので持ってきていたのだ。神楽はその蝋燭を矯めつ眇めつしながら言った。

「この霊媒に私も参加させて貰う。そうすれば許すよ」

「!!」

 神楽は最初からそのつもりだったのだ。

 また、冷たい風が吹く。上島は、神楽との間に、風が流れたような気がした。

「本気か……?」

 喉がからからになったような声が出た。

「私が本気以外のことを言ったことがあったかな」

 そらとぼけてはいるが、神楽は一歩も引く気はないようだ。思案していると、空が翳った。また月が雲に隠されたのだ。上島は焦る。時間がない。

「神楽、悪いことは言わない。命の危険があるんだ。俺だって、今回ばかりは腕の一本や二本で済むとは思っていない。それに、俺はお前まで守れる巫力もないんだ。自分だけで精一杯なんだよ。――分かってくれないか」

 神楽を怒らせても、絶交されても、霊媒を見物させるわけにはいかなかった。幽鬼は、そこに弱い者が居ると見るやいなや襲いかかってくる。無理やりに憑坐(よりまし)にされてしまうことだってあるのだ。もし、遺体に憑いていた幽鬼が、神楽に乗り移ったとしても、上島はきっと助けてやれないだろう。

 神楽は、背広の内ポケットから、破魔札を取り出した。

「それは……」

「玄天さんから頂いた。勇朔の邪魔にならずに、霊媒を見届けたいと言ったら、これを、と」

「柁摩罹(だまり)の札……」

 柁摩罹の破魔札は、最高位ランクの守護札である。これを持っている限り、ほぼ全ての幽鬼は、近付くことは出来なくなる。しかし、これは霊媒師が持っていてこそのもの。普通の人間にも勿論効くだろうが、上島は一抹の不安を覚えた。神楽は、上島の表情が曇るのを見て、不安そうな面持ちになる。

「駄目かい?」

「いや……。この札は、最高位の札だ。玄天に文句はない」

 しかし、何かもう一つ、札の効果を強めるものが必要だ。もう一枚札を持たせるのは良くない。札同士が反発し合うからだ。何かもう一つ、神楽に馴染みがある、札の効果をじんわりと後押ししてくれるような結界が作れれば……。

 上島はハッとする。突然、車に駆け寄ってごそごそと中を引っかき回した。

「勇朔?」

 神楽が後ろで不思議そうにしていたが、暫く荷物を探ると、上島は2つのものを取り出した。愛車のランドクルーザーのトランクを閉め、神楽に向き直る。

 上島が手に持っていたのは、赤いリボンと、交通安全のお守りだった。鈴がついているのか、涼やかな音が、ちりちりと辺りに響く。

「勇朔それは……?」

 上島は応えずに、交通安全のお守りから鈴を外しにかかる。鈴がころんと外れると、赤いリボンにそれを通した。

「これを着けておけ」

 猫の首にでも捲かれていそうなものだ。

「これが、何か……」

「結界を強める道具だ。お前の持っている柁摩罹の札は、本来霊媒師が持つものだ。一般人にも効くだろうが、その効力のほどは保証出来ん。だから、本来馴染みの深いもので結界を張るということを応用して、この赤いリボン――一応弱位の部分的結界用だぜ――と、霊的結界価値が高い鈴――これは元々神社にあったものだから清められてる――を付属具として着けておけ。何かの役に立つかもしれん。見てくれがどうこうという苦情は受け付けんぞ」

 神楽は苦笑した。友人の命がかかろうかというときに、リボンは嫌だなどと駄々を捏ねる者などいないだろう。

「他愛ないが、何かを“結ぶ”というのも一種の呪術行為だ。結界としてのな」

神楽は説明を聞きながら大人しく手首にそれを結んでもらう。リボンは確かな音を立てて、神楽の手首に『結ばれ』た。上島は、校庭の隅の木を示した。今いる桜の木とは遥かに離れている。

「あそこに居ろ。もし万が一何かあったら、真っ先に逃げろ。決して俺に近付くな。そして出来たら、玄天に報告してくれ。いいか、何かあったら、すぐに逃げるんだ。いいな? それが約束出来ないようなら、ここには居させない」

「分かった。――ということは、私は霊媒を見てても……?」

 いいのか、と問う神楽に、上島は頭を掻く。

「もう知らん。好きにしろ。もしお前が死んだって、クレームはお断りだからな」

 神楽は明るく笑った。

「了解」

「始めるぞ。奴さん、本性を現したがってやがる」

 桜の木の下に置かれた、小笠原昭雄の遺体が、ビニールに包まれたままで、かたかたと震えだしていた。

 今はそんなに風もない。もし風があったとしても、このように小刻みに遺体が震えることはないだろう。

「チセイ、早く行け!!」

 上島は小笠原昭雄の遺体から目を放さずに、鋭く神楽に向かって叫ぶ。神楽の駆ける足音を確認すると、霊媒道具が入っている中から素早く、長い藍色の数珠のようなものを取り出し、首に掛けた。空気が鉛のように重い。空間が歪んでいるようだ。上島はこめかみに鋭い痛みを感じた。

「やっぱり属性が逆の幽鬼は難儀だ……」

 額に汗が噴き出す。こんな負荷は、同じ属性のサンユエには感じたことがなかった。ユエの力の何と強大なことか。それはユエ属性の者に取っても同じで、サンユエの幽鬼は扱い難い。しかし、上島は何故か、ユエはマイナスの力が強大な気がするのだ。

上島の着物が前後に強くはためいた。どこから吹いてきたのか分からないほどの、強風――最早そんな程度ではなかったが、風は旋風となり、上島を中心に吹き荒れた。上島はその巨大なつむじ風の中で、濃紺色の袴を履いた膝を折り曲げる。片膝を地面につく恰好で、両手を組み、人差し指と親指を付き合わせる形にした。

「オン(瘟)―――!!」

普段の上島の声とは違った。腹の底に響くような声に従って、ドォン、と花火よりも遥かに大きな、地面の底から突き上げられるような地震が起こった。何者かによって、地面の底を殴られたような衝撃だ。神楽は思わずよろけて、近くにあった木に手をついた。

見れば神楽が一瞬目を離した隙に、上島は、旋風の中にありながら、青いものに囲まれていた。火だ。青い炎に囲まれているのだ。幽鬼かと思ったが、その火の色があまりに美しく、生き生きとしているので、上島から生まれているのだと分かった。地面に弧を描くように、上島を取り巻く青い炎は、屈んでいる上島の背丈ほどまで大きくなった。

「――オン バザラ タラマ キリク」

低く、しかしどこか心の底に響く声が、神楽の中を走りぬける。しかし上島から目は離さなかった。――否、離せなかった。

上島が唱える呪文は、神々しく、ただの旋風に見えたその風も、ある意志を持った動物のように、上島を包むように高く巻き上がった。上島はしばらく、そのどこの言語とも分からないような呪文を唱えていたが、その詠唱の調子がふと、変わった。

「不(ふ) 生(しょう) 不(ふ) 滅(めつ) 不(ふ) 垢(く) 不(ふ) 浄(じょう)―――不 増 不 減  是 故 空 中 無 色 無 受 想 行 識――――――」

神楽も聞いたことのあるような、漢字の羅列の呪文に変化した。しかしお経を読むときのそれではなく、歯切れはよく、一字一字に力がこもっている。風は一層強くなり、神楽はとうとう眼鏡を外した。このままでは、何かあったときに眼鏡が壊れて見えなくなってしまう。不測の事態が起こるまでは、上島が無事である限りは、裸眼で見ている他ないだろう。

「オン(瘟)―――!!」

ぶわっ、と青い炎が一瞬拡散し、その上に赤い炎が広がった。

炎が、意志を持って遺体に襲い掛かる。途端、遺体を覆っていた分厚いビニールシートが、一瞬のうちに粉々に消えてなくなった。そして、今や意志を失った、肉塊と化した小笠原昭雄の姿が露になった。肉はただれ、骨はところどころから飛び出、とても元が人間の姿だったとは思えない。じくじくとした水っ気を含んだ皮膚――あれは皮膚と言えるのだろうか――は膨張し、髪だけが黒々と生えている様子が、何とも言えず気味が悪かった。眼球は既になく、虚ろな闇だけが目の奥に宿っている。遺体は宙に持ち上がっていたが、やがて力をなくしたようにぱたりと倒れた。

神楽は、これで終わったと思った。神楽は己の足元を見渡して初めて、自分が護られていたことを知る。両手に抱え込んでいた柁摩罹の札のおかげか、折れた木々や、風で巻き込んだ花びらが、神楽の周りの地面を円形に取り囲んでいた。神楽の周りだけは、何事もなかったように、綺麗なままだ。

「勇朔」

 神楽は小さく叫ぶと、上島に駆け寄ろうと一歩を踏み出した。

「るな……!」

 上島は、呪文を詠唱していた恰好のまま動かない。いや、動けないように見えた。

「え?」

「チセイ、来るな――――!!」

 上島が悲鳴を上げるのと同時だった。遺体がまるで爆弾となったかのように、辺りに火を含んだ爆風が起きた。

「ぐっ……!!」

 上島からかなり離れた場所に居るにも関わらず、神楽はその爆風で吹き飛んだ。二、三メートル後ろにあった木に、背中をしたたか打ちつけ、根元にずるずると倒れこむ。鼻の奥に血の匂いがした。中で出血しているのかもしれない。それでもどうにかこうにか起き上がった。まだ爆風は止まず、神楽は、札が自分を守ってくれていることをはっきり感じた。薄青のような薄紫のような、丸い球形の空気が、神楽を取り囲んでいる。しかしその壁は薄く、爆風が荒れるに連れて、徐々に小さく、脆くなってきているように見えた。柁摩罹の札を取り出すと、前に押し出すようにして掲げる。しかし、意に反して、柁摩罹の札は、音を立てて破れた。

「札が……!!」

 幽鬼の力に、札が耐えられなくなったのだ。これは、最高位の札だと、上島も玄天も言っていたはず。それなのに、破れるということは、あの遺体の近くに居る上島は……。そう考えて、神楽は背筋がひやりとした。こんなに離れたところにいる神楽でさえ吹き飛ばされ、そして最高位の札すらも破れているのだ。上島は今頃――――。

 そこまで考えたところではっとする。神楽を覆っていた結界が、急速に小さくなり始めているのだ。神楽は、祈るように目をきつく瞑って、札を掲げて手首を握った。

 ちり、ん。

 その音の清浄さに驚いて目を見開く。上島が結んでくれた赤いリボンの鈴の音だった。ちりちりちり……と穏やかな音を立てながら、赤いリボンがゆらりと揺れた。

 神楽は、何が起こっているかさっぱり分からなかったが、足元から凍るようだった空気が、次第に温かくなるのを感じていた。札の結界は薄青か薄紫かという色を呈していたが、今神楽の周りを取り巻いているのは、オレンジのような、黄色のような色で、暖炉の明かりに似ていた。暖炉の明かりは柔らかく神楽を囲み、破れた柁摩罹の札を補っているかのようだ。そうしているうちに、爆風は弱くなり、煙っていた視界も少し開けてきた。神楽は大急ぎで眼鏡をかける。

「勇朔!!」

 煙を払いのけるようにしながら、先へ進むと、地面に膝立ちになった上島が居た。両手をだらりと垂らし、体に力が入っていない。上島のいる最初に霊媒をしていた場所から一歩も動いていなかった。よくあの場所から吹き飛ばされなかったものだと神楽は感嘆する。

「ば……来るな、て……」

 上島の小袖や袴は破れて焼け焦げている。皮膚は多少の火傷が出来ているだろうが、移植するほどのものではないと神楽は瞬時に判断した。

「勇朔、大丈夫か、勇朔!!」

 上島の背を、腕にもたせ掛けるようにすると、上島はゆっくりと首を振った。

「お、れに……近付、くな……」

「何を言ってる!」

 そのとき、上島と神楽は確かに目にした。惨い状態になった遺体が笑うさまを。甲高い笑い声が、耳の奥の脳を突き破るようだ。覆うものがなくなり、露になった小笠原昭雄の遺体は、地面に横たわっている。その身から、赤い血が広がりだした。死人には到底持ち得ないはずの、大量の血液。おびただしいほどのその血は、小笠原昭雄の遺体の周りから生き物のように広がり始めた。

「勇朔」

 神楽は上島を支えるようにして、その血から逃れる。甲高い悲鳴のような笑い声は、まだ続いていた。

「かぐ、ら……」

 上島は自嘲気味に言った。

「――すまな、い……失敗、だ……」

 校庭に浅黒い染みが出来ていく。広く広く、直径十メートルほどの、恐ろしい血の刻印を滲ませて、霊媒は終わった。


***


 舞い散る桜の花びらの中に、上島は佇んでいた。酷く禍々しい巨大な桜。まるで桃源郷のように美しい花を咲かせるのに、何故こんなにも怖ろしく感じるのだろうか。

そこには、小さな子どもがいた。見事に咲き誇った桜の枝を手折ったのか、手に大事そうに抱えている。桜の木の近くに親しい人が居るようで、輝くような笑顔で、その人物に手を振っている。陽光眩しい、優しい季節だった。

 しかし、子どもの瞳は次の瞬間、絶望に見開かれた。青空が広がっていた、うららかな春の日は、一瞬にして様変わりする。空はこの世の終わりのような夕焼けに変わり、夜の気配が忍び込み始めた。燃えるような朱色の空に、暗雲が立ちこめる。けれど、子どもの瞳は、そんなものは見てはいなかった。手から、握り締めていた桜の枝がぽとりと落ちる。

 太い桜の木の枝に、女の人がぶら下がっていた。そこに居ることが当然のように、まるで桜が実をつけるとしたら、このようになるのだと言わんばかりに。だが実際は桜の実であるはずがなかった。枝にしっかりと括られた縄の輪で首を吊っているのだ。子どもはふらふらと立ち上がり、引き寄せられるように、木に近寄った。

 薄桃色の花びらのはずのものは、今や夕陽を浴びて、血の色のようになってしまっていた。子どもが見つめていた女性は、既にぴくりとも動かない。ただ時折吹く風に従って、右へ左へと揺れるのみだ。子どもは、女性が何をしてしまったか、彼女がどうなったのか知る術はなかったが、何かとんでもないことが起きているということは理解出来た。――――それも、途轍もなく悪いことが。

 ゴウ、と強く風が吹き、花びらが一斉に風に連れ去られていく。子どもは自らが風に飛ばされないようにすることも難しかった。風から己を守るために、腕で顔を覆いながらも、彼は必死で叫んでいた。風はまずます強くなり、花びらも、木も、周りのものも、全てのものを奪い去っていくようだ。首を吊った女性も、まるで紙細工のように、風に吹き上げられ、ただの物になってしまったかのように、はためいている。やがて、竜巻に似た風が起こり、木々も草木も、なにもかもを、この地からなくしていった。巨大な桜の木でさえも例外ではなかった。びしびしと枝が折れ、満開を迎えたその身を惜しげもなく風の前に差し出した。子どもは何か叫んでいる。必死の形相で何かを叫んでいた。

 そして、その暴風に女性が攫われるのを目にすると、子どもは叫んだ。



――おかあさん!



 上島はその桜の木の下に居た。異常に紅い桜だと思う。まるで血のようだ。木を見上げると、枝に何かが揺れている。――人だ。中年の男が、項垂れるようにして木で首を吊っていた。黒い死体。顔は見えない。死体全体が黒く、体型からしか年齢が判断出来なかった。上島は助けねば、と駆け寄ろうとするが、どうしても近くに行くことが出来ない。ただ少し遠くから、その木を傍観することしか出来なかった。影のような死体は、一つ、二つと桜の木に増えて行く。それは若い女性であったり、子どもであったり、また老人のようでもあった。やがて何十という死体が、木の方々の枝に揺れているのを見たとき、上島は絶叫した。

「止めてくれぇ――――――!!」

 途端、四肢を引き裂くような激痛が走った。四方八方に手足が激しく引っ張られるようだ。このままでは引きちぎられてしまう。みしりと骨が鳴る。上島は耐えられず悲鳴を上げた。

「ぐああああぁぁぁぁぁ!!」

 断末魔のようだ、と意識の端で思う。それでも痛みは治まらず、頭にも、脳味噌を無理矢理引きずり出されたかのような、割れるような痛みが走る。

「あああああぁぁ、ぐっ、ぐわぁぁぁぁあああああ!!!!」

 上島は両手で頭を押えて、激しく転がった。こんな痛みは体験したことがない。こんな地獄のような責めを受けるなら、いっそ死んでしまったほうが、遥かにマシだと思った。

 痛みが引いてくると、またあの幻覚を見る。女性が首を吊っている。子どもが叫ぶ。そして何十、何百の死体がぶら下がる桜の木。助けようとしても、どうしてもそこに行くことが出来ない。それが終わると、また激痛の繰り返しで、あたかも呪いのようだった。もう何度も何度も繰り返し、半ば死んだようになっていると、淡く光るものが見えた。

 その光は段々大きくなって来る。上島が億劫そうに目を細めると、ついに光は上島を飲み込んだ。

「……朔」

「勇朔……」

 聞き慣れた声だ……。けれど、これは、誰だ?

 面倒だったが、意思の力を総動員して、重い瞼を押し上げた。薄く開けたところから刺さる光。眩しい陽の光だ。

「勇朔!!」

 端整な顔立ちの男が見えた。細い銀縁の眼鏡をかけた、大層な美青年だ。

「誰だ……?」

 上島が思わずそう口にすると、男は鈍器で殴られたような表情に変わる。

「勇朔……?」

「神楽さん、安心して下さい。記憶が混乱しとるんですわ」

 木で出来た桶と、タオルを持って入ってきた青年が言う。こちらも眼鏡をかけてはいるが、異様な風体だった。長い金髪を後ろで一つに結い、服は着物だ。白い小袖に、濃紺の袴。巫女服の男版のようである。

「俺……」

「ええです。今は何も思い出さんでいい。もう一度寝てて下さい。暫くしたら思い出すでしょう。――――何もかもを……ね」

 上島はその声に応えるように、圧し掛かってきた瞼を再び下ろす。瞼が落ちきる直前、勇朔、と呼んだ、名残惜しそうにした青年が見えた。

 上島が寝付いたのを見届けて、神楽は表情を緊張させる。上島の前では、普通にしていたかった。しかし、尋常でないことが起こっているのは薄々感じている。それは華山家総本山全体の様子を見ているだけで感じ取れた。平生ひっそりとしている華(こ)山家(こ)ですら、今は慌しく、人々の囁き声がそこここに聞こえてくるような、そんな雑然とした雰囲気だ。玄天の表情にも、以前とは違う色が混じっている。人々の顔は、どこか鬱々として、しかし起こった事柄に対して非常に衝撃を受けているように見えた。それに、この家ですれ違う使用人などが、阿相玄天の顔をちらちらと、妙に注視しているのも気にかかる。

 何故かは、まだ神楽にも判然としない。とにかく、霊媒をした後に急に激しく苦しみだした上島を、どうにかしてここまで運んだこと以外、神楽に分かることはなかった。運ぶ、と簡単に言ってはいるが、上島をここまで連れてくるのは、想像を絶する作業だった。断末魔のような悲鳴を上げ続け、神楽が羽交い絞めにでもしていないと、自分の喉を掻き切ろうとする上島の手足を縛り、首に手刀を落としてを意識を失わせた。縛る段階でも滅茶苦茶に暴れられ、神楽の腕や足は、上島が蹴ったり噛み付いたりした後が残っている。およそ正気とは思えない上島を後部座席に放り込み、まさに命からがら、華山家総本山まで連れてきたのだ。

「お師匠様」

 千春が薬湯を持って廟に入って来る。上島が今寝かされている場所は、座敷でも応接室でもない。華山家総本山の廟に居るのだった。――――それも、今まで使うことが禁忌とされていた、開かずの廟だ。

「神楽さん……ちょっといいですか」

 玄天はいつになく真剣な顔で神楽に問うた。玄天の後について、神楽は廟を出る。玄天は、裏山の方に向かって歩を進めていく。廟が小さく見えるようになったところで、玄天は足を止めてくるりと向き直った。

「神楽さん、貴方にだけはお話しておきます。今はまだうちの者に聞かれるわけには行きませんので、こんなところまで来て頂きました。出来るだけ、冷静に聞いて頂きたいと思ってます。――――上島さんのためにも…………」

 神楽は、見えない風に正面から押されたような気がした。足元が僅かにふらつく。何か良くないものの前触れのような気がした。強風が窓を揺らすときの、あの不吉。夕焼けが異様なほどに朱(あか)く、世界が終わるかのような、あの不吉。誰もいない校舎に独り佇むときの、あの不吉だ。神楽はその身に全ての不吉を、丸めて投げられたかのように感じた。――聞くのが、怖い。上島について、何を告げられるのか。予想だに出来なかった。しかし、聞かなくてはならない。他ならぬ上島のことなのだ。上島の支えになれるのは、自分だけだという自負があった。

「聞きます。どうぞお話ください」


 とろとろと夢を見ていた。まるでぬるま湯の中に浸かっているようだ。それは幸福な子ども時代というものかもしれなかった。世界の形はよく分からないけれど、見るものは美しく、謎に満ちていた。全てのものに金色の粉がかかっているようで、その光を、小さな瓶の中に閉じ込めたいと思った。けれど、彼らの美しいと思うものは、いつも瓶詰めには出来ないようなものばかりだった。例えば、草の上のまろい朝露だったり、プールの底にあたる陽の光の波紋だったり、ホースから出る水の中に見る虹だったりした。手に入らないものだからこそ、憧れ、手元に置きたいと思ったが、彼らは本能で知っていた。大人のように、何もかもを手中に収めてしまえば、その途端に、金色の粉は消えてなくなってしまうのだということ。自由に水田を飛びまわっていた蛍をとじこめた瞬間、その光が消えて死んでしまうように。手元に置いておくことが出来ないからこそ、人の中には幼年時代の記憶というものが、色濃く残っているのかもしれない。認識も出来ないほど、DNAの中に入り込んでいる。そして、それはときどき、ちらりと顔を覗かせるのだ。

 上島は意識の川を、ゆっくりとたゆたっていた。酷く気持ちが良い。この不思議な温度は、何だろう。ここはどこだろう。上島は小さく丸まっていた。こんな気持ちのいい場所からは、もう出たくない。世間の荒波に揉まれるのは、もうたくさんだ。上島はずっとここに居る気だった。外に出れば何か恐ろしいことが待ち受けているのが解る。だのに、上島がここにずっと居ると思った瞬間から、周りの川が静かに波打ち始めた。それは段々と大きな波になり、やがて上島をも飲み込む津波になる。

――――やめろ、やめてくれ!! 俺はずっとここに居たいんだ!!

 波は反対するように、ますます荒れ狂い始めた。最早上島はここに歓迎されるべきものではなくなった。上島はとうとう流された。このままどこに行くのか、一点に、波は迷わずに向かう。上島が目を凝らすと、トンネルの先は白かった。白い世界だと思った。何もないようで、全てを内包する世界。丸いものが見えた。丸くて白い。それは上島が見る最初のものだった。

――――朔。

 外の世界で聞いた初めての言葉。欠けることのないもの。満腹と飢餓を併せ持つような、まるで真逆の物体。それは表裏一体で、決して離れることはない。

――――朔だわ。この子は、勇朔にしましょう。

 天の恵みのような、満ち足りた声だった。女神のようなその手は、静かに上島を抱き上げた。白く柔らかな手が頬をくすぐり、淡く笑う。上島は外の世界を知った。受け入れようと、拒絶しようと、どちらにしても、この世界からは逃れられない。もう、あそこに帰ることは出来ないのだから。


「勇朔が、朔の霊媒師……?」

 神楽は呆然として、声を掠れさせた。

「まさか。何かの間違いでしょう。勇朔は、『太陽(サンユエ)』の霊媒師。それは本人も承知していることです」

 霊媒師にはそれぞれの属性がある。それは、三種類に分けられ、一つは『太陽(サンユエ)』、次に『月(ユエ)』、そして『朔(サク)』から成る。しかし、殆どの、九十九・九%の霊媒師は、サンユエかユエの属性だ。太極図が陰と陽に分かれ、二つで一つであるように、サンユエとユエも、真逆の属性ではありながら表裏一体のものである。故に霊媒師は、属性の違う二人組で行うことが通常だ。しかし、それとは全くの別物の、朔は、属性というよりも、属性を持たないということに近い。サンユエでもユエでもない、完全に独立している霊媒師。百年か二百年に一人の確率で生まれるという、最強の霊媒師だ。

しかし。

『朔属性の霊媒師は、寿命が短い』

 確か玄天はそう言っていなかったか。神楽は血の気がすうっと引くのが分かった。まさか、上島が。信じたくない。

「――――神楽さん。上島さんが、あれだけの幽鬼に対峙して、霊媒を失敗しながらも、何で今無事か、分かりますか」

 神楽が黙っていると、玄天は続けた。

「幽鬼からかなり離れていた筈の貴方でさえ、爆風で飛ばされ、怪我をしている。けれど、その中心に居たはずの上島さんが、何故、軽度の火傷程度で済んだのか」

「何故……」

「上島さんが朔だからですよ。いや、朔に覚醒したから、と言うべきか」

 神楽は、何箇所か怪我をしていた。上島を華山家まで運ぶときに、上島に負わされた怪我もあったが、爆風で木に打ち付けられたときに、無数の打ち身も切り傷も出来ていた。足や腕は青あざになっているし、包帯で手当てしてあるものもある。傍目には結構な怪我だ。よくよく考えれば、遠くに居た神楽よりも、上島は何十倍もの怪我をしていてもおかしくはないのだ。

「上島さんは、本来朔だったはずなんです」

「まさか……。しかし、証拠は、あるんですか? 何故朔だと分かるんです?」

 神楽は玄天に詰め寄った。

「あれだけの幽鬼と戦いながらも、無事でいる点です。普通ならどうなるかご存知ですか? 四肢が引きちぎられるだけでは済みません」

 霊媒に失敗した霊媒師の末路は、語るも無惨だ。到底正視出来ない状態で死んでしまう上に、魂は成仏しない場合も多い。時空の狭間に投げ出され、永遠に彷徨い続けることもある。また、その魂が悪霊になることだってあるのだ。

「そして、今開帳している廟は、本来開かずの廟と呼ばれています。廟は、霊媒師が傷ついたときなどに、外界から護る役割を果たしています。それぞれの属性の廟がある。サンユエ、ユエ、そして今上島さんが居る廟は……朔です」

 神楽は、上島が華山家総本山に運ばれたときを思い出した。大慌てで廟に運ぶことになり、サンユエの廟に運んだのだが、酷く苦しみ、一向に良くならない。神楽から事情を聞いた玄天は、もしかすると、上島は朔なのではないかと鋭く推理したのだ。その後、朔の廟に運ぶと、上島は目に見えて落ち着いた。そのことで、華山家総本山の者たちはうろたえているに違いない。しかし、肝心の上島はどうなるのか。上島の寿命は。

「押し問答はこの辺でやめましょう。上島さんが目覚めたら、ちゃんと調べます。属性が分かる道具がありますから。けどその道具は、霊力を多少必要とするので、上島さんが衰弱している間は難しい」

「属性なんかどうでもいい!! 私が――私が知りたいのは、勇朔の寿命がどうなるか、それだけだっ……」

 神楽がこんなに大きな声を出すことなど、前代未聞だった。温和な神楽が、眉間に皺を寄せて怒っている。

「上島さんの寿命は――――」

 玄天の声音は、こんなことは言いたくなかったという思いに満ちていた。

「一年か二年か十年か……どれだけ保つかは分かりません。しかし、まず長生きは出来ないでしょう」

 玄天はそれだけ言うと、呆然としている神楽を置いて、家の方に戻って行った。

『朔属性の霊媒師が現れるのは、百年か二百年に一度』『パワーが強大過ぎて、人体が保たないんだろうな』

 上島が話した言葉が、神楽の頭の中に洪水のようにあふれ出す。

 ああ、勇朔。百年か二百年に一人しか現れない、最強の霊媒師。それが君だというのか。

 世界は何と皮肉なことだろう。一番、生きていて欲しいと思う人を――先にこの世から奪っていくのだから。


 次に上島が目を覚ますと、側には誰もいなかった。ただ黄昏の空が、部屋を淡く照らしているだけだ。上島は痛みを訴える身体の言うことを何とか無視して、上半身を起こした。やけにベッドにしては、やけに高い位置だ。そう思い、辺りを見回すと、どうやら廟だということが分かる。生贄を差し出すかのように作られた寝台は、高さ一メートルはあるかと思われた。周りには、そこここに赤い石楠花が生けられている。上島の寝ていた頭上には、神棚があった。金色で作られたそれは、長い年月を経て酸化していた。長い間誰も手入れをしなかったのだろうか。

 そう思い、ふと、それはおかしいと考え直す。サンユエとユエの廟は、いつも誰かが掃除しているはずだ。それに頻繁に使用されているので、手入れもされずに、派手に酸化することなどないはずなのだ。――ここはどこだ? こんな廟は見たことがない。上島は、サンユエとユエの廟には入ったことがある。サンユエの廟は優しい色合いの木で出来た、素朴な廟だ。明るい陽の日差しを思わせるようなつくりになっていて、居心地が良かった。それに対して、ユエの廟は、黒曜石がふんだんに使われた廟で、高価そうではあったが、冷たい感じがした。これは、上島がサンユエの属性だったからだろうか。しかし、本来ならサンユエの――いつもの廟に居るはずなのだが、何故。ここは何の廟だ?

 廟の扉が遠慮がちに開けられた。キィと油を差していない、高い金属の音がする。夕暮れの光に逆光になっていて、誰なのか、表情は見えない。けれど、上島はシルエットで気付くことが出来た。

「チセイ?」

 神楽は返事をしない。

「チセイだな? ここはどこだ? 何の廟なんだ?」

 神楽は小刻みに震えているように見えた。一体どうしたというのか。

「チセイ?」

 もう一度呼ぶ。すると、神楽は蚊の鳴くような声で、ぽつりと言った。

「『朔』の――廟だよ。勇朔」

 神楽は泣いているように見えた。

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