第二章

***

 上島が呻き声を上げながら目を覚ますと、既に辺りは暗くなっていた。

 ここはどこだ、と見回すが、何分暗いのでよく分からない。寝台らしいものの上で身を起こし、右往左往していると、扉が開いて誰かが入ってきた。

「勇朔? 気がついた?」

 聞き慣れたその声は、神楽のものだ。同時に、入り口付近にあった電灯のスイッチを入れる音がすると、途端に室内は明るくなった。

「う……」

 目に光が染みて、思わず手で顔を覆う。神楽が苦笑する気配を感じながらも、ようやく目が慣れたあたりで覆っていた手を外した。

 今更になって気がついたが、服も着替えさせられていた。薄水色の着物のような合わせだ。辺りの白い壁、調度品から見て、ここは病院に違いなかった。僅かにする消毒薬の匂いも、考えてみれば病院でしかありえない。

「大丈夫かい? 突然倒れるから驚いたよ」

 神楽が上島の顔を覗き込む。途端に、上島は何処でどうなって倒れたかを鮮明に思い出した。

「俺は……」

「桜の木の下の死体を見に行ってね。運よく見られたんだけど……覚えてる?」

 上島は頷いた。遺体を見て――――そして倒れたのだ。

「…う…っ」

 ツキン、と頭の奥が痛む。ああ、やっぱりまだ駄目だね、と神楽は呟いて、コップに入れた透明な水をくれた。

 一口、二口と飲んで、手の甲で拭う。冷たい水が心地良かった。体の中に染み渡るようだ。

「これを。……飲める?」

 気遣わしそうに言う神楽から錠剤を幾つか貰って、口に含んだ。体内へと押し出すようにして飲み下し、息をつく。

「俺は……倒れたのか……」

 死体を見て――いや、見る前からか――何とも不吉な気配が辺りを覆って、それが死体を見た瞬間ピークに達して――意識が無くなった。そういうことだろうか。神楽は寝台脇にある、丸い簡易椅子に座った。

「とりあえず順を追って説明するよ。まず、ここは南野大学病院。あの小学校の近くだよ。分かるね?」

 ああ、と上島は頷く。だったら、上島の家とも近い。

「君は、検死官見習いと称して、私と一緒に死体を見に行って、そこで具合が悪くなって倒れた。――本当に驚いたよ。勇朔が倒れるなんてところを初めて見たからね。大丈夫?」

 上島は実際、ひ弱なタイプではない。今まで救急車に運ばれたことも、入院したこともない。ただし冬になれば風邪ばかり引いているという、小まめに体調を崩すが、大病はしない類の者だった。

「俺も……倒れるなんて初めてだ」

 上島はどこか呆然と呟く。ドラマか何かで人が倒れているはしょっちゅう見るが、まさか自分の身に降りかかるとは。

「青山くんもびっくりして、無線機放り出して駆けつけてきて。慌てたよ。『救急車呼びましょうか!? あっ、それよりもこの搬送車で運びましょう!』って言われて」

 神楽は思い出したようにくつくつと笑った。

「で、救急車呼んだのか?」

「いや、私の車で運んだよ。本当は呼びたかったんだけど、何故こんなことになったかっていう理由も色々は話さなくちゃいけないだろう? 事情も聞かれるし。状態を見て、大丈夫そうだって判断したんだ。でもって、医者の権限を使った」

「医者の権限?」

 上島が怪訝そうな顔をすると、神楽はコレ、と白衣を指す。

「裏口からお尋ねして、早々に診て貰った」

 本来なら神楽に診て貰っただけで充分なのだが、万一のことがないようにだろう。

「すまん……迷惑をかけた」

 上島は頭を下げる。何かトラブルがあれば、神楽の身に降りかかるようなところで――倒れるとは。もし神楽が素直に救急車を呼んで、身分偽装のことがばれていたら、神楽も上島も、罪に問われていたかもしれない。

「いや、私が悪かったんだよ。検死官の見習いにさせたのも私だ。勇朔が死体を見て様子がおかしかったことにも気付いていたのに、無理に……」

「謝るな、チセイ。俺の立場がない」

 神楽は上島のためを思って、協力してくれたのだ。その神楽に、上手くいかなかったからといって謝らせるような真似は、上島はさせたくなかった。

「それに、収穫はあった――と思う」

「本当かい!?」

 神楽は、身を乗り出した。

「おそらく――だが。古い――映画のような、場面が見えた。今と同じに」

 目線を上げると、神楽が頷いて、先を促した。

「もしかしたら――俺は、あの小学校に、通っていたのかも…しれない」

「蓮北に?」

「ああ。思い出したのは、大きな桜の木の下に、今みたいに死体があるという場面だ。あの死体ではなく―何というか、死んで間もないという感じはない。むしろ死んですぐ、と言った方がいいな。その死体は、女の人だった。スカートで……。首を吊ってた。そして、夜、だった。満月がとても大きくて、それを覆い隠すように、巨大な桜の木が――あった。あの桜の木は、蓮北にあるのと、同じだ」

 つっかえつっかえ、上島は、頭の中で見た映像をゆっくりと再生するように説明した。たどたどしいが、一語一語が、重い。失った記憶分の言葉の重さかもしれなかった。神楽は黙ってそれを聞いていた。

「勇朔の経歴上では、小学校は北龍、というふうになっていたんだったね」

「ああ、でもそれは嘘だ……と思う」

 冬馬が買った経歴だ、とは言わなかったが、上島はそのことは伏せておいた。

「じゃあすぐに調べさせるよ。勇朔がここで寝ている間に、全て過去のことが分かるかもしれない」

 勢い込んで神楽が立つのを、上島は止めた。

「何だい、勇朔?」

 不思議そうに見返してくる瞳を真っ向から見返すことが出来ず、上島は視線を床に転じた。

「調べるのは……少し待ってくれないか」

「どうしたんだい? 何で――」

 神楽の責めるような声を途中で断ち切る。

「俺が、自分で調べる。……人に調べて貰ったことを、はいそうですかと簡単に納得は出来ないと思うから……」

 何とか神楽を説得しようとしても良い言葉は見つからなかった。何と言えば諦めさせられるのだろう。四苦八苦している上島の心情を分かってか否か、神楽はふっと微笑んだ。

「分かったよ。勇朔が元気になるまでは、何もしないと約束する。……まあ、考えてみれば己の過去を他人の口からは聞きたくはないものだしね。今日のところは、ここまでで止めておくよ。じゃあ、また」

 神楽は丸椅子から立ち上がって、片手を上げた。

「ああ、迷惑かけて、すまん」

 上島の言葉に、神楽は笑みで答えると、長身の体躯を翻して病室を去った。足音が遠くなるのを耳で確かめて、上島は病室のベッドへどさりと倒れこむ。ひどく疲れていた。まだ額が熱い。おそらく熱があるのだろう、体全体に重しをつけられているようだ。上島は身を横たわらせたまま、前髪をかき上げた。

「まいったな……」

 どうすれば、神楽を止められるだろう。上島は、自分の過去について知りたいのか、知りたくないのか決めかねていた。封印された箱をこじ開けて、果たして自分にとって良い結果になるのかどうかも疑問だった。何より、今の生活を失いたくないというのもあった。

 上島は煙草を探したが、生憎元の自分の服に入っているらしい。それにここは病院だということを思い出し、軽く舌を打つ。

 誰か神楽を止める方法を、教えてくれないだろうか。そう考えて、うとうとと眠りに落ちた。

 おそらく、見る夢は高校時代のものに違いなかった。

* **

誰かが叫んでいる。金切り声、桜、死体、嵐。めまぐるしく変わる景色の中で、上島だけがその場所に居た。自分はその場所に立っているだけなのに、辺りは上島にお構いなしにその色を変え、形を変え、上島に迫ってくる。その映像は伸び、縮み、何の脈絡もなく移り変わっていく。まるでテレビの映像が、大画面で周りを取り巻いているような、妙な、それでいて気味の悪い夢だ。

そして唐突に静かになった。轟音の後の静寂。水滴を一つ落としても、その音が聞こえそうな沈黙に変わる。

上島がゆっくりと視線を上げると、いっそ寒々しいほどの青い空が広がっていた。雲は殆どなく、何の建物も見えない。


「サボりですか? 上島勇朔くん」


 唐突に声が掛けられた。慌てて振り向くと、学生服―学ランを着た、神楽が居た。そこで、ああ、これは夢なのだな、と上島は思う。神楽の視線の先には、同じく学ランを着た上島が居た。途端に辺りの景色は写真のようにしっかりと色づき始める。灰鼠色のそっけないコンクリートの床と壁、年代ものの球形の給水タンク。ここは屋上だ。緑色のフェンスに囲まれたそこは、高校時代の上島の指定席だった。

「委員長こそ、何してんだよ」

 ぶっきらぼうな声で、今より数段幼い上島が煙を吐いた。――煙草を吸っているのだ。それを特に咎める様子もなく、神楽は微笑んで、上島に近付いた。

「いや、僕もサボりですが?」

 今でこそ、神楽と一緒にいることも多いが、高校入学当初は、上島は神楽のことが苦手だった。いつも何があってもニコニコしていて気味が悪かったのだ。神楽は頭はすこぶる良かったし、性格も良く、スポーツも出来た。何しろ顔も良かったので、クラスメイト、教師共に慕われているようだった。私立の名門と名高い蓮南付属に相応しい逸材であることは、本人も周りも承知していただろう。だが、当の神楽自身は、自分の価値など気に留めてもいないようだった。皆の憧れの人となりながら、誰とも距離をおいて付き合っていたようだ。上島は、いつも皆の中心にいる神楽をそう分析していた。柔和な表情だが、誰に対しても敬語を使う。そのことが、神楽の周囲へのバリアーの証だと思った、


「委員長がサボりか。――よく言うぜ」

 高校時代の上島は、幾分荒んだ気分でフェンスの外を眺めた。おそらく、単なるサボりではないと上島は直感していた。この男は、そういう人間ではない。こいつには、空白の時間など存在しない。自分の利にならないことはしないタイプの男だ。上島はそう踏んでいた。ここに来たのも、何か用事があるのだろう。

「今のうちのクラスの授業は何だ」

「二限目ですから……国語ですね」

 神楽は地味だが高価そうな腕時計を見ながら、上島に告げる。

「あ、そ。で、何の用だ?」

 国語という科目名を聞いて、上島は自分の考えが間違っていなかったことを証明したように思った。ごく一般的な考え方ではあるが――何か用事があるとき、数学、国語、物理、日本史、体育などの科目からフケるものを選ぶなら、国語だろう。体育など出なくても一向に構わないが、あれは出席を重視する科目だ。音楽などもそうだから、五教科七科目のうち、一番抜けても影響のないものがあるとすれば、それは残念ながら国語だった。

「俺に何か用なんだろ? そうじゃなければ、わざわざ委員長様が授業をフケてくるはずがないもんな」

 上島は、皮肉っぽく言い、紫煙を風に飛ばせた。高校時代の上島は、世の中を斜めから見ていた。斜めどころではなかったかもしれない。見るもの全てを拒み、批判し、この世はどうせろくでもないのだと、一人荒んでいた。高校生ならよくあることかもしれなかったが、上島のそれは、普通とは少し違っていた。小学校以前の記憶と、家族の記憶がない。それなのに、普通に暮らせということは、到底不可能だったのだ。家は使用人がいるほどの金持ちで、学校は私立の蓮南付属と聞けば、裕福で何一つ不自由のないお坊ちゃまだと言われる。しかし蓋を開けてみれば、そこは家族という繋がりのない「出資者(親)」と、記憶のない少年が一人居るに過ぎなかった。本当はそうではなかったかもしれないが、上島にはそう見えていたのだ。けれど今から思えば、よくそれぐらいのことで済んだと思う。学校には休みがちだが行っていたし、大学も受けた。犯罪も起こさなかった。――――自分を褒めてやりたいぐらいだ。

「ひどいなぁ。僕が、用がなければ、君に話しかけないみたいじゃないか」

 神楽は皮肉られていることに気付いていながら、それでも顔色一つ変えなかった。

「事実だろ」

 今まで神楽に話しかけられたことはない。高校に入学してから一ヶ月。神楽の名前と人となりを承知していたのは、一重に彼が有名人だからに他ならない。

「特に用があって来たわけではありません。たまにはサボりたくなるときだってある。……上島くんだって、そうじゃありませんか?」

 上島は、疑わしそうな目で神楽を見た。

「それより、その敬語を止めろ。背中がむずむずする」

 それに、神楽ほどの人物に、畏まって「上島くん」などと呼ばれるのは何だか嫌だった。神楽はくすくすと笑う。上島はその様子を見て、顔を顰めた。

「お前、本当は性格悪いだろ」

 上島自身も、口からつるりと出てしまった言葉だった。別段、他意があって言ったわけではない。紛れもない本心には違いなかったが、初対面同然の相手に向ける言葉ではなかったことに、後から気付いた。クラスの「委員長」で、生徒からの「人気者」で、「次期生徒会長」と言われている者に、悪口を言う奴などいないのだ。神楽は目を丸くしている。さあ、怒るか、馬鹿にするか―と苦く思った時、隣で爆笑が聞こえた。今度は上島が目を丸くする番だった。

「上島くんって……正直、なんで、すね……っ」

 発声が途切れ途切れなのは、神楽が身をくの字に曲げるほど爆笑しているからだ。ひとしきり笑うと、神楽は至極愉快そうに、その身を起こした。息を整えるように、深く深呼吸をする。

「久しぶりにこんなに笑いました」

 目尻の涙を拭うと、神楽はにっこりと笑った。

「敬語がそんなに嫌ですか?」

 上島はその視線から目を逸らすように横を向く。

「ああ、嫌だね。特に同年代から、しかも委員長様から敬語を使われたんじゃ、寝覚めが悪い」

「そうですか、じゃあ上島くんも、僕を委員長様というのを止めて戴かなくてはいけませんね。僕の名前は委員長ではありませんから」

 怒っているのではなく、あくまで口の端を上げながら言われて、上島は返事に窮した。

「僕は、神楽千静といいます」

「知ってる」

 上島が言った途端、運動場で遠く歓声が聞こえた。どこかのクラスでは野球をやっていたらしい。バットを投げ捨てて走る打者に一瞬目を転じてから、上島は言った。

「敬語。直ってない」

 はたと神楽は気付いて、照れたように笑う。

「――ごめん。癖なんだ」

 神楽がそう言ったとき、上島は初めて素の神楽を見たような気がしていた。

「僕は、君のことを何と呼んだらいい?」

「好きなように呼べばいい。上島でも、何でも」

 くん付けされなければ何でも良かった。

「じゃあ、勇朔ってよんでもいいかな」

「――お好きに」

 もう一度、運動場で大きく歓声が上がった。形勢逆転したのか、生徒たちが手を叩いて喜んでいる。それを遠目に見ながら、上島は神楽のことを考えていた。変わった奴だ、と思った。あれ以来、長い付き合いになるが、何故あのとき神楽が授業をサボっていたのか、いまだに分からない。あのときのことがなければ、高校時代仲良くなることすらなかっただろう。


「―――さん、上島さん。起きて下さい。朝ですよ」

 上島は瞼を震わせた。カーテンを開ける小気味好い音がして、白い光が病室になだれ込む。上島はその光に応えるように、目を開いた。映ったのはまだ若い看護婦だ。まどろみながら僅かに身を起こして、台の上の腕時計を見ようとする。それを察して、看護婦が教えてくれた。

「八時ですよ。診察はまだなんですけど、お客様がいらっしゃったので、案内がてら」

 言うと、まだ頬の線が子どもらしい看護婦は笑う。

「お客?」

 上島は一瞬誰が来たのかと思ったが、昨日神楽が着替えなどを家に寄って持ってきてくれると言ったので、それだと察した。仕事に行く前に寄ってくれたのだろう、悪いことをしたと上島は思う。

「どうぞ。上島さん起こしましたから」

 会釈をして、看護婦は去っていく。しかし病室に入ってきたのは、神楽ではなかった。思わずぽかんと口を開ける。まだ上島は髪も寝起きのままで、およそ知らない人に会えるような恰好ではなかった。神楽ならいいかと思っただけだ。

辺りを不安そうに見回しながら入って来たのは、三十代も前半かというところの女性だった。思わず、部屋をお間違えでは、と喉まで出掛かる。

「あの……上島勇朔さん…でいらっしゃいますか?」

 名指しで訪ねて来ているのだから間違いはないのだろう。しかし、何故見も知らぬ人が、見舞いに来るのだろうか。上島は戸惑いながらも、はぁ、と頷いた。

「あの……私、上島さんが探偵だと、伺って……」

 蚊の鳴くような声で告げられて、上島は初めて合点がいった。仕事の依頼だと分かると、急に頭が冴え始める。

「どうぞ、そこにお座り下さい」

 ベッド脇の丸椅子を勧める。勧めたところで、病室のドアがノックされた。

 がらりと開けた戸から顔を覗かせたのは、神楽だった。

「あ、チセイ。今……」

 神楽に事情を説明しようとすると、神楽は承知している、というふうに頷いた。

「朝、勇朔の家に着替えを取りに行ったら、家の前で出会ったんだ。そうしたら勇朔を訪ねてきたというから、私がここだと教えたんだ」

 神楽が同意を求めるように女性を向くと、丸椅子に腰掛けた女性は神楽に見とれるように頷いた。

「じゃあ、勇朔。ここに着替えは置いておくよ。私はこれから仕事だから、お先に失礼します」

 神楽は荷物を置くと、女性に会釈してさっさと去って行った。上島には正直有り難かった。依頼主の用件を他者が聞いていては、依頼主に良い印象を与えない。きっと気を使ってくれたのだろう。

 改めて、依頼者だという女性に向き直る。

「すみません、起き抜けのだらしない恰好で非常に申し訳ないのですが。……着替えてきても?」

「いえ、そのままで結構です。それよりも、話を聞いて頂きたいのです」

 女性は、芯の弱そうな外見からは想像出来ないほどに、しっかりした意志を持っているようだった。上島はそれでは、お言葉に甘えて、とボサボサの髪型と、やたら病人くさく見えてしまう水色の患者服で、女性を見る。

「こんなに朝早くから押しかけてしまって本当にすみません、ただ一刻も早く解決して頂きたい問題だということをお分かり頂ければ幸いです。私、小笠原香乃と申します」

 女性は深々と頭を下げた。同時に長く艶やかな髪が肩から垂れる。少しウェーブのかかった栗色の髪は、朝の爽やかな陽射しに柔らかく反射した。

「冬馬郁子……さんの紹介で?」

 上島が尋ねると、香乃はええ、と伏し目がちになる。そして、暫くの沈黙ののち、香乃は、上島の方を、充血した瞳で見据えた。瞳に涙が盛り上がっている。

「私の夫を、お墓から掘り起こした犯人を、捜して下さい」

朝の静かな病室に、声がこだました。

 

小笠原香乃の話はこうだった。今から五年前に小笠原昭雄と結婚し、何不自由ない裕福な生活を送っていた。子どもこそいないものの、夫は優しく、幸せを絵に描いたような暮らしをしていたという。しかし、その幸せに影が差すときがやってきた。夫が病気になったのだ。既に末期の癌だった。悲嘆にくれる暇もなく、短い闘病生活に呆気なく終止符は打たれ、夫は亡くなった。結婚して間もない夫の死。あまりにも突然で、放り出された香乃はあまりにもあどけなかった。最愛の夫を亡くしたことを受け入れられず、精神的に病む日々が続いた。夫はまだ生きているという幻想に取りつかれることもあったと言う。

 最近になって、ようやく、夫は亡くなったのだと受け入れることが出来るようになり、元気を取り戻し始めた。その矢先に、警察に呼び出されたのだった。

「貴方の夫の墓に掘り返された後がある。遺体が持ち出されたかもしれないから、確認に来てくれないか」と。

 まさかと思ったが、確認に行かないわけにも行かず、人違いであることを祈りながら、遺体の確認に小学校に向かった。桜の木の下にある、その遺体を目にしたときの光景は一生忘れないでしょうと香乃は言った。目に映るのは、変わり果てた夫の姿。既に正視に耐えない状態になった彼の体は、腐臭を放ち側近くへ寄ることも、ましてや触れることも出来なかったそうだ。顔も、体も、生前と何一つ同じだと思えるところはなかった。それで人違いと言えたなら、どんなに良かっただろう。しかし残酷なことに、遺体は、彼を知るほんの少しの人にしか分からぬように―まさに何かの呪いのように―生前の面影を、残していた。

「墓を掘り返され、最愛の夫を無残な形で見せ付けられたことに、深い悲哀と憤りを覚えています」

 香乃は泣きはらした目で、そう言った。本当なら、親しい人の死に顔を覚えていることはそんなにないだろう。記憶の中に残る表情は、生前のもののはずだ。けれど、香乃は、夫の死後何年か立った後の姿をも、忘れることはないだろう。深く愛した夫を、嘲笑うかのように桜の木に見世物にした犯人を、捕まえて欲しいのだという。

「警察の方に任せるべきことなのは分かっています。けれど、警察の方は私がどれだけ訴えても、真剣には犯人を捜して下さいませんでした。元から死んでいる死体なのだから、誰が掘り返そうが、同じだと……。そう仰います。元々死んでいたんだから、と口を揃えて言われるのです。私はそうは思いません。主人は、二度亡くなったのです。一度目は不幸にして病気で、二度目は何者かの手によって、屍を衆目に晒されました。主人が何をしたと言うのでしょう。優しかったあの人が、一体何を……っ」

 語尾は嗚咽になった。それでも懸命に言葉を紡ごうと、口を開く。

「私は、主人を安らかに眠れるようにしてあげたいのです。それが、生き残っている者の使命です。………どうか、主人を……お願いします……」

 依頼ではなく、懇願だった。

「――分かりました。お受けしましょう」

  小笠原香乃は、有難うございます、と頭を深く下げた。頭を起こした香乃の顔には、初めて見る笑顔が浮かんでいた。泣きはらした後の笑顔は、上島には雨上がりの景色のように清々しく見えたのだった。

「――で、引き受けることにしたって言うのかい?」

 その日のうちに退院することが出来た上島は、ようやく自宅に帰ることが出来た。少しの外出のはずが、やけに長くなってしまった。神楽にも、家に帰れたと連絡したので、今、神楽は上島の家にいる。

「ああ、郁子さんの紹介で来たってことは、霊絡みだ。ただの人間の仕業じゃないな」

 上島は紫煙をくゆらせる。病院では吸えなかったので、この一服がいやに美味しい。リラックスした上島とは逆に、神楽は、けど、とソファから身を乗り出すようにした。

「徐霊……するのかい」

おずおずと尋ねられて、上島は人差し指を左右に振った。

「『霊媒』だ」

 ソファの背もたれに体を預けて、上島は言った。

「いい機会だ。神楽にも、その辺のことを話しておいてもいいかもしれないな」

 上島は、神楽に霊媒師としての職業のことを何も話していなかった。探偵という肩書きだが、実は霊媒師なのだということぐらいしか、神楽は知らない。

「まず、徐霊だの霊媒だの何が違うかと言うところから説明するか。徐霊やゴーストバスターなんてものが世間でも持てはやされたりしてるが、そんなものは、今は綺麗さっぱり忘れて欲しい。俺は、『霊媒師』としてこの仕事をしている。徐霊と霊媒、どこか違うか。徐霊ってのは、霊を見つけて祓う、それだけだ。けど、霊媒師は、霊を自分に同化させて、浄化して祓う。祓うというと区別がつかねえかな。つまり、霊媒師は霊の考えや願いを聞ける立場にいるんだ。それで、霊がこの世に未練がないように願いを叶えて成仏させてやれる。でも、霊魂ってのは、大概の望みが「成仏したい」ということに集約される。生前にどんなに人を憎んでても、誰かを殺したいなんて願いはまずないな。霊魂は、限りなく純粋なものだ。生まれたばかりの人間のようにな。だからややこしい願いはない。霊媒師はその願いを聞き届けて、成仏させてやる。そこが徐霊師との違いだ」

 神楽は沈着冷静、理性を重んじる医者だ。そんな人間に霊だの成仏だの言っても駄目かもしれないという可能性を上島は考えていたが、神楽は真剣に話を聞いていた。

「霊と同化するということは……よく映画でシャーマンが呻いたり叫んだりしてるように、気がおかしくなったみたいになるの……かい?」

「いや、そんなことにはならない。同化だから、霊媒師にもきちんと意識はある。体が乗っ取られたようになることはない」

 近頃流行りのゴーストバスターとやらにも困ったものだ、と上島は思う。本当のものと、全く世界観が違うのだ。

「全然、違うんだ。実際の霊媒師と、メディアの世界に溢れている幽霊退治とは月とすっぽんくらい離れている」

「そうなのか……。そういえば、勇朔は霊媒師だけれど、病院で幽霊が視える、などということは一度も言ったことがなかったね。それとも、視えてるけども言わないだけなのかな?」

 上島はコーヒーを一口飲んだ。長い話になりそうだった。

「ややこしい話になるが――まずこれだけは理解して欲しい。霊魂―いや、幽霊か、例えそういうものが視える体質だったとしても、普通にしていれば、視えない」

「そうなのかい?」

「どう言えば分かりやすいだろうな……。言語みたいなものだと思った方がいいかもしれん。テレビを見るときなんか、二重に音声が聞けるとしたら、日本語か英語か、どちらかに統一しないか?」

「まあ……そうだね」

「日本語と英語が二重に聞こえりゃ聞きづらいからな。どちらの言語も話せれば尚更だ。霊媒師も、そういうふうに、普通の目と、霊媒の目を使い分けて、脳で切り替えをしてる。普段から霊魂が見えたら、日本中に霊が溢れてて、生活出来ないしな。ま、何かの拍子に見えてしまう、ということはあるだろうが。テレビのチャンネルみたいなもんだよ。切り替え可能なんだ。俺たちが言葉を話したり聞いたりするときに、日本語と英語で頭を切り替えてるようにな」

「いつも霊が視えてる人はいないということだね?」

「大抵の人間は、切り替えが出来る。けど、中には霊媒視と普通の目の切り替えが出来ない奴もいるという話を聞いたことがある。ずっと霊が視えている状態だ。そういう奴は総じて――――」

 上島は顔を暗くした。あまりいい話でもない。

「早死にだ。しかも、おそろしく若いうちに」

 上島は煙草の灰をを灰皿で落とした。再び口に持っていく。

「電灯のスイッチがずっと入ってるようなもんだろうな。ずっと点けたままなら、そりゃ切れるのも早いさ」

 神楽は無言で、組んだ手を見ていた。

「けれど、そんな奴はまあいない。俺も見たことがない」

言って天井を仰ぐ。

「霊が視えるということにも色々ある。第一段階の霊魂は俺も視えない。第三段階になって俺の目は初めて使えるようになる。まずそれを説明するか」

 上島は電話口から紙とボールペンを持ってきて、ピラミッドの形を描いた。

「霊魂ってやつは三種類に分けることが出来る」

三角形の底辺の辺りを指しながら言う。

「一つは、死んだばかりの、善も悪もない純粋な魂だ。大抵の人間はここで成仏するが、この段階で成仏出来ない魂は、第二段階に進んじまう。この辺になると、魂自体の善と悪が分かれる頃って言われてるな。しかし何らかの形を取りながらも、まだまだ一固体としての力は弱い。それで、第三段階まで成長してしまう霊がいる」

上島はピラミッドの頂点を指した。

「これが俺の見える霊ってやつだ。第三段階の霊は、非常に性質が悪い。何せ、今までは一つだったのが寄り集まってるからな。霊ってのは、一つだと小さすぎるからあんまり問題ねえんだが、三段階目では、何十、何百、何万って霊がたむろしてる。それだけ集まると、何かの形を作り出す。昔から悪鬼や色々な妖怪なんてものの図鑑が作られたりしているが、まあそんな感じのやつらだ。図鑑に載るなんてことはよっぽど有名なんだがな。――まあ、やつらにしちゃ、しめたもんだ」

「しめたもの、とはどういうことだい?」

「よく現れるようになると、名前がついちまうだろ? チセイ、お前にも、れっきとした『神楽千静』という名前があるだろう」

神楽は、不思議そうな顔をしながらも頷いた。

「お前は名前があるからこの世に存在してる、とも言えるんじゃないか?」

上島は続ける。

「名前があるということは、やつらにとっちゃ赤飯でも炊きたい気分だろうと思うぜ。名前なしの霊ってのは、ふらふらしてて、いつ消えてしまうか分からん根なし草みたいなもんだ。けど名前がつくとそれは百八十度変わる。人が呼んでくれるんだからな。奴らは名前を呼ばれれば呼ばれるほど、この世に定着出来る。昔、『あまり妖怪の名前を呼ぶな』と言われたことはなかったか?」

「いや、特にはないが――」

上島はため息をついた。手で頭をがしがしと掻いている。

「あるって相槌ぐらい打ってくれよ。――そうだな、昔学校の怪談がブームになった時があったろう。花子さん、とか口裂け女とかだ。チセイも知ってるな? 同時にコックリさんなんかも流行ったと思うんだが、その時、『コックリさん』と何回も言ってはいけないというまことしやかな噂が流れていなかったか。十回連呼したら不幸が起こるとか何とか」

「ああ――そういえば。クラスメイトが言っていたよ。私は興味がなかったけれど、何回言った、何て数えていたからね」

「そう、それだ。俺は中学のときにクラスの奴らがよくはしゃいでいたのを覚えてる――中学になってだぞ? 幼稚だろう。まあ、そういうわけで、名前を呼べば呼ぶほど、その(、、)土地(、、)に(、)定着(、、)出来る(、、、)。そういうことだ」

 神楽は、成る程と頷いて、顎に手を当てて考えていたが、不意に言った。

「じゃあ勇朔が見た蓮北の桜の木には、霊が憑いていたということなのかい?」

 上島は、机に広げていた紙をピシと弾いた。

「問題はそこだ。俺は何も視てないが、居る気配はした。詳しく調べる前にぶっ倒れてちまったから何とも言えんが……。もう一つの問題は、憑いてるのは、桜の木か死体か、それとも他のものか、ということだ。今の段階では何とも言えない。もし桜の木だと仮定すると、納得のいかない点が幾つかある。もし桜に憑いていた幽鬼なら、わざわざ墓から死体を掘り起こしてくる必要があるのか? そして、そんなことが出来るのかって点がな。しかし、何に憑いてたとしても、あの死体を桜の木の下に放置したのは何でだろうな。まあ、俺はサンユエ属性だからな……あの霊に対して不利な点がある。ユエに聞けば何か分かるかもしれん」

「サンユエ? ユエ? 中国語かい?」

「おっと、属性の説明もしなきゃならなかったか。霊媒師には属性が二通りある。太極図を思い浮かべて欲しい。陽と陰があるだろう? そのように、太陽(サンユエ)と月(ユエ)の属性に分かれるんだ。これは幽鬼も同じことで、第三段階の幽鬼は属性を持っている。自分と同じ属性の幽鬼には強いが、自分と逆の属性の幽鬼には、同じレベルの幽鬼でも、こちらが倍以上の体力を使わされる。厄介な相手だ。そういう時に備えて――でもないか。霊媒師は皆、徒党を組んでる。現在、確認されてる霊媒師の数は、日本で十人弱だ」

 神楽は唖然とした。

「たった十人……?」

「そうだ。霊媒師の数は、世間が想像してるより遥かに少ない」

「じゃあ、メディアでよく見る徐霊師たちは?」

 上島は肩をすくめた。

「―『ヤラセ』だな」

 本当のことだ。確認されている霊媒師は非常に少ない。確認というと、他にもいるのではと思われるかもしれないが、霊媒が出来、霊魂を成仏させられる者というと、全国で十人もいない。確認されている者イコール日本の霊媒師の数と思っていいだろう。

「そして、俺の属性がサンユエだ。他の霊媒師は、本山かその近くに住んでいる。そういう場所があるんだ。代々続く、華山家総本山がある。今の当主は、二十八代目だそうだ。当主の名前は阿相(あそう)玄天(げんてん)。そして、その兄弟、阿相玄(げん)水(すい)が副当主を務める」

「阿相玄天……」

 その物々しい名前を神楽は反芻する。

「どこかで聞いたことがあるような気がする……」

 記憶を手繰ろうとする神楽に、上島はあっさりと答えを突きつけた。

「そら、あるだろうさ。お前の弟の師匠だろ」

「え?」

 神楽は目をしばたいた。神楽には弟がいる。名は神楽千春。母親違いの義弟だった。千春が神楽家の家族になったのは、既に神楽がかなり成長してからだ。長い間、一人っ子だったのだ。千春の母親が亡くなったので、神楽家で引き取ることになったのだった。しかし祖父の指示で、千春は滅多に家には帰って来ない。修行をさせている、とのことだったが、祖父にあまり根掘り葉掘り聞くことは躊躇われて、たまに義弟が帰って来るのを楽しみにするしかなかった。どこに行って何をしているかは聞いていないが、高校はきちんと行っているようだし、神楽と会ってもくれる。だが、阿相玄天の弟子になっていたとは、と神楽は呆然と呟いた。

「そういえば、うちの家系は代々神子や霊感のある人間が何人か出ていた。そういう特性を持つ者は、神楽家を継がず、その特性を高めるような生活をすることになる。ということは、さっきか勇朔が言った、数少ない霊媒者の中に、神楽家の人間もいるということになるね」

「そうだな。おそらく居るだろう」

 千春の霊力は強い。それゆえに、玄天の弟子になることが出来たのだ。まだ高校生だが、将来は華山家当主の座に座れるかもしれない。

「で、チセイの弟、千春の属性は、ユエだ。だから今回のことで、何か手がかりをつかめるかもしれない……。ちなみに、阿相玄天の属性は俺と同じサンユエ。サンユエは今のところ俺と玄天の二人だけだな。ユエは神楽千春、副当主阿相玄水、そして最後に俺の師匠だ。――もう亡くなったけどな」

 上島は、師匠、と言うときに僅かに目を細めた。ゆっくりとたゆたう、煙草の煙を追いかけるように、空を見つめる。

「何だか……初めて聞くことばかりで、驚いたよ。うん、でも話してくれてありがとう。嬉しかった」

「いんや」

 いずれは話そうと思っていたことだ。

「一度、華山家総本山に行かなきゃならんかもしれん。チセイも行くか?」

 義弟が何をしているか知りたいだろう。神楽は千春のことを可愛がっているのだ。

「うん、是非。もし邪魔じゃなかったらだけどね」

「大丈夫だ。当主は優しい人だしな」

 千春の義兄だから、全くの他人を連れて行くことにはならない。

「それまでに、何の幽鬼が何に憑いているのか調べておくさ」

 上島は気楽にそう言った。しかし、事はそう簡単には運ばなかったのである。


 その翌週には、上島と神楽は華山家総本山に向かっていた。二人は乗ってきた車から降りる。

「ここからは車では進めない。かなり足腰にキツいから覚悟しとけよ」

 と上島は脅しのようなことを神楽に言った。

「そんなに歩くのかい?」

 神楽は不思議がるが、上島は、車を停めたところからは見えない、奥まった場所にある、広い石階段のところまで歩いていく。

「すぐそこだが、この階段を登らなきゃならん」

 上島は親指で階段を指し示す。その後ろには、天高く聳え立つかと思われるような石階段が、ずっと続いていた。てっぺんが見えない。登るぞという気で来ないと、まさか、と叫びだしたくなるような階段だ。女性のハイヒールではおそらく半分も登れない。子どもなら尚更だろう。

「歩きにくい靴だと、たちまち靴擦れが出来るぞ」

 神楽は一瞬呆けていたようだったが、すぐに笑顔を取り戻す。神楽は優男に見える割りに、タフな男なのだ。

「大丈夫。頂上に着いたときにはぐったりしているかもしれないけどね」

 二人は、バベルの塔のような、石階段を一歩ずつ、登り始めた。

 頂上についたときには、息が切れていた。額を汗が覆う。普段は涼しい顔をしている神楽も、これには参ったようだ。

「運動不足だって身に染みたよ。テニスでも始めようかな」

 体の衰えがショックだったのか、そんなことを言う。

「行くぞ、この奥だ」

 階段を登りきったあとは、ひたすら平面が続く。そこは神社のような造りになっていた。鳥居をくぐり、砂利の音を立てて境内の側を過ぎる。

 すると、こじんまりとした寺らしきものが見えた。けれど近付くにしたがって、こじんまり、などという表現は全く似つかわしくないことが明らかになる。非常に大きな社堂だ。

いざ、入ろうとしたところで、呼び止められた。

「おーい! あ、気付いた気付いた。どうしたん、上島さん」

 賢木を入れた青いバケツを持ってやって来た男を見て、神楽は目を丸くした。何と、髪が金色だったのだ。どうやら、脱色したものなどではなく、純粋な地毛らしい。しかも、その髪は腰まで届くかというほどに長い。一つに束ねてはいるが、およそ霊媒師らしくない雰囲気だ。その外見とは裏腹に、服装は着物だった。白の無地の着物に、紺色の袴だ。神社でよく見る、巫女の服装の男版、という感じだった。金髪なのに、不思議とその恰好が良く映えている。まだ若い。おそらく二十代だろう。

「お久しぶりです」

 上島は敬語を使い頭を下げた。

「上島さん、敬語は使わんとって下さいって言うてるでしょう」

 困ったように金髪の男が言った。金髪長身に青い目、だがごてごての関西弁だ。

「いえ、しきたりですから」

 溜め息を一つついて、金髪の男が神楽を見た。

「こちらの方はどなたさん?」

「申し遅れました。こっちは神楽千静という者です。千春くんの兄です」

「初めまして」

 神楽が言うと、男は途端に嬉しそうな顔になった。

「ああ、貴方が千春のお兄さんですか! 初めまして、阿相玄天です」

「――え?」

 その反応を読んでいたかのように、上島は笑った。

「まだお若いが、れっきとした華山家総本山第二十八代目当主、阿相玄天さんだ」

「――――てっきり、もっと、お年を召した方かと……」

 神楽が呆然と言うと、阿相玄天は気にもしない様子で、愉快そうに笑った。

「皆そう言います。でも最近当主交代したところなんです。まだ俺は二十三歳ですが、先代の当主が亡くなったもんで。さあ、こんなとこで立ち話もなんですから、中入ってお茶でも飲みましょう」


「義兄(にい)さん!」

 中に入ると、神楽千春が駆けて来た。千春は現在高校一年生だ。

「義兄さん、来るなら言ってくれれば良かったのに。ここに来てくれるのは初めてだよね」

 黒髪黒目の、元気の良い仔犬のような少年だ。まだ顔の線も幼い。服装は玄天と全く同じ恰好だった。

「ごめん、急に来ることになってね。千春、元気にしてたかい?」

「うん、もうすぐそっちへ少しだけ帰るから、またサッカーの相手してね」

 腹違いで仲の悪い兄弟は多くいるが、この二人の間にはそういったぎすぎすした感情は微塵もない。傍目にも、仲の良い兄弟だ。

「お師匠様、お茶か何か持ってきますね」

「おうサンキュー」

 千春は、そう言ってくるりと踵を返すと、奥に消えて行った。神楽千春は、阿相玄天の弟子として、華山家総本山で修行をしている。一年の殆どをここで過ごし、将来的には、霊媒師になる予定になっている。

「話があるみたいですから、奥に行きましょか」

 上島たちが通されたのは、畳の匂いの部屋だった。パッと見た感じはそれほど広くなく、せいぜい八畳程度だ。少し広いが、茶室に似ているかもしれない。奥の奥だけあって、ここならば誰にも聞かれずに、秘密の話が出来そうだった。

「早速ですが、話というのは、霊媒のことです。率直に申し上げると、千春くんにご協力頂きたい」

 阿相玄天は難しい顔をした。出会ったときの、気のいい感じは、今はなりを潜め、華山家総本山当主の顔だった。

「――千春が居た方がええですやろうな。ちょっと呼んできます」

 玄天が席を外すと、上島と神楽は二人取り残された。座布団の上で正座していた足を僅かに崩す。

「阿相玄天があんなに若い人だなんて思わなかったよ。勇朔も言ってくれればいいのに」

「驚いた方が面白いだろう?」

 煙草を出そうとして、上島は思いとどまる。諦めたように、服の内ポケットにしまった。

「でもあの人は最高レベルの霊媒師だ。そうでなきゃ当主なんてなれないけどな。普段は優しいしいい人だけど、やっぱりあの人は当主だよ」

 神楽が意味を問う前に、玄天は千春を連れて戻ってきた。千春はきょとんとした顔で、お茶と和菓子を乗せた盆を持っていた。お茶を配り終えると、改めて四人で座る。上島の横に神楽、その正面に玄天、そして斜め前に千春が座った。

「千春も聞きなさい。上島さんが協力して欲しいそうや」

「僕にですか?」

 上島が千春に協力して貰ったことは以前にもあった。今回ばかりが初めてというわけでもない。

「千春に協力して欲しいということは、属性はユエですか」

 玄天は温かい緑茶に口をつけながら尋ねた。上島は神楽に目くばせする。以前説明していた内容のことだ。

「ええ、今回ばかりは少し手ごわそうなので、助力を頂ければと」

 上島は、これまでの出来事を説明した。小学校での桜の事件、小笠原香乃の依頼の件などだ。

「問題は、桜の木自体に幽鬼が憑いているのか、遺体に憑いているのかという点です。桜の木に憑く幽鬼の方が多いかもしれませんが、そう考えると、遺体が墓から掘り出される理由がありません。俺は、遺体に憑いているのではないかと考えているのですが」

 上島の言葉が進むにつれ、玄天の表情は暗くなっていく。

「上島さん、それはもの凄い大事やないですか。俺でも依頼されたら受けるのを躊躇うほどですよ」

「そうなんですか?」

 神楽が割って入ると、玄天は嫌そうな顔もせず、説明してくれた。

「ええ。桜の木とか、そういう植物に憑く幽鬼は総じて霊媒が困難なんです。その木は樹齢何年ほどですか?」

「確か――三百年ほどです」

「三百年か……長いな」

 玄天は一人ごちた。その木が大きければ大きいほど、樹齢が長ければ長いほど、憑く幽鬼は高レベルになる。

「しかし、遺体に憑いていなければ、ことの説明がつかないのです。遺体を持ってきたのは、誰か? という話になりますから」

「せやなあ……」

 玄天は迷っていた。もし遺体に憑いていれば、総じて普通の霊、桜に憑いていれば、玄天ですら躊躇うほどの大物ということになる。

「でもなあ、解せへんのですわ。もし遺体に憑いてたとしても、何で遺体が桜の木の下まで来たかっちゅう問題が残りますやろ」

「それが――俺がその桜の木を見たとき、映像を見たんです。桜の木に首を吊っている女の人の映像を……」

「何やて?」

 玄天は身を乗り出した。

「まさか――『過去にあったことをもう一度繰り返している幽鬼』ということですか? 上島さん」

「おそらくは」

 玄天は、あちゃーと言うと後ろに手をついた。神楽は二人のやり取りの意味が分からない。その様子を見てか、玄天は神楽にも分かるように説明し始めた。

「神楽さん、貴方も上島さんの友人であり、千春のお兄さんですから、解るように説明させて貰います。幽鬼――霊が邪念を持ち始めて大きくなったものをそう呼ぶんですが――その中には、幾種かのパターンがあり、分類があり。レベルがあります。細こう説明しても、実感があらへんと思いますし、霊媒師でないと解らない点もありますんで、大雑把に説明します。幽鬼には、行動パターンがあります。種々様々ですが、とり憑く対象や、どんな被害が起こってるかで、どの種類の幽鬼が特定することも出来るんです。今回は、樹齢三百年もの桜の木に憑いているか、遺体に憑いているか、確定することは出来ません。ですが、樹齢三百年の木に憑いているとしても、遺体にしても、大物の可能性が予想されます。


それこそ――朔レベルの霊媒師でないと、祓えないほどに」


「すみません、『サク』とは――?」

「ああ、それはまだ説明してなかったな」

 玄天の後を継いで、上島が説明し始める。

「朔、というのは、ある意味属性の名称だ。字面は、俺の名前と同じ、勇朔の朔。属性は、例えば俺の属性は太陽(サンユエ)、千春くんの属性は月(ユエ)。けれど、もう一つだけ、違う属性がある。それが朔だ。朔というのは、属性を持たないということに近い。サンユエでもユエでもない。けど、朔の霊媒師は最強だ。苦手とする幽鬼がないからな。しかし、朔属性の霊媒師は、今この日本には存在しない。もし存在するとしても、百年か二百年に一度だと言われている」

「今上島さんが説明して下さった通りです。朔というのは、月の満ち欠けに関する名称で、朔の月は新月です。月の黄経が、太陽の黄経に等しいとき。つまり、新月には欠けた部分がないですやろ」

 神楽は頷く。千春も、口こそ出さないが、真剣に話を聞いていた。

「それが、力が強大たる所以です。我々は、属性を持つ限り半分の力しか持たんのです。だから、霊媒師は徒党を組んで霊媒に当たります。それも、必ず属性が違う者と一緒に。師匠と弟子は必ず属性が違う――というのは、上島さんからお聞きになりましたか?」

 神楽がいいえというと、玄天は続けた。

「要は、霊媒師は二人一緒になって、ようやく一つのものになるというふうに考えて頂ければ間違いないです。朔属性の霊媒師は、一人で全部を請け負えるがゆえに、寿命が短いとも言われています」

「そんな、ことがあるんですか……」

 神楽が呆然と呟く。

「パワーが強大過ぎて、人体が保たないんだろうな。」

 いつも霊や幽鬼が視えてしまう人間は、寿命が短い。それと似ている。

「だから、我々はその力の半分しか持てないようになっているんです。さて、さっきの話ですけど――過去にあったことをもう一度繰り返している幽鬼、のことです。神楽さん、自殺の名所ってご存知ですか?」

 いきなり物騒な話だ。

「自殺の名所、ですか? 青木ヶ原樹海とか……ですか?」

「そうそう。他は栃木の華厳の滝とか、福井の東尋坊とかやな。とにかく有名な自殺の名所ってありますやろ。あれ、何でそんなに自殺者ばかり出るか……分かりますか」

 上島は答えを知っているので、涼しい顔だ。神楽は一寸考えた後、比較的一般論だと思われる説を述べた。

「一人が自殺してそれが広まると、同じように死のうと思う人が集まってしまう、ということでしょうか」

「まあ、それもあるでしょうな。けど、ああいう場所には、尋常でない幽鬼がおります。最早、自然と一体化してしまって、引き離すことすら出来なくなっている幽鬼です。 そんなに成長するまで、奴らは、人間を喰らってきたんです」

 上島がびくりと肩を震わせた。以前、どこかで同じことを思った。人間を喰らう化け物。それは何だったか。

「人間を喰らってきたという言い方は正しくないかな。まあでもそんなもんです。幽鬼が力を増やすには、ということが必要なんです」

「同じサイクルを繰り返す?」

「ええ、何十回も、何百回も、過去も現在も未来も分からないくらいに、同じサイクルを繰り返すんです。誰かが樹海で首を吊ったら、それと同じことを、何回も何回も起こそうとする。人間の方が惑わされて、結局命を落としてしまうんですわ。そもそも自殺の名所には自殺しようと思ってやってくる人間が多いんですから、簡単なもんです。自殺の名所は皆どこも気味が悪い。それは肥大した幽鬼の誘う気配、死者の霊魂もありますが――そういったもんが引き起こしてる現象です」

「霊媒、なさらないんですか」

 神楽は突然そう言った。玄天はゆっくりと首を振る。

「俺らには無理です。邪念が大きくなりすぎて、手の施しようもない。末期癌のようなもんですから」

「しかし、そのまま放っておくというのは……!」

 玄天は、神楽を片手で制した。

「朔の属性を持った霊媒師の逸話があります。それをお聞かせしましょう」

 

  昔、今よりもっと昔のこと。平安時代頃の言い伝えになる。朔の属性を持って生まれた、その当時最強の霊媒師が存在した。その力はあまりにも強大で、太陽サンユエユエの力など足元にも及ばず、祓えぬものは何もなかった。彼は容姿や頭脳にも恵まれ、まさに非の打ちどころのない英雄が誕生したと、人々はこぞって、朔の霊媒師を珍重し、奉った。政府からのおぼえも凄まじく、まさに栄華を極めた一人であった。そのような事態になれば、奢り遊蕩にふける輩もいたであろうが、それだけの実力を持ってしても、彼は奢ることなどなかった。それどころか、更なる苦しみを持つ人を癒そうと、必死で勉学に励んだ。修行もし、傍から見れば溢れるばかりの霊力を使って、人々に平和を与えていた。そんなある日のこと、一件の依頼が舞い込んだ。これまでは人についた幽鬼を祓う依頼が多かったが、今度は違った。貴族から持ち込まれた依頼内容は、持っている土地にある池で、人が長い間に渡り溺れ死んでいるという話だった。最初は偶然だと思い、気を付けるように注意したり、立て看板で呼びかけた。しかし、そのうち近くを歩いているだけで、引きずり込まれることが増え始めた。普通ならばありえない。おかしいと思い始めたところに、まるで何者かが嘲笑うように、犠牲者が途端に増えたのだとか。散々注意して、皆知っている。子どもまでもが知っているのだから、今更池に入ろうとする者など誰もいない。厳重に囲おうとしても、今度は工事の者が被害に遭う。これは偶然や、人間の仕業ではないと気付いたので、お祓いをしてほしいという内容だった。

 事態は切迫しており、手紙は急いで書いたためか筆の字がよれたり滲んだりしていたという。朔の属性を持つ霊媒師は、それを快諾した。この能力は人々を救うことだと、すぐに準備をし、赴いた。

 しかし、この話には組み込まれていないことがある。霊媒師の能力は、既にかなりの衰えを見せていた。年齢ではない。朔という属性が、強大な力を使うことを許さず、他の霊媒師などよりも遙かに明らかに霊力が下がっていたのだ。それでも、霊力が使えないことはないので、霊媒師は現地に赴き、いつも通り霊媒をした、「つもりだった」。

 荒れ狂う池は、霊媒師によって祓われたかのように見えた。だが、霊媒師が術式を解いたとみるやいなや、水で足元を救い上げ、池の中に引きずり込んだのだという。勿論、死体は上がっては来なかった。最強だと祭り上げられた霊媒師も、寿命の短さや力の衰えには気付きながら、それを言い出せずに怒った悲劇として、属性の説明時には語り継がれている伝説である。


***

「神楽さん」

 静かな声だった。密やかだが、決して反発の出来ない声音。大きい声ではなかったのに、不思議と部屋の中をこだまするようだ。

「一つだけ、覚えておいて頂きたいことがあります。霊媒師には、失敗は許されません。失敗が、己の死を意味するからです。それがゆえに、霊媒師は必ず勝てる勝負しか出来ない。貴方は、見ず知らずの人の自殺を止めるために、上島さんを犠牲に出来ますか?」

 上島が眉間に皺を寄せて玄天を見た。神楽は無言だ。ただ拳を膝の上で強く握り締めている。

「しかも犠牲にしたところで、成功するとも限らない。成功したって、他の場所でまた自殺の名所が出来る。堂々巡りですわ。上島さんに聞かれたかもしれませんが、霊媒師の数は多く見積もっても十人程度です。ただでさえ少ない霊媒師を―しかもタッグを組まなければ出来ないことだ―みすみす死なせることは、出来ません」

「――仰るとおりです……」

 神楽は低く呟いた。

「誤解せんといて下さい。俺も、自殺しようとする人間を何とも思てへんわけやないんです。同情はしますし、可哀想だとも思います。けど――赤の他人と、自分の身内と、どっちが大事か、という話ですわ。冷たいようですけど、これが華山家総本山当主としての俺の務めです」

 そうなのだろう、と上島は思う。結局、赤の他人を哀れもうが、一緒に泣き崩れようが、自分の大切な人たちには換えられない。それだけのことだ。誰にでも家族があって、友だちが居て、自分の世界がある。――自分は、そんな家族のことすら、覚えていないのだが。上島は不意に可笑しくなって口の端を上げた。

「上島さん」

 玄天が意志を持った強い声で、名を呼んだ。

「今回の事件、どう見ても千春の手に負えるとは思えません。俺は千春を死なせたくありません。貴方にも死んで欲しくない。この依頼は断られる方が、双方のためかと思います」

 玄天は、深く頭を下げた。

「お師匠様、僕は……」

 千春は何事かを言いかけて、こらえるようにじっと畳を見つめた。寄せられた眉根の下の瞳が潤んで見えている。千春も、玄天と同じように、深く頭を下げる。長い礼だった。

「――――分かりました。こちらこそ、無理を申し上げてすみませんでした。では、失礼します」

「勇朔!」

上島はさっさと立ち上がり、玄天と千春を見もせず去っていく。神楽は慌ててその後を追いかけた。

「勇朔!」

 立派な玄関から外に出て、入り口の鳥居の方へ向かう。上島は早速内ポケットから、煙草のハイライトを取り出した。来るときは目にも入らなかったのだが、鳥居の側に大きな桜の木があった。花は八分咲き、満開にはもう少しだろう。それを観ながら、紫煙を吐き出した。

「勇朔、本当にあれでいいのかい。霊媒師は二人でやるものなんだろう。そうなら手伝って貰わないことには――――」

「チセイ」

 時が、止まった。満開を急かすように散る桜の花びらだけが、時間軸が違うみたいに、しんしんと降る。いや、まだ八分咲きなのだから、花が散るはずはない。しかし、確かに散っていたように、神楽には見えた。まるで、雪のように。神楽は影を縫いとめられたかのように動けない。上島は言葉と、煙草の煙を一緒に吐き出しながら、静かに言った。

「俺は、一人でもやる」

 すっかり日が暮れてしまった神社のようだった。要所要所に電灯があるわけでもない。暗闇の中で、桜だけが夜光の珠のようで、まるで発光しているようだ。

「一人で、って……」

 時間が息を吹き返す。風が強く吹いた。上島はゾクリと背筋を粟立たせる。

――春は、こんなに寒かっただろうか。

「危険だ! 阿相さんに今日話を聞いてよく分かったよ。君が如何に死線を彷徨うような世界にいるかということ……。私は、今まで知らなかった……」

 恥じ入るように、神楽は俯いた。

「危険でもやる。もう依頼は受けちまったんだ。やるしかない」

「断ることだって……出来るだろう?」

「出来ない」

「勇朔!」

 神楽は焦れたように、勇朔の腕を掴んだ。神楽は優男に見えて、結構力がある。

「何か方法があるはずだ! …そうだ、阿相玄水さんは、君と反対の属性、ユエなんだろう? あの人に頼んで……」

「無駄だ。玄水が俺の頼みなんか聞くか。あいつは誰の頼みも聞かない。とりわけ、玄天側の人間の頼みなんか、真っ平御免だろう」

「…………」

「そういや、言ってなかったっけな。華山家総本山には、派閥がある。一つは、現当主の阿相玄天側。お前の弟、千春くんも勿論玄天側の人間だ。そして俺もな。そしてもう一つは、阿相玄水側だ。玄天と玄水は、異母兄弟なんだ。同じ年齢(とし)のな。物凄い確率にして、生まれた日も同じらしい。確か、春分の日だった。昼と夜の時間が全く同じになるその日だ。そういう日に生まれた者は、霊的な資質が高いことが多い。奇遇にして、玄天と玄水は、同じ年の同じ日に生まれたわけだ。時間もそんなに変わらない。とすると、何を持って当主とするか? 分かるか?」

「資質……?」

「そう。だがな、考えてみてくれ。チセイも今日言ったよな。『玄天はもっと年を取った人かと思った』と。おまけに玄天はあの髪の色と目の色だ。そう考えると、俄然玄天は不利になる」

 上島は、異に饒舌だった。まるで、自分のことから話題を逸らそうとしているかのようだ。しかし、華山家総本山の詳細を聞いておかねばと、神楽は話に乗る。

「霊だの何だのを扱うところは、しきたりや伝統に五月蝿い。そういう奴らが、金髪の人間を当主に据えるとは考え難い。他の者もそう思っていたようで、華山家総本山には、圧倒的に玄水側が多かった。玄水は黒髪の短髪。威厳もあり、霊力も申し分ない。当主に据えられない理由が何一つなかった。けれど、先代の遺言で全てがひっくり返った。当主には、阿相玄天を据える、と。先代はそれ以上何も明かさず、そのまま亡くなった。ただ、玄天と玄水が協力して、統率していくように、とは書かれていたが、まあ無理な話だ。玄水にしてみりゃ、座るつもりだった椅子を分捕られたようなもんだしな」

 上島は、大きな桜の木にもたれかかる。

「まあ、そういうわけだ。俺も玄水とは数えるほどしか話したことはないし、決して仲は良くない。玄水も、玄天側の人間とは一切接触しない。今となっちゃ、よくこれだけ住み分けたもんだと思うが。何というか……因果な話だな」

 異母兄弟と言えば、神楽と千春もそうなのだ。神楽と千春は仲良く暮らしているが、もう一方の玄天と玄水は仲がすこぶる悪い。非常に対照的だった。どちらが幸せかそうでないかは分からない。けれど、玄水と玄天は、偶々、華山家当主の家に生まれたばっかりに、このような勢力争いに巻き込まれてしまったとも言える。そう考えると、色々な要因が結びついて、このようになったのだ。回る因果は何とも奇妙なものと言える。

「そう、なのか……。けれど、君はどうして、そんなにあの依頼にこだわるんだい。断ってしまえば済む話じゃないか。こんなに危険な……命をかけるほどのものとは、私には思えない」

「――あそこには、俺の記憶がある。十二歳以前の記憶が」

 熱に浮かされた病人が、水を渇望するような虚ろな声だった。

「知りたいのか知りたくないのか、自分でも迷ってるんだ。今の生活をなくしたくない。けれど、知りたい」

「勇朔、阿相さんの言うとおり、私も君を死なせたくない。危険なことは止めて欲しい。――君は君じゃないか。例え十二歳以前の記憶がなくたって、今まで君が生きてきた、二十年間があるじゃないか。君が積み上げてきた歴史があるじゃないか!」


「――ふざけるな!!」


 上島は神楽の手を振りほどいた。辺りがしん、と静まり返る。上島が、神楽にこんなふうに怒鳴ったのは、初めてだった。神楽は呆然と押し黙る。

「俺が、今まで不安でなかったと思うのか? 自分がどこの誰とも知れない奴で、名前すら本当のものではなく、家族のことも覚えていない。中学校のときは、死にたいと思ってたよ。周りの奴らが、自分の持ってないものを何もかも持ってる気がして妬ましかった、朝目覚めたら、昨日のことすら全て忘れてるんじゃないかと恐怖で眠れなかった、嘘だと分かっている経歴で、履歴書を書くことが出来なかった、この苦しみが、お前に分かるのか!?」

 悲痛な魂の叫びだった。空気を切り裂くような、上島の悲鳴だ。

 今までずっと、気にしないふりで生きてきた。記憶を失ったまま入学した中学校。幸い、小学校で習った知識は覚えていたので、中学を受験することが出来た。しかし入学した中学校は、思い描いていた場所とは遥かに違っていた。そこは、温かい場所とは程遠いところだった。テストに過敏なほどに一喜一憂するクラスメイト達。自分より成績が上だと見るや否や、途端によそよそしくなる者たちの集う場所だった。自分が上でなければ、登りつめなければ、教室はいつもそういった思いに支配されていたように思う。邪魔者は排除せよ、そんな命令をされたかのように、生徒たちは動いていた。落ちこぼれた者を容赦なく踏みつけにし、嘲笑の対象とした。そういった者はより長く苛められた。謂わば生徒たちの安定剤代わりだったのだ。「こいつがいるから、まだ自分は堕ちこぼれではない」陳腐な自尊心を、その苛めで満足させていたのだ。苛められた者は、やがて学校に来なくなった。そしてひっそりと転校していくのが常であった。私立の名門という校風が悪かったのだろう。学校の評判が下がるような事件があれば、理事会によってすぐに揉み消された。上島は、そんな校風に半ばうんざりとしていた。友人をつくる気にもなれない場所だったのだ。だから上島はいつも一人だった。成績次第で離れていく友人など、最初からいないほうが良い。

 高校生になって、その雰囲気も少しはマシにはなった。外部からの生徒がたくさん入ってきたおかげとも言えた。その中に神楽がいた。

 これまで、友人という夢を見させてくれたのは紛れもなく神楽だ。記憶がない、どこの誰かも分からない自分に、構って優しくてくれた。今も、たかが自分のことに、これほどまでに心配し、身を案じてくれている。

 握っていた手があった。神楽がここに居てくれたからこそ、上島はこれまでやってくることが出来たのだ。上島は、神楽と地続きでこの世に存在しているのだ。

――――けれど。

 自分という存在が確かでないまま、ここに居るのは嫌だった。上島は、神楽が繋ぎとめていてくれた手を放した。放した途端、どこに行くのかさえ見当もつかない。もしかしたら地上の楽園から、地獄に連れて行かれるのかもしれなかったし、逆に花咲き乱れる天国に行くことが出来るのかもしれない。――――そんなことは決して期待していなかったが。上島は、何か眩しいものを見るかのような瞳で、微笑んだ。

「今まで側に居てくれて、感謝してる」

 終わりだ。神楽が繋いでいてくれた手を、放した。これからどうなるかは分からない。もしかすると、この世に居られなくなるのかもしれないが。もしそうなれば、今までよくしてくれた神楽に申し訳がなかった。自分が死んでしまうかもしれないということについては、むしろどうでも良かった。所詮、なるようにしかならないのだから。そのことよりも、自分が死ぬことで傷つく神楽が居るとすれば、その方が辛い。だから今手を放すのだ。手を放せば、神楽は自由になれる。上島には、死ぬことよりも神楽の手を放すことの方が余程辛かった。普通の幸せな生活をくれた神楽は、その意味に気付いているだろうか。

「ゆう、朔……」

 神楽は信じられないという目で上島を見ているに違いなかった。上島は、その姿を見る勇気がなくて、俯きながら踵を返し、華山家を後にした。帰りはタクシーを拾った。

 どんよりとした街の光が、走るタクシーの中に差し込んでいる。いっそ何もかも忘れて眠ってしまいたかった。神楽、裏切ったわけじゃない。いや、裏切ったと思ってもいい。だから、神楽が気に病む必要はないんだ――。そう唱えながら、目を閉じる。

 何にしても、これから上島は独りだった。


 家に帰ってから、上島は既に温く(ぬる)なってしまったコーヒーを、ぼんやりと口に運んでいた。いつもなら熱々のコーヒーでないと嫌で、すぐに替えてしまうのだが、今日は入れ替えることを思いつきもしなかった。テレビも点けず、ただひっそりとした家のソファに、魂を失ったかのように凭れている。考えるということをしたくなかったが、そうもいかない。あの霊は、一刻も早く霊媒しなくてはならないだろう。

 思案していると、空気を割るような音で電話が鳴った。びくりと体が撥ねる。しまった、音のレベルを間違えて最大にしてしまっていたようだと上島は思う。驚きざまに宙に浮いた腰でそのまま立ち上がり受話器を取った。

「もしもし」

 つかの間の沈黙の後、聞きなれた声が耳に飛び込んできた。

「勇ちゃん?」

 郁子だ。

「ああ、何だ。郁子さんですか、驚きましたよ」

 上島は苦笑気味に言う。

「勇ちゃん、どうしたの?」

「え?」

「……元気ない声してるわよ」

 そんな、と上島は思わず声を上げそうになった。普段とそんなに違う声のはずはない。例え神楽の手を放しても、自分は普段と変わりないのだと、嘘でも認めて欲しかった。

「何、言ってるんですか。俺は普通ですよ」

 乾いた明るい声で、やんわりと否定する。

「……そうかしら」

「そうですよ。ああ、さっきまで寝ていたので、そのせいかもしれません」

 何故か涙が出そうだ。何故この人はこんなにも鋭いのだろう。声を聞いただけで、分かるものなのだろうか。気付いて貰えて嬉しい気持ちと、何故こんなところは鋭いのだろうという郁子への八つ当たりがごっちゃになったようだった。

「ならいいんだけど。――小笠原香乃さんと、もう出逢った?」

「ええ、会いました」

「処置は任せるわ。それよりも、蓮北小学校のことなんだけど、少し不味いことになってきていて」

「蓮北小学校がどうかしたんですか」

 蓮北は、死体が遺棄されていた桜の木があるところだ。

「夫から聞いたんだけど……蓮北で、児童の怪我が相次いでいるそうなの。特にあの事件があった場所の近くで。ええと」

 かさ、と紙を捲る音が受話器ごしに聞こえた。

「事件のあったのが先週。先週の児童の怪我が、打撲三十五件、失神十二件、救急車で搬送した回数が五回。その他にも転倒や軽い怪我は数には入っていないけれど、通常の怪我の数より目に見えて増えているそうよ。今週に入ってからは、失神二十八件と増えに増えているわ……」

「そうですか……。このままでは死者も出かねませんね」

「今病院に搬送されて意識を取り戻さない子が独りいるそうよ」

「そこまで、凶暴化しているとは……。分かりました、早急に霊媒します」

 上島は驚いた。早い、と。悪霊は段々と勢力を増していくものだが、短期間のうちにここまで大きくなるとは、ありえないことだ。

「勇ちゃん……気をつけてね」

 郁子の哀しそうな声が、耳朶に響いた。

『この依頼は断られる方が、双方のためかと思います』

 玄天の言葉が、頭の中にこだまする。それを振り切るように、上島は言った。

「大丈夫です。任せて下さい」

 受話器を置いて電話を切った後も、上島は郁子の声を忘れることが出来なかった。



 その二日後に、上島は霊媒をすることにした。満月の日だ。本当は満月の日はあまりよくないのだが、子どもの命が危ないので、そうそう待ってもいられない。そう考えて、思わず玄天の言葉を思い出した。

「赤の他人と、自分の身内と、どっちが大事か……か」

 何百人と子どもの犠牲を出しても、玄天はきっと同じことを言うだろう。幽鬼にやられてしまうことは勿論、霊媒師と幽鬼が相討ちになってしまうことは、華山家総本山としては絶対の禁忌のはずだからだ。霊媒師は例外なく恣意的な集団だ。勝てる勝負しかしないのは、少ない霊媒師の数をこれ以上減らさないため、そして負けることが霊媒師にとっての死を意味するからだ。誰が聞いても頷ける正論に裏打ちされてはいるが、つまりはわが身可愛さ、または身内可愛さの論理だった。

 それを悪いとは言わない。しかしそう考えると、上島は、自分は誰よりも霊媒師に向いているのではないかと思った。大切な人が居るから、自分を大切に思ってくれる人が居るから、死ぬことが出来ない。それが普通だが、上島にはそう思ってくれるような人間が周りにいない。だから、華山家総本山でさえも匙を投げるような依頼を受けることが出来るのだ。成功の保証は全くない。むしろ逆の可能性の方が高すぎるぐらいだが、ここで誰も立ち上がらなければ、蓮北の小学校に通う子どもたちに犠牲が出るのは必至だった。

「別に正義漢を気取ろうってわけじゃないが……」

 玄天の理論に共感は出来るが、肯定は出来ない。そもそも、これは玄天の論理ではなく、華山家総本山代々続く理論だ。上島が、あまり華山家総本山にべったりにならないのも、そういった理由なのかもしれなかった。華山家の言い分は充分に分かるのだが、どうにも納得出来ない部分が、心の底に沈殿しているような、そんな気分になる。

「まあいいさ。俺は独りでやる」

 言いながら着々と準備を進めた。霊媒は、真夜中の丑三つ時。草木も眠るその時間なら、邪魔は入らないだろう。上島はふと思い出した。神楽からは、何の連絡もない。それも当然だ。神楽の手を放したのは自分なのだから。もう終わったことなのだ。今の自分に必要なことは、神楽のことよりも、昔の記憶を取り戻し、幽鬼を霊媒すること。それが最優先事項だ。自分に言い聞かせながらも、上島の手は、準備のための手をすっかり止めてしまっていた。

***

「記憶がない?」

 高校生時代の神楽が、目を丸くしているのが、視界の端に映った。場所はいつもの屋上だった。確か、この季節は春。高校二年の春だ。上島は一年間神楽と共に過ごし、神楽になら、記憶がないことを打ち明けても大丈夫だと思ったのだった。花冷えの季節で、春なのに酷く寒かった。そして上島の横で、理知的な顔立ちの美男子が、驚いた表情で上島を見つめている。神楽はよくモテた。けれど、神楽にもどこか人を寄せ付けないところがあったので、上島と馬が合ったのだ。

「ああ。小学校までの記憶がない。それと、家族に関する記憶も」

「なら、勇朔が今一緒に住んでる郁子さんは……」

「赤の他人だろうな。もしくは、俺の本当の家族の友だちとか」

 淡々と言い放つ上島に、神楽は苦しそうな表情をしたことを覚えている。気付いていたのだろうか。家に来たときに、掲げられていた表札は、「上島」ではなく、「冬馬」であったことに。上島は、神楽に質問攻めにされることを覚悟した。何で今まで言ってくれなかった、どうして記憶がないのか云々。

 しかし、神楽は何も聞かなかった。ただ上島と、屋上からグランドを見下ろしていた。そして言った。

「そうか……」

 それだけだった。そのとき上島はやけにあっさりだな、と拍子抜けしたものだ。トップシークレットとも言えることを話しているのだから、もっと何とか言ってもいいはずだ、とそのときは憤慨したり、またあるときは物足りないと感じたりした。今になって思うと、神楽は、上島がどれだけの勇気を持ってその告白をしたかを解っていたのだろうと思う。そして、そんな重大なことを打ち明けてくれたからには、これ以上上島に辛い思いをさせまいと、一切何も聞かないでくれたのだ。

 いい友人だった。友人と呼べる最初で最後の人物だ。

 上島は決別を示すように、立ち上がった。

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