冷たい桜
@shionogi
第一章
真夜中の墓地は、しんとしているのに、どこかざわめいている。音はないのに、何かがいるような気配がする。柳が揺れる音かと見上げてみても、かすかに揺れた気配すらない。何だろう、何の音だろう。いや、音ではない。おそらく、この墓地に埋められた人たちの気配。亡くなった人たちの気配だ。体の皮膚の一ミリ外を撫でられている感触。耐え難い静寂。普通の感覚を持った人ならば、すぐさまその場から去ろうとするだろう。それよりも、そんなところへ、真夜中に足を踏み入れる者はまずいない。
だから、この日も、墓地には誰もいなかった。十字路のすぐ側にある墓地は、交通量も少なくないはずなのに、日曜の夜だからか車さえ通らなかった。その墓地を見守っている者は、敷地内にある大きな桜の木だけだった。敷地が狭いせいで、斜めに成長したその木は、墓地を上から覆うような巨大な桜だった。満開の季節を僅かに過ぎたそれは、時折りはらはらと、桜貝のような花びらを、墓地に降り注がせている。その光景は何かのまじないのようで、今にも棺の蓋を開けて、死人が甦ってきそうな気さえする、そんな夜だった。吹く風は生暖かく、頬に当たる感触は、まるで誰かの手にすっと撫でられているような――。
今夜は満月だ。しかし厚い暗雲に隠れて、地上に光は届かない。ここ最近の天気の悪さのせいで、じめじめした空気が漂っている。おそらく明日も曇りか雨かと、多くの人が嘆いているに違いなかった。勿論、その予想は当たっている。しかし、今夜、一瞬だけ雲が晴れたことを知っている人がどれだけいるだろう。墓地は一面に懐中電灯を照らしたかのように明るくなった。だが、その明るさは、陽の光とはまた別種のものだ。人々を救う、希望の光ではない。月光は、明るければ明るいほど、影をより一層濃く見せるように、悪しきものを、濃く浮かび上がらせた。
――墓地に何かがいた。
暫くして、引きずるような、ズズ、ズズという音が聞こえてきた。重いものを引きずっているのだろう、どれぐらいの重さか、例えるならば人間のような――。目撃者は誰もいない。ただ桜の木だけが、全てを知っている。
世間は年の暮れ。師走に差し掛かっていた。平年よりも気温が高く、温暖化の影響であるとかニュースがやかましくさえずっていたが、冬の苦手な上島(かみしま)にとっては有り難い現象だった。どうせ地球もいつかは滅びるのだ。その時に自分がこの世界に存在していなければ、別段、どうということもない。
「次のニュースをお伝えします」
朝のニュースで人気だという女性キャスターが、無機質な声で告げた。人気不人気に関わらず、上島はニュースキャスターというものが好きではなかった。悲痛なニュースに、取ってつけたような同情を滲ませながら、さも可哀相でしょうという雰囲気を漂わせて、偽善的なコメントをするキャスターも気に入らなかったし、そんな悲痛さを感じるニュースでも、意に介さないというふうに淡々と解説するキャスターにも、また非人間的さを感じて、どうにも好きになれないのだった。
最近では、そんなニュースキャスターの好き嫌いを判別している暇があれば、ニュースの内容を頭に入れる方が有意義だと漸く悟り、内容を重視で耳を傾けることにした。なので、キャスターの顔は殆ど見ていない。朝食を食べながら、味噌汁や食パンを凝視しながらニュースを聞いているわけだ。
しかし、今日は違った。思わずテレビを凝視してしまうほどの衝撃的なニュースが流れていたのだ。近頃、大きな事件はなかったから余計かもしれない。テレビには、満開の桜が花開いていた。画面には「怪奇! 桜の木に死体」と筆で書きなぐったようなテロップがついていた。
「今朝方、こちら、S市の蓮北付属小学校の近所を散歩していた方が、この樹の下に横たわっていた遺体を発見したということです。現在、警視庁では、遺体の身元確認を急いでいます。現場からお伝えしました」
ニュースが立て込んでいるのか、慌しくCMに切り替わる。
上島はため息をついて、早送りのようにテンション高く喋り捲る、四角い機械のスイッチを切った。途端に静けさに覆われた部屋を心地よく思いながら、好物のコーヒーを入れようと立ち上がる。昨日買った美味しい豆を堪能出来ると思うと、自然と嬉しくなった。
っぽーん。
知らない人なら、何の音かと不思議に思ったに違いない。玄関のベルの音だ。本来なら、「ピン・ポーン」となるはずなのだが、「ピン」の部分が上手くならずに、「ポーン」の部分でやっと音が出た、というふうになるので、いささか前のめりな感じのするベルだった。直すのも面倒で放ってあるが、このベルの鳴り方はなかなか愛嬌がある。
しかし誰だ?
上島は不思議に思った。普段は閑古鳥が鳴いているような場所に、開店前から客が訪れることなど、五年に一度、いや、十年に一度かもしれない。
開店前、と言ったが、上島は八百屋をやっているのでも、また魚屋をやっているのでもない。小説などでよく見かける、「探偵」というものをやっているのである。いや、「探偵」という肩書きを持っているのである。しかし実際に探偵業を営んでいるわけではない。上島には、別の本業がある。その本業も、決して繁盛しているとは言えない状態だが、こうして、人並みに生活を送れているのは、理由がある。平たく言えば、パトロンが存在するのだ。その人物は、上島の生活費から、家賃から、事務所の経費から、全てを支払ってくれている。おそらく、遊んで暮らしてもいいのだろう。今でも遊んで暮らしているようなものだが――。
そんなことを、朝の寝ぼけた頭で考えながら、ドアを開けると、まるで借金取りが待ち構えてでもいたかのように、勢い良く扉が開いた。
「おはよー! ゆうちゃん! 元気にしてるー!?」
上島の目の前には、色を抜いた金髪に近い長いウェーブの髪、彫りの深い顔立ち、見た目は三十代に差し掛かったあたりだと思われる女性が立っていた。豊満な肉体(特に胸)に、それらを強調するように開いた襟元の服を着ており、一言で言えば、派手な服装をしている。
「何だ……貴方ですか……」
上島はぐったりとした。ドアを開けるのではなかったと後悔が押し寄せる。
「ご挨拶ねー。人がせえっかく、こんな朝早くから来てあげたってゆうのにぃ」
赤い唇を尖らせる彼女は、ウェーブがかかった髪を揺らしながら、許可なく玄関に上がりこんだ。今日の格好は――また一段と凄い。豹柄のド派手な春もののコートに、茶色のサングラス。ミニスカートに網タイツ。地味を好む上島からは想像出来ない派手っぷりだが、この派手さを差し引きすると、「綺麗な女性」に早変わりするのだから始末に悪い。彼女がこの年齢でこの格好をしていても許せてしまうのは、一重に彼女の魅力に負うところが大きかった。
「で、今日は何なんです?」
「ゆうちゃん。そんな、人を宅配便の業者みたいに扱うことはいけないことよ?」
「意味が分かりません……」
上島は自分の家にも関わらず、今すぐに逃げ出したい気持になった。
「それに、いい年をした男をちゃん付けで呼ぶのもやめて頂きたい」
「ふうぅん。ゆうちゃんも大きくなったのねぇ」
「郁子さん!」
郁子、と呼ばれた女性は、わざとらしいため息をついた。名は、冬馬郁子。上島はこの女性に頭が上がらない。何故なら、先ほど言った、上島のパトロンというのが、この郁子だからである。
郁子の実年齢は、上島も実はよく知らないが、常識的に考えて、上島よりも上だ。ということは、上島は現在三十二歳であるから、それよりも大分上ということになる。――考えない方が世界平和のためよ、と郁子は言っていたが。
「郁子さん、だなんて。不倫っぽいじゃなぁい?」
艶かしい視線で、郁子は上島を見た。ここで断っておくと、上島は郁子と不倫をしているわけではない。生活費を全て払って貰っているのも、不健康な関係ではないのだが――話せば長くなることだ。ともかくそれはいいだろう。郁子にはれっきとした旦那がいる。
「冗談は結構ですから、今日は本当にどうされたんです? ここに来ることなんて、用がなけりゃそうそうないじゃないですか」
「冷たいこと言うのねえ。それとも、もっと来てほしいっていう意思表示?」
郁子は、笑って、煙草に火をつける。煙草を吸うとき初めて、郁子は年相応の女に見えるのだった。
「今朝のニュース、見た?」
紫煙をくゆらせながら、上島に囁くように、言う。まるで誰かに聞かれれば、その話は逃げてしまう、というような言い方だった。
「ええ、少しだけ」
「―――桜の花」
「え?」
ぽつりと呟かれた言葉が聞き取りづらく、上島は聞き返した。郁子は真面目な表情で、上島を見据える。
「あれは――――貴方の事件よ」
「…………?」
真意を測りかねて、上島が首を傾げた。
「それはどういう」
「キャーッ!! もうこんな時間!?」
郁子が叫んだ言葉に、上島の問いは遮られた。
「ゆうちゃんごめんねぇ。約束があって行かなきゃならないのよお。朝九時に集合だなんて、あのパーティーふざけてるわねっ!」
時刻は八時四十五分をまわったところだった。
「確実に遅刻だわぁ。でもダニエルには上手く電話しとけば大丈夫よねっ」
………誰だよ、ダニエルって。
突っ込みたいのは山々だったが、上島には朝っぱらからそんな元気はなかった。上島は玄関へ走っていく郁子を見送った。
「ゆうちゃん! また今度ねっ! そうそう、玄関のベルの音、直しておいた方がいいわよ!」
チュバッと投げキッスをして、郁子はリムジンの後部座席に乗り込み、一瞬後には煙を上げながら彼方にいってしまっていた。
「嵐のような人だな……」
やれやれと頭を掻きながら、朝食に戻ろうと玄関に入る。
「あれは貴方の事件よ」
郁子の言った言葉が、やけに印象に残った。あれはどういう意味だったのだろう?
――考えても仕方ないか。
上島は頭を振って諦めた。何か思い出せたとしても、どうせ十三歳からの出来事だけだ。それ以前の記憶は、上島にはない。
上島には、十二歳まで―中学校以前―の記憶がないのだ。そして、家族の記憶も。小学校に行っていたという記憶はある。しかし、それがどこの学校か、どんな友達がいたか、どんな校舎で勉強をしたかということは一切思い出せないのだ。ただ「小学校に行っていた」という記憶はある。その知識も残っている。しかし家族のこととなるともっと酷く、どんな親だったのか、祖父母や兄弟は居たのか、どこに住んでいたのかさっぱり分からない。気付いたら、郁子に引き取られていた。郁子が母親なのでは、と思った時もあったが、名字が違う。中学生の頃、誘惑に耐え切れず役場で見た戸籍は、郁子の養子になっていた。
――もう、いい。
上島は、煙草を箱から一本取り出し、火を点けた。気に入りは、ハイライトだ。香ばしい薫りに包まれていると、日常の雑事を全て忘れることが出来た。
――もう、いいんだ。
男三十二歳が、家族を探して、万一探し当てたからと言って何になろう。ドラマの家族物語のように、再会においおい泣いて、一緒に暮らし始めるか?
上島はそんなことは御免だった。今のままで何ら不自由はない。むしろ郁子が援助してくれるおかげで、快適なほどだ。
「諦めると決めたんだ」
自分の意志を確認するように声に出すと、薄紫色の煙が、視界をぼやけさせた。
しかし、郁子のあの真剣な眼差しが気になった。
「桜の花……」
彼女はそう呟いたはずだ。桜の花が何だというのだろう?
桜の木の下の、死体……。満開の桜の下。差す月光。死体は、静かに、静かに……。
ツキンと頭が痛んだ。
――何だ? これは。
突然背後で、ギッ、と床の鳴る音がした。
びくりとして振り向くと、男が立っていた。それは、上島もよく見知った男で――
「やあ、勇朔。鍵が開いてたよ」
神楽(かぐら)千静(ちせい)。上島の高校時代からの友人だった。
「てっきり、殺されでもしたのかと思ってしまったじゃないか」
神楽はにっこりと微笑んで、上島を見た。普通にしていても、笑っているように見えるその顔は、柔和で、一見優男と言ってもいい。細い銀縁の眼鏡と、ひょろりとした外見が、博士のようだと上島は思う。神楽の職業は、博士ではなく――白衣を着ているという点では同じだが――医者だった。名家、神楽家の跡取りであり、医者である彼は、当然の如く、物凄く頭がキレる。
「相変わらずだな、チセイ。不吉なことを言うなよ」
上島がソファに踏ん反りかえると、神楽も遠慮なくソファに腰を下ろした。
「こんな朝早い時間じゃあ、君はいつも寝ているだろう? なのに鍵が開いている。ひょっとして、殺されたんじゃないかと思ってね。確率の問題だよ。それに、もし君が死んでいたら、私が死体を検分しなくちゃいけないからね」
上島は乾いた笑いを返すしかなかった。全く持ってこいつは変わらない。
「けど違ったみたいだね。どうやら、女性の先客が居たようだ」
「ああ、郁子さんがな。どうして分かった?」
これさ、と神楽は灰皿を指した。
「勇朔の煙草はハイライトだろう? この一本だけ、銘柄が違う。しかもメンソールだ。それに煙草の吸い口に口紅がついている」
「お前……俺より余程探偵みたいだな」
上島は、恐れ入ったというように両手を挙げてみせた。
「そりゃ、医者だからね。ちょっとしたことに気付く癖をつけないと、患者と向き合えない」
「医者も大変だな」
それに――と神楽は膝の上で手を組んだ。
「検死に呼ばれたんだ。昨日」
どこか焦燥とした神楽の様子に疑問を感じて、上島は先を促した。
「どこの事件の?」
「S市の、蓮北小学校だよ。君も知ってるはずだ」
神楽は、緩慢な動作で、組んだ手を拳に当てた。どことなく、元気がないような感じがするのはそのせいか。上島は考えながら、珍しいな、と思っていた。神楽ほどの医者なら、死体がどんな状態であろうが、平静を乱すなんてことはそうそうない。こんなことは初めてではないだろうか。
「今日の朝のテレビでやっていたやつか……!?」
「ああ、おそらくそうだ」
「郁子さんがうちに来たのも、それが用事だったようなんだが……」
「郁子さんが?」
「ああ。――そう、『これは、貴方の事件よ』とか……。意味不明なことを言って帰って行ったが」
神楽は小さくため息をついた。
「知っているなら、話は早いね。昨日、事件があったというんで、検死に呼ばれて行ってきたんだ。けど――これが、生きてた人間じゃなかった」
そりゃそうだろう。検死の対象は、死んだ人間だけだ。
「勇朔、違うんだ。その死体は、生きてた人間じゃない。元(、、)から(、、)死んで(、、、)いた(、、)――死体だったんだ。そう――丁度、墓から掘り返してきたような……ね」
目を丸くする上島に、神楽は続けて話す。
「殺人事件として騒がれているようだけど、実は違う。どうやら、墓から掘り返してきた死体を、桜の下に放置したみたいだった」
「死体――を」
上島はやっとのことで声を絞り出した。遺体は葬られるためだけにある。手厚く葬られ、花が供えられ、現世とうまく離れられるよう、丁重に扱われるべきものだ。それを――死して尚、道具に使う人間がいるということだ。
「その死体はね、死んですぐでも、また死んで何十年も立っているようなものでもなかったよ。おそらく、亡くなって二年ほど……かな」
上島は口を押えた。死体の状態を想像してしまったのだった。二年ほどというと、まだ身元の確認は出来るだろう。しかし、うじが大量に湧き、皮膚はただれ――とにかく、肉親に確認してもらうには、残酷すぎる状態にちがいない。
しかし上島はハッとした。
「土葬なのか? 今どき?」
神楽は小さく笑んだ。
「そう。あの地域は、今でも土葬の習慣が残っているらしくてね。もし骨だけだったら、もっと目に優しいものだったんだろうけどね。……現場に呼ばれたときは驚いたよ。何しろ、そんな死体の上で、満開の桜が咲いているんだから……。目の前を、雪のように振る桜。陶酔するような景色の中に、死体が見える。本当に桜の花びらの間を縫うようにね。最上の景色と、最低の景色が、交互に来るような感じだ。でも、目が離せない」
「チセイ……」
「そう、それで、薄気味悪くなって、勇朔に会いに来たんだよ。顔を見れば元気になるかと思って」
神楽は、憂鬱さを振り切るように、上島に向かって微笑んだ。
「でも、郁子さんもそのことで勇朔に会いに来てたとはね……」
神楽はまた急に考え込むような表情になった。
「もしかして、勇朔の記憶に何か関係するんじゃないか?」
「俺の?」
神楽は、上島の中学以前の記憶がないことを知っていた。高校のとき、上島が話したのだ。それ以来、神楽は上島の良き理解者だ。失われた記憶をどうしたら取り戻せるか、現在も懸命に考えてくれている。
「郁子さんは、わざわざ勇朔に言うためだけに来たんだろう? 何か意図があるとしか思えない。電話だって、メールだって、それぐらいのことは伝えられたはずじゃないか。わざわざ言いに来るってことは、それだけ大事なことだったんじゃないか?」
「そんな馬鹿な……。あの人はいつも気まぐれにやってきて、嵐のように去っていく人だぞ? そんな意図なんて……」
上島は、立って神楽のためにコーヒーを淹れに行った。挽いた豆をフィルターに入れ、ペーパーで漉す。湯を入れた瞬間、何とも言えない良い香りが鼻をくすぐった。二人分をカップに注ぎ、再び居間に戻ってくる。
手渡すと、神楽は張り詰めた表情を幾分和らがせた。
「ありがとう」
「いんや。でも郁子さんが来た理由はよく分からない。もしかしたらチセイの言ってる通りかもしれないが――まあただ何となく来たってこともあるだろうしな」
郁子に出会うのは半年ぶりだった。半年前は、たまたま用事があって上島が会いにいったのだ。郁子の方から訪ねてくることは殆どない。先ほど、郁子を上島のパトロンと言ったが、実際この二人は親子だ。血の繋がりはないが、戸籍上はそうなっている。なのに、義母という単語が出ないのは、一重に二人が親子というような生活をしていなかったからだった。郁子には金持ちの旦那がおり、上島はそこへ引き取られた。郁子が母親代わりになったかというと、そうではない。勇朔の身の回りのことをするのは、専ら冬馬家に雇われた家政婦たちで、郁子は今と同じに、あまり家にいなかった。邪険にされたわけではなく、良くして貰った――と思う。郁子と、郁子の旦那も、家に居るときは可愛がってくれた。だがいかんせん、その時間が短すぎたのかもしれないと上島は思う。裕福な暮らしをさせて貰った。それこそ望むものは何でも手に入れられた。学校も私立の良い学校に通わせて貰った。大学まで進ませてくれた。
―――だが、大学卒業を待って、上島は冬馬家を出た。
血の繋がりがないと分かっている以上、甘えるわけにはいかないという理由で家を出た。しかし、実際、安定した職業にも就かず、どちらかと言えばその日暮らしに近い生活を送っている。就職しようと試みたことはあった。履歴書も書いた。だがそこまでだった。「昭和××年 私立北龍付属幼稚園卒業 昭和××年 私立北龍付属小学校卒業」私立付属北龍幼稚園、小学校。これが上島に与えられた経歴だった。北龍付属は、有名な名門である。実際、上島は北龍と同レベルの私立蓮南付属中学校に合格し、三年間通った。
おそらく――おそらくだが、冬馬が買ったのだろう。「上島が幼稚園と小学校に行っていたという経歴」を。
しかし上島は北龍付属の幼稚園と小学校に通っていたという経歴は、真赤な嘘だと分かっていた。卒業アルバムを見たのだ。冬馬家とそう遠くない場所だったのを幸いに、北龍と蓮南を行き来して、北龍の卒業アルバムを手に入れた。案の定、上島は載っていなかった。その後、またそのアルバムを見てみようと北龍を訪れたとき、アルバムは新しくなっていた。昔のアルバムのはずなのに、手垢もつかず、新品同様だった。開けてみると、上島が載って(、、、)いた(、、)。自分とそっくりの、写真の下に、「上島勇朔」とあった。戦慄を覚えた。―――前のアルバムは何処に?
これは改竄だ。
上島が見た後に、意図的に作り直されたのだ。上島が調べたのが、中学校に入りたての四月だったから、もう少し調べるのが遅ければ、間違った記憶を植え付けられるところだった。誰が? 何のために?
けれど、上島は郁子たちに自分のことを尋ねるようなことはしなかった。尋ねてはいけないような雰囲気だったかと問われれば、そうなのだと答えるしかない。何となく、上島は、卒業アルバムを作り変えさせたのは、冬馬ではないかと思ったのだ。そんなことが出来る地位も財産もある家、そんなことをする理由のある家と言えば、冬馬しか思いつかなかった。本当かどうかは分からない。
はっきりしていることは、上島には十二歳までの記憶がないということ。それだけだ。それだけだが、嘘の経歴を書いて、のうのうと会社に就職することが出来なかったのだ。しかし、そんなものも建前で、本当は、記憶がないということで、社会に溶け込めないと感じているのかもしれなかった。どちらにせよ、上島は「普通」に就職することを諦めた。
そして今の職業に至るのだ。肩書きは「探偵」だが、実は違う。
「まあ何にせよ、一度現場を見に来ないかい? 『本業』の方も殆ど休業中なんだろう? ねえ、ゴーストスイーパーさん」
神楽は、人懐こい笑顔でにこりと笑った。
正確に言うと、ゴーストスイーパーとは少し違う。上島は「霊媒師」だ。巫者とも言う。ゴーストスイーパーというのは、霊を祓って終わりだが、霊媒師は違う。霊媒師は、霊媒という文字通り、霊と意志を通じ合わせることが出来る媒介者だ。ただ祓うだけではなく、霊の意志を聞くことが出来る。また自分の中に霊を取り込み、その声を聞くという点で、ゴーストスイーパーとはかなりの違いがあるのだ。霊の意志を聞くとは言っても、良い霊だろうが悪い霊だろうが、根底にあるのは「成仏したい」という思いだ。その思いを聞き入れて、成仏させるのだと解釈して貰えれば、まずまず、間違いはない。ここでは「霊」と言っているが、上島はいつも「幽鬼」「幽魂」と呼んでいる。
神楽には、この程度の話はしてあったが、実際に霊媒の場を見せたことは一度もない。それは、霊媒するときに見ている一般人が居ると、幽魂がその人を襲う場合があるからだ。何より、霊視の出来ない人間が、そういうことに関心を持つこと自体危険でもあるので、上島はあまり霊媒のことに触れないようにしていた。神楽も、それ以上は聞こうとはせず、「上島は、探偵を名乗っているが、本業はお祓い」以上の情報は知らない。それでも、高校以来、十六年の友情を保ってきた。神楽は上島の唯一といっていいほどの友人なのである。
「なぁ、本当にこんなことしていいのか?」
上島は、着慣れぬ白衣を着て、車の後部座席に座っていた。下にはスーツを着ている。滅多にしない服装をしているせいで、体までもが自分のものではなくなってしまったようだった。神楽が用意してくれた遺体検分用の備品、カメラ。
「構わないよ。君は見習いということにしてあるから、何もしなくていい」
神楽が運転席から、上島に向かって呼びかけた。バックミラー越しに神楽を見て、上島は溜め息を吐く。神楽は、蓮北付属小学校の事件が、上島の過去に関係しているのではないかと考え、上島に一度現場を見に行ってみてはと言っていた。しかし、話をした直後に早速連れ出され、白衣を着せられ、「君は今から見習い検死官だから」と言われれば驚いても仕方ないだろう。
しかもご丁寧に名札まで用意されている。プレートには、「見習い・上島勇朔」と書かれている。
「チセイ。最初から俺を連れてくつもりだったろ」
平然と運転を続ける神楽を睨みながら、上島は後部座席の背もたれに体を預けた。
「いや、あわよくば、とは思っていたけれどね。無理に連れて行こうなんて思ってはなかったよ? 名札は、いつかこんなこともあるだろうと思って、前から用意していたんだ」
前々からこんなことを準備していたとは、何て奴だ、と上島は眉間に皺を寄せた。
「バレても知らんぞ」
バレないよ、と神楽は明るく言う。しかし万が一にも見破られれば、大変なことになるのではないだろうか。上島はそれによって神楽の立場が危うくなることを懸念していた。
視線を前に向けたまま、神楽は言う。
「何でこんなに早々に連れて行くかっていうとね、死体が引き上げられてしまうんだ。今日の午後にでもね」
予定外に早くマスコミに嗅ぎ付けられたので、本当はそれまでに何もかも終わらせて死体も運んでおくんだけど、と神楽は付け足す。
「本物をきちんと見られる方がいいだろう? 何か手がかりがあるかもしれないし」
ああ、でも、と神楽は思い出したように言った。
「しばらく、肉は食べられないって覚悟をしておいた方がいいかもしれないね」
押し黙る上島に、神楽は極上の笑みで笑いかけたのだった。
私立蓮北付属小学校の校庭は凄然としていた。広い校庭のごく隅の一角に、ひっそりと佇む巨大な桜の木がある。小学校の校庭で起こった事件なので、学校は臨時休校になっているのかと思ったが、平常通り授業は行われているらしかった。
「授業、やってるんだな」
車を降りると、それぞれの教室から聞こえてくるリコーダーの音楽に乗せて、ざわめきが聞こえてくる。上島が感嘆とも驚きともつかない声音で言うと、神楽は微笑んだ。
「そりゃあ、ね。事件が起こったのは昨日だし、そう何日も休みにしていられないんじゃないかな。ただでさえゆとり教育で授業数が少ないんだから。でも外で遊ぶのは禁止しているみたいだよ。それに、捜査に進展があれば生徒たちにもちゃんと報告したいというのが校長の意向らしくてね」
そういった理由で、学校を休校にしてはいないらしい。ふむ、と息だけで応えて、上島は現場の方に目をやった。既に現場検証は終わり、警察も、誰もが引き上げようとしているところらしかった。
「ぎりぎりセーフだね」
上島の耳元で囁くと同時に、神楽は急いで死体搬送の車へと駆けて行く。上島も慌ててその後を追った。
「待ってくれないか」
神楽が、青いシートがかかった、明らかに人型をかたどっている担架を持つ救急の職員に呼びかけた。どうやら顔見知りらしい。
「あれ、神楽さん。お疲れさまっす」
まだ年若い隊員は、神楽に向かってぺこりと頭を下げた。
遺体は車の後部座席から入れられ、搬送されようとしているところらしい。
「お疲れさま。――昨日、検死に来たのだけれど、どうにも気になるところがあってね。もう一回見せて貰えないかな? 重要な手がかりかもしれないんだ」
神楽はなかなかの演技派だった。上島も事情を知っていなければ、これが嘘だとは思わないに違いない。
「ああ、いいですよ。グッドタイミングでしたね、もう一分遅かったら病院の方まで来なくちゃなりませんでしたよ」
人のよさそうな隊員は、あっさりと騙されてくれ、車から降りて、シートの上から遺体を括っていた紐を外しにかかった。そこで初めて、神楽の後ろにいる上島に気付いたようだ。
「そちらの方は……?」
怪訝そうな瞳を向けられ、上島はぎくりとする。とりあえず不自然でないように、会釈をした。
「こちらは、見習いの上島くん」
神楽が上島を庇うように割って入る。
「はぁ、見習いの方ですか」
見習いにしては歳がいっていると思ったのだろうか。隊員の視線が、不思議そうに上島の上を上下した。
「よ、よろしくお願いします」
声が上擦る。心の中で、こんな手を考えた神楽に悪態をついた。
それでも、若い隊員はそんなに気にしたふうもなく、てきぱきと紐を解いていく。「現場の遺体を見るのは初めてですか?」とにこやかに上島に尋ねた。
「は、はい」
隊員はシートに手をかけながら、上島の顔を見て、困ったように笑う。
「初めてかぁ、じゃあ、かなりの覚悟がないと吐いちゃうかもしれませんよ」
僕も、最初はグロいなぁなんて思ってたんで、と隊員は気安く話しかけてくる。元々、人なつこい性格なのだろう。
「でも、そのうち慣れちゃいますけどね」
と青年は晴れやかな笑顔を向ける。上島は顔では笑顔を装いながらも、こんなことに慣れたくはないが、と心の中でひとりごちた。
「あ、その遺体、手間だけど、木の下に運んでくれないかな」
神楽が指示すると、隊員は億劫がるふうもなく、台車を使っててきぱきと遺体を運ぶ。まさか死んだ人間も、こんなにも慣れたふうに扱われるとは夢にも想像し得ないだろう。
「シート引いたままでいいですかね。これ取ると後が大変なんで」
構わないよ、と神楽と隊員のやり取りを聞きながら、上島はどこか不吉な予感がしてきていた。見習いでないかバレやしないかと緊張しているのだと思い込んでいたが、今や心臓が早鐘のように打っているのが分かる。背中を流れるのは冷や汗だろう。
上島は桜の木に目を向けた。かなり大きな桜だ。見事なものだが、四方八方に枝が伸び、その様子が半ば化け物じみた感じを与える。本当は桜の花は人をおびき寄せるための罠で、かかった獲物を次々に喰らっていくような気がした。ぞっとしない話だ。
頭の奥がちかちかする。赤と黒のスクリーンを交互に見せられているような、その中で何かの映像が見えるような気がする。まるでサブリミナル広告のようだ。何かの叫ぶ声か、よく分からない。じっとりと汗ばんだ手を、意味もなく握り締めた。
そのとき、何かの機械がピーピーと鳴った。
「あ、ヤベ」
青年が車へ駆け寄り、無線か何かを手に取る。本部からの連絡でも入ったのだろうか、身振りで、神楽に「構わずやっちゃってください」ということを伝えたらしい。神楽が頷くと、こちらには背中を向けて何ごとかを話し始めた。
「勇朔、顔色が悪いよ、大丈夫かい?」
神楽の気遣う声を聞きながら、小さく頷いた。気分は最高に悪いが、目は遺体に釘付けだった。神楽の白い綺麗な手が、ゆっくりとブルーシートを剥がしていくのを目で追う。
――――桜の花。
突如花びらが風に乗ってザァッと舞い散る。寒くはないはずなのに、思わず身震いした。不吉な何かが風に乗って流れてくる。そんな予感がしたからだ。
上島は、せり上がってくる嘔吐感を、体を折り曲げることで耐えた。目の前に映るそれは、人間――かもしれない。もし人間であったなら、今まで見てきたどの人間とも違う、と上島は断言出来た。皮膚―のようなものは既になく、滑らかなものはどこにもない。ただれ、裂け、穴が開き、じくじくと水が染み出してきそうで、そのくせ水分など一切なさそうな「ソレ」は、酸っぱいような、腐臭を漂わせて上島を襲った。
「ぐっ………!!」
反射的に鼻と口を手で押さえ、身を引く。
「我慢して」
小さく、だが鋭い声で神楽は上島の腕を掴んだ。遺体に面したときは、まず手を合わせて合掌せねばならない。
だが上島にはそんな余裕はなかった。神楽の手を振りほどき、怖じたように二、三歩下がる。猛烈な吐き気と、がんがんと鳴っている頭の中で、古ぼけた一つの場面が見えたような気がした。白黒の、昔の映画のようなものだった。
「桜の花」
上島は自分でも何を話しているか分からぬまま、遺体を見つめた。どっと噴出す汗を感じながら、上島は空を仰いだ。いや、実際には空を仰いだつもりではなく、意識を失う際に、自然に頭が空を向いたに過ぎなかった。
しかし空に広がる蒼はなく、桜貝のような、淡い桃色が一面に敷き詰められた色しか見えなかった。
「勇朔!!」
神楽の悲鳴が聞こえたような気がしたが、それもすぐに、桜の花びらの群れにかき消された。
――空さえも、桜に支配されてしまったのか。
意識の端で、そんなことを思いながら、上島は気を失った。
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