Hello,new place(3rd)

 

 どうして自分は要領よく、スマートにできないんだろう。

 お礼を言って、それだけで終わるはずだったのに。「文化祭の時はありがとうございました」と言えばいいだけ。特別難しい言葉を使うわけでもないのに、いざとなると緊張であがってしまって思い描いた行動ができない。考えるだけならいくらでもできる。反射のような感覚で喫茶店に飛び込むことまではできたのに、目の前にすると急に人見知りになってしまうのだ。彼女は藤花のことを覚えていないだろうし、変なやつと思われただろうか。


「アイスコーヒーです。どうぞ」

「……ありがとう、ございます」


 にこりと笑って仁科春がアイスコーヒーを差し出す。奇妙な罪悪感で、藤花は接客用の笑顔さえまともに見れなかった。


 差し出されたアイスコーヒーの黒い水面。そこに吸い込まれてしまいたい。掌でころころと転がしていたガムシロップの爪を折り、黒色の海へとかき混ぜた。氷がカラリと音を立てる。そのまま小さな渦ができた。


「すみません。もしかして……会ったことありますか?」


 そう問いかけてきたのは仁科春の方だった。藤花の手が止まる。思わず顔をあげて彼女の顔を見た。


「……なん、で」


 問いかけた声は震えていた。


「あ、やっぱり会ってました? 良かったー人違いだったらめちゃくちゃかっこ悪いなって思って。文化祭の時にぶつかった方ですよね? セーラー服着てた」


 藤花は感動した。覚えている。ぶつかっただけの人間のことなんて忘れていると思ったのに。大した言葉を交わしたわけでもないし、ましてやたくさんの人でごった返していた文化祭の一人だなんて覚えている方が珍しい。

 でも、気にかけてくれた。「なかったこと」にはなっていなかった。


「……え、ちょっと!?」


 はらりと涙が落ちた。藤花自身にもわからない。テーブルの上に大粒の雫がぽたぽたと落ちていく。感情が身体という管を通って湧き上がって、そのまま顔から溢れていく。いきなり泣いたら困ってしまうだろう。仁科春も突然のことに動揺している。困らせるつもりはないのに、泣いたら迷惑をかけてしまうのに、どうにもあふれ出した感情を今すぐに抑えられそうにない。


「何か、ハンカチとか」

「……大丈夫、です。すみません」


 それしか言えなかった。鼻の奥がツンとする。今は言葉の前にしゃくりあげてしまう。よくわからない。でも伝えるのは今だと思った。この機を逃してはいけないと思った。ここまで来て、こんなに無様な姿を見せてしまって、泣くだけ泣いて帰るのではさすがに虫が良すぎるだろう。

 勇気を振り絞れ。藤花の心が必死に叫んでいた。


「私……あなたにお礼を言いたくて」

「お礼?」

「文化祭の」

「いやいや、あたしぶつかっただけで、むしろお詫びしなきゃいけない側というか……」

「いいえ!」


 藤花は頭を振って強く否定した。この人は自分がしたことの、藤花にしてくれたことの大きさに気づいていない。まあそうだろう。きっと普通の人ならそうだ。藤花が感じている価値の大きさは、きっと普通の人には当たり前のことなのだ。ぶつかって謝って、笑顔で話しかけることは当たり前のことなのかもしれない。

 それでも。


「私……明日からあの高校に通うんです」

「そうだったんだ。何年生?」

「一年、です」


 後輩かあ、と嬉しそうな声がする。


「父が転勤族で。友達とも離ればなれになってしまって……不安だったんです。そんなときにあなたと出会って」


 大袈裟かもしれない。でも、関わりを持つことに虚しさと不安を抱えていた彼女にとって、自分に向けられた好意というものは強い意味を持つものだった。まるで「ここにいていいよ」と言ってくれたように感じたのだ。


「声を掛けてくれたことが、嬉しかった……んです」


 それ以上言葉が出てこなかった。もっとたくさん伝えたい思いはあるはずなのに。もっと的確な表現もあるはずなのに。滲んだ視界のままではしゃくりあげるばかりで、そんな自分が情けなく思えた。


「……うん。ありがとう。そうやってあたしに言ってくれて」


 にこりと笑う仁科春は、やっぱり優しかった。まるで藤花のすべてを受け入れてくれるような。


「話し相手にだったらいつでもなるよ。あたしここでバイトしているから、都合のいいときに来て」

「アルバイト、ですか?」

「そう」


 仁科春がバーテンダー風の男性を手で示して苦笑する。


「マスターは変な人だけど……考えることが好きな人が集まる場所だから」

「考える、こと」


 落ち着いたレコードの音楽。茶系統の装飾。そこにいるのは、不思議と居心地が良い。そして、そこは藤花が欲していた「居場所」のような気がした。


 誰に遠慮することもない。あがって言葉が詰まることもない。

 ありのままの自分の気持ちを、素直な言葉で言えたなら。


「あたしは仁科春……は知ってるか。あなたは?」


 柊藤花の八月三十一日が、やっと始まる。

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メメント・モリの複雑な考察 有澤いつき @kz_ordeal

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