Hello,new place(2nd)

「喫茶店……」


 コーヒー通が通いつめるような店。放課後に女子高生が連れ立って入る選択肢にはあがらないだろう。私がこのドアをくぐることは当分ないだろうな、と思いながら通り過ぎようとする。しかし窓の向こう側――店内にとある少女の姿を見つけ、藤花は言葉を失う。


「…………!」


 文化祭で会った人。忘れもしない、仁科春だ。

 こんな偶然を逃してはならない。学校が始まってから会うなんて決まりもない。半ば吸い寄せられるように柊藤花は木製の扉を押す。ガタン、と思ったより大きな音を立てたものの、ドアは前に開かない。


「え、なんで」


 藤花は狼狽しながらもドアをもう一度、今度は強く押してみた。ドアの上についたレトロな鈴がリンリンと鳴り響く。本来ならば控えめな音を立てるはずのそれすらも、なんだか藤花を急かすように聞こえてしまった。完全に混乱した藤花はドアノブのプレートを確認する。表記は「open」の文字。店自体は開いているはずなのだ。ではなぜ? 焦りが藤花を逸らせる。


「あ、すみません!」


 店のなかから彼女の声がする。明るく快活な印象。

 ガチャ、と鈍い音を立てて扉が開く。藤花には開けられなかった扉が、彼女の手によって――外側に。


「このドア引かないと開かなくって……あれ」

「あ」


 うまく言葉が出なかった。さっきまでは衝動的に、もう何も迷うことなく行動できていたのに。仁科春に会う、そして挨拶をしておくのだと、そこまでは一切の躊躇いもなかったというのに。いざ目の前にすると途端に藤花は我に返る。ほぼ初対面に近い存在である相手に、どう切り出せばいいと言うのだろう。たった一度声を掛けただけの藤花に対し、彼女はどう思っているのだろう。そもそも忘れているかもしれない。重い女だと思っているかもしれない。急にネガティブな思考のスパイラルに陥った藤花は口をはくはくと開閉するだけで、何も音になって出てこない。

 仁科春は藤花を視認すると、意外そうに目を丸くした。


「……に、仁科春、さんですか」


 やっと出てきたのは、想像以上にか細い声だった。夏の終わりに残りの寿命を振り絞って鳴くセミよりも貧弱だ。喉の奥がカラカラになっている。真夏の暑さとは違う渇きだった。伝えなくては。彼女に、あの時の礼を。


「そうですけど、……」

「あの、私。……その……」


 声が出ない。頭が真っ白だ。早く言わなければ。目の前の彼女も奇妙そうな顔をしている。迷惑をかけてはいけない。でも、どうしてか貼り付いた叫びが出てこない。何の言葉が飛び出そうとしているのかも藤花にはわからなかった。


「仁科さんの知り合いですか?」


 藤花一人では手詰まりだった状況に変化をもたらしたのは、店内から聴こえた男性の声だ。テノールの心地よい響きをしている。なんだか涼やかにさえ聴こえた。

 カウンターの奥から姿を覗かせた男性はバーテンダー風の装いをしていて、ここは果たしてバーか何かだっただろうかと確認をしたくなる。でもやっぱり看板には「喫茶店」の文字が並んでいた。


「知り合いって言うか」

「どうやら緊張されているようです。如何でしょう、コーヒーでも」


 柔和な笑みを浮かべて男性が言う。その優しい笑顔が張り詰めた藤花の心を溶かしていく。すべてを包み込んでくれるような慈悲深い対応に、藤花は胸の奥があたたかくなるような心地がした。


「えっと……すみません」

「謝らなくても大丈夫ですよ。席は空いてますから、好きなところにどうぞ」


 バーテンダー風の男性と、扉を開けてくれた仁科春に導かれて、藤花は店内に入る。「好きなところ」と言われてもどこに座ったものかと視線をさまよわせていたら、仁科春が窓側のテーブル席に案内してくれた。

 ここからだと大通りの様子がよく見える。今日は日も高く、外がひときわ明るく見える。冷房のきいた店内から眺める街並みというのは目線が変わり、なんだか「おしゃれ」な気持ちにさせる。


 店内はシックな色合いで統一されている。きっと純喫茶というのはこういう店の類をいうのだろう。深みのあるブラウンのテーブル、角が丸みを帯びた椅子、店内に流れるBGMはジャズ。テーブル脇に置かれたラミネート加工されたメニューにアルコールが含まれていない。


「何飲みますか? 基本何でも美味しいですよ」

「えっと、じゃあその、アイスコーヒー、を」


 たどたどしい口調でどうにか注文を終える。どうにも落ち着かなくて、メニューの手前に置かれたガムシロップを掌で転がす。藤花は何度目かわからない溜め息をつく。

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