赤い傘の女

月浦影ノ介

赤い傘の女

筆者が知人を通じてユミさん(仮名)と知り合ったのは、年明けから間もない、ある晴れた日の午後だった。歩道には先日降ったばかりの雪がまだ僅かに残っていて、すっかり葉の落ちた街路樹の枝が、冷たい北風に身を竦ませるように震えていた。

様々な怪異体験を持つというユミさんから話を伺うため、駅からほど近い喫茶店で待ち合わせることにした。

現れたユミさんは、セミロングの髪を柔らかな栗色に染めた小柄な女性であった。年齢は二十六歳。落ち着いた物腰のせいか、実年齢より少し大人びて見える。マンションに一人暮らしで、介護用品を扱う会社に勤めているという。

以下はそのユミさんが、まだ十代の頃に遭遇した体験談である。



・・・・・あれは、私が十六歳のときのことです。

春の盛りで、桜の花が満開に咲いていました。その前の年の暮れに両親が離婚して、私は母と一緒に母の実家近くのアパートに引っ越して来たばかりでした。

転校先の高校で上手くやって行けるか不安でいっぱいでしたが、一人だけすぐ仲良くなった女の子がいました。その子はクラスメイトで、名前を仮にケイちゃんとしておきますね。ショートカットで少し丸顔の可愛い子です。

私は人見知りなのもあって、友達を作るのがあまり上手ではなかったけど、ケイちゃんとはすぐ仲良くなれました。たまたま趣味が合ったんですね。好きな漫画とかアイドルとか。中学の頃、互いにバレーボール部に所属していたのも、気が合った理由の一つだと思います。

仲良くなってすぐ、ケイちゃんに家に遊びに来るよう誘われました。それで次の日曜日、駅で待ち合わせして、ケイちゃんの家に行くことになったんです。

そして約束の日曜日。あいにくその日は朝から雨でした。

駅の改札口を抜けると、ケイちゃんがそこで待っていてくれました。彼女の家は駅から歩いて二十分ぐらいの住宅地にあるそうです。私たちは互いに傘を開いて、並んで歩き出しました。

雨のせいでしょう。春だというのにひどく肌寒い日で、道行く人たちも普段より少し厚着をしているようでした。ケイちゃんと「寒いね」と繰り返しながら、吐く息が白かったのを覚えています。

駅前の通りをしばらく進むと、長い登り坂にぶつかりました。歩道沿いに桜並木がずっと続いていて、満開の桜は雨に打たれ、道の上に薄紅の花びらを散らしていました。

歩道脇の国道を、車がひっきりなしに往来しています。私たちは車が撥ねる水しぶきに注意しながら、坂道を登り始めました。

坂道の距離はざっと百メートルぐらいはあったでしょうか。その中程まで来て、私はあるものに気が付きました。

坂の頂上の少し手前辺り、桜の樹の陰に隠れるようにして、誰かが立っています。

だんだん近付くにつれ、その姿が少しづつ見えて来ました。

女の人のようでした。赤い傘を差して、服装は冬用の白っぽいロングコート。長い黒髪が背中の辺りまで垂れています。コートの裾から覗く二本の足は素足で、黒いパンプスのような靴を履いていました。

顔は赤い傘に隠れて見えません。でもその赤い傘の背後で、じっと俯いているらしいのが何故か分かりました。

その女の人は別に何をするでもなく、国道側に背を向け、桜の樹に寄り添うようにして、ただ静かに佇んでいます。

暗い灰色の雲が低く垂れ込めた空の下で、桜の花びらさえなんだか色褪せて見えるのに、その傘の色だけが、まるでモノクロ映像の一部分を着色したみたいに、一際鮮やかに赤いんです。


あゝ嫌だな、と思いました。直感的に、あれは生きている人間ではない、と気付いたんです。


私を紹介した人から聞いていると思いますけど、私はいわゆる“視える”体質なんです。

もの心付いたときからずっとそう。幼い頃は生きている人と死んだ人の区別があまり付かなくて、「あそこに着物を着たお婆さんが立ってるよ」なんて言って、よく周囲の大人たちに気味悪がられていました。

小学校の高学年くらいになると、そういうことは言わなくなりましたけど。どうせ言っても信じて貰えませんから。それに最近の言い方だと“中二病”・・・・・って言うんですか? 自分を特別な人間に見せたい承認欲求の強い子だ、みたいに思われるのも嫌だったので。それでも、相変わらず変なモノが視えることに変わりはありませんでしたが。

でも私、視えるだけでお祓いとかは出来ないんです。ああいうのは特別な訓練や修行が必要みたいで。

別にそこまでして祓えるようになりたいとは思いませんでした。そもそもどこに行って誰に習えば良いのか分からなかったし、変なカルト教団みたいなのに引っ掛かって洗脳されても困りますから。

両親の反応ですか? 母は私の体質を受け入れてくれましたが、父は嫌がってましたね。幽霊とか死後の世界とか信じない人でしたから。いま思えば、両親の離婚も私の体質のことが少しは影響したのかも知れません。

・・・・・・あ、ごめんなさい。話が逸れちゃいましたね。


私の隣を歩くケイちゃんは、その赤い傘の女の人に気付かない様子でした。当然ですよね。だって視えないんですから。

私も出来る限り、その女の人に気付かない振りをしました。

知ってます? ああいうのはうっかり目を合わせたり、存在に気付いたことを悟られると、ずっと付いて来てしまうことがあるんです。

自分を知って貰いたい、分かって欲しい、と思うのかも知れません。でも、そんなストーカーみたいに一方的に付きまとわれても困るでしょう?

だから、ああいう存在は無視するのが一番なんです。なかには霊が視えるのを羨ましがる人もいるけど、視える体質って本当に厄介なんですよ。

気付いたことに気付かれてはいけない。私は何気ないふうを装って、ケイちゃんにあれこれと話し掛けながら、その女の人の前を通り過ぎました。

全身の毛がゾワッと逆立って、心臓が縮み上がるような思いがしたけど、じっと我慢しました。いえ、決して比喩じゃなく、本当にそうなったと思います。

怖くて当然ですよね。だって相手は死人なんだから。

幽霊だって元は人間なんだから怖いはずがない、なんて言う人もいますが、そんなの嘘です。

人間にとって、死ぬって根源的な恐怖だと思うんです。死んだら絶対に生き返れない。その境界線の向こうに行ってしまったはずの人が、すぐ側にいるんですよ。怖くないはずがないんです。いるだけで怖いに決まってるんです。そういうのって、理屈じゃなく本能だと思うんです。

・・・・・・あ、ごめんなさい。また脱線しちゃいましたね。


とにかくその赤い傘を差した女の人の前を通り過ぎて、私たちは坂を登り切りました。

私は内心、ホッと安堵しました。あの女の人が付いて来る気配は感じません。帰りは遠回りになっても良いから、別の道を通ろうと思いました。

坂の上は交差点になっていて、私たちは赤信号で立ち止まりました。車の交通量が多いせいか、なかなか青に切り替わりません。

私の足元に小さな水溜りが出来ていました。覗き込むと、灰色の曇り空と、表情の冴えない私の顔を映しています。

雨は小降りになっていましたが、午後からまた強くなるという予報でした。足元の水溜りに視線を落としながら、この雨でせっかくの桜も散ってしまうんだろうなぁ、とぼんやり考えていました。


そのときです。背中から首筋の辺りにかけて、ぞわり・・・・・・と嫌な寒気が走ったのは。

背後に誰かが立っている。生きている人間でないのは気配で分かります。全身が痙攣するように細かく震えて、体の奥がしんと冷えるような感じがしました。この世の者でない存在が近付くときは、いつも必ずこうなるんです。

私は体を硬直させたまま、足元の水溜りをじっと見つめ、赤信号が早く青に替わるのを祈るような気持ちで待っていました。足が竦んで、とても振り返る余裕なんてありません。全身に鳥肌が立って、歯の根が合わずカチカチ鳴るのが分かりました。


やがて、足元の水溜りに映る私の顔のすぐ横に、なにか赤いものがチラリ、と見えました。

坂道の途中、桜の樹に寄り添うように佇んでいた、あの女の人の赤い傘の先端に違いないと理解するのに、一秒も掛からなかったと思います。

あゝ付いて来てしまったんだ、と絶望的な気持ちになりました。

隣のケイちゃんが何か話し掛けて来ますが、言葉は私の耳を素通りするばかりで、何を言っているのかさっぱり分かりません。

水溜りに映った赤い傘の先端が、ふいに動きました。水面の上で少しづつ少しづつ、まるで血が滲むように拡がって行きます。

私のすぐ真後ろに近付いているのだと分かりました。やがて傘の内側の黒い骨組みが見えて、このまま行けば、もう間もなく、傘を差す女の人の顔が映るはず・・・・・・。


・・・・・・嫌っ、近付かないでっ!


私は目をぎゅっと閉じ、思わず心のなかでそう叫んでいました。

その瞬間、すぐ前方で車の急ブレーキを掛ける音が響きました。それに続いて、何かがぶつかる大きな鈍い音。

反射的に音のした方向へ顔を向けると、目の前の横断歩道の白線の上に、黄色い雨合羽を着た小学生くらいの男の子がうつ伏せに倒れていました。その傍らには、前輪のひしゃげた青いサイクリングタイプの自転車が横倒しになっています。車に撥ねられたのだと、すぐに分かりました。

男の子を撥ねた車から、背広姿の男の人が降りて来て、男の子に駆け寄る様子がまるでスローモーションのようです。

周囲の歩道はすぐ野次馬でいっぱいになりました。私も隣に立つケイちゃんも、突然の出来事に唖然としてただ事の成り行きを見守るばかりです。

するとその野次馬の中から一人、三十代くらいの女の人が飛び出して、倒れたままの男の子に駆け寄りました。男の子の顔を覗き込み、しきりに何か話し掛けています。怪我の具合を確認するテキパキと手慣れた様子から、もしかすると看護師だったのかも知れません。

やがて男の子は自力で身を起こしました。幸い怪我はたいしたことがないようで、意識もはっきりしています。男の子はその女の人と車のドライバーに支えられるようにして、私たちがいる歩道へと連れて来られました。


そのとき私はふと我に返り、後ろを振り向きました。私の背後に迫っていた、あの赤い傘の女の人を思い出したのです。しかし、辺りを見回してもその姿はありません。

すると、周囲に集まった大勢の人だかりの向こうに、あの赤い傘の先端がちらりと見えました。

そのときのことを今でもはっきり覚えています。突然、周囲の音が遮断されたみたいに、とても静かでした。

事故現場と野次馬たちに背を向けて、赤い傘の女の人は坂道を下って行きます。その歩みはひどくのろのろとして遅く、まるで停止した時間の中をひっそりと漂うようで、やっぱり私たち生きている人間とは別の世界の住人なんだと改めて確信しました。

雨に濡れた桜の花びらがはらはらと舞って、でもその花びらは傘の上に積もることはなく、傘と女の人の後ろ姿を通り抜けて、冷たく汚れたアスファルトの上に静かに零れ落ちて行くのでした。

どこかでクラクションの高く鳴る音が響いて、うるさいほどの喧騒が戻って来ました。

赤い傘の女の人の姿は、いつの間にか見えなくなっていました。


救急車の到着を待つ間、例の看護師らしい女性が、男の子になぜいきなり飛び出したのか尋ねていました。どうやら男の子は赤信号にも関わらず、無謀にも横断歩道に侵入したらしいのです。

「赤い傘を差した女の人がここに立っていたんだ。そして、こっちにおいでって言うように僕を手招きして・・・・・」

男の子の答えに、私はもうこれ以上何も聞きたくないと思いました。そして青信号になったのを見て、ケイちゃんを促し、足早にそこを離れました。

「この交差点って昔から事故が多いんだよね。別に見通しは悪くないはずなのに」

隣を歩くケイちゃんが、そう不思議そうに話しました。

ぱらぱらと傘を打つ音が響いて、私はまた雨が強くなったことに気付きました。




・・・・・・・私の話はこれでお終いです。

帰りはもちろん違う道を選んで帰りました。駅まで送ると言うケイちゃんを無理に断って。

あの赤い傘の女の人が何者なのか、あの交差点で事故が多発するのは、その女の人に何か関係があるのか。そんなことは分からないし、別に知りたいとも思いません。

ただ聞くところによると、あの交差点では今も事故が絶えないそうです。

ケイちゃんにはその後も家に遊びに来るよう誘われましたが、なんとなくあの赤い傘の女の人のことを思い出して嫌な気持ちになり、理由を付けて断っているうちにだんだん疎遠になってしまいました。卒業後、高校の同窓会で一度顔を合わせましたが、今では連絡も取っていません。

え、他にも体験談が聞きたいですか?

まぁ、ありますけど・・・・・・、でも今日はもう止めておきましょう。

「怪を語れば怪に至る」って言いますよね。さっき話してる途中、店員さんが「いらっしゃいませ」って言ったけど、誰もお店に入って来なくて怪訝な表情したの覚えてます?

実は、いるんですよ。あの一番奥の隅っこの席。

作業服姿の男の人が座って、こっちを見ています。信じられませんか? うふふ・・・・・・。でもね、本当にあるんですよ。そういうことって。

だから、視えない方が幸せなんです。ほら、よく言いますよね。「知らぬが仏」って・・・・・・。

ええ、また機会があったらお話させてください。今日はありがとうございました。

それじゃあ、私はこれから用事があるので、これで失礼させて頂きますね。




そう言うと、ユミさんはバッグを手に喫茶店をあとにした。

むろん僅かだが謝礼を渡し、コーヒー代も筆者の奢りである。取材テープを確認し、気付いたことをメモしながら、さっきユミさんが言った店の奥の隅っこの席が気になった。

そこに作業服を着た男の姿など見えない。二人掛けのテーブル席が、柔らかな照明にぽつんと取り残されたように、侘びしく照らされているばかりである。

帰り際、レジで若い女性店員に「あそこの席に作業服姿の男がいるそうだよ」と告げたが、ひどく気味悪そうな目で睨まれ、無視されたことを最後に書き記しておく。


                (了)












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