月光航路

月浦影ノ介

月光航路

 刎ねられた女の首が宙を舞い、目が合った。


 それを美しいと、男は思った。



 女は遊女であった。恋仲となった若い侍に裏切られ、思い余った挙げ句、相手を刺し殺した。悪いのは侍の方であったが、それなりに高い身分だったために、女は打ち首獄門を申し渡されたのであった。

 その日、女は縄を打たれ刑場に引っ立てられた。集まった見物人たちの中から面白半分に石を投げる者がいたが、役人たちは制止しなかった。

 いよいよ首が落とされる段になり、言い残すことはないかと問われ、女は静かに首を振った。

 白刃が煌めき、血煙と共にその首が一瞬宙を舞い、地に落ちて転がった。男と目が合ったのは、その刹那の出来事である。血溜りがゆっくりと広がって、その色は辺りに咲く曼珠沙華のように鮮やかであった。


 女の首はそのまま刑場に晒された。


 やがて日が落ち、月が天上の高いところに差し掛かる頃、男が刑場に現れた。忍び足で辺りを窺い、晒された女の首の前でそっと立ち止まる。

 青白い月明かりに照らされて、血の気を失った女の生首はいよいよ美しかった。


 女がふと、目を開けた。そして静かに口を開いた。

 「どうか、わたしをここから連れ出してください」

 男が訊ねた。

 「何処へだね」

 「何処でも良いのです。ここで朽ちるのだけは嫌なのです」

 そしてはらはらと涙を零した。男は女が哀れに思えた。

 女の生首をそっと抱きかかえると、男は何処へともなく歩きだした。

 辺り一面に広がる曼珠沙華は煌々たる月明かりを受けて、まるで暗夜の足元を照らす灯し火のように静かに輝いていた。

 きっと彼岸への道行とは、このような光景に違いあるまいと男は思った。


 しばらく歩いて「本当に何処か行きたい処はないのかね」と男が再び訊ねた。

 女はしばし考え「では海へ行きたいと存じます」と答えた。

 「海か」

 「はい、幼いころ女衒に連れられて来る途中、海辺の村に立ち寄りました」

 女の生まれは北の貧しい村で、海を見たことがなかった。

 「遠くの水平線がお日様の光にきらきら輝いて、あゝなんて綺麗なんだろうって。もし生まれ変わったら、そのときは海が見える処が良いと思ったのです」

 「そうか」

 男は短く応じた。

 「海まではだいぶ遠いが行ってみよう」

 女は瞼を閉じ「かたじけのうございます」と、また涙を流した。


 やがて夜が白々と明けた。男は夜通し歩いたので少々くたびれた。

 腕の中の女の生首に「少し休んでも良いか」と訊ねたが、女は目を閉じたままで答えなかった。おそらく女が口を利くのは月の魔力のためであって、昼間はそれが失せるのだろうと思った。

 もりに囲まれた小さな稲荷を見つけ、その陰でしばらく休むことにした。女の生首を傍らに置き、人に見られぬよう自分の羽織を脱いでその上を覆った。

 草むらの上に横になり、男は眠った。


 目を醒ますと、日はだいぶ高いところにあった。往来を人の足や馬の蹄、荷車の行き交う音がする。

 男は女の首を羽織に包むと、立ち上がって往来を歩き出した。

 しばらく歩くと川が見えた。船着き場があり、対岸へ渡る客が並んでいた。その隣には荷を積んで港へ向かう帆船が繋留してある。なんとか帆船に潜り込めないかと、男は考えた。

 「船で川を下ろう。歩くよりはよほど早く海に辿り着ける」

 羽織の中の女にそっと声を掛けたが、やはり返事はなかった。


 船着き場へ向かう途中、ふと背後から「おい、そこの男…」と声がした。振り返るとニ人の役人が立っていて、こちらを胡乱な目付きで見据えていた。

 そのうちの年上の方と思われる侍が男に声を掛けた。

 「どこへ行くか」

 男は頭を低くして応えた。

 「へい、所用で対岸へ渡るところにございます。何かお尋ねにございましょうか」

 「うむ。昨夜、罪人の首が刑場から盗まれてな。その下手人を捜しておる」

 いま自分が抱えている女の首のことに違いないと、男は思った。

 「それは不届き者でございますな」

 「ところでお主、その羽織に包んだものは何か」

 役人の目がジロリと男を睨めつける。

 「何か滲んでおるようだが、それは血ではないのか」

 その言葉にはっと小脇に抱えた羽織を見ると、確かに赤いものが滲み出していた。

 「これは先程、…猪肉を買ったのでその血が滲み出したのでございましょう。向こう岸に住む親類が病弱なもので、こいつを食わせてやろうと思いまして」

 男はますます低頭し、咄嗟に浮かんだ言い訳を口にした。しかし役人は引き下がらなかった。

 「では念のため中身を改める」

 男は羽織に包んだものを大事そうに抱え身じろぎもしない。役人が苛立ったように「早く見せんか!」と語気を強めた。

 役人の手が羽織に掛かろうとする刹那、男は役人の腰に差した刀の柄を握ると、素早く引き抜いてその切っ先を彼の喉元に突き付けた。

 「何をする、下郎!」

 もう一人の役人が腰の刀に手を掛ける。

 男は踵を返すと、刀を振り回しながら川岸へ駆けた。周りにいた人々が蜘蛛の子を散らすようにワッと逃げ去った。


 男は跳躍した。そして今まさに岸を離れたばかりの一艘の小舟に跳び乗った。

 「全員、舟から下りろ」

 刀を突き付けると、船頭と客らは一斉に川へ飛び込んだ。

 男が棹を立てると舟は早くも流れに乗った。川岸を何事か叫びながら追い掛けて来る役人どもの姿がみるみる小さくなって行った。


 男は刀を川へ投げ捨てた。そして羽織を折り畳み、その上に女の顔が仰向けになるよう丁寧に置いた。

 やがて日が沈み、夜になった。抜き身の刃のような月が空に掛かった。


 女が静かに瞼を開けた。

 「あなた、大変なことになりました」

 昼間のことを言っているのだろう。

 「なんだ、気付いていたのか」

 「はい、目は見えず口は利けずとも、耳は聴こえておりました」

 女は申し訳なさそうに表情を曇らせた。

 「妾なんぞのために…」

 「なに、俺は元よりお尋ね者よ。今さら帰る処もない」

 男は孤児であった。幼い頃に盗賊の一味に拾われ、生きるため悪事に手を染めた。やがて仲間は皆、役人どもに召し捕られてしまった。男はまた一人になった。


 夜はしんしんと深くなり、月の光はいよいよ冴え渡った。

 虫の鳴く声が辺りに響き、風もないのに川岸を覆う草むらがときおりざわめいた。その茂みの奥から、こちらをじっと窺う気配は野に棲まう獣であろうか。

 遠くにちらちらと青い鬼火が揺れる。まつろわぬ亡者どもが彷徨う刻限であった。


 男が棹を立てるたび、夜の底を打つような水音が辺りに響いた。

 宵闇の薄衣を切り裂くようにして、舟の舳先はゆっくりと進む。ときどき夜空を音もなく星が流れた。

 透き通るような月明かりと共に、天上の調べが降って来るのではないかと思われるほどの、静かな夜であった。



 「海に着いたらどうするかね」と、男が訊ねた。

 「では、見晴らしの良い処を選んで、そこに妾を埋めてくださいまし」

 「それだけかい」

 「はい、それだけで良ござんす」

女は銀色の月を見つめ、夢見るような表情で瞳を潤ませた。

 「きっと妾は綺麗な花に生まれ変わって咲きましょう。そうしたらあなた、会いに来てくださいますか」

 「そうだな」

 男は答えた。

 「生きていたら、必ず会いに来よう」


 やがて川幅が徐々に広くなり、水量は膨れ上がって豊かになり、流れはひどく緩やかになった。海が近付いているのだ。

 もはや棹も川底に届かなかった。

 小舟は女の生首と男を乗せ、漂うが如くひっそりと流されて行く。

 暗く淀んだ水面に淡い銀の光が煌めいて、月の雫がそこに零れ落ちたかと思えた。

 男は棹を舟に上げた。そして腰を降ろすと、女の生首をそっと胸に抱き寄せた。

 女は何も言わなかった。男も何も言わなかった。

 水面に映る月は小舟を従え、寄る辺なき航路を導くように、いつまでもゆらゆらと揺れているのであった。


 夜が明ける頃、海へ出た。

 砂浜に小舟を乗り捨て、男は女の生首を胸に抱いて波打ち際を歩いた。女はまた喋らなくなっていた。

 潮騒に白く煙って、遥か前方に切り立った小さな岬が見える。そこまで歩いて岬の断崖に立つと、眼下に日の光に燦めく大海原が広がっていた。

 「ここで良いだろう」

 物言わぬ女にそう告げ、男は両手で地面を掻き出した。固い土であったが、指先の皮が破れ血が滲んでも、男は地面を掘り続けた。そしてようよう女の首が収まる程度の穴が出来上がった。

 「これでお別れだ。きっと綺麗な花に生まれ変わると良い」

 そして女の唇にそっと口づけして、羽織に包み、穴に収めると丁寧に土を掛けた。


 墓標のない墓に手を合わせて瞑目し、それから男は何処へともなく立ち去ったのであった。



 やがて季節は巡り、再び秋が訪れた。

 女の生首が埋められた岬には、血のように鮮やかな曼珠沙華が咲いた。

 それは年を追うごとに徐々に増え続け、いつしか岬を埋め尽くすまでになり、曼珠沙華の異名に因んで「幽霊岬」と呼ばれるようになった。一説によるとこの岬には、ときおり女の霊が立つからだとも伝えられる。


 遥かに海を見晴らす岬で、曼珠沙華は誰かを待つようにいつまでも揺れていたが、男がそこに現れることは二度となかった。


                 (了)








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