愛のある部屋

月浦影ノ介

愛のある部屋

転職を機に、引っ越すことにした。

駅から徒歩十分ほどの賃貸マンションの三階に、格安の部屋を見つける。同じマンションの他の部屋や、この辺りの相場と比べても格段に安い。

実際に部屋を見せて貰ったが、2LDKのそれは陽当りも良く、特に問題がありそうには見えなかった。スーパーやコンビニも近く、道を挟んだ向かい側には緑豊かな公園もあり、環境も悪くない。

迷わずここに決めた。しかし不動産会社の担当者は、なぜか浮かない顔をする。

おおよその見当は付いていたが、その表情を見て私は、この部屋の格安である理由を察した。


いわゆる「事故物件」というやつだ。


だが、この世に人の死なない場所などない。私が生まれ育った実家は田舎の旧家だが、先祖は皆そこで息を引き取ったのだ。もちろん先祖の幽霊など見たこともなければ、不吉な出来事に遭遇したこともない。しょせんは迷信である。

そんなことを気にしていたら、この世は事故物件だらけではないか。担当者に理由を訊くまでもなく、私は契約書にサインをした。


新生活は順調であった。新しい会社の上司や同僚たちとの関係も概ね良好だ。

私は毎朝、玄関先で妻に見送られて部屋を出る。料理上手で心優しい妻の存在が、私の支えであった。

ときどき会社の同僚に飲みに誘われるが、あまり酒の好きでない私はそれを断り帰ることにしている。

同僚の愚痴を聞かされながら旨くもない酒を呷るより、妻と話をしながら夕食を共にする方が遥かに大切だった。


新生活が始まって一ヶ月が過ぎた頃である。ある朝、出勤しようと部屋を出ると、廊下の向こうで黒いゴミ袋を抱えた男が立っていた。ゴミ出しにでも行くのかと思ったが、なぜかこちらの様子をしきりに気にしている。

青白い顔に眼鏡を掛けた、痩せて陰気そうな男である。

その視線が妙に意味ありげで執拗に感じ、私は躊躇わず男に近付くと、何かご用ですかと声を掛けた。

男は面食らった表情で視線を逸し、いえ…とか、はぁ…とか、よく分からない曖昧な返事をした。

日中、妻は部屋に一人きりになる。このマンションには独身の男も多い。

妻の姿を見掛けた男が何か邪な考えを持たないだろうか、私はそれをいつも警戒していた。


無言で男を見据える。男はしばし躊躇ったのち、おずおずとした様子で口を開いた。

「その…お宅の入ってる部屋、変わったこととかありませんか?」

「変わったこと?」

妙なことを訊く奴だ。何か誤魔化そうとしているのだろうか。

「いえ、聞いた話なんですけどね…」

男が急に声を潜め、話を続ける。

「あの部屋、何年か前に女の人が亡くなってるんですよ」

それがどうも自殺だったようで、と片手で自分の首を締める真似をする。首吊りだったと言いたいのだろう。

「それからというもの、あの部屋に入った人はすぐ出て行くようになっちゃって。三ヶ月と居た試しがないって話で」

それだけじゃないんですよ、と男はさらに声を潜めた。

「女の人以外にも、あの部屋ですでに二人が死んでるんです。それも皆んななぜか首吊り。それであの部屋は呪われてるとか変な噂が立つようになって、なかなか借り手が付かないもんだから、不動産会社も困ってるって話でした」

「なるほど、では私は久々に付いた借り手という訳ですね」

私は溜息を付いた。

「それで、あなたは人が死んだ現場を実際に見たんですか?」

その問いに男は首を振る。

「いえ、僕も最近になって越して来たばかりで…」

「では、単なる噂に過ぎないんですね」

私の言外に含んだもの言いに、何か不穏な気配を察したのだろう。男の態度が急にしどろもどろになった。

「いや、ちょっと、人づてにそんな話を聞いたもんで。心配というか気になっちゃって…」

「別に変わったことは何もありません」

私が微かに語気を強めると、男は青白い顔をますます青くして、それなら良いんですと消え入りそうな声で呟き、足早に階段の方向へと立ち去った。

その様子に私は再び溜息を付く。何が心配だ、どうせ単なる興味本位の癖に。

何度も言うが人の死なない場所などない。人が生きるということは、必ず死と隣り合わせなのだ。

マンションが建つ以前のこの土地にも、様々な人の生死があっただろう。そもそもこの街は戦時中に空襲を受け、夥しい数の死者を出している。人が死んだ部屋を事故物件というなら、この街全体がまさに事故物件ではないか。

だいたい二十一世紀のこの現代に、幽霊だの呪いだのの話も気に喰わない。

くだらない怪談など他所でやれ。朝から不快な気分にさせられ、私は吐き捨てるように毒づいた。


その夜、帰宅した私は妻に今朝の出来事を話した。今日は会社でも、あの男の話がなぜか頭から離れなかった。そのせいで仕事でもつまらないミスをして、上司に注意されてしまった。

男の話を信じる訳ではないが、私が唯一気掛かりなのは妻のことだけだった。

日中、何か変わったことはなかったかいと訊ねると、妻は何もなかったわと首を振る。

「あなたさえいてくれれば幸せよ」

テーブル越しに私の手を握る妻を見つめ、僕も幸せだとその手を握り返した。


それからニヶ月ほど過ぎたある日、実家の姉からメールがあり、久しぶりに二人で食事をすることにした。

用事があって近くに来たついでに、弟の様子を見て母に報告しようというのだろう。何かと口やかましい姉だが、姉弟仲は悪くなかった。

約束の時刻、すでに日の落ちた空に星明りはなく、店に着いた頃には雨が降り始めた。

窓際の席に座っていた姉は、私を見るなり開口一番「ずいぶん痩せたわね」と驚いた顔をした。

「ちゃんと食べてるの?食事を疎かにしたら駄目よ」

幼い子供を諭すような口調に、ついムッとした。

「ちゃんと食べてるさ。妻の手料理は美味しいんだ。姉さんも今度食べてみるといい」

そう答えると、姉が眉間に皺を寄せ、不可解そうな表情を浮かべた。


「あんた、いつ結婚したの?」


姉のその言葉に、私は虚を突かれたように押し黙った。


いつ結婚したのかって、それは……。


ずいぶん昔に読んだ本のページを一枚ずつ捲るように、私は記憶の断片を一つ一つ辿って行った。


転職を決意したときは一人だった。引っ越しを決めたのも一人だ。

一人で新しい住まいを探し、一人でマンションの契約を済ませ、引っ越すときも業者に頼んだ以外は一人でやった。

一人で食事を作り、一人で掃除や洗濯をし、一人でスーツにアイロンを掛け、一人で会社に出掛けた。


「いってらっしゃい…」と声が聴こえるようになったのは、いつの頃からだったろう。


ふいに頭が重くなった。こめかみの辺りに鈍い痛みが走る。急に目眩がして気分が悪くなり、私はテーブルの上に突っ伏して両手で頭を抱えた。


「ちょっとどうしたの。あんた何だか様子が変よ。顔色も妙に真っ青だし。ねぇ、大丈夫?」

口やかましい姉の声が耳元で響く。大丈夫だよ、と答えようとして舌がもつれた。

そういえば、最近はあまり大丈夫ではない気がする。仕事でもミスを連発して、上司や同僚たちとの関係も悪化の一途を辿っている。

このところ体調も優れない。つねに息苦しく、身体は鉛のように重い。

それが周囲から見ても分かるのだろう。今日はとうとう上司に呼び出され、少し仕事を休んで病院に行くよう勧められた。

自分は一体どうしてしまったのかと、不安と焦燥がまるで蜘蛛の巣のように心に絡みつく。


妻に会いたい、と思った。


玄関ドアの入り口に立って、朝は私を見送り、帰宅すれば必ず出迎えてくれる妻。料理が得意で、朗らかで心優しく、いつも私の手をそっと包み込むように握ってくれる。

長く柔らかな黒髪、白く細い指先と、形の良い耳。穏やかな微笑。

妻の姿を一つ一つ瞼に浮かべようとして、私はふとあることに気付いた。


妻の顔が、


妻の顔だけが、


どうしても思い出せないのだ。


そして私は自分が今まで一度も結婚したことがなく、この歳までずっと独り身であることをはっきりと思い出した。


あゝそれなら。


慄然たる思いが、足元から背筋を這い上がって来る。


……それなら私を部屋で待っている、あの女はいったい誰なのだ?


私の名を呼ぶ姉の声が遠ざかり、窓を打つ雨音が一段と強くなった気がした。


               (完)



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