La grande ville de l'art―芸術の都にて

工藤行人

リュクサンブール公園の真昼時

 夏は冷涼で名高いパリにあっても、ここ数日は運悪く三十度を超える日々が続いていた。それだから、雲一つ無い晴天下せいてんかで歩いていれば、汗ばむなというほうが無理な話であった。彼が手にしたベージュのベロア地のハンカチは額や首筋の汗を吸ってその色を濃くし始めていた。


 ルーヴル美術館を出た智彦は、隣接するテュイルリー庭園には行かず、あらかじめ菜穂子に言われたとおりポンデザールを渡ってセーヌ川を越え、マラケ通りからセーヌ通りに入ってリュクサンブール公園への途次みちすがらにあった。狭い通り沿いには、その色彩においても、そしてなべて均一な高さであるという点においてもミルフィーユやオペラのようなケーキのたぐいに似た、古めかしくも可愛らしさをうしなわない建物が延々とのきを連ね、昼前の陽光を反射していた。

 ようやくオデオン座の脇に――吉祥寺オデヲンはここが由来なのだろうなと今さら思い出しながら――出ると、フランスの上院である元老院が置かれたリュクサンブール宮殿が視圏に収まってくる。その前庭は公園として市民に開放されていた。

 公園には智彦のたけの倍はあろうかという高い鉄柵がくじらひげのようにめぐらされていたが、不自然に開いたごく狭く小さな、果たして入って良いものかどうか躊躇ためらうほどの、まさに「隙間」と呼ぶに相応しい入り口があって、智彦はそこから園内に足を踏み入れた。

 木陰に沿って歩いて行くと、すぐに待ち合わせ場所のメディシスの泉に辿り着く。菜穂子はまだ来ていなかった。れる幾条いくじょうもの光の杖がなもを貫いていた。智彦はよけの木に寄り添って置かれたベンチに腰掛けた。周囲は老若とりどりのカップルばかりで、一人でいるのは智彦だけだった。

 公園の景色と人々を見巡らすのにも飽きてふと、手持ちぶさたにトートバッグから文庫本を取り出そうとすると、相変わらず子どもっぽいいろと白のギンガムチェックのワンピースを着た菜穂子が傍らに一人の女性を伴って歩いてくるのを認めて、智彦は立ち上がった。手を振りながら近づいていくと、菜穂子たちもそれに気づいて小走りしてきた。

 半年ぶりであった。菜穂子は開口一番、「久しぶり」ではなく「なんだか疲れた顔してるね」と言ったので、智彦は思わず吹き出しそうになったが、彼の関心は久闊きゅうかつの恋人から離れて、彼女と並んで立つ女性にすでに移っていた。

 白く小さな花柄で埋め尽くされた紫紺地しこんじのノースリーブのワンピースに身を包んだその女性は、意志の強そうな琥珀色こはくいろの瞳をしていた。二つの河がうねうねと蛇行するように強いウェーブがかかったダークブラウンの前髪が左右に流れ、そのデルタにはアコヤ貝の裏側のように光沢のある綺麗な額が輝いていた。

「彼女はフランス人の友人でルイーズ。同じ大学で勉強しているの」

と菜穂子は彼女を紹介した。ルイーズは「ハジメ、マ、シテ」と辿辿たどたどしい日本語で智彦に挨拶した。

 慣れない外国の言葉を発するとき、人はどうしても幼くならざるを得ない。その効果に加えて、ルイーズの挨拶の語尾が質問調に上がったことで、智彦はその外連味けれんみのないコケトリーに打たれた。

「初めまして。Je suis Tomohiko Matsumiya.《松宮智彦です》」

智彦とルイーズは握手を交わした。ふくよかな手首に巻かれた腕時計の深紅しんくの細い革バンドが彼女の肌の白さを際立たせていた。

「行こう。Allons-y.」

と菜穂子が促し、三人は宮殿の前の池に向かって歩を進めた。

――Quelles sont vos impressions sur Paris ?

  《パリの印象はどう?》

――Le ciel bleu est très large. Le paysage urbain est ordonné et très différent de celui de Tokyo.

  《空が青くてとても広い。街並みが秩序を保っていて、東京と全然違うね》

――Tu aimes les quartiers anciens?

  《古い街並みが好きなの?》

――Oui.

  《うん》

 先導する菜穂子に少し遅れて、智彦とルイーズはそんな他愛ない会話をしながら歩いた。道に敷き詰められた細かい白砂利しろじゃりが陽射しを受けて照り輝いていた。あっという間に三人の靴の爪先は、まるでおしろいを叩いたかのようにうっす砂埃すなぼこりまとった。

 菜穂子が「ほら、あれ」と左の方を指さした。智彦が視線を移すと、木々がそこだけ左右に開け、台座の上で両腕を広げながら片手に角杯リュトンを握った彫像の背後から伸びる直線上に聖ジュヌヴィエーヴの祠堂しどうであるパンテオンのドームが見えた。新古典主義建築の傑作であるこの建物は、学術の殿堂が集うカルチェ・ラタンの象徴の一つであり、また地下にキュリー夫妻やデュマ、ベルクソンなどの偉人が埋葬されている墓所であり、そして隣接するパリ第一大学がパンテオン・ソルボンヌと呼称される所以ゆえんの建物でもあった。菜穂子はそのパンテオン・ソルボンヌで歴史学を学んでいた。

 

 暇を持て余した地上の神々が、陽射しを避けて木陰のベンチで涼を取る楽園エリュシオン。園内の様子はまさにそんな風であった。宮殿を正面から臨んで振り返ると、平行に配された塀のようにマロニエの並木が幾列にも伸び、さらにそれを鬱蒼とした木々が囲繞いにょうしていた。相変わらず空は青く抜けていた。

 三人は階段を上った処にあるベンチに腰を下ろしたが、よくよく聞いてみれば徹夜明けだという菜穂子とルイーズは、ルイーズの待ち人が来るまで少し眠らせて欲しいと言って、智彦を置き去りに、二人して夢の世界へと旅立っていった。それで智彦は仕方なく眼前に開けた神々の園のパノラマをぼんやりと眺めた。

 日本では中々お目に掛かれない、まさしく絵画のようなこの公園もつぶさに見れば、あちこちに違和感を禁じ得ない幾つかのほころびを抱えていることに智彦は気づいた。それはいはく言いがたかったが、強いて言えば、機能が美を駆逐くちくしてしまったかのような、もともと在ったものに新たに付け足されたものが混和した結果として現出したようなちぐはぐであった。完成時の絶頂からときて、公園は往時の雰囲気を喪ってうらぶれているのだろうと智彦には思われた。誰かの庭園ではなく万人の公園となったリュクサンブールが、園内のあちらこちらに鎮座するフランス歴代の王妃たちの彫像の物言わぬ光無き冷たい視線にさらされているように感じられたとしても、それは道理であった。今、王妃たちはこの庭の風景を台座の上からへいげいして何を思うのだろうか、と智彦は考えた。

 

 携帯電話が震え、ルイーズが目を醒まし、そして並んで眠る菜穂子を起こした。程なくして一人の男性が三人の座るベンチに近付いてきた。その姿を認めるとルイーズはまりのように跳ねて、男性のもとへと吸い寄せられていった。男性はティメオと言って、ルイーズの恋人だった。すいいろの瞳がなまめかしく、シャギーを入れて軽くした髪も口元からほおを覆うひげも滑らかな黄金をたたえ、コバルトブルーのパナマシャツのしちそでから伸びる腕までもがやはり黄金のたくましい毛に覆われていた。背中にはギターらしき楽器を負っていた。

――À la prochaine.

  《じゃあまたね》

とルイーズは言ってティメオの腕に自分の腕を絡めた。

――Bon après-midi.

  《良い午後を》

とだけティメオも言い、智彦と菜穂子もそれに応えて別れを告げた。背を向けて歩き出した二人を見守っていると、ルイーズが一度こちらを振り向いて、おどけたように大げさに天高く別れのてのひらを挙げた。その時、彼女の腋窩えきかに秘されていた天鵞絨ビロードのような柔毛じゅうもうの芝生があらわになった。智彦にはそれが、いかなる言語をも凌駕りょうがする親愛の表明のように思われた。

 遠ざかっていくルイーズとティメオは、やがて智彦と菜穂子の視線があるのを忘れてしまったかのように、否、それとも二人に見せびらかすつもりだろうか、歩きながらお互いの唇をついばみ始めた。

 木々の葉を揺らす爽やかな風が吹き抜けた。おもむろに菜穂子が頭をかしげ、隣り合う智彦の右肩を押した。ぎ慣れた懐かしい、しかし今日は少し汗っぽい菜穂子の髪の匂いが智彦のこうをかすめた。

 しばらくの間、二人はそのまま眼前の緑と開けた紺碧こんぺきの空、そして人々の往来を眺めていたが、

「そろそろ僕たちも行こう」

と智彦が言ったので、菜穂子は智彦のパリ滞在中の宿となる彼女のアパルトマンへと彼を導いた。


※ミラン・クンデラ『無意味の祝祭』第1部に着想を得て。

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