第3話

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「エ……マさんなの? 随分年上に感じたけど」

「妖界と人間界では、時間の流れが違うのです。その差は約五倍。エマが失踪したのは三年前だが、その後、ここ、人間界にいたエマには約十五年の歳月が経ったことになる、というわけです」 

 再び最初に落ちた物置に戻ってきたセイジュは、子どもなど眼中に無いかのように、横をスッとすり抜けた。

 屈み込み、コンクリートの床に落ちていた物を拾い上げた。

 セイジュが拾い上げたものは、薔薇の花を模った土台に、深い緑色の石をはめこんだ指輪だった。指輪の裏側には、文字が刻まれていた。

 それは、人間界のものでもない、指輪に刻んだ者だけがわかる暗号の文字だった。

『愛するエマへ』

 セイジュは、その文字を指で確かめるようになぞると、指輪をその手の中に握りしめた。

「セイジュ?」

 大切なものを見つけたかのようにするセイジュに、エリザが覗き込む。

「この指輪は……。俺がエマにあげたものなんだ」

「エマさんに?」

「ああ」

「でも、本当にエマさん? セイジュの顔見ても何もなかったわよ?」

「エマです。多分、何かがあって記憶を無くしたのでしょう」

「え? 記憶喪失ってこと?」

「多分……」

「例え記憶が無くても、セイジュのお姉さんには変わりないわよ! セイジュが覚えていてあげればいいんだから。ね、もう帰ろう。セイジュの任務はもう終わったのよ。こんな所にいても何もならないわ」

「まだ帰れない」

「どうして!」

「貴女も気づいたでしょう? 今のエマには、全くと言っていいほど妖力を感じなかった。妖力はそう簡単に隠せるものじゃない。俺達は、エマの妖力に引き寄せられてここに来たんだ。だけど、今のエマにはその妖力は無い。どういうことだ? それに、さっきのハルキという子ども。あれはおそらくエマの子どもだろう。エマの……。妖魔人の血をひいているのか――」

「妖魔人ってこと?」

「それは、まだわかりません。だが……明らかに、あの子どもの瞳は人間のものではなかった」

 一瞬だけだった。だが、見間違いなどでは決してない。確かに晴樹に両目は赤く光りを放っていた。

「あいつに聞くとするか」

 セイジュは、地面にうつ伏せになって倒れている子どものもとへと舞い戻った。そしてその子どもを肩にかつぎあげると、家の中に寝かせた。

「さっきの瞳の色いい、普通の人間の子どもじゃないわよね? やっぱりエマさんの子どもかしら? それにしても、ずいぶんときれいな顔立ちしてる子ね。女の子? ねえ、エマさんに似てる?」

 気を失ってしまったため、閉ざされたまぶたで瞳の色は確認できない。

 エリザは、エマに似た顔立ちの子どもの、白くなめらかな頬を指先で軽くつついてみたりしていた。

「――男だ」

 だから遠慮はいらないといわんばかりに、セイジュは乱暴に晴樹の肩を掴んだ。

「……う……ん」

晴樹が意識を取り戻すと、そこは見慣れた天井が見えた。

寝ているのは畳の上。すぐそばに縁側と、向こうには庭が見える。ここはうちの和室だとすぐに気づいた

どうして? 確か、物置に居たはず――。

そう思い出しかけようとしたのもつかの間、晴樹は腕を掴まれ、強引に引き起こされた。

覚醒したばかりの頭が、ぐわんと揺れる。

「おい、おまえ。意識が戻ったなら、さっさと目を開いてこれを見ろ」

 引き起こされたと共に、セイジュとエリザによって晴樹の両サイドを固められたように思えた。

 見知らぬ者に逃げ場を閉ざされ、セイジュからは目に見えない何か、異様な圧力を感じさせられた。殺気立っていたのはセイジュだけなのだが、見知らぬ二人に詰め寄られた晴樹には同じこと。

 例えようのない恐怖に、晴樹の体が小刻みに震えた。

 セイジュは晴樹の腕を離すと、代わりに晴樹の目の前に指輪を突き出した。

「おまえ、これを使って何をした?」

「……」

「おい、聞いているのか!」

 セイジュが声を荒げると、晴樹は指輪を見つめたままビクンと体を震わせた。

「何もしてないよ! ただ、何だろうと思ってさわってみただけだって! したら、急にすごい勢いで光りだして――」

「そうね。何もならないわね。本当にこの指輪が光ったの? なぜかしら? この指輪にエマさんの妖力が封印されていたってことかしら?」

 エリザの言うように、エマの妖力がこの指輪に封印されている可能性は、セイジュも考えた。

「エマの妖力が封印されていた可能性はあります。ですが、それならば、簡単に封印がとけるはずはありません。多分、持つ者によるのでしょう。その証拠に、こいつの前にかざすとわずかだが反応がある」

 セイジュが晴樹の前に指輪をかざすと、石が淡く光った。

「おい、おまえ。この指輪をどこで手に入れた? さわったのは今日が初めてか?」

 おびえる晴樹などおかまいなしに、セイジュはたたみかけるように問うた。セイジュにとっても大切な指輪だ。無意識に力が入り、晴樹の肩をゆさぶっていた。

「セイジュ、乱暴はダメよ! ただでさえ人間には関わっちゃいけないのに」

 エリザがそう言って間に入るとセイジュは、晴樹の肩を鷲掴みにして揺らしていたその手を止めた。

「……チッ!」

 苛立たしく舌打ちをして、晴樹から乱暴に手を離す。

「うわぁっ……!」

 晴樹は後ろに突き飛ばされる格好になったが、バランスを崩しそうになった背中を、そっと抱え込むようにしてエリザが支えた。

「もう、乱暴はダメって言ってるのに! どうしたのよ? いつものセイジュらしくないわよ?」

「ッ……」

そう言われて、セイジュは初めて自分の口調やふるまいに気づいた。人間界に来ているせいで、妖魔界のしがらみから多少開放されたような気分になれたからだろうか。

D居住区は監視されているが、カメラが設置されているのは入り口とゲートの付近だけだ。割り当てられた個室では唯一、気の抜けるはずなのに、思えば自分の不幸を呪う独り言を呟くでもなかった。感情などなく、ただ、ため息ばかりをくり返していた。

 それが、さっきは無意識のうちに舌打ちまでして感情をあらわにしていた。ウォルフェンデール家のご令嬢であるエリザの前だというのにもかかわらずに。

「――失礼しました。エリザ様」

「謝ることなんてないのよ。ただ、初めて見たから少しびっくりしただけ。セイジュはいつも感情を押し殺しすぎなんだもの。熱いセイジュも素敵よ」

 晴樹には、セイジュとエリザが何について話しているのか、まったく意味がわからなかった。

 いきなり押しかけてきて何なんだ、この二人は。恐怖や動揺も少し落ち着いてきた晴樹は、畳の上で後ろ手を突いてジリジリと後ずさりながらも、自分を取り囲むセイジュとエリザを盗み見た。

 セイジュは、イラつきを誤魔化すかのように、髪を手でクシャクシャと掻きむしっていた。

 逃げ出す機会をうかがっていると、セイジュと瞳が合ってしまった。

 やばい! 殺される! と、晴樹が身構えたその時、ふすまが開いた。

顔をのぞかせたのは、晴樹の母親のエマだった。

「母さん! 来ちゃダメだ! こいつら不法侵入っ! 早く警察に電話して!」

 咄嗟に、助けを求めるようと叫んだが、エマは笑っているだけだった。

「晴樹ったら何をふざけてるの。いくら従兄弟だからって、そんな冗談言ったら失礼よ」

「従兄弟!?」

 父も母も、お互いに養護施設で育ったので身寄りがない。だから、晴樹にはおじいちゃんもおばあちゃんもいないのよと、小さいころから聞かされていた。親戚もいなかった。そのはずなのに、急に従兄弟だなんておかしすぎる。

「母さん何言い出すんだよ! オレに従兄弟なんていないだろ!?」

「晴樹は初めて会うんだったかしら? ほら、パパの弟さんの家のセイジュくんとエリザちゃんよ」

「父さんに弟なんて聞いてない! だいたい、父さんの弟の子どもが何で外人なんだよ! 母さん変だよ? しっかりしてくれよ!」

「もう、晴樹ってば! パパの弟さんはフランス人の奥さんもらって、パリに住んでるって言ってあったでしょ? ママの話をちゃんと聞いてくれないんだから」

「そんな話、初耳だよ!」

「ママはちゃんと言いましたー」

 エマは、嘘を言っているようにも、ふざけているようにも見えない。ありえないことなのに、なぜか本気で言っている。

「母さん!」

 問いただそうとする晴樹に、セイジュが割り入った。

「エマ伯母さん。ちょっと疲れたので休ませてもらいたいんですが、いいですか?」

「あら、気が付かなくてごめんなさいね。長旅だものそうよね」

「部屋は、二階の晴樹くんの隣り使わせてもらってよかったんですよね?」

「ええ、そうしてちょうだい」

「ちょっ……!」

 セイジュに口を押さえられて、晴樹は抱えられるようにして身動きを封じられた。

「では、お言葉に甘えて休ませてもらいます。じゃあ、晴樹くん。一緒に行こうか。初対面の従兄弟同士、色々と積もる話でもしよう」

「……!」

 封じられた口の中では、「放しやがれこのバカ野郎!」と、叫んでいたのだが、晴樹は引きずられるようにして階段を上らされた。

 二階に来て、ようやく口と体が開放された。

「おい! 母さんに何か変な術とかかけただろ! どういうつもりだよ!」

「さあね」

 自分の存在理由は、この生まれ持った妖力だけ。インペリアルローズの名に恥じぬよう、ウォルフェンデール家に少しでも貢献できるよう、ただそれだけを思って生きてきた。だから、どんな好奇な目にも中傷にも無関心でいられた。けれど、目の前の晴樹にはなぜかその思い通りにいかない。

 妖魔人ではないせいか。

 晴樹の部屋の隣に用意したとエマが言った部屋に、エリザを先に通し、セイジュも後に続いた。

もう既に閉ざされたドアの前で、晴樹はいったいどうなっているのだと、目が点になるだけだった。

再度エマに聞いても、従兄弟だとの、同じ答えしか返ってこなかった。

晴樹は、自室に戻って考えてみたが、やはりおかしいのは確かだと思った。

そんな時、一瞬だけガタッという物音と、地震のような縦揺れが一度あった。気になってこっそり壁に耳をあてて聞き耳をたててみても、隣は異様なほど静かだった。

晴樹には見ることができなかったが、セイジュが貴族であるエリザが快適に過ごせるように、妖力で部屋を大きくし、内装もエリザの屋敷と同じように造り替えていたのだった。

「なんなんだ? わけわからねぇ」

あの二人のことは、とりあえずもう一度母親に確認しなおそう。そう思ってへばりついていた壁から身を起こして離れたのだが、次の瞬間、また壁にピッタリとくっつくハメになった。

部屋の中には、いつの間にかセイジュが立っていたのだ。

「うわぁっ!」

 すっとんきょうな声を上げて、後ずさりをした。逃げ道などないから、自然と壁に背中と両手をつける格好になってしまった。

「ななな……なんで、こここ……」

「聞き耳たてるなんて不躾なやつだな。このクソガキ」

セイジュはそう吐き捨てると、窓際に置かれていた晴樹のベッドに潜り込んだ。

なにもされないのかと、ひとまずは安心した晴樹は、壁際から叫んだ。

「何でおまえがここに居るんだよ! つーか、人のベッドで寝るな!」

「うるさいな。疲れてるんだ。静かにしろ」

「だったら隣の部屋に行けばいいだろ! か、彼女なんだろ? エリザさんって!」

「おまえに関係ない」

「関係なくない! だいたいおまえらいったい何者なんだよ! ウチの母さんをだましたり!」

「……」

 晴樹の問いかけに、セイジュは答えなかった。エリザは同じ部屋で過ごしましょうと言ったが、年頃の男女が同じ部屋で過ごすわけにはいかないというのがセイジュの持論だった。それにエリザには、ルークという婚約者候補がいるのだ。誰の監視もないが、それでもセイジュは自分は身を引くべきと考えていた。

 現に母親が操られたようになっているし、こうもおかしなことがあっては、晴樹も黙ってはいられない。小学生とはいえ、男なのだから、父親の留守の時は自分が家族を守らなければならないと思っていた。だから、早く母親にかけられたであろう術をとかせて、あやしい二人を追い出さなければならないと、自分を奮いたたせた。

「おい! 無視すんなって! 母さんを元に戻せ! そして、一刻も早くこの家から出て行け!」

 晴樹は、セイジュから布団をはぎとって叫んだ。

「うるせえな」

 疲れていたのは本当で、半分眠りに入りかけていたセイジュは、うっとうしそうに目を開けた。

「俺たちは、妖魔界から来た妖魔人だ。ちなみに、おまえの母親も妖魔人」

 晴樹に背中を向けたまま、セイジュはそう言い放った。

「はあ? 母さんがようまじん? なんだよ、それ! そんなの信じられない!」

「なら信じなければいいだろう。おまえの勝手だ」

 どっちが勝手なんだよ! と言いたいもの

も、晴樹はまだ恐怖がぬぐいきれなかったため、我慢した。

「でたらめ言うな! この不法侵入者! 早く出て行け!」

 そう叫ぶのが精一杯だった。

 晴樹がギャアギャアと叫ぶのがうるさかったのか、セイジュはむくりとその身を起こした。ベッドに腰掛けたまま、晴樹をにらむ。

晴樹は、その目だけで腰くだけてしまった。

「ならば、おまえにも理解できるように見せてやろう」

 セイジュは左足を組んでさもリラックスした格好になると、右手を宙に浮かべた。その細く長い指先は、まっすぐに晴樹の瞳を捕らえていた。

 突然、空気を切り裂くような音が晴樹の耳の奥に響いた。続いて突風にさらされて、晴樹は両手で身体を覆った。

 風が過ぎ去り、晴樹が顔を上げると、目に前には両手を大きく広げて、先ほど見た足を組んだ姿勢のまま宙に浮かび上がってるセイジュの姿があった。

 この沈黙をあらわしているように瞳を閉じたセイジュの金髪が、ふわりと揺れていた。

 人が宙に浮かぶなんて信じられない。晴樹は、次々と起こる不思議な現象に、完全に腰をぬかしていた。これからセイジュが見せようとしているものなど見当もつかない。だけど、あのセイジュの目が開いた時がその時だということだけは直感でわかっておびえた。

 セイジュの目が開いたその瞬間、セイジュが背にしていた晴樹の部屋の窓ガラスに亀裂が入った。そして、一階から二階まで駆け上げるように、バリバリバリッと、家を引き裂くような音が鳴った。

 カタカタカタッと細かい揺れが亀裂を大きくし、やがて亀裂の入ったガラスが割れ、破片へと変えた。ガシャンと大きな音を立ててガラスの破片が床に散らばった。

 セイジュはひとさし指でクイと持ち上げる仕草をした。実際には触れずに、妖力でその破片の中から鋭いものを一枚選んで宙に浮かせた。

 破片は重力に逆らい、セイジュと晴樹の間で浮いていた。その破片の先は、晴樹に向って静止した。

 セイジュが立てたひとさし指を晴樹へと倒すと、静止していた破片は一気に晴樹へと突進を始めた。

 鋭く尖った破片の先が、猛スピードで晴樹の目の前に迫る。

 恐怖で、逃げ出すことなんて不可能だった。

 あとできることと言えば、これだけの攻撃には意味がないとわかっていても、身を守ろうと両腕を前でクロスさせることと、目を瞑って悲鳴を上げるくらいしかなかった。

「うわああああああああああっ!」

 だが、恐れていた痛みはこなかった。

 恐る恐るまぶたを持ち上げると、ガラスの破片は、晴樹の目の前、数十センチの所で再び静止していた。

 晴樹がとまどっていると、セイジュは、ふたたびひとさし指を使った。

 すると、まるで映像を巻き戻ししたかのように、元通りになっていくガラス片。亀裂が入った窓ガラスも元通りになっていた。

「今のは幻覚だ。だが、実際にガラスを襲わせることも、幻覚を現実のものとすることも可能だ。これくらいのことは、高度の妖力を操る者なら誰でもできる」

「母さんも?」

「エマは……。全ての妖力を失っている。今は何の能力も持たない。何もできない、ただの人間と同じだ」

 そう、今のエマは『人間』なんだ。

 君は自由だ。そう、セイジュは心の中で呟いた。

「母さんは何もできなくなんかない! 料理だって得意だし!」

「料理か」

 そう言って、「そうか」と呟いたセイジュの表情が、一瞬笑ったように見えた。

『ママ。王宮の採用試験に合格したから、お料理教えて』

『おめでとうエマ。だけど、お母さんの自己流が向こうに通用するかわからないわよ?』

『ううん、いいの。わたし、お菓子作りは好きだけど、お料理はあんまりしてこなかったから、一応基本を習っておきたいなって思ったの。他の子たちは優秀だろし』

『いいわよ。じゃあ、さっそく今晩から。あなたのお祝いのだけど』

『ありがとう』

 思い出したのは、エマの宮仕えが決まった日のエマと母とのやりとり。二人はうれしそうに、その晩のごちそうを作っていたことをセイジュは思い出した。

 一方で晴樹は、初めてセイジュの優しい表情を見た気がして、再び横になろうとするセイジュの背中に向って、思わず呼び止めてしまった。

「待って!」

 その声に、セイジュはゆっくりと振り向いた。

 ジロリと睨まれたような気がして、晴樹はひるんだ。

「そ、その…。一つだけ、聞きたいことがあるんだけど」 

 晴樹は勇気を振りしぼってそう切り出した。

「あんたさ、『セイジュ』っていうんだろ?」

「それがどうした」

「父さんが言ってた。オレの名前の由来は、『セイジュ』。晴樹は、『セイジュ』という名前も併せ持っているんだって。何それ? って聞いたら、セイジュはとても優しい子の名前だって。その子のように、オレにも優しい心を持って母さんを大切にするようにって」

 セイジュは、姉のエマに対していつも優しく接していた。

「父さんが言ってたセイジュって、もしかしてあんたのことなんじゃないかって、さ」

「偶然だろう。俺は、おまえの父親なんか知らない」

「でも――」

 晴樹が食い下がると、セイジュは再びその身を起こした。

「いい機会だ。おまえ、俺が何しに来たのかって聞いてたな。喜べ。教えてやる。それはな――」

 ごくりと、晴樹はつばをのんだ。

「おまえの両親は、妖魔界から逃亡してきた妖魔人だ。そして、人間界にいる妖魔人を捕らえ、場合によっては処刑するのが俺の任務だ。おまえも、妖力が確認されればその対象になるってことだ」

「そ……んな……」

晴樹はみるみるうちに顔色をなくし、おびえるように部屋から出て行った。

 殺すぞ。と、言ったようなものだ。当然の反応だろう。

 だが、あそこまで教えるつもりなどなかった。なぜ言ってしまったのかは、セイジュも自分でもよくわからなかった。

 晴樹を前にすると、自分が抑えられない。

 ひどい言葉も口にしてしまう。それがなぜなのか、わからなかった。

 晴樹の名前にそんな由来があったのには驚いた。エマの夫であり、晴樹の父親。この人間界では『森咲(もりさき)秋世(しゆうせい)』と名乗る男とは、妖魔界でも一度しか会ったことがなかった。それも、会ったと言っていいかどうかもわからないほどで、言葉すら交わす機会もなかった。

 エマの弟としての認識はあったとは思っていたが、まさか子どもの名付けに自分の名前が使われていたとは。

 エマを、妖魔界から逃亡させるほど追い詰め、両親にいたっては、彼に殺されたようなもの。セイジュには、どうでもいいと思っていた存在の男。

 わからなくなった。

 当初の予定通り、一人で人間界へ来ていたならば、セイジュはただ、言葉を交わさなくともエマの健在を知れればそれだけでいいと思っていた。

 もちろん、命令に従って妖魔界に連れ戻す気などなかった。

 今まで三年間、エマの消息は全くといっていいほど手がかりがなかったのだ。このままそっとして、もし少しでも危険がありそうなら、自分の妖力でより強固な結界で守ってあげようと思っていた。

 国王からの勅命に背くのだ。そんなことをすれば、妖魔界から連絡をよこさないセイジュに不審を抱いた者たちに、用済みだと殺されるのだろう。

 それでいいと思っていた。

 だが、エリザがついて来てしまったことで事情が変わってしまった。

 エリザはウォルフェンデール家のご令嬢として丁重に扱われ、人間界へ来たこともセイジュが無理矢理連れ出したこととなって、不問とされるだろう。

 名家のご令嬢ということで、表向きは取り調べなど無礼な真似はできないが、記憶を読み取る妖力に長けた妖力者に、人間界で見聞きしたことを、エリザの記憶を通してすべて知られてしまうことだろう。

 そうなったら――。

 セイジュ自身は、処刑されてもいいと思っていた。

 けれど、エマには生きていてほしい。

 妖魔界で叶わなかった分、縁もゆかりもないただの逃亡先であったとしても、人間界で幸せになってほしい。

 エマが幸せでいられる場所。エマを素敵な笑顔にさせるのは、この家なのだろう。

 エマを守るためには、彼女の家族も守らなければならない。

『一、エマ・カルヴァードは発見次第、身柄を拘束。妖魔界へ連行すること。

 一、エマ・カルヴァードが接触したと思われる人間は、例外なくエマ・カルヴァードや妖魔界に関する記憶を削除。また、その人間はすべて報告し、生涯にわたって妖魔界の監視下とすること。

 一、エマ・カルヴァードに関するあらゆる記録は、妖魔界・人間界においてすべて抹殺すること。

 一、これらの任務に支障をきたし、やむをえない場合は、エマ・カルヴァード及び、関わりのあったと思われる人間の殺害を認める。

 ただし、エマ・カルヴァードと人間、もしくは妖魔人との間に子がいた場合は、例外なく子をすべて殺害すること。

 父親が妖魔人であった場合は、身柄を拘束。妖魔界へ連行すること』

 国王から正式に任命されたセイジュが、特務隊の隊長から仰せつかった任務の内容だ。

 受け入れがたい任務だったが、セイジュの目的は妖魔界から逃げ出し、たとえ会えなくともエマのそばへ行くこと。最初から任務を遂行する気などなかったから、気にもとめていなかった。

 エマの夫である男は、セイジュにとってはどうでもいい存在。むしろ、エマをたぶらかした張本人として怒りを感じるだけで、同情などあるはずがない。任務の遂行にも、なんの躊躇う必要もない。ただ、エマが悲しむとわかっているからできないだけだ。

 そして、それはエマの子、晴樹も同じだった。

 セイジュは、開いた自身の両てのひらを見つめた。

 あの子を殺す? この手で……?

 右手には、人差し指にインペリアルローズの証であるの指輪。白金をベースにしたこの指輪は、インペリアルローズの刻印とともに、薔薇と赤い色の魔石がはめこまれている。

そして左の手のひらには……。

『八六二三』

 D居住区で、セイジュに与えられた認識番号が烙印されていた。

 誰かの命を奪うために、今まで妖力を高める努力をしてきたわけじゃない。

 セイジュは両手をぎゅっとにぎりしめながら瞳を閉じた。

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