第5話

     5


晴樹がいつものように学校から帰ってくる途中、それはなんのまえぶれもなく突然起きた。

 殺気に満ちた妖気。それが鋭い矢となって今にも放たれる。

 照準は、晴樹だった。

 わずかに感じ取った妖気を瞬時にそう判断したセイジュは、晴樹の肩を掴むと地面へと伏せた。

「え? セイジュ? なんでここに?」

 セイジュは、晴樹に気づかれないよう、毎日、彼の後をつけていたのだ。理由は、まさに、今起ころうとしていることから晴樹を守るために。

「伏せろ!」

「えっ……!?」

 強引に地面へと倒された晴樹の顔と肩の間には、ユラユラと見たこともない灰色の炎で包まれた矢が突き刺さっていた。

 あのまま、セイジュが助けてくれなかったら……と思うと恐ろしい。

『おまえの命は、この俺次第だ』

 などど、顔を合わせればセイジュから言われ、妖魔人は恐ろしいと思ってはいたが、セイジュに対しては不思議と本当に命の危機を感じてはいなかった。セイジュは、相変わらず晴樹に対しては無愛想で意地悪だったけれど、どこかで命までは取られないという確信めいたものが接していくうちに感じとれたからだ。

 セイジュは、すぐさまあたり一面の空間を大きく切り離した。妖魔界に察知されることを防ぐためと、人間に目撃されないようにするために結界を作ったのだ。そして、晴樹の首元スレスレに突き刺さった矢を素手で抜き取った。

 色は灰色と初めて見るもの。その熱量までは予想できなかったけれど、炎のように燃え盛っていた。そんなものを素手で触って大丈夫なのだろうかと、晴樹はセイジュを見上げた。

 晴樹は、いまだ地面に寝そべったまま動けないでいたが、セイジュは俊敏にも、もう立ち上がって次に来るであろう攻撃に備えていた。その身を挺して晴樹を庇うように。

「いったい、何のつもりだ? セイジュ・カルヴァード」

 低音の、咎める声が響いた。

「ルーク・サージェント様……」

 ルークは、インペリアルローズの一員だ。 王宮や、王族の護衛が主な任務であり、妖魔界の外へ出てくるなど、通常ではありえない。外へ出る任務を任されるのは、特務隊所属の軍人を除けば、セイジュのようにわけありの者だけだろう。

 ウォルフェンデール家とも並ぶほどの名門貴族、サージェント家の子息が拝命されたと任務とは、とうてい思えなかった。セイジュは驚きを隠せなかったが、動揺している暇はない。経緯はわからないが、ルークの目的は晴樹の排除だということは明らかだった。

 やはり、妖魔界に晴樹の存在が知られるのは時間の問題だったということか? 尾行がついていたのだろうか? セイジュは、気づかなかったことは自分の落度だと、ギリィと奥歯をかんだ。

 しかし、今はそんなことを悔やんでいる時間などない。

 なんとかしなくては。このまま晴樹を殺されるわけにはいかない。

 セイジュは、この騒動の妖力を妖魔界に感知されたり、人間に目撃されてはもっとややこしくなると、ルークを含めて周りから切り離すようにシールドで覆った。

 そして、宙に浮いたまま今にも第二波を放とうとしているルークに向けて両手を伸ばした。

 セイジュと、そばでうずくまっていた晴樹の周りだけ空気の流れが変わり、時折、小さな稲妻のようなものがが、バチッバチッと音を立てて光っていた。

 一方、晴樹は、いったいどういうことなんだ? なぜ、突然出てきた男に命を狙われなければならないんだろう? そして、これから起ころうとしてていることは何なのか、と。わけがわからない。ただ、おびえるだけで身動きがとれなかった。

「俺のそばから離れるな」

 そう一言だけ告げられた言葉に晴樹は黙ってうなずくと、セイジュが起こした小さな竜巻の中心で、片膝をついてできるだけ身を低くした。

 晴樹を守るような竜巻の隙間から、セイジュをのぞいた。

 セイジュは、両手を天にかかげると、その手に力をこめていた。

 セイジュは、ルークの背後にの空間に亀裂を作ったのだった。

 縦に入った亀裂はどんどん深くなり、やがて左右に開きだした。それと同時に、中の様子が見えてきた。

 見たことないからわからないけど、ブラックホールかと、この時晴樹はそう思った。

そのくらい奇妙で、そして穴の向こう側はとても恐ろしい何かがあるのだという感じがしたのだ。

 セイジュは、真っ暗闇の穴がルークを飲み込めるほど大きく広がるのを待っていた。そしてその時がくると、セイジュはまた、その両手から妖力を放出した。

 ルークの体が、どんどん穴に吸い込まれていく。

 そこまで見て、セイジュは、あの男をここではない世界、多分、彼の言っていた妖魔界へ送り返すつもりなのだろうと、ようやく晴樹は悟った。

 だが、晴樹を庇っていたせいか。それとも国王の魔石を持ったルークの妖力が予想以上だったせいか。セイジュの攻撃はルークの力によって押し返されてしまった。

「セイジュ、今のはいったい何……? まるでルークの周りだけが異空間みたいだった。

どういうこと……?」

 こうなることが予想されていたから、セイジュは「ついて来ないでください」と言っておいたが、エリザはセイジュについてきてしまっていた。

「これはエリザ様。ご機嫌麗しく、なによりです」

 ルークは、スーッと宙から地面へと降りてくると胸に右手を当て、エリザにうやうやしくおじぎをした。そして、得意げにセイジュに向かって言った。

「残念だったな、セイジュ。妖力だけが取り柄だった貴様の得意技も、この力の前では何の役にも立たない」

「どういうこと?」

 エリザがルークにたずねる。

「時空移動ですよ」

 そう言って、ルークは制服の中にしまっていたものを首元から引っ張り出した。

 それは、セイジュも持っている、王家の紋章が刻印されたネックレス。セイジュのと同様に国王の妖力で作られた魔石もはめられている。

 セイジュの妖力は、この国王の強力な魔石の力によって阻まれてしまったのだった。

「セイジュ。その能力って……」

 エリザは、打ち消したいけれど、わきあがってくる疑問をおそるおそる口にした。

 なぜなら、セイジュが持っているべきネックレスは、人間界に来る前にエリザが奪ったままになっていたのだ。セイジュは、国王の魔石の妖力を借りなくとも、時空を操る力を使うことができた。

「もしかして、あの時も使った……?」

エマさんが人間界へ行った時に。

 肯定されるのが怖くて、エリザはあえてその言葉を口には出さなかった。

 エマが失踪した日、セイジュは妖魔の森の出口付近で全身傷だらけで発見された。まだ未発達の幼い妖力で時空移動というハイレベルなことをしたため、妖力を操りきれず、自分の身にはね返ってきてしまい、負傷したのだ。そして、なんとか妖魔の森から抜け出したところで力つきたのだった。

「はい」

 セイジュはエリザの瞳をまっすぐに見ると、コクリと首を縦におろした。そして、呟くようにポツリと言った。

「使った。俺は無実なんかじゃない。エマとは共犯なんだ」


――三年前。

 その日はなぜだかわからないが、何かが違うと感じていた。

 共働きで、しかも多忙のため、深夜近くまで不在になることもしばしばの両親に代わり、笑顔で「おかえり」と迎えてくれる姉の姿が見えなかった。

 夕食の支度で手がはなせないのだろうか。 いや、いつもなら調理中でも鍵を開けた物音でいったん中断してくれたかのように、エプロンで手を拭きながらでも玄関まで出てきて迎え入れてくれていた。 ただ一人の弟が寂しがらないように。

 学校のクラスメイトに知れたらどう思われるだろうか。もう初等部でも高学年だ。出迎えなんてしてもらうような年でもないとはわかっている。きっと彼らのように、いけないと言われていても、放課後は友人たちと寄り道をしては遊びに夢中になるのが普通なのだろう。けれど、姉から自分だけに向けられる笑顔がうれしくて、セイジュは寄り道をせずにまっすぐに飛んで帰るのが日課だった。

 セイジュは、そんな弟思いの優しい姉が誰よりも大好きだった。子どもの今はまだできることが少ないかもしれないけれど、これからたくさん勉強もして、強くたくましく成長する。そうしたら、おとぎ話に出てくるような姉を護れる騎士(ナイト)になろう。そう、自分の未来図を心に決めていた。

「ただいま」

 シンと静まりかえった部屋を訝かしく思いながら家の中へと入った。

「エマー」

 セイジュは、教科書の詰まったカバンを置くのもそのままに、姉の名を呼びながら、彼女の居そうな部屋に顔を出してみる。平屋で、そう広くないつくりの家だから、探す場所は限られている。キッチンか、それとも姉の部屋か。

 キッチンには姉の姿も、用意されているはずの夕食も見あたらなかった。

 ノックをして入ったエマの部屋は、朝起きてベッドメイキングをしたままのよう。きれいに整頓されていて、在籍している国立高等学校の研修で、一年ほど前から行き始めた宮仕えで支給された制服もハンガーに吊されていなかった。

「まだ帰ってないのかな?」

 高等学校を卒業した後は、そのまま王宮に仕えることがほぼ決まっている。そのため、仕事の内容は立派な社会人の新人扱いだが、研修中のため、授業と同じ午前中から午後三時過ぎくらいまでで仕事は上がりだと聞いていた。

 時計の針は、あと三十分ほどで午後四時をまわる時刻を指していた。

 研修とはいえ、そろそろ仕事も本格的になってきて、残業でもさせられているのだろうか。それとも、職場か学校の友人と久しぶりにどこかでお茶でもしながら、話に花を咲かせているのだろうか。

 朝、家を出る時には遅くなると聞いていなかったけれど、エマにも付き合いがあるだろう。寂しい気持ちが強いが、今まで母親代わりと言わんばかりに世話をやいてくれていたエマには、逆にもう自分の時間を持ってと言ってあげるべきなのかもしれない。

 弟としては。

 エマが帰宅したら、すぐ夕食の支度を手伝うつもりでいたので、とりあえず時間潰しにでもと、リビングのテーブルに教科書を広げて宿題にとりかかった。

 少しだけのつもりが、学校でも首席をとっている根っからの優等生気質で、つい集中して宿題を全部片付けてしまった。

 時計は、六時をまわっていた。

 窓に目をやれば、外はもう日も沈みかけ、まぶしいくらいの夕焼けが、空に浮かぶ雲までもオレンジ色に染めていた。

 じきに部屋の中も薄暗くなる。家中のカーテンを閉めて歩き、最後に戻ってきたリビングの照明をつけた。

 母親の趣味で統一された、キルトのカバーがかかったソファに腰掛け、花柄のクッションを抱えて膝をかかえてみたり、それを枕に寝転んだりしても、手持ち無沙汰でつまらない。

 普段なら、もうエマの作ってくれる夕食を食べながら談笑しているころだ。めったに家族四人で食卓を囲む日なんてなかったけれど、エマと二人きりでもとても楽しいひとときだった。

 エマがいないと、どんなに部屋を明るくしても、家の中が寂しく感じてつまらない。

「エマ、遅いな」

 ついこぼれる独り言。

 今、どこにいるのだろう。

 誰かと一緒なのだろうか。

 学校でも優秀な成績を修めていたエマに限って、夜歩きにそれほど危機感を感じてはいなかったけれど、それでも心配してしまうのは、弟だからだけではなかった。

 一生、騎士としては守ってあげられるけれど、支え合うことはできない。

 愛していても、愛されることを望んではいけない。

 それが弟という、一番近いのに一番遠くに境界線を張られた存在。

 だから、想う気持ちもなにもかも、知られてはならない。自分の心の中だけで気づかれないように、そっと。

「だからごめん、エマ」

 ストーカーみたいな真似をして。

 セイジュはテーブルの上に肘を立てると、祈りとも懺悔とも思わせるように両手を組み合わせて呟いた。

 組み合わせれた両手が、前屈みの姿勢をとったセイジュの額に押しつけられる。

 セイジュは両目をつむり、全意識を頭の中で集中させた。

 すぐに、その両目で見ているかのように鮮明な景色が広がった。

 ただ、やみくもに場所を選んでいるわけではない。エマの居る場所を追跡していたのだった。

 それをいとも簡単にできてしまうのが、セイジュの能力の一つ。これは、高い妖力者が持つ特別な力だった。

 セイジュの脳裏には猛スピードでさまざまな景色が流れていく。そしてやがて、シンと静まりかえっている森の中で、エマの姿を見つけた。

 見覚えのない場所。家の近くではない。

 背の高い木々に覆われているせいか、もう暗闇がエマを包みこんでいた。

「囚われの樹海の名の通り、やっぱり不気味ね」

 エマは、臆するような苦笑いを浮かべながらも、さらに不気味なその奥へと足を進めていた。

「エマ! 何やって……っ!」

 すぐさまエマの元へ瞬間移動をしたセイジュは、背を向けていたエマの肩に手をかけた。

「セイジュ……」

 まさか見つかるとは思っていなかったのか、エマはびっくりしたように目をまるくしてセイジュの名を呼んだ。

 木々の隙間を差した一筋の月明かりの下で、セイジュの薄茶の瞳が悲しそうに揺れる。

 聞かなくても、エマがここで何をしようとしていたのかくらいわかる。

 エマはそんな、今にもこぼれ出しそうな涙を浮かべたセイジュの瞳を見つめると、

「ごめんね」

 と、だけ呟いて、セイジュを抱きしめた。

 肩口は、寄せられたエマの瞳からこぼれ落ちたであろう涙で濡れた。

 セイジュの髪を梳くように頭をなでると、セイジュの背中にまわった腕の力が、震える指の感触さえもわかるほど強くなった。

 その時、ふと背中でエマが指にはめていた指輪の存在に気づいた。

『学校の授業で作ったからあげる。指輪なんて、僕がしても仕方ないし』

 半分は本当で、残りは嘘をついて贈った手作りの指輪。

 天然石を採掘し、加工する課題だった。

 妖魔界には『魔石』と呼ばれる石をアクセサリーにして身につける習慣がある。魔石には妖力が宿っていて、持ち主の力を高める効能があるが、王家や貴族が代々家宝として受け継いできたものは別として、元はただの天然石だ。天然石に自分の妖力を宿らせて魔石にするのだ。

 だが、すべての天然石がすぐに魔石に変えられるわけではない。多くの種類がある中から、インスピレーションで自分の妖力に合う石を探し出すことも重要なのだ。そのため、当然、贈りたい相手に合わせて魔石を作ることは非常に難しい。魔石をオーダーメイドして生計を立てるのも、妖魔界では立派な仕事と一つになっているくらいだ。並の妖力者では、ましてやまだ初等部に通う子どもには不可能であるはずだった。

 だが、クラスメイトが必死になって何時間もかけて天然石を探す一方で、セイジュには自分用はおろか、エマの分を見つけ出すことも簡単にやってのけられた。

 あえて自分から自慢しようとはしなかったが、セイジュは幼い頃から自分には人並み以上の妖力があることを自覚していた。

 本当は、左手の薬指にはめて欲しかったけれど、あえてサイズを外して大きめに作った。

 もちろん、そんな思惑があっただなんてエマは知らない。だからエマは、

『凝ったデザインだし、ここにぴったりよ。ありがとう』 

 そう言って、うれしそうに笑顔を見せながら、右手の人差し指にはめてくれた。いつか、特別な場所に贈りたい。わずかな可能性を、つい期待してしまう瞬間でもあった。

 それはすぐに自分自信で打ち消したけれど。

セイジュは、エマの『弟』なのだから。この先も、永遠に『弟』の顔でいることが、エマにとっても、誰にとっても一番幸せなことなくらい、まだ子どもと言われる歳のセイジュにだってわかっていた。

 エマにとって、とても重大な決断をしている時に、自分の贈った指輪を身につけていてくれているのはうれしかった。もしかしたら、自分ならエマの心の闇を取りのぞいてあげられるかもしれないと、

「一応、最大限の結界は張ったつもりだったんだけどな。でも、やっぱりセイジュには見つけられちゃうのね。さすがね」

 エマは、いつものようにセイジュの頭をなでながら誉めてくれたけれど、その手のひらはとても冷たく、また、表情も失われていた。

「エマ、どこか行っちゃうの?」

 聞かなくてもわかることを、セイジュはあえて口に出した。どこにも行かないで欲しかったから。

 そんなセイジュの気持ちがわかったのか、エマは、

「ごめんね」

 と、セイジュの頭を撫でた。

「もう、ここにいるのがつらいの。だから行かせて」

 エマは、人間界に逃げるつもりだと、セイジュは悟った。それがどれほどの重罪になるかもわかっていて。そんな大罪を犯してまでも妖魔界にはいたくないというのか。

「エマ、なにがあったの?」

 止められるものなら止めたい。セイジュは、エマを見上げた。

 だが、

「ごめんね」

 エマは、それだけしか口にせず、理由は話してくれなかった。

「エマ、本気なの? 考え直してよ!」

 セイジュはエマにくらいついたが、エマは首を横に振るだけだった。

「エマ!」

 セイジュの説得が続いたが、エマは無言のまま、態度は変わらなかった。次第にエマの大きな瞳から涙がこぼれはじめた。

 セイジュの前では涙などみせなかったエマ。

 その涙を見て、セイジュはエマの心の傷の深さを知った。同時に、妖魔界では自分がエマを支える騎士になれないということも。

 それはとても悲しいことだった。けれど、このまま妖魔界にいることがエマにとっては残酷な選択だということも認めた。

「……わかったよ、エマ」

 セイジュはうつむいたままそう言うと、自分の身体の中にある妖力を引き出そうと力をこめた。 

 目には見えないが、静かな外側と嵐の中のような内側との境が、ドーム上になっている。セイジュが二人を外部から遮断する結界を作ったのだ。

 そして次第に、赤いオーラのようなものがエマの体中から滲み出してきた。

 体を覆うように漂っていた赤いオーラは、瞬時に竜巻のように姿を変え、エマの体中を駆け巡り始めた。

 エマは、苦しそうに顔を歪めた。ものすごい風圧で、息を吸う事も吐く事もほとんどできなくなっていたのだ。

 必死に、息を吸おうと口元を押さえて耐える。けれど、あまりの息苦しさにエマはその場に膝をつくように崩れ落ちてしまった。

「エマ、がんばれ! あと少しだ!」

 セイジュは、エマを励ました。苦しいのはエマだけではなかった。この空間を作りあげているセイジュもまた、苦しさと戦っていた。

「エマ。大丈夫か? 終わったよ。よくがんばったね。さあ、掴まって」

 セイジュはエマを抱き起こすと、よろける彼女の体を支えながら隣に立たせた。

 セイジュが作っていたのは、強固な結界だった。王家の妖力で作られたバリケードを、破ったことを知られずにすむような結界でなければ意味がない。それを作りだすだけでもたとえ高い妖力を持ち合わせていても、幼いセイジュには大きな負担がかかった。

「後は、扉を開くだけだ。大丈夫。一瞬、目を瞑っている間に向こうへ着いてるはずだ」

 セイジュは、指輪をはめたエマの右手を両手で握りしめた。

「ええ。セイジュ、お願い」

「開くよ」

 セイジュは、両方の手のひらを胸の位置で合わせた。

 そのまま、押し合うように両腕に力を入れる。行き場も無く、燻ぶりあう力でセイジュの腕はブルブルを小刻みに震えだした。

 それでもセイジュは力を緩めなかった。まだほっそりとしていた腕には、青筋のような血管が浮かび上がった。きつく閉じられた口元は更にギュッと結ばれ、ギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえてきそうなくらいだった。

 セイジュ自身も頭の中が真っ白になってきて、このままではどこかの血管がプッツリと切れてしまうのではないかと思った。だが、それでもセイジュは力を籠め続けた。自然と体が前屈みになり、セイジュの苦しそうな顔は、彼の髪で覆われた。

 これから開こうとする扉には、まだ足りない。

 しばらく膠着状態が続いた後、合わさっていたセイジュの手のひらの中から金色の光が漏れ始めた。

 その光は、セイジュの腕を押し開いていった。

 徐々に大きく成長していく光。

 それと共にどこからか弱い風が起こり、セイジュの金色の髪をはためかせた。

「……行くよ」

 ハアハアと荒くなった息を吐きながら、セイジュはその光を手のひらから宙に向けて放した。

 光は、宙に浮かびながら丸く変化した。そして、中心に黒い点が現れたかと思うと、それは徐々に大きくなっていく。

 光の半分が黒く覆われたころから、バチバチッと大きな音をたて、火花を飛ばすように小さな爆発を起こし、光の端も広がり始めた。

刻々と広がりを見せ、形をも球体から楕円形のように変えていく光と黒い闇。

 その様子には、エマはもちろんだが、作りだしたセイジュでさえも驚いた。

 しばらくの間は呆気に取られるように眺めていたが、次第に人が通り抜けられる扉くらいの大きさに近付いてきたころからは、セイジュは自分の力に自信を感じていた。

 その時、最初に作ったドーム型の結界から、バリッと裂けるような音がした。

 嫌な予感がし、セイジュは音がした方に振り返った。目には見えないはずなのに、セイジュの目には、何も無い空中に亀裂だけが浮かぶ姿が映り込んだ。

 その亀裂は、序々にその足を伸ばしていった。空中から地面まで到達するまでに、そう時間はかからなさそうだった。

 この結界の目的は、中で今、セイジュ達が行っている事を外に漏らさない為のシールドだった。それが砕けてしまっては意味が無い。だが、この亀裂のスピードは、結界がシールドの役目を果たせなくなるのも時間の問題だと言っていた。

「早く行って! エマ! 僕の力じゃもう持たない!」

 本当は行ってほしくなんてなかった。エマとずっと一緒にいたかった。

 けれど、エマはこの世から消えてしまいたいほどの悲しみを心に受けてしまっていたのを知ってしまった。

 エマに自害などさせたくはない。その思いだけでセイジュは、自分の気持ちを封印した。

 そうして、エマに手を貸したのだ。

すべては三年前のあの日に終わり、あの日から始まった。

 セイジュの贖罪の日々が――。


「どうして! どうして今ごろそんなこと言い出すのよ! 今まで、そんなこと一言も言ってなかったじゃないっ…!」

 セイジュの胸をたたきながら、今にも泣き出しそうな声でエリザは叫んだ。

「言ってしまったら、事実を知ったウォルフェンデール様は、俺に処刑命令を下さなければならなくなる。貴女だって嫌でしょう? 他の誰かならまだしも、自分の父親が俺にそうしたりしたら」

「………」

「それに、両親のいない俺に優しくしてくれて……。それが嬉しくて、黙っているのは卑怯だと思ったけれど、ずっと言い出せなかった」

「セイジュ……」

 セイジュの胸に手を当てたまま、エリザはセイジュを見あげた。

「どうせ処刑されるなら、人間界でと思った。妖魔界の外は特務隊の管轄で、手を下すのはウォルフェンデール様ではないから。もっとも、ルーク・サージェントに仕留められるのは気に食わないことだったけれど」

「知ってて……。知ってて、どうしてあの力を使ったりしたのよ!」

 エリザは、こらえきれなかった涙を流しながら再び叫んだ。

「……」

セイジュは何も答えなかった。エリザを不安にさせたくなかったからだが、時空移動の妖力しか国王の魔石を持つルークに対抗できなかったからだ。

「エリザ様、はなれてください」

 そう言ってルークは、妖力でエリザをセイジュからひき離し、安全な場所へと誘導した。

「もっとも、この力が無くとも、貴様なんかに力負けするなどと思ってないけどな!」

 そう言い切るより先にルークは再び宙へ舞い上がり、妖力による攻撃を仕掛けてきた。

 今度は一本ではない。

 無数の矢が、妖しく燃え盛る炎とともに、晴樹めがけて放たれた。

「くっ……!」

 セイジュは、自身と晴樹の周りを覆うような、ドーム状のシールドを張った。だが、それもその場しのぎに過ぎなかった。

 ルークの言葉は、はったりなどではなかった。矢による攻撃はなんとか防げたけれど、限界を超えたシールドは、晴樹たちの前から消えてなくなってしまった。

 すかさず、セイジュが新たなシールドを作り出す。しかし、

「無駄だ」

 ルークの攻撃に、あっけなく散る。

 それでも、セイジュはまた新たなシールドを作る。そして、また粉々に消し去られる。 一度の攻撃に耐えきるのが精一杯。連続攻撃などされたら、一溜まりもないだろう。

 薄い唇の端が、片方だけ上がる。ルークの余裕の微笑み。手加減された攻撃であることは一目瞭然だった。 

「退けろ。貴様に処分する気がないなら、この俺が直接手を下してやる」

「しかし、晴……この子どもはまだ妖力を確認できてない人間で――」

「だまれ!」

 必死に訴えるセイジュの言葉は遮られた。

 ふいをつかれ、セイジュはルークにふき飛ばされてしまった。

 地面に体を叩きつけられ、一瞬、息がとまりそうになった。地べたに転がったま起き上がれないでいるセイジュに、ルークは高慢な口調で言い放った。

「あの女の息子。その存在を見過ごすわけにはいかない!」

 そして視線を晴樹に向けると、

「恨むなら、自分の生まれを呪うんだな!」

 勢いよく振り下ろされたルークの右手には、さきほどの矢と同じく灰色の炎をまとう妖刀が出現していた。

 ルークが近づいてくるも、晴樹は腰が抜けて立ち上がることさえできない。

「や……ころさない……で……」

 極限まで追い詰められた恐怖感に、精一杯な命乞いも震える声で言葉にもならない。ガクガクと震えながら、後ずさりするしかなかった。

 いくら晴樹が言葉にならない声で泣きわめいても、めちゃくちゃに両手を振り回してみても何の意味もない。

 ルークとの距離はあっという間に縮まり、晴樹の目の前まで来ていた。

 そこで仁王立ちとなったルークは、為す術もなく、ただ頭を抱えて震えるだけの晴樹を冷たい眼差しで見下ろした。

 ルークとて、好き好んで処刑役を買って出ているわけではない。セイジュがもたもたしているからだ。

 晴樹自身が、何の罪も犯していないのは十分承知している。だが、妖魔界の理から外れた存在。それは、晴樹の存在自体が罪だということなのだ。

 恨むなら自分の生まれを呪うことだ。

 晴樹に吐き捨てた言葉を胸の中で復唱し、ルークは妖刀を両手に持ちかえた。しっかりと柄を握りしめ、矛先を晴樹の心臓へと狙い定めた。

「死ねーッ!」

 躊躇することもなく、渾身の力を込めて突き刺した。

 だが、ルークのその妖刀は晴樹の身を傷つけることはなかった。

 晴樹の前に、セイジュが覆いかぶさっていたのだ。

 背中から受けたルークの刃は、セイジュの胸にまで貫通していた。

 ぐは……っと、うめき声とともに吐き出される、おびただしい量の赤い血液。セイジュは、背中から胸にかける傷から、真っ赤な血を噴きだしながら体を揺らめかせた。

 晴樹の体にもたれかかりながらも、やがて膝をつき、そのままゆっくりとその場へと倒れこんだ。

「きゃあああああっ! セイジュッ!」

「わぁあああああ!」

 今にもショック死してしまいそうなエリザの悲鳴と、発狂でもしたかのような晴樹の叫喚が重なる。

 てのひらに感じる、噴きだしていた血の勢いはある程度おさまったが、とめどなくセイジュから流れる血液の生温かさが、晴樹をさらなる恐怖へと追い詰めた。

 そんな二人の様子を、ただ、呆然と立ちつくして見ていたことに、ルークはハッと気づいた。

 俺は、何をしていたんだろう? 早くあの女の子どもを……。

 ルークの脳裏では、直ちにに目的を達せよとの命令が、最優先事項として繰り返し鳴っていた。自分の置かれている立場上と、強い忠誠心によって。

 だが、セイジュが晴樹を身を挺して庇ったことに動揺をかくしきれないでいた。こんなにも必死なセイジュの姿を見たことはなかった。いつも自分の居場所はD居住区だと言わんばかりに、どんな時も一歩奥へ下がる。身分をわきまえているように見えるが、ルークにはそれがただの無関心であると気付いていた。

 婚約者として最有力視されているはずのエリザが、自分よりもセイジュを好いていることくらい、子どもの頃から知っていた。それも気分が悪かったが、セイジュが身分をわきまえエリザと距離をとっていたし、いずれはエリザにもウォルフェンデール家の令嬢としての自覚が目覚める。サージェント家との結婚が両家にとって最善であろうと。見守っていたつもりだったが、本当はエリザの好きにさせてあげたかったのかもしれない。相手がセイジュなら、どうせ叶わぬ恋。そんな風に心を広くさせたのも、いずれは結婚する立場の強みと、ルークはエリザを心から愛おしく思っていたからだった。

 エリザへの嫉妬心からセイジュを嫌いだと思うのは必然だった。だが、決定的になったのは、インペリアルローズの候補生に選ばれてからだった。名家に生まれ、妖力にも恵まれた自分でさえも、それでも歯を食いしばって必死にくらいついていかなければ、他の者たちのように途中で脱落してしまう。それなのに、セイジュには苦労という言葉さえないかのように、いとも簡単に見えた。一歩だけではなく、全てにおいて何十歩も何百歩も先を越され続けた。

 裕福な家庭で育ち、欲しい物やしたいことなど、考える方が難しいくらいだった。なんでもすぐに与えられ続けてきたから。だから滅多なことでは感動することすら忘れていたルークでも、インペリアルローズの証である薔薇を模ったラペルピンを受領した時は涙があふれそうになった。

 それなのに、セイジュは無表情だった。インペリアルローズに選ばれたのも、彼にとっては何でもないことだと言っているように思えて、煮えくりかえるくらい腹がたった。

 ズタズタに切り裂かれたプライド。ルークは、セイジュが妖魔界で一番嫌いな存在になった。だからセイジュ同様、本来はインペリアルローズの任務ではないけれど、志願して人間界に乗り込んできたのだ。

 正義感の強い性格のルークは、掟を破ったエマ・カルヴァードの始末に何の感情も持っていなかった。むしろ、姉弟の情にほだされたセイジュが任務を全うできなかった時は、二人まとめて始末するつもりでいた。それゆえ、手加減などはなからするわけがない。相手は抵抗する術も持たないただの人間。晴樹を仕留めるくらい余裕だったが、一瞬の隙も与えないよう、至近距離から全力で晴樹を殺そうと狙い撃った。痛みすら感じないよう、即死させてやるのがせめてもの情けだとばかりに。

 急所を外すどころか、他の妨害などありえないはずだった。それなのに事実、セイジュに割り込まれて阻止された。

 その身を盾にするなど……。いったい、なぜだ?

 理解に苦しむルークは、その場に立ちつくした。

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