第2話     

     2


「セイジュ! 人間界に行くって、一体どういうことよ!」

「聞かれた通りです。さっき国王様より拝命を戴きました」

 怒りで興奮して詰め寄るエリザとは対照的に、セイジュは淡々と答える。脱ぎかけているその白い手袋は、正装の証。ついさきほどまで国王に謁見していたことを物語っている。そしてそれは、たとえどのような任務であっても撤回などできないということも。

「どうして? セイジュがなんで! そんなの特務隊の仕事じゃない! セイジュはインペリアルローズでしょ? それなのにどうして軍なの!? だいたい、軍に入るには早すぎるわ!」

インペリアルローズは他を圧倒するほどの妖力を絶対条件とするため、高い妖力さえあれば年齢に制限はない。しかし特務隊は軍属のため、軍事アカデミーを修了した者にその資格が与えられる。アカデミーには十七歳から受験資格があり、最短で修了したとしても二十歳にならなければ軍に入隊することはできない。エリザと同じく、セイジュも十六歳。本来なら入隊資格すらないはずだった。

「志願しました。それに、私は他の人達とは違います。言わば国には厄介者。危険の伴う特務隊の志願はあっさり許可されました」

 淡々と、『事実』が理由だと口にする。

「けれど! 任務の中には……!」

 セイジュが幼いころから憧れ、誇りを感じていたように、名誉の証であるインペリアルローズはエリザにとっても誇らしいと思っていた。

 王室直属のインペリアルローズだからこそ、たとえ貴族であってもごく一部の者しか認められない国王への謁見を可能にし、直談判できたのだろう。

エリザは必死になってインペリアルローズを目指していた裏で、セイジュがそんなことを考えていただなんて思ってもみなかった。

たとえ四六時中一緒にいられなくても、セイジュをこの世で一番愛しているのも、理解しているのも自分だとエリザは思っていた。それなのに、今まで少しも気づけなかったショックで、思いとどめなければならないはずの言葉さえも失ってしまう。

「人間界に逃亡した反逆者の追跡、逮捕。あるいは処刑命令もあります」

「それを知ってて志願したの? だって、彼女……。その中には、セイジュのお姉さんだってリストに含まれてるのよ? エマさんに会いたいのはわかるけど、会ってしまったら無理矢理にでもこっちの世界に連れて来ないといけない。……処刑されるかもしれなくてもなのよ。セイジュにはそんなことできないでしょ?」

「上も、そう思っているのでしょう。だからこそこの私を人間界に送ってくれる気になった。恩赦や保護を受けてぬくぬくと生き延びている私を、『反逆者を匿った』か、あるいは『共に逃亡した』として、堂々と消すことができますから」

「まさかセイジュ、人間界で死ぬ気なの!?」

 最悪のシナリオがエリザの脳裏をよぎる。

「わからない……。でも、それでもいいと思っています」

「セイジュ……」

 セイジュがこの国でどういう存在とされているかなんて、いまさら聞かなくてもわかっている。ルークたちにされたような、まるでセイジュ自身が反逆者のような扱いを受ける姿を目にしたのも、一度や二度ではない。

「このまま、ここで生き延びてどうなりますか? 絶縁したとはいえ、一度は私を養子に迎え入れたにカルヴァート一族にも、D居住区などにいる者の存在は疎ましいはずです。それをわかっているが、私には父や母のように自ら命を絶つ勇気がないから……」

「そんなの勇気じゃないわよ! セイジュは何も悪いことをしたわけじゃない! 居住区にだって居ることないのよ!」

 エリザは声を張り上げた。

「貴女やウォルフェンデール様はそう思ってくれても、周りは違います」

 そう、周りから何を言われても、より妖力を高め、ウォルフェンデール卿への恩返しのために一生懸命に勉強してきた。力が身につけば、いつか認めてもらえる日が来ると、幼い日々は無垢に信じていた。

けれど、妖魔界で至上の栄光であるインペリアルローズに選ばれても結果は同じ。

D居住区にいるということは、そういうこと。陰口や暴言、暴力などは受けて当たり前。冷静になって考えればわかっていたことだ。

ウォルフェンデール卿の好意に甘えて、D居住区から出て一般人となることもできた。

だが、セイジュはD居住区で一生を過ごさなければならない。エマの罪を、両親はその命で償ったのだから。

セイジュだけが『外』の世界でのうのうと暮らすわけにはいかないと思ったからだ。

もう慣れたと思っていた。何も感じないように心を閉すことを覚えた。それなのに、

『品位が失墜する。不相応なんだよ!』

 いまさら何も感じないと思っていた言葉に、まだ心が傷つけられていた。

 閉ざそうとしても、心の扉にすべてを遮断してくれる鍵はないらしい。

 もういい。

 利用されていたとしてでもいい。楽になれるなら。

もう、楽になりたい――。


「いいわ! では、わたくしも行きます!」

「エリザ様? 何を言って――」

「何て言っても無駄よ! 絶対ついて行くから!」

「……!」

 セイジュは一瞬、言葉を呑み込まされてしまった。

『絶対ついて行く』

エリザがこのセリフを口にしたのは、二度目だったからだ。

最初に言われたのは、セイジュがウォルフェンデール家に引き取られて同じ屋敷で暮らしていたころ。

ウォルフェンデール卿と、初めて会ったあの日。目が覚めた時には全身が包帯だらけで、ベッドから起き上がることもできなかったが、時が過ぎ去ると共にセイジュの傷はすっかりと癒えた。

体の傷、は。

心には、セイジュに一生消えない痕を残した。

セイジュはエリザの前からだけではなく、皆の前から消え去りたいと言った。

黙って出て行けばよかったとセイジュも後悔するところではあったが、あの時は今よりもずっと子どもだったせいで、そこまで頭がまわらなかった。それに、一歩外へ出れば周りは冷たい視線ばかり。ウォルフェンデール家の手前か、大人たちは黙っていたけれど、子どもたちからは暴言も石も投げられた。

『出て行け!』

『消えろ!』

『おまえも死ね!』

 顔を合わせるたびに浴びせられた。

自分が「出て行く」と言えば、喜ぶ人はいても誰も引き止めたりなんてありえないと思っていた。だから、エリザが大泣きしてしがみついてきたのには驚いた。

 生まれながらにして貴族の家のお嬢様は、物心つくころから淑女となるように教育をされている。子どもらしく、明るくて好奇心旺盛だけれども、感情は表に出さず抑えるものだということを知っている。我を通そうと駄々をこねたりはしない。今と変わらない、先に相手を思いやる優しい女の子だった。

『だめっ! セイジュはずっとエリザといっしょにいるの! でていくなら、エリザもぜったいついていくから!』

わがままだとわかりながらも、大声で泣き叫ぶエリザの姿をセイジュが見たのは、あの時の一回きりだった。

結局、泣いて放さないエリザになかば根負けしたかのように、セイジュはエリザのそばから離れないと約束した。

 約束はしたが、セイジュはただ失踪はしないと言ったつもりだった。

 妖魔界でも名門中の名門であるから、ウォルフェンデール家を中傷する者はなかったが、セイジュが屋敷にいることは、弊害を及ぼす以外、他に何にもない。だから、ウォルフェンデール家とは距離を置くつもりだったのだが、毛足の長い絨毯に片膝をつき、中腰になったウォルフェンデール卿は、ようやく涙が止まり、目を真っ赤にさせながらも笑顔を見せたエリザをその胸の中で抱きしめると、セイジュにもそばへ来るように手招きした。

 知らない人ではないとはいえ、相手は名門貴族の当主。普通なら、直接会話どころか、会うこともできない。身分の違いは、ものごころつく頃から両親に教えられて育っている。どうしたら失礼にあたらないかと考えるとすぐには行けない。けれど、こうして言われた通りにしないでいるのもいけない。

 どうしていいのかわからず、足がその場で止まったままになってしまっていたセイジュに、ウォルフェンデール卿は「そんなに緊張しなくていいから」と、優しい笑顔を向けて

再度、セイジュをそばに呼んだ。

 おそるおそる近寄ったセイジュの頭を、緊張をほぐすかのように優しく撫でると、ウォルフェンデール卿は、自分の愛娘であるエリザにしているのと同じように、セイジュも抱きしめた。

『二人とも、何も心配することなんてないんだよ。安心しなさい』

 久しぶりに包まれたウォルフェンデール卿の大きな手と、あたたかい感触に、セイジュはただ、涙をこぼした。

 ウォルフェンデール卿が後見人となることと。インペリアルローズを目指すために、エリザも在籍している、妖魔界唯一の国立学校へ入学することが決まった。

 国立学校は、生徒のほぼ全員が貴族の子息や令嬢であり、一般人は、それこそインペリアルローズに推薦されるほど強い妖力者か、ウォルフェンデール卿のように貴族が後見人となった者にのみ、入学許可がおりる。

セイジュはウォルフェンデール卿に言われるまま、すべてを受け入れた。

ただ、ウォルフェンデール家を出て、D居住区へ移ることだけを条件にして。

D居住区は、入ったら最後。死しても絶対に出られないとされている場所だ。セイジュは、それを知っていてあえて引き合いに出したのだ。

ウォルフェンデール卿からの申し出は、本当にうれしくてありがたく、いくら感謝してもしたりないくらいだったけれど、セイジュはそれを受けるつもりはなかった。自分にはそんな資格などないと思っていたから。

D居住区から学校へ、しかも由緒ある国立学校へなど通えるはずがない。

せっかくの好意を無にする条件を出したことにひどく罪悪感を持ったけれど、この時のセイジュは、自分の存在こそがすべての元凶になる。関わりを断つべきと、そればかり考えていたのだ。

セイジュがそのようなことを考えていると察していたかはわからなかったが、ウォルフェンデール卿は黙ってセイジュの唯一の願いを聞き入れた。

D居住区がどういう場所なのかを聞きつけたエリザが、当然のように猛反対してきたけれど、エリザの説得も含め、手続きから転居までのすべてをウォルフェンデール卿がしてくれた。

転居の日、

『これから大変だと思うが、困ったことがあれば遠慮などせず、何でも私に言いなさい。必ず、君の力になるから』

 そう言って、ウォルフェンデール卿はセイジュに国立学校の制服を手渡した。

 権力に物を言わせる人ではなかったのだが、今回ばかりはウォルフェンデール家の名を使ってセイジュに関してのみ、D居住区の規則をまげさせた。

 そうして、セイジュは異例の待遇で、D居住区から国立学校へ通学できるようになったのだった。

学校では貴族ばかりと、身分の差だけでも肩身の狭い思いをした。そのうえ、セイジュは犯罪者エマ・カルヴァードの弟として名が知れ渡っていたし、D居住区にも『収監』されたというのが周りの認識だった。

 エリザが真実を話してかばおうとしてくれたが、セイジュはエマのことも、D居住区にいることも真実だからと、釈明もしなかった。

 男子棟・女子棟と、校舎が分かれていてもエリザが目を光らせていたし、ウォルフェンデール卿が後見人のため、初めのころは目立った嫌がらせはなかった。

 だが、セイジュが決してエリザやウォルフェンデール卿に頼ろうとしていないで、逆に距離を置いているのがわかってくると、陰口が直接吐かれる暴言となり、嫌がらせやたびたび制服で隠れる場所への暴行も加わった。

 それはとてもつらく、D居住区に帰った時や、耐えきれなくて誰もいない空き教室で泣いたこともあった。それでもセイジュは、これも自分への罰なのだと言い聞かせていた。

 学校に通い始めて半年も過ぎると、セイジュの妖力は飛躍的に強くなった。潜在していた妖力が、一気に引き出されていったのだろう。成績も、他を圧倒するほどの差をつけての首席が常連なった。

 もう、そのころにはいくら大人数でも、卑怯な手段を使っても、セイジュの妖力にガードされ、誰も敵わない。暴行されることもなくなっていた。どんな嫌がらせも未然に防がれ、悔し紛れの暴言を浴びせられるだけになっていた。ただ、それもセイジュがあまりに無関心な表情で受け流すため、二年目になるころには、セイジュの周りを取り巻く環境は、誰も近寄らない。独特の、『無』の状態だった。

 学校で受けた嫌がらせが要因か、それともエマのことで両親が自害した時からか。セイジュの心は何も感じないように、固く閉ざされていった。

 無表情で、もともと少なかった口数もますます減った。

 それまで『僕』と言っていたものも、いつからかエリザに対してまでも『私』になり、会話もすべて敬語に変わった。

 出会ったころから、セイジュにとってエリザは貴族のお嬢様で、『友達』という存在ではなくなってしまっていたのだろう。

 たとえ、エリザが認めようとしなくとも。

そんな時、ピピッ、ピピッと、小さなアラーム音が鳴った。

「なに? その音っ!」

「なんでもありません。ただの時計のアラームです」

セイジュは咄嗟に嘘をついて誤魔化す。

「うそ。こんな半端な時間にアラームをセットするわけないわ」

「それは――」

 時計の針を少し進めているのだとでも言って言い訳しようとしたのだが、そんな腕時計をしている左手首をも、証拠とばかりに掴まれてしまった。

 どんどんボロが出ていってしまうかのように、エリザはセイジュの胸で小さな光りを放つネックレスを見つけた。

「ねえ、これ何?」

「ただのネックレスです」

「また、うそね。魔石に王家の紋章が入ってるじゃない。国王様に戴いたんでしょ。そして、これは今回の任務に関係あるもの。ということは、この光っているのはなんらかの妖力に反応してるってわけよね? さっきのアラームも。そうなんでしょ?」

 エリザは賢くてするどい。もうエリザには知れてしまったことを感じたセイジュは、観念して口を割った。

「――はい、その通りです。これは許可無く人間界に入った者の妖力を感知するそうです」

「許可無く……、それって――」

 許可無くとは言ってはいるが、人間界に逃亡した妖魔人は、ここ数十年では数えるほどしかいない。

 それは、容易に人間界へ行けないよう、国王の妖力で作られ、軍が厳重に管理しているバリケードが妖魔界全体を覆っているからだ。そのバリケードに扉を作って妖魔界から脱出するには、国王の妖力以上の力がなければできない。

 時空犯罪が、国家反逆罪だとされているのは、国王の妖力を破る行為だからだ。

 セイジュが命令を受けたように、国家反逆罪を犯した容疑者は、すぐに追跡され逮捕され、裁かれる。その理由は、大罪であるといこと。そしてもう一つは、人間界への干渉を危惧してのことだ。

 妖魔人の人間界流出を防いでいたのは、規律だけでは無かった。

 特別な力を持たない人間達の世界で妖魔人が妖力を使えば、瞬く間に一国や、または世界をその手中に収められるだろう。

 かつて、まだバリケードがなかった時代、

ある程度の能力があれば、誰でも人間界へ行くことができた。それも容易に。規律の無い時代は数え切れないほどの妖界人が人間界へ行った。大半は好奇心や、遊び半分で能力の無い人間達をからかう為に。

今では摩訶不思議な伝説として扱われているが、当時は人間界中に大パニックを巻き起こさせた。それだけでも問題視されていたのに、妖界人の行動はエスカレートしていく。

妖力を駆使すれば、一瞬にして時の権力者とすり替わる事ができる。手にした権力は人々を惑わせ、価値観までも狂わせた。そのような妖魔人が人間界で王や支配者として君臨し、悪行の限りを尽くした歴史もあった。

 だから、完璧なセキュリティシステムが敷かれていたのだ。

 人間界を混乱させることは、王家にとって本意ではない。また、そうして創りだした妖魔人の国が第二の妖魔界になり、戦争を引き起こさないとは限らないからだ。

 規制と監視が厳しくなった現在では、たとえ居場所が掴めていなくとも、人間界で少しでも怪しい妖力があれば、すぐに感知されるシステムになっている。セイジュの胸元で光る魔石のように。

人間界へ行くには、時空の扉を通らなければならない。

時空の扉を作り出す時に、膨大な妖力を放出する。たいていはその妖力を感知され、扉を開く前に捕らえられてしまうのだ。

だが、エマはその扉を開く事ができた。

「ええ。可能性は高いでしょう」

 エマ・カルヴァードの妖力に反応している可能性がある、とセイジュは答えた。

 またアラームが鳴り、魔石が光りを増した。

「仕事のようです。危険があってはいけませんから、エリザ様はどうぞお屋敷へ。お送りいたします」

 D居住区への扉を作ったように、セイジュは何もない空間に、ウォルフェンデール家への扉を作ろうと右腕をあげた。

 妖力の光が指先に灯ったその時、エリザはセイジュのその腕を掴んで阻んだ。

「何を……! 危ないではないですか!」

 咄嗟に流れ出した妖力を止めたから何事もなかったが、妖力を使っている途中に割り込むなど、危険極まりない行為なのだ。それは妖力者の常識でもあるから、当然、エリザもわかっている。また、セイジュが、どのタイミングで扉を開くかも。

 毎回、セイジュがD居住区へ帰っていくたびに見せられてきたから、覚えてしまったのだ。

「まだ話が終わってないわ」

 エリザは、セイジュの腕をかたく掴んだまま放さなかった。普段はおだやかなお嬢様だが、芯の強いところも持ち合わせている。

「本当に人間界へ行く気なの?」

「はい。任務ですから」

「どうしても?」

「はい」

「相変わらず頑固ね。そういうところもいいけど、絶対に行かせないから!」

 そう叫ぶと、エリザはセイジュが胸に下げていたネックレスを掴んで、思いっきり引っ張った。鎖を引きちぎってでも、ネックレスを奪おうとしたのだ。

ネックレスには、国王より許可を受けた者だけに授けられる力が魔石に封じ込められている。高い能力者でなくても、人間界への扉を作ることができるほどの強い力が。

その時だった。

 バリバリバリッ。

雷のような閃光と共に、聞いたことの無い音が響く。何も無い空間が勢いよく裂けだした。エリザが強引に引っ張ったせいか、ネックレスの魔石に込められた魔力が発動してしまったのだ。

「キャア!」

 ネックレスを握るエリザの手にも、電流がはしったような激しい衝撃が加わった。

「エリザ様! ネックレスから手を放してください!」

「無理っ! できない!」

 エリザの悲鳴が大きくなる。魔石の力が大きすぎて、エリザは自分の体すらもコントロールできなくなっているようだった。

 人間界への扉を開くには、高度な妖力を要する。

 妖魔界で何千年もの長い間、一族が王家として君臨しているのは、絶対的権力に相応しい妖力を持っているからである。

 その、妖魔界最強ともいえる国王の妖力で作られた魔石は、扉を安定させるための助力でしかない。いくら魔石の力を借りても、並の妖力者では、のみこまれてしまう場合もある。

 エリザは名門貴族であるウォルフェンデール家に生まれたが、だからといって妖力が強い方ではなかった。

 完全に魔石の力にのみこまれてしまっていた。

 セイジュは、もはやネックレスを放すこともできなくなったエリザを、護るように自分の胸に引き入れる。

 何千倍ともいわれる倍率の難関をくぐり抜けてインペリアルローズに選ばれたのだ。今のセイジュは他を圧倒するほどの妖力者だが、国王の妖力に太刀打ちできるかどうかはわからない。しかも、エリザを護りながらなら尚更。全力をもっても自信がなかった。だが、やるしかない。

 エリザの腰に、しっかりと腕をまわして抱きしめた。

「エリザ様、俺から離れないで!」

 エリザが頷いたか確認する間もなく、次の瞬間、二人は突如として何も無かった空間に創りあげられた穴に吸い込まれた。

「キャアアアアアアアッ!」

「――っ!」

 無重力なんかではない。

 グルグルと振り回されて、姿勢制御は叶わない。

 身体がバラバラに引きちぎられるような感覚が二人を襲った。だが、不思議と痛みは何も感じない。

どこかに吹き飛ばされそうな不安定さと、何が起こるかわからない不安に、エリザはセイジュの腕を握り締めて、懸命に堪えた。

時間にして数秒間だったのか。数分にも思えるくらい長く、体は疲労感で腕も何もかもクタクタになりそうだった。けれど、セイジュはこの手だけは放さないと、エリザを自分の胸の中で必死になって抱きしめていた。

人間界への時空移動は、セイジュにとっても初めての経験。いつ、この状態から解放されるのかもわからない。気が遠くなりそうになった時、出口のような光が見えた。

出口を抜けると共に、セイジュは人間界、地球の重力によって落下してしまうと察知した。

エリザを庇うように彼女を抱きこんで体をひねらせると、セイジュは背中から落下した。

下は、コンクリートのように固い場所だった。咄嗟に妖力を使って、落下速度を調節してみたが、こんな風に妖力を使った試しがない。付け焼き刃のようなもので、落下速度を調節しきれなかった分、多少の衝撃は背中に受けてしまった。そして、どうやら至る所に柱や棚がある狭い場所に落ちたらしく、腕や足など、体中をそこかしこににぶつけた。

妖力で多少のシールドを張っていたのと、覚悟をしていたおかげで痛みはそれほどでもなかったが、派手な物音があたりに響いた。

完璧にセイジュが護りきったおかけで、初めてで、しかも不安定な時空移動や、予期せぬ落下の直後でもエリザにはケガはなく、すぐに起き上がることができた。

覆い被さるようにしてしまっていたセイジュの体の上から、エリザは急いで身を退ける。

「セイジュ! 大丈夫?」

 エリザは、セイジュの首の後ろを手で支えて、そっと引き起こす。

「たいしたことはありません」

 初めはエリザの力を借りたものの、セイジュはすぐに自分の腹筋を使って身を起こした。そして、いつまでも自分などに触れていてはいけないとばかりに、やんわりとエリザの手を引き離した。

「たいしたことないわけないわよ! ごめんね、痛かったでしょ? わたし、けっこう重いから……」

「大丈夫ですよ」

「本当に? どこか怪我してない? ちょっと見せて!」

 いつも我慢してしまうセイジュのこと。本当のことは言わないのはお見通しだと、エリザはセイジュの両頬に手を添えて、まずは顔をのぞきこむ。

「とりあえずセイジュの綺麗な顔は無事のようね。ホッとしたわ」

 エリザは、初めて会った時からセイジュの女性よりも美しい顔が好きと公言してはばからない。

 セイジュ自身も、自分が醜い容姿をしているとは思わないが、手放しで喜べるものでもなかった。

 エリザのように、美しい女性に褒められることを嬉しく思わないはずがない。けれど、自分は誰とも深く関われない。誰かを愛しいと想っても、決して報われない運命を背負っているのだから。

 いつからだろうか。自分にも、相手にも、何にも興味を持つことを拒否するようになった。

 本当は、両親のように自ら命を絶てればよかった。どうして一緒に連れて行ってくれなかったのだと、両親に恨みごとを思う。

自殺は何度も考えた。けれど、いつも未遂にすらならなかった。エリザに「勇気がないから」と言ったのは、本心だ。セイジュは妖力には長けているので、苦しむこともなく、一瞬のうちに消えてしまえることだって容易にできる。

それなのに、試すよりも先に思いとどまってしまう。この先、妖魔界での未来に希望なんて何一つない。今回の任務への抜擢が意味している。自分は妖力だけをあてにされ、後は使い捨てにされるだけ。

未来もなく、生への執着などあるはずがないのに。

それでもできないのは、やはり勇気が無いからだろう。

自分は、本当にこの世の中で不必要な存在だと認める勇気が。

もし、この命と引き換えにエリザを庇えるなら、それでもいいと思っている。

そんな投げやりなことを考えていた本人をよそに、エリザはセイジュの体をあちこち調べまわる。強打した背中は、上着を捲くってまで見られていた。

エリザは典型的な貴族のお嬢様で、おしとやかだ。それなのに、なぜかセイジュに対してだけは積極的で意外な一面を見せる。それが彼女の素の部分なのかはわからないが、呼び方はくずさなくても、不思議と身分など忘れさせてくれる瞬間がたびたびあった。

「本当みたいね。どこもケガしてない。良かったわ!」

 屈託のない笑顔を向けられると、自虐的で後ろ向きな思考からも一気に引き戻される。

セイジュは、今置かれている状況の把握と、目の前のエリザを守ることだけに気持ちを切り替えた。

「それより、ここはどこだ?」

 セイジュが見渡すと、そこは薄暗い部屋の中だった。

まだ目が慣れていなくてよく見えなかったが、周りには大きなダンボールがいくつも積み上げられていた。広さはそれぼどでもなく天井近くに小さな窓が一つあり、そこから差し込む僅かな光が部屋を照らしているようだった。

少し、埃臭い室内。

どこか倉庫か何かの中か?

目が暗闇に慣れてきた頃、奥の方で腰が抜けたのか、しりもちをついたままの状態で動けない子どもの姿が、セイジュの視界に入った。

 色白の顔に、青みがかった漆黒の髪。暗がりの中で二つの瞳だけが赤く揺れていた。

 妖しく揺らめくその容貌に、セイジュは思わず声を息をのんだ。

 たまらずエリザも声を上げた。

「エ…マ……さん?」

 そう呟きながらエリザが一歩足を踏み出すと、いつしか瞳から赤が消えて瞳は大きく見開いて震えた。

「うわあぁぁぁぁっ!」

 赤かった瞳はギュッと閉じたまぶたの奥へ隠れ、代わりにけたたましい叫び声を上げた。

 子どもにとっては、セイジュとエリザが突然降ってきたようなものだ。悲鳴をあげられるのも無理はない。エリザは、とりあえずおびえが治まるまで待っていようと思っていたのに対し、セイジュはスクッと立ちあがった。

「ちょっと何する気……?」

 子どもを刺激しないように、なるべく小声で訊いたのに、セイジュはそのまま震える子どものもとに歩き始めた。

 その時、

「晴樹(はるき)ー? 何してるの?」

 外から、中を訝しがる声が聞こえた。さっきの悲鳴が外にも響いたのだろう。

「ちょっと、セイジュ。誰か来たわ。見つかると面倒よ。早く逃げましょう!」

 エリザは、そう言ってセイジュの腕を掴んだが、セイジュは何も言わなかった。

 視線の先の、子どもしか見ていない。

「人間には関わってはいけないのよ! わかってるでしょ!」

 更には、エリザの手を放させて子どもの元へ行こうとするセイジュに、エリザは諭すように言った。

「晴樹ー?」

 子どもの名を呼ぶ声が、だんだんと近づいてきていた。 

「早く! 誰か来る!」

 エリザが声のする方を指差すと、セイジュはサッとエリザの隣から消え、子どものそばに行っていた。

 一瞬の出来事だった。

 ちゃんと腕を掴んでいたはずなのに、エリザにも何が起きたのかわからないくらいの早業だった。

 エリザがハッとして見ると、さっきまで悲鳴を上げていた子どもは、セイジュの足元にうつ伏せで倒れていた。

「セイジュ! まさか手にかけて……?」

 慌ててエリザが問い詰めると、セイジュはようやく口を開いた。

「まさか。少しおとなしくさせただけです」

 そのとおりだった。子どもは、規則正しい息を繰り返して眠っていた。

 セイジュはそっと息をひそめるように扉のそばへ近寄ると、外の様子をうかがえるように扉を少し開いた。

「セイジュ……?」

「晴樹? どうしたの?」 

 扉の向こうでは、悲鳴に気づいて飛び出してきたのであろう。エプロンをそのままに、サンダル履きの格好の女性が、心配そうに近付いてきていた。

 歳は、三十代半ばくらい。フワフワとした髪質と、やわらかそうな印象と雰囲気は違うけれど、顔立ちはセイジュが眠らせた少年とよく似ていた。

「ちょっと、セイジュ!」

「確かめたいんだ」

 エリザの静止など聞く耳もたず、セイジュは扉を開け放ち、スタスタと躊躇いも無くその外へと踏み出してしまった。

 女性の目の前にたどり着くと、その手を女性へと伸ばそうとした。

 セイジュには確信があったのだ。

 目の前のその女性が、セイジュの姉・エマであると。

「エマ――」

「あなた誰なの? どうしてうちに……? け、警察呼ぶわよ!」

「………」

 その瞬間、伸ばされかけていたセイジュの手は、一瞬躊躇するように止まった。見開かれた瞳は、光を失ったように悲しく伏せられた。

やがて、震えるように揺れ出したことをその手は、ゆっくりと力なく下ろされた。

 セイジュは、口元だけで自嘲したように笑うと一度は下げた腕を戻し、掌をエマに向けた。

 ドサッと倒れ込んだエマの体をその腕に抱きとめると、セイジュは膝の裏をすくうようにして抱き上げた。

「ちょっと、セイジュ! どうするのよ?」

 セイジュが人間に手をあげるなど考えられない。それだけはエリザにもわかっていた。セイジュの言っていた、確かめたいことを、いままさに行おうとしていることも。

「このまま寝かせておくわけにもいかないでしょう? 家の中に運ぶだけです」

 セイジュは妖力で家の中を透視すると、リビングのソファを見つけた。リビングに瞬間移動すると、愛おしそう見つめながらエマをソファに寝かせた。

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