堕天使の誘惑

綾川知也

Explosive カオスクラブ

 交換留学で海外へと出たものの、綾川あやかわ知子ともこは呆れていた。

 原色が剥げ落ち、疲労した校舎に差し込む光も煤けていた。


 初めての訪米に胸を躍らせたが、学生達の瞳は裏路地みたいに沈んでいた。

 多様性と喧伝された校舎の空気は淀んでいる。




 ここへ来てどれぐらいになるだろう。


 柔肌を包む春の空気は温く、身体の表面が不確かになっていると知子は感じた。

 指で首筋を撫でるだけで、心は甘味を欲する。


 知子は春先に浮かんだ月を見上げた。


 そして、明日ここへ来ると言っていた田中たなか義一郎ぎいちろうの広い背を思い浮かべた。

 真っ直ぐに伸びた緊張感のある背筋。


 彼の見せた執着心が心地いい。


 仄かに霞んだ月光に浴していると、身体の火照りと、微かな疼きを感じた。


 内股に宿る微かな痺れがもどかしい。


 沈黙した広い芝生の上。

 穏やかに降りる朧月の明かりだけでは、羽毛の煩悶から覚めそうにない。




 見慣れた物理研究教室。

 雑と詰まれた本達は収まるべき所になく、字面を部屋に曝していた。

 かつては白かった塗り壁は、時間の流れの末に淡黄色へと変わっている。


 淡い緑色の来客用ソファーはビニール製。

 部屋は暗く、真昼というのに蛍光灯が灯されていた。寒色の明かりは時折瞬きを繰り返す。


 田中の腕まくりされた白衣だけが目に刺さる。


 遅れた空間の中、担任の田中だけが熱っぽく言葉を遊ばせている。

「電子は原子核の適度な速度で回る必要がある」

 知子にとって田中は疎ましい存在だった。

 だが、首筋が逞しさが切欠となって、話をするようになり、奥に潜んだ知性を感じた。

 そして、いつしか彼を意識するようになっていた。


「へえ、そうなんだ」

 田中の言葉に応じて、知子は頷いて返す。

 鎖骨にあたる自分の毛先が、田中の指先だったらなどと、つまらない妄想が浮かべていた。


 既に知子の意識は会話の上になく、腕にある十字架のタトゥーに吸い付けられている。

 教職上、隠されなくてはならない秘密。

 田中の秘事を暴くのは楽しく、毒の味わいが口腔を満たす。


「高速でないと電子は原子核に吸い込まれる。逆だと遠心力で何処かに飛んでゆく。これがラザフォードの原子モデル。で、物理的矛盾を解消する為、ボーアが新しいモデルを提唱。そしてド・ブロイ、シュレーディンガーを経て、現在の原子モデルとなる」

 学問に取り憑かれた男は概して女心には疎いようだ。

 道を説く男に、柔肌の下に通う血潮の熱まではわからないらしい。


 光速を超えるという言葉の裏に隠された意味。

 足繁く通う為に問うた質問に、田中は真摯に答えていた。


「もういいって。それぐらいにしてくんない?」

 ソファの上で背もたれに身体を預け、横髪をさらった後、唇に親指を当てた。

 スカートは膝上まで捲れ、白い大腿が深く曝されていた。


「そういや、知子はタンゴをするんだってな?」

 塞がった会話を繕うようにして、田中は訊いてきた。

 道を問う男は一直線。

 教養、趣味。それと逞しい身体は申し分ないが、面白みがない。


「なんだ。義一も知ってるんだ?」

 余ったパッションを解放させるべく始めたタンゴは、女という性を咲き乱せるには丁度よかった。


 強く引き寄せられる腰。

 絡ませた脚。

 指先から伝わってくる筋肉のしなりや、首筋に感じる荒げた吐息。

 胸にまで届く相手の激しい鼓動に、開けた胸元にかかる汗。


 そういう情熱が田中にわかるはずがない。

 知子は頭の奥でそう思った。


「馬鹿を言え。かなりの腕前だぞ。昔からかなり練習してきたからな。ほら」

 引き出しから取り出されたシューズ。ヒールの高く、黒革には傷がいくつも並んでいた。

 深い傷は、踏み込みの強さを想起させた。


 意外な事実に知子は当惑した。

 タンゴはパッション。情熱と情欲が交差するダンス。

 蛍光灯が瞬きを止め、強く明かりを放ち始めた。


「ミロンガにでも行こう。パートナーが居ないんだ」


 知子の手を取ろうと伸ばされた腕に迷いはなく、ソファーの肘掛けに置かれた手を包んだ。

 暖かい。


 今でも十字架のタトゥーが眼底に残っている。



『教室でタンゴ? いきなりだが楽しみだ』


 翌日、スマホを開けると田中のメッセージが入っていた。

 気怠い朝だったが知子は目を細めて軽く笑う。

 くるまれたシーツの白が柔らかいが、スマホの画面の光は、目の奥を刺激するほどに眩しい。


 ぬるま湯に慣れきっている留学先には、丁度いい刺激だ。

 皆は怠惰の中で沈み、諦観の淵で動こうとはしない。

 黒いコートを羽織り、カワサキを駆って校舎に向かった。





 もうすぐ、田中が来る。

 そう思うと、色褪せた校舎が輝いて見えた。


『タンゴのパートナーが決まるかも。そいつ上手なんだ。次を考えると疼くの』

 嘘のメッセージを送った後、知子は口元を緩めた。


 タンゴでパートナーを決めるというのは、婚約者を決めたのというのに等しい。

 知子はスマホをバックの中にしまい込んだ。





 逡巡もせず、知子は階段を降りる。

 その先には怠惰な教室。

 斑になっている緑色の壁は所々で剥がれ、落書きがされている。


 久しぶりに履いたヒールは、足首の快い負担を与えてくれている。

 女の隠れたプライドは時に苦痛を強いるが、それすら気持ちよかった。


 田中はどんな表情を見せるだろうか?


 彼がタンゴに精通してるなら、パートナーの座を譲るまいと、精一杯に踊ってくれるはず。


 物理研究室で真っ直ぐに包んだ手はそれを予感させた。



 黒いコートを着た知子が歩むと、傾いた教室に居た数人が視線を向ける。

 立てた襟で視線を防ぎ、教室の片隅へと歩く。そこにはプレーヤーがある。

 コートを脱ぐと夜色のドレス。後ろへと縛り上げた髪に深紅のリボンを付けた。染めあげた金髪には映える。

 ドレスの背中は大胆に開けられ、知子は背筋に空気の冷たさを感じた。



 すると、階段を軽いステップで落ちてくる。

 聞こえてくる反響音は田中のもの。

 ダンサーとして実力を知る為に、動きを見てきた。

 確かに優れた動きだった。



 だから、昨期のメッセージで怒っているはず。



 知子は口を開けず、タンゴを再生させる。

 パッションが空虚な教室に満ちた。

 バンドネオンが繋げる退廃的な音符の連なり。

 タンゴのリズムには艶がある。


 露出の多いドレスに皆の視線が集まった。

 知子の肌が粟立つ。



 スーツを片手に田中は驚きを隠せないで居た。

 そして、徐々に気迫を帯びる。伝播する怒気は知子を満足させた。



 ダンサーとはそういう生物だ。



 田中は本気でくる。

 目元に暗い影が落ち、眼光が強い。

 逆鱗を剥がれた彼の有様は、知子の心を喜ばせた。

 彼は息を吸い、張られた胸筋に力が孕む。



 知子は水面を撫でるようにして、黒のヒールを滑らす。


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 誰かが間抜けた言葉を漏らす。


 皆の視線が高揚感を生み、胸の高鳴りは耳の奥に痛みを生じさせる。

 殺到する好奇の視線が緊張感を快感へと変える。

 駆け上がってくる甘い痺れ。失敗が許されない空気に酔う。


 曲線を強調するよう上体を捻って立ち止まった。

 生徒の間から聞こえる溜息が、知子の耳朶を舐める。


 気持ち良い。


 上昇するテンションが、パッションをかきたてる。

 肢体が放つ芳香を拡散させるよう、首から胸へと艶めかしく手を這わせる。


 男の羨望の視線。女の嫉妬の視線。


 集まる視線を無視するというのは至上の快楽。

 知子が見つめる先は田中の瞳。投じた視線は外さない。


 知子はせりあがってくる闘争心を抑える。

 開放するのは今ではない。タンゴのリズムを背後に感じ相手を伺う。


 田中も足を止め、無表情に徹していた。


 彼の靴底がこすれる音がし、両足を揃えた。

 両手の指先から無駄な力が抜けてゆく。


 田中を誘うべく、遊女のように腰をみせる。


 身に付けたポアゾンの香りが鼻腔に踊った。

 むせ返るようなメスの匂いは彼に届くだろうか?


 正面に屹立した田中を挑発するように、手の平を上にして指の一本一本を折り畳む。

 夜色のドレスの上で真っ赤なマニキュアが妖しく映える。



 すると、正面から視線を叩き付けられた。


 知子の肌けた肩から熱気がのぼる。新雪の肌が上気して熱を帯びた。

 抑えようとしても、体温が上昇してゆく。田中のタトゥーが身体を更に火照らせる。


 田中の顔は引き締められたまま。送った視線に動揺していない。

 伸びた背筋は透明で、揺らぎのない重心は大地に根ざす。

 知子には田中の身体が大きく見えた。


 舐められたものね。


 動揺しない田中を見て、知子の闘争心が更に煽られた。

 心中に業火が燃え上がる。


 教室の中間、知子と田中が互いの手の届く距離まで歩めた。

 しかし、二人は歩むのを止めない。


 知子は田中の胸に手をつき、近づくのを拒む。

 田中が拒否を踏み潰そうと胸を張る。


 円を歩いている最中、田中が迫るように顔を寄せた。

 噴き出す圧迫感。激しく知子を威嚇する。


 額が近づく。

 知子は田中の胸を強く押しやる。

 彼は影のように後ろへ下がったかと思うと、手にしたスーツを投げ捨てた。

 

 白いシャツが眩しく、いつもより田中の身体が大きく見える。

 オスの匂い。

 涼しげな香りがいつになく、知子の鼻の奥に強く残った。


 飛び込む間。それを二人は待っていた。

 空間さえ歪ませる確執が、二人の間でぶつかる。


 向こうが動くか、こちらが動くか。

 既に知子は周囲は見ない。空気中に漂う埃すら目障り。



 流れる音楽の旋律に混じった一音。



 それを契機として、タンゴが始まった。

 二人は中心に向かって飛びこんだ。


 ぶつかる。


 残った軸足で体重を左に移動させる。田中もそれに応じた。

 教室の中心で腕をクロスさせる。

 知子は上体を反らし、田中が手を高々と片手あげる。




 これまで経験した中で最高のタンゴになる。




 知子は意識の先を細くし、田中のリードを待つ。


 視線はまったく気にならなくなった。


<Ending Music>

 https://www.youtube.com/watch?v=U_TlBcEzaVk

</Ending Music>

<Image Music>

 カオスクラブイメージ動画

 Explosive カオスクラブ

 https://www.youtube.com/watch?v=rhHF2uVxCUw

</Image Music>

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