堕天使の誘惑
綾川知也
Explosive カオスクラブ
交換留学で海外へと出たものの、
原色が剥げ落ち、疲労した校舎に差し込む光も煤けていた。
初めての訪米に胸を躍らせたが、学生達の瞳は裏路地みたいに沈んでいた。
多様性と喧伝された校舎の空気は淀んでいる。
ここへ来てどれぐらいになるだろう。
柔肌を包む春の空気は温く、身体の表面が不確かになっていると知子は感じた。
指で首筋を撫でるだけで、心は甘味を欲する。
知子は春先に浮かんだ月を見上げた。
そして、明日ここへ来ると言っていた
真っ直ぐに伸びた緊張感のある背筋。
彼の見せた執着心が心地いい。
仄かに霞んだ月光に浴していると、身体の火照りと、微かな疼きを感じた。
内股に宿る微かな痺れがもどかしい。
沈黙した広い芝生の上。
穏やかに降りる朧月の明かりだけでは、羽毛の煩悶から覚めそうにない。
*
見慣れた物理研究教室。
雑と詰まれた本達は収まるべき所になく、字面を部屋に曝していた。
かつては白かった塗り壁は、時間の流れの末に淡黄色へと変わっている。
淡い緑色の来客用ソファーはビニール製。
部屋は暗く、真昼というのに蛍光灯が灯されていた。寒色の明かりは時折瞬きを繰り返す。
田中の腕まくりされた白衣だけが目に刺さる。
遅れた空間の中、担任の田中だけが熱っぽく言葉を遊ばせている。
「電子は原子核の適度な速度で回る必要がある」
知子にとって田中は疎ましい存在だった。
だが、首筋が逞しさが切欠となって、話をするようになり、奥に潜んだ知性を感じた。
そして、いつしか彼を意識するようになっていた。
「へえ、そうなんだ」
田中の言葉に応じて、知子は頷いて返す。
鎖骨にあたる自分の毛先が、田中の指先だったらなどと、つまらない妄想が浮かべていた。
既に知子の意識は会話の上になく、腕にある十字架のタトゥーに吸い付けられている。
教職上、隠されなくてはならない秘密。
田中の秘事を暴くのは楽しく、毒の味わいが口腔を満たす。
「高速でないと電子は原子核に吸い込まれる。逆だと遠心力で何処かに飛んでゆく。これがラザフォードの原子モデル。で、物理的矛盾を解消する為、ボーアが新しいモデルを提唱。そしてド・ブロイ、シュレーディンガーを経て、現在の原子モデルとなる」
学問に取り憑かれた男は概して女心には疎いようだ。
道を説く男に、柔肌の下に通う血潮の熱まではわからないらしい。
光速を超えるという言葉の裏に隠された意味。
足繁く通う為に問うた質問に、田中は真摯に答えていた。
「もういいって。それぐらいにしてくんない?」
ソファの上で背もたれに身体を預け、横髪をさらった後、唇に親指を当てた。
スカートは膝上まで捲れ、白い大腿が深く曝されていた。
「そういや、知子はタンゴをするんだってな?」
塞がった会話を繕うようにして、田中は訊いてきた。
道を問う男は一直線。
教養、趣味。それと逞しい身体は申し分ないが、面白みがない。
「なんだ。義一も知ってるんだ?」
余ったパッションを解放させるべく始めたタンゴは、女という性を咲き乱せるには丁度よかった。
強く引き寄せられる腰。
絡ませた脚。
指先から伝わってくる筋肉のしなりや、首筋に感じる荒げた吐息。
胸にまで届く相手の激しい鼓動に、開けた胸元にかかる汗。
そういう情熱が田中にわかるはずがない。
知子は頭の奥でそう思った。
「馬鹿を言え。かなりの腕前だぞ。昔からかなり練習してきたからな。ほら」
引き出しから取り出されたシューズ。ヒールの高く、黒革には傷がいくつも並んでいた。
深い傷は、踏み込みの強さを想起させた。
意外な事実に知子は当惑した。
タンゴはパッション。情熱と情欲が交差するダンス。
蛍光灯が瞬きを止め、強く明かりを放ち始めた。
「ミロンガにでも行こう。パートナーが居ないんだ」
知子の手を取ろうと伸ばされた腕に迷いはなく、ソファーの肘掛けに置かれた手を包んだ。
暖かい。
今でも十字架のタトゥーが眼底に残っている。
*
『教室でタンゴ? いきなりだが楽しみだ』
翌日、スマホを開けると田中のメッセージが入っていた。
気怠い朝だったが知子は目を細めて軽く笑う。
くるまれたシーツの白が柔らかいが、スマホの画面の光は、目の奥を刺激するほどに眩しい。
ぬるま湯に慣れきっている留学先には、丁度いい刺激だ。
皆は怠惰の中で沈み、諦観の淵で動こうとはしない。
黒いコートを羽織り、カワサキを駆って校舎に向かった。
もうすぐ、田中が来る。
そう思うと、色褪せた校舎が輝いて見えた。
『タンゴのパートナーが決まるかも。そいつ上手なんだ。次を考えると疼くの』
嘘のメッセージを送った後、知子は口元を緩めた。
タンゴでパートナーを決めるというのは、婚約者を決めたのというのに等しい。
知子はスマホをバックの中にしまい込んだ。
逡巡もせず、知子は階段を降りる。
その先には怠惰な教室。
斑になっている緑色の壁は所々で剥がれ、落書きがされている。
久しぶりに履いたヒールは、足首の快い負担を与えてくれている。
女の隠れたプライドは時に苦痛を強いるが、それすら気持ちよかった。
田中はどんな表情を見せるだろうか?
彼がタンゴに精通してるなら、パートナーの座を譲るまいと、精一杯に踊ってくれるはず。
物理研究室で真っ直ぐに包んだ手はそれを予感させた。
黒いコートを着た知子が歩むと、傾いた教室に居た数人が視線を向ける。
立てた襟で視線を防ぎ、教室の片隅へと歩く。そこにはプレーヤーがある。
コートを脱ぐと夜色のドレス。後ろへと縛り上げた髪に深紅のリボンを付けた。染めあげた金髪には映える。
ドレスの背中は大胆に開けられ、知子は背筋に空気の冷たさを感じた。
すると、階段を軽いステップで落ちてくる。
聞こえてくる反響音は田中のもの。
ダンサーとして実力を知る為に、動きを見てきた。
確かに優れた動きだった。
だから、昨期のメッセージで怒っているはず。
知子は口を開けず、タンゴを再生させる。
パッションが空虚な教室に満ちた。
バンドネオンが繋げる退廃的な音符の連なり。
タンゴのリズムには艶がある。
露出の多いドレスに皆の視線が集まった。
知子の肌が粟立つ。
スーツを片手に田中は驚きを隠せないで居た。
そして、徐々に気迫を帯びる。伝播する怒気は知子を満足させた。
ダンサーとはそういう生物だ。
田中は本気でくる。
目元に暗い影が落ち、眼光が強い。
逆鱗を剥がれた彼の有様は、知子の心を喜ばせた。
彼は息を吸い、張られた胸筋に力が孕む。
知子は水面を撫でるようにして、黒のヒールを滑らす。
「
誰かが間抜けた言葉を漏らす。
皆の視線が高揚感を生み、胸の高鳴りは耳の奥に痛みを生じさせる。
殺到する好奇の視線が緊張感を快感へと変える。
駆け上がってくる甘い痺れ。失敗が許されない空気に酔う。
曲線を強調するよう上体を捻って立ち止まった。
生徒の間から聞こえる溜息が、知子の耳朶を舐める。
気持ち良い。
上昇するテンションが、パッションをかきたてる。
肢体が放つ芳香を拡散させるよう、首から胸へと艶めかしく手を這わせる。
男の羨望の視線。女の嫉妬の視線。
集まる視線を無視するというのは至上の快楽。
知子が見つめる先は田中の瞳。投じた視線は外さない。
知子はせりあがってくる闘争心を抑える。
開放するのは今ではない。タンゴのリズムを背後に感じ相手を伺う。
田中も足を止め、無表情に徹していた。
彼の靴底がこすれる音がし、両足を揃えた。
両手の指先から無駄な力が抜けてゆく。
田中を誘うべく、遊女のように腰をみせる。
身に付けたポアゾンの香りが鼻腔に踊った。
むせ返るようなメスの匂いは彼に届くだろうか?
正面に屹立した田中を挑発するように、手の平を上にして指の一本一本を折り畳む。
夜色のドレスの上で真っ赤なマニキュアが妖しく映える。
すると、正面から視線を叩き付けられた。
知子の肌けた肩から熱気がのぼる。新雪の肌が上気して熱を帯びた。
抑えようとしても、体温が上昇してゆく。田中のタトゥーが身体を更に火照らせる。
田中の顔は引き締められたまま。送った視線に動揺していない。
伸びた背筋は透明で、揺らぎのない重心は大地に根ざす。
知子には田中の身体が大きく見えた。
舐められたものね。
動揺しない田中を見て、知子の闘争心が更に煽られた。
心中に業火が燃え上がる。
教室の中間、知子と田中が互いの手の届く距離まで歩めた。
しかし、二人は歩むのを止めない。
知子は田中の胸に手をつき、近づくのを拒む。
田中が拒否を踏み潰そうと胸を張る。
円を歩いている最中、田中が迫るように顔を寄せた。
噴き出す圧迫感。激しく知子を威嚇する。
額が近づく。
知子は田中の胸を強く押しやる。
彼は影のように後ろへ下がったかと思うと、手にしたスーツを投げ捨てた。
白いシャツが眩しく、いつもより田中の身体が大きく見える。
オスの匂い。
涼しげな香りがいつになく、知子の鼻の奥に強く残った。
飛び込む間。それを二人は待っていた。
空間さえ歪ませる確執が、二人の間でぶつかる。
向こうが動くか、こちらが動くか。
既に知子は周囲は見ない。空気中に漂う埃すら目障り。
流れる音楽の旋律に混じった一音。
それを契機として、タンゴが始まった。
二人は中心に向かって飛びこんだ。
ぶつかる。
残った軸足で体重を左に移動させる。田中もそれに応じた。
教室の中心で腕をクロスさせる。
知子は上体を反らし、田中が手を高々と片手あげる。
これまで経験した中で最高のタンゴになる。
知子は意識の先を細くし、田中のリードを待つ。
視線はまったく気にならなくなった。
<Ending Music>
https://www.youtube.com/watch?v=U_TlBcEzaVk
</Ending Music>
<Image Music>
カオスクラブイメージ動画
Explosive カオスクラブ
https://www.youtube.com/watch?v=rhHF2uVxCUw
</Image Music>
堕天使の誘惑 綾川知也 @eed
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