願う少女

紺野咲良

失われしもの

 幼少時代の少女の周囲には、いつも笑顔があふれていた。

 その笑顔に釣られてか、少女もいつも笑顔を見せていた。

 仲の良い友達と、優しい大人たち。大好きな人たちと共に居られることが、楽しくて、嬉しくて、幸せで。そんな素敵な日々を、この先もずっと過ごしていける。そう信じて疑わなかった。


 そんなある日、誰かが大声を発していた。

 それは大人により友達が叱られている場面であり、『しつけ』という取るに足りない日常のありふれた一コマではあった。

 しかし笑顔以外の表情というものを、この世に生を受けてから初めて目にした少女にとっては、あまりにも衝撃的な光景だった。

 普段とは違った声音、普段の様子からは想像もつかないような形相ぎょうそう。叱られているのは自分ではないというのに、おのずと胸がざわめいてしまう。


 少女は、『怒り』を知った。


 そんな大人の姿を茫然と見つめていると、怒られていた子も別の表情をしていることに気がつく。

 うつむいて地面をにらみつけ、唇をきつく噛み、ぐっと何かをこらえているようで――。

 程なくして、その子も大声を発しはじめた。天をあおぎ、その目からは止めどなく涙がこぼれ落ちていく。

 甲高かんだかい泣き声は耳をふさぎたくなるもので、ゆがめた顔はなんとも痛ましく、思わず胸が締め付けられてしまう。


 少女は、『悲しみ』を知った。


 その日を境に、世界は様々な感情であふれていることを知る。

 以前の少女がいつも笑顔でいられたのは、他者の心の表情そのままを、鏡のように映し出していたから――『笑顔』をもたらしてくれる感情しか知らず、それだけを受け取っていたからだった。

 喜怒哀楽を知り、他者の感情を際限なく、過敏に感じ取ってしまうようになった彼女にはもう、表情が上手くつくれない。自分本来の感情と表情とが、またたにちぐはぐになっていく。


 楽しいはずなのに、顔が引きつってしまう。

 嬉しいはずなのに、眉間みけんにしわが寄ってしまう。

 笑いたいはずなのに、その目からは涙がしたたり落ちてしまう。


 言わずもがな、そんな彼女の姿を見た者は戸惑とまどった。唖然とし、気味悪がり、いつしか少女とは距離を置くことが――出来る限り関わらないことが、その場での不文律ふぶんりつとなってしまっていた。

 自分のせいで、皆が不快になる。自分のせいで、周りが凍りついてしまう。

 そんな苦境におちいった彼女がとった手段は、感情を閉ざすこと――心を殺し、表情を抑え込むことだった。

 抑揚を出さず。想いを表に出さず。心の宿らない人形のように、淡々と振る舞い続けた。


 いつしか、少女は――


 笑顔を、忘れた。



     ◇     ◇



 メル・アイヴィーの眼前に広がっていたのは、これまで彼女が目にしたこともないような光景だった。

 存在するもの全ての輪郭が紆余曲折していて、色合いまでもが滅茶苦茶で。かろうじて、何かの植物に見える。かろうじて、何かの建物に見える。そんな自然や人工物らしき謎の物体が複雑怪奇に交わり合っていて、まるで抽象絵画の中へ入り込んでしまったようだった。

 ここまでの空空漠漠くうくうばくばくな世界は初見であるが、比較的似通った謎空間自体には覚えがある。

 誰かが送り込んだのか、誰かが招き寄せたのか、はたまた人智を越えた事象の仕業なのか。手段や動機も何一つとして定かではないが、時々こうして異世界へとのだ。

「……?」

 周囲を物珍しげに眺めていたメルは、ふと妙なものに気づいた。

 よくよく目を凝らしてみれば、どうやらそれは……人、らしい。

 墨を頭から被ったような単一色をしているが、周囲と比べれば輪郭もはっきりしていて、両膝を抱え込んで座った人型のシルエットをしている。顔さえも真っ黒に塗りつぶされており表情が確認できず、年齢はおろか性別すらもわからない。

 しかし、何とも形容しがたいが……酷く、薄い。

 一度でも目を離してしまえば、見失ってしまいそうで。風でも吹いてしまえば、それに乗って消えていってしまいそうで。

 そのぐらいおぼろげで、儚い。そんな印象を受ける存在だった。

「どうしたの?」

「……」

 メルが声をかけてみるも、返事は無い。

 けれど幸か不幸か、かすかな感情すら感じ取れるメルには、その心中だけは察することができる。

 どうもその人は何かにいきどおっているようだった。それでもさすがに具体的な対象や原因まではわからない。

 元来がんらい心優しいメルにはこのまま放っておくことなど到底できず、どうしたものかと思い悩む。しかし待てども待てども何のアクションも無く、途方に暮れてしまう。

 ゆくりなく目の端で何かが動き、それに釣られてほんの一瞬だけ、ちらりと辺りに目を向けた――そのときだった。

「あっ……」

 まるで最初からそこに何も無かったかのように、その人は忽然こつぜんと消え去ってしまった。キョロキョロと付近を見回してみても、それらしき影はどこにも見当たらない。

 仕方がないか――と、溜め息をこぼし肩を落とす。

 あのままいてもコミュニケーションが取れたとも思えないし、憤りの理由を聞けたところで気の利いた台詞せりふが言えたとも思えない。


 ――私には、願うことしかできないのだから。


 メルは奇怪な空間をさまよいはじめる。

 彼女のゆったりとした足取りとは対照的に、辺りの風景はせわしなく移り変わっていく。

 上方に浮かんでいたまばゆい天体らしき物体が地平に沈んでいき、若干暗んだことから察するに、現在は夜を迎えたようだ。にもかかわらず、この世界には陽の代わりにきらめく光源がおびただしいほどあり、この時分であっても昼間のように明るい。

 それはメルが元いた世界の文明レベルでは土台無理な話であり、なんとも新鮮な体験であった。

 ここの人々は皆、働き者なのだろうか。致し方ない事情があるのだろうか。それとも単に、時間にルーズなのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていると、はたと何かに気づいて立ち止まる。

 メルの進行方向、やや左手寄り。そこには先ほどとまったく同じポーズ、同じシルエットの人物がいた。

 おそらく同一人物であるように思えたが……決定的に雰囲気が違っている。その人は、今は何かを悲しんでいるようだった。

「どうしたの?」

「……」

 やはり今度も返事は無い。

 一瞬でも目をそらしてしまえば、またどこかへ消え去ってしまうのだろうか。そんな事態は避けたいと、メルは必死にじっと見つめ続ける。

 けれどそんなことばかりしていても、この状況が好転してくれるはずもない。

 どうしたものか。やはり自分には、願うことしか――

 そんな既視感のある、諦めの混じったフレーズが浮かびかけたとき、メルはとした。

 愚かにも何を悩んでしまっていたのだろう。先刻はつい悲観してしまっていたが、何のことは無かった。


 ――私には、うたうことができるのだから。


 メルの心から迷いが消えた。

 目を細め、すぅっと息を吸い込む。

 首にある黒のチョーカーへ、そっと指先で触れる。


「――――」


 メルはうたう。

 それは歌詞の無いハミング、あるいはスキャット。

 彼女の透き通る歌声だけを辺りに響かせて。目の前にいるその人のことを想い、その人のためだけに祈りを捧げる。

 暴風が吹き乱れ、激しい雨が降りしきり、荒れ狂う嵐の海に放り出された一艘いっそうのような心でさえ、穏やかなるなぎへと導かれるように。

 そう願い、メルはうたった――。



 うたい終えたメルの耳へ、ぱち、ぱちと、まばらな拍手が聞こえてきた。

 その者は未だ座り込んだままではあったが、膝を抱えることをやめ、顔を上げてメルの方を向いている。

 その顔は相も変わらず真っ黒なままで、残念ながら表情はうかがい知れなかったが、長らく閉ざされていた口がようやく開かれた。

「きみは、だれ?」

「私はメル。あなたは?」

「ぼくは……〝  〟」

 音も無く、口だけが動く。

 おそらく名乗ってくれていたのだろう。しかしメルにその声は届かない。表情や姿を失っていることと同様に、名前すら失ってしまったのかもしれない。

 けれども、言葉は取り戻してくれた。それは確かな前進であった。

「ここで何をしていたの?」

「……なにも」

 メルはキョトンと見つめ返す。

「もう、あるけないんだ」

 その声は自嘲じちょうめいていた。仮に表情が見えていれば、バツが悪そうな苦笑もしていたのだろう。

 〝  〟は疲れ切っていた。それは一体、何に対してか。

 日常に? 社会に? 他人に? 自分に?

 そういった何らかに対して憤り、嘆き、妬み、苛立つ。芽生えてしまった負の感情が心をむしばみ、歩くことに疲れ果ててしまっていた。

 このときメルは、なぜ自分がこの世界に呼ばれたか、わかった気がした。

 これが与えられた使命なのかもしれない。こういう人たちのためにも、自分はいるのだから。


 独りでは歩く力を――ひいては、生きる気力を失ってしまった人のために。

 自らの手で物語をつづれなくなった人たちへ、手を差し伸べるために。


「行こ?」

「……え?」

「一緒に歩いてあげるから」

「なん……わっ、わわ!?」

 メルは〝  〟の手を取り、無理やり引っ張り起こした。

 そうして歩き出す。戸惑う〝  〟の手を引き、ゆっくり、ゆっくりと。

 歩きながら、メルはうたう。

 凍りついてしまった身体を、心を。ふわりと包み込み、ほのかな熱で溶かすように。

 そんなメルの想いにいざなわれてか、〝  〟はぽつりぽつりと話しはじめた。

 疲れていたこと。辛かったこと。苦しかったこと。泣きたかったこと。

 それはメルにとっては未知の日常だった。聞き慣れない単語や、体験したことのない苦悩。話してくれた内容の大半は理解できず、無論アドバイスなどできるはずもない。

 ただ、聞くだけ。ただ、願うだけ。


 そう――うたうだけ。


「どんな歌が好き?」

 唐突にそう問われた〝  〟は首を傾げた。

「もし要望があるなら聞かせて欲しい。わからないなら、色んな歌をうたってみせるから。一緒に探そ?」

 言って、メルはまたうたう。

 それは彼女にとって当たり前の、至極の日常で。


 激しい歌をうたうのは、怒っているからじゃない。

 寂しい歌をうたうのは、悲しんでいるからじゃない。

 明るい歌をうたっていても、その心が沈んでいることもあるのかもしれないけれど。


 物語を愛する人たちへ、彼女が紡いだ物語を届けるために。

 そのために、うたい続ける。

 そしてその詩、その旋律、その歌声は〝  〟の心をうるおし、揺り動かし、〝  〟が徐々に自分を取り戻していく。

 本来の色を。本来の姿を。本来の表情を。本来の、素敵な輝きを。


 ――本来の、〝あなた〟を取り戻していく。


 やがて周囲も――〝あなた〟の目に映っていた世界も、同様に色付いていった。

 手を繋いで歩く二人が通り過ぎて行く度に。「あれは何?」と指を差して聞くメルに、〝あなた〟が答える度に。

 そんな彼女たちの一挙手一投足を、世界が見つける度に。

 メルの清澄せいちょうな歌声が、〝あなた〟の燦爛さんらんたる姿が、世界をますます鮮麗に染め上げていった。


 二人が辿り着いた丘の頭上では、満天の星空が広がっている。すっかり寒くなり澄み切った空気ゆえか、はたまた現在の心境ゆえか、彼女らがこれまで目にしたこともないような絶景だった。

 眼下にも、第二の星空がある。

 その正体は眠らない街の人々の営みにより生み出された夜景だった。なんとも筆舌ひつぜつに尽くしがたい、頭上の星空にも勝るとも劣らない眺望ちょうぼうが広がっている。

 それは〝あなた〟にとって何の感慨かんがいも生み出さないどころか、忌み嫌うべき日常の象徴だったかもしれない。しかしこのときの〝あなた〟の口からは、

「きれい、だね」

 そんな台詞が素直にこぼれていた。

「うん」

 メルも短く同調する。

 何を投げやりになってしまっていたのだろう、と〝あなた〟は思う。まさに忸怩じくじたる思いだった。

 現実せかいは、こんなにも美しかったのに。

 そして思う。これまで悩み苦しんでいたのも、ここで生きたいと心の奥底で願い、もがいていたからだと。

 自分は、こんなにも世界を愛していた。


 それを、この不思議な少女が教えてくれたから――。


 途端、メルが『何か』にぴくりと反応する。

 そのままじっと虚空を見つめていたかと思うと、不意に口を開いた。

「そろそろ、終わりみたい」

「何が?」

「私の役目」

 〝あなた〟は息を呑んだ。

 ひしひしと嫌な予感がする。胸が急激に早鐘はやがねを打ち始める。

「だから、もう行かなきゃ」

 それはもしかしなくても、『別れの時』を告げる言葉だった。

 今しがたの予感が的中してしまった〝あなた〟は、やっぱりか――と嘆息する。そしてここに至ってようやく、ずっと気になっていた質問を投げかけた。

「メル……きみはいったい、何者なの?」

 メルは答えない。

 話せない事情があるのかもしれないし、彼女自身にも定義できなかったからかもしれない。

 メルがこの世界の住人ではないことぐらい、あまりに幻想的で神秘的な雰囲気からも察してしまう。そんな彼女が旅立つ先は異界か、天界か、それよりもまた別の次元の世界か。想像してしまえばしまうほど互いの間のへだたりを痛感してしまうし、考えれば考えるほど不安がつのっていく。旅立ったが最後、二度と再会することは叶わないのかもしれない。

「そんな顔しないで」

 感じ取るまでもないほど、そんな心情が顔に出てしまっていたのだろう。メルが気づかわしげに声をかける。

「でも……お別れ、なんだよね……?」

「きっとまた会えるから。だって、ほら」

 メルはそう言って空を指差してみせる。

「あの真ん丸のいちばんおっきい光。あれは私がいたところでも見えたものだから」

「……」

「いつか必ず会えるよ。私たちは、同じ空の下にいるのだから」

 メルの知るものと、この世界の空に在るそれは、同じ物ではなかったのかもしれない。

 彼女はその大きな光を示す際に『月』という固有名詞を用いなかったし、彼女の思っている天体は、模様など視認できないウサギなど住んでいないのだから。

 〝あなた〟も薄々勘づいている。それはメルがついてくれた、優しい嘘だと。

 しかしそんなことはおくびにも出さず、このまま騙されておくことに決めた。


 ――メルとの物語を、素敵なかたちで結ぶために。


「……きみも、そんな風に笑うんだね」

「え?」

「え、って。まさか自分でも気づいてなかったの?」

 そう指摘されて、メルは初めて表情の異変に気がついた。

 信じられないといった様子で、自らの頰に手を添える。そして改めて意識した。かすかに上がった口角や、緩んでいた目元を。

 すっかり忘れ去ってしまったと思い込んでいた表情が、そこにはあった。

 それは〝あなた〟がもたらした、〝あなた〟のために向けられた笑顔だった。

 誰かに自分の歌を聴いてもらえる。それがどんなに嬉しいことか、どんなに幸せなことか。


 それを、〝あなた〟が教えてくれたから――。


 ふと気がつけば、辺りもすっかり白んでいた。じきに日の出を迎えるだろう。

 その光に導かれるかのように、メルの身体も神々しく発光しはじめている。

 ついにその時が訪れてしまったようだった。目がくらんでしまいそうになるのをどうにか堪え、〝あなた〟は曇りのない笑顔をメルへと向けた。

「本当にありがとう、メル。きみのおかげで、また歩き出せそうだ」

 メルも微笑む。

 ありったけの想いを込めて、〝あなた〟へと微笑みかける。



「ありがとう。私の歌を聴いてくれて」



 その言葉を最後に、メルは旅立っていった。

 歌声を、耳に。笑顔を、目に。物語を、胸に遺して。

「ばいばい……メル」

 まだ残り香や淡い熱の留まる空間へと小さく呟く。

 これが二人を分かつ今生こんじょうの別れとなろうとも、決して悔やんだりなどしない。曙光しょこうをその身に受け、ほがらかに前向きに、別々の空を見上げて歩き出す。


 ――また新たな物語せかいが待っているから。




 少女の名は、メル・アイヴィー。


 物語を愛するすべての人たちへ、祈りを捧ぐ少女。

 まだ見ぬ物語を想って、彼女は今日も、どこかの空の下でうたい続ける――。

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願う少女 紺野咲良 @sakura_lily

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