サイレンなんかじゃない
「短い間でしたが、お世話になりました」
ぺこり、とメルは頭を下げます。
ここに来たときと同じ、白いワンピース。
そして首元には、黒いチョーカー。
毎日歌を聞かせていただきましたし、最後にはとびきり最高のステージを開いていただきましたからね。
ちょっとした、ボーナスです。
ワンポイント、小さな貝殻のデザインの入ったそれを、彼女はちょっと恐縮して、それでも嬉しそうに受け取ってくれました。
「人魚の歌声、確かにお預かりしました。またお会いする、その日まで」
彼女はこくりと頷きます。
もし、この歌の力を必要とするときが来たら、店のベルがまた鳴るのでしょう。
その日まで、しっかりと大事に保管させていただく。
それが預かり物屋の仕事です。
「ああ、そうだ! 一応最後ですから……いかがです?」
自分はぽんと手を叩き、ちょっと奥まで走って行ってから、カウンターの上にプリンを置きます。
市販の、プラスチックの容器に包まれたプリン。
お手製プリンの数々だって負けているとは思いませんが、やっぱりメルの一番の思い出はこちらのタイプなのかもしれません。
きらきらと青い目を輝かせて、彼女はゆっくり、時間をかけてプリンを楽しみます。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
このやりとりも、これで最後でしょうか。
なんだか切ない気持ちになっていると、ふと自分の耳に鼻歌が聞こえてきます。
それはとても、歌とは呼べないほど酷いものでした。
響きも散々、音程はバラバラ、リズムもしっちゃかめっちゃか。
けれどそれだけ酷い音楽なのに、奏でている人がとても満足して、楽しげな様子は伝わってくるのです。
「それはプリンの歌ですか?」
少し耳を傾けてから聞いてみると、ちょっと中断して、彼女はほんのり頬を染めて頷きます。
そしてもう一度ぺこりと頭を下げて、扉を開ける。
ちりんちりんと呼び鈴が鳴って、白い後ろ姿が遠ざかります。
ああ、でも、何度聞いても。
お店に毎日響いていたあの歌も、貝に閉じ込めたこの歌も。
――そして、次第に消えていく、とびきり調子外れの鼻歌も。
ちっとも、サイレンなんかじゃないですよ。
サイレンなんかじゃない 鳴田るな @runandesu
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