桜を見ながら珍味を味わう
桜の花が咲いている。大学構内の道沿いに、ずらっと桜の樹が並んでいて、枝も見えないほど一面に花をつけている。花の一つ一つは輪郭を失い、そこにあるのピンク色の雲か霞かといったところだ。
樹の下から見上げてみると、視界いっぱいに広がる淡いピンク色に、何ともいえないもどかしさを感じる。とてもきれいなのだけど何やら捉え所がなく、この美しさをどうやっても完全には満喫できていないようなもどかしさ。樹に抱きついてみるとか花びらを口いっぱいほおばってみるとか、そんな想像をしてみるが、そんなことを実行したところで、この気持ちが落ち着くこともないだろう。世の中にたえて桜のなかりせば……とは、よく言ったものだと思う。
それにしても花が咲くと、やっとそこに桜があったことに気付く。この樹々は今までどこに隠れていたのだろうと思うくらいだ。秋の紅葉もそうだけど、この劇的な風景の変化には、出来の良いマジックでも見ているように鮮やかに驚かされる。
日差しはぽかぽかと暖かく、小さな虫が宙を飛び回っている。路傍に目をやると、小さな花がたくさん咲いている。冬の間静止していた時間が再び動き出したような感覚を覚える。先ほどのもどかしさも、冬の後だからこそ、よけいに感じるのだろう。人々が花見をして騒ぐのも、そのもどかしさを解消したくてなのかもしれないと思う。
今日のお昼は友人の高科三果と食べる約束をしている。たまには学食でということで、学食前で三果を待っているところだ。
新年度が始まり、構内では新入生を狙ってサークルの勧誘が盛んに行われている。さっき学食に向かって歩いていたときも、チラシを配ったり、道行く新入生を呼び止めて話しかけたりする学生をよく見かけた。昼休みは書き入れ時なんだろう。私も歩いているとチラシを差し出されたりしたが、黙って軽く会釈をしつつスルーである。
学食前からは、通りをはさんで広場が見えるが、そこで大道芸の練習をやっている人たちがいる。これまでも時々見かけた風景だが、今は当然、新入生へのアピールという意味もあるのだろう。
器用に複数のボールを投げ、操っている人。何もない所にあたかも壁やロープがあるように身体一つで演じている人。見ていてなかなか楽しい。
彼らのそばにはチラシを抱えた白面の立像があり、チラシを取ろうとして新入生らしき学生が近づくと、急に動き出してその学生を驚かせている。
この時期は、講義室によっては、部屋の後ろに設置された黒板にサークルの新歓コンパの案内がでかでかと書かれていたりもして、大学全体が浮かれている感じだ。
私はこの四月で二年生に進級したが、サークルには所属せず、アルバイトもせず、学校と家と図書館の往復で一年間が過ぎてしまったような感じだ。
人見知りなもので、知らない人たちの中に飛び込むことがなかなかできない。やりたいけどできないというよりは、もうやることを諦めているので、最初からサークルに入るつもりもなかったけど、これでいいのだろうかという気持ちはないでもない。
何も成長しないまま時間だけが過ぎていくようで不安や焦りはあるし、後々を考えると、就職活動で自分について何も話すことがないと困るんだろうなという思いもある。もっとも、そもそも将来展望も全くない状態でもあり、それはそれでまずい気がしている。
まあでも単位は順調に取得できたし、三果を始め、親しく話す人も少しできたし、私にしては上出来だとも思う。
「ごめん、お待たせ」
三果がやってきて、二人で学食に向かった。実のところ学食で昼食をとるのは、私は初めてだ。生活をする上でなるべくお金を使わないことを自分に課しているので、いつもはコンビニのおにぎりかパンだ。食べる場所は構内の人気のないベンチで、一人でゆっくりと食べている。それならお弁当でも作った方が安上がりなのだろうけど、そこは手間との兼ね合いもある。料理はあまりしたことないし……。
ちなみに昼以外にはよく学食に入るので、勝手はなんとなく分かる。
学食に入ると、喧騒が身を包んだ。ああ、春だな。いや、ここはきっと年中こんな感じなんだろう。
食券と引き換えにカウンターで料理を受け取り、四人がけのテーブルに三果と向かい合わせで座った。私は唐揚げ定食、三果は牛丼定食を大盛りで。
「来週同じ学部の子達で花見するんだけど、ゆみえも来る?」
「ううん。やめとく」
「だよねー。ま、気が向いたらおいで」
三果が気を悪くした風もなく言う。数ヶ月前の鍋の日の居たたまれなさが記憶に新しい。ああいう場への参加は、もう少し記憶が風化してからにしよう。
ところでさ、と三果が言い、鞄をあさり始め、何かが入ったビニール袋を二つ、テーブルに取り出した。ビニール袋がくしゃくしゃになってよく見えないが、道の駅という文字だけ読み取れた。
「春休みに帰省してた友達がお土産くれたんだけど、興味あったらあげようと思って。見てみて」
三果はそういってビニール袋ごと私の方に押し出した。心なしか、あまり触りたくないといった様子だ。ただ一方で、笑いをこらえているような表情をしてもいる。
「何?」
三果の様子を不審に思いつつビニール袋の中を覗くと、缶詰が二つ入っているのが見えた。三果の顔を伺うと、牛丼を食べながら、私を促すように頷く。缶詰を一つ手にとって見てみた。
「おお、これは……」
私の反応をどこか嬉しそうに見ながら、三果が話し出す。
三果は空手サークルに所属している。基本、週に一回の活動だ。その空手サークルでは組み手も型も行っているが、三果はもっぱら型をやっており、あまり組み手には参加していない。でも時々ミット打ちはする。一人が大きなクッションのようなミットを構え、もう一人がそれに向かって拳で突いたり蹴りを放ったりするのがミット打ちだ。拳や足がうまくミットにあたると、とても気持ちが良い。
空手の拳の作り方は、こうだ。
まず親指以外の四本の指をくっつけた状態で、手を開く。親指は自然に伸ばしておく。次に四本の指の第一関節と第二関節だけ、曲げていく。指の腹の先のほうが、指の付け根にくっつく状態になる。そのまま指の付け根の関節を曲げる。そうすると、四本の指の爪が手のひらの上の方に食い込みつつ、ちょっと窮屈なサムズアップをしている状態になる。
最後に親指を曲げる。その際、親指の先が曲げた四本の指をはみ出さないようにする。突いたときに親指が先に出ていると、指を痛めることになる。
突きは、正拳突きと言って、真っ直ぐ突いて、真っ直ぐ戻す。突く前のポジションは、肘を曲げ、握った拳の甲の方を下に向けて、手首の辺りをわきの下辺りにくっつけた状態だ。突く際は拳を半回転させながら腕を真っ直ぐ前に突き出す。そしてまた拳を半回転させながら肘を曲げ、元の状態に戻す。
ミットなり相手なりに拳を当てる際は、人差し指と中指の付け根の関節が当たるようにする。前腕の骨とその二つの関節の骨が真っ直ぐにつながるようにすることで、突いたときに相手に強い力を加えることができるのだ。
慣れない内から思い切り突くと、指の骨や手首を痛めてしまうので、最初は軽く、次第に強くしていく必要がある。さらに拳を強くする場合は、壁など硬い物を毎日突くと良い。そうすることで人差し指と中指の付け根の関節周辺の骨が太くなり、さらに皮膚も堅くなり、人を突いても拳が痛くなくなるのだ。骨が太くなることで、当然突きの威力も増す。
空手サークルでは二人の女の子と仲が良い。名前は晴香と茜。晴香が今回のお土産をくれた子だ。彼女は活発で、組み手もよくやっている。背が高く、戦っている姿がなかなか様になっている。
もう一人の茜は三果と同じく、型を中心に行っている。こちらの子はちょっとひょろひょろで、組み手をやろうものなら、攻撃を受けるまでもなく倒れてしまいそうで、見ている方がひやひやするほどだ。ただ、右手人差し指と中指の付け根の関節の辺りにはタコができている。先述の、硬い場所に打ち付ける方法で拳を鍛えているらしい。
サークルの日は大抵、終わったあとに一緒にご飯を食べる。二人とも三果ほどではないがよく食べる。茜は食事中に水をよく飲むので、食事後、茜がお手洗いに行くまでがいつものパターンだ。
その日は食事が終わり、茜がお手洗いに行っているときに、晴香が鞄をごそごそとあさり出した。
「春休みに実家に帰省してて。二人にお土産買ってきたよ。はい、三果にはこれ」
「お、ありがとう!」
差し出されたビニール袋を受け取り、三果は中のものを取り出す。そして一目見て絶句する三果。
「おいしそうでしょ」
お土産をくれた子がにやにや笑う。
「茜にも以前あげたんだけどね。すぐ突き返されちゃった」
そこで茜がお手洗いから戻ってきた。席に着くと二人の様子を見てすぐに状況を察したようで、三果に対して気の毒そうな顔をしてみせる。
「私も去年もらったけど、無理無理と思って。特にその、ワーム系? 昔から嫌いで見るだけで吐き気が……。」
そう言いながらも、怖いもの見たさなのか、茜の視線は三果の手元に釘付けだ。
「もらってくれるかしら? あ、茜にはこれ。りんごパイ」
「あ、ありがとう」
複雑な顔をする茜。嫌いだった? と聞く晴香。私今虫歯なんだけど、おいしそうだから頑張って食べる。虫歯だったの? ごめん。ううん、言ってなかったし。
という二人の会話をよそに三果は少し考え、とりあえず缶詰をもらうことにした。
「ところで晴香の実家ってどこだっけ」
三果の問いを受け、晴香が嬉しそうに答える。
「そらあんた、言わずと知れた信州は伊那よ」
「というわけで。受け取り拒否しても良かったんだけど、こういうの好きそうな子がいるからって言ってとりあえずもらってきたんだ」
三果の話を聞きながら手元の缶詰を見ていた。缶詰にはハニカム構造のイラストが描かれている。蜂の巣を模式化したイラストだけど、蜂蜜やローヤルゼリーの缶詰ということはもちろんなく、つまるところ蜂の子の缶詰だ。蜂蜜だと思い込もうとしても、そもそもハニカム構造の上には「蜂の子」と大きな文字が自らを主張しているのだからそれも叶わない。
もう片方の缶詰を手にとって見てみると、こちらはイナゴの佃煮と書いてある。
「興味があればくれるっていう話だっけ」
「うんうん」
「興味はある」
「おっ」
「でも食べたくはないので、要らない」
「ああ、残念」
自分がその食文化で育っていないから食べたいとは思わないが、歴とした食べものを、例えばゲテ物呼ばわりするのは私の良しとするところではない。
ただ、気持ち悪いものは気持ち悪い。幸い缶詰なので中身は見えず、おかげで食欲に影響はない。
「でも中身を見るだけはしてみたいな。食事中でないときに」
「私も見てみたいんだ。ほしい人見つからなかったら一緒に開けようよ」
学食内を見回っているのか、コック服の人がそばを通ったので、三果が缶詰を隠すようにそそくさとビニール袋に入れてテーブルの端に寄せた。
「こういうの好きそうな子っていうのは、私のこと?」
「以前カエルの肉食べてみたいって言ってたから、これもいけるかなって思ってね」
「ああ、カエルは鶏肉に似てるっていうからねえ」
一瞬私の手元の唐揚げに目をやり、ははあとため息のような肯定の返事のような声を漏らす三果。
「鶏肉といえば、そう、鶴を食べてみたいんだ。戦国時代は食べていたらしくて。食べたら長生きできそうじゃない? あと雉もおいしそう。こっちも縁起よさそうだし」
「ゆみえは意外と食欲旺盛ね」
そういう三果が食べている牛丼は、大盛りとはいえ、多すぎるだろうという盛り方である。運動部の男子学生向が好みそうなメニューだ。
「私、いくつもサークル掛け持ちしてるからさ、エネルギーが必要なの。これだけ食べても全部消費される」
私の視線に気付いたか、三果がすました顔で言う。
「これ、他に興味持ちそうな知り合いとかいない?」
「知り合いね……」
私の人脈を頼るとは、春の陽気で三果の頭もぼーっとしているに違いない。三果を除けば、目下私の知り合いといえば二人しかいないのに。
上級生の女性、結城さんと、この学食でアルバイトをしている男性、千里さんの二人だけだ。
でも考えてみると二人とも可能性があるかもしれない。結城さんは文学部日本文化学研究室に所属していて、日本の文化に興味があるし、千里さんは学食でアルバイトするくらいだから、いろいろな食材に興味を持っている可能性がある。
カウンターに目をやるが、千里さんの姿は見えない。さっき料理を受け取るときも見かけなかったし、奥の厨房にいるか、お休みかどちらかだろう。
今度聞いてみるよと三果に伝えた。缶詰預けとこうかと三果が言ったが、固辞しておいた。
夕方、結城さんに会いに行った。用件はもちろんお昼の缶詰の件だ。研究室のある棟の裏で野良仕事をしているということだったので、行ってみる。野良仕事って、何だろう。
「こんにちは」
小さな田んぼがあった。そこに何かの苗が規則正しく並べられている。田んぼは良く見ると、縦長のプランターをいくつか並べたものだ。そのプランターから、単子葉類らしい緑色の細長い葉がいくつも顔を出している。
そばに立っている結城さんが、振り返ってこんにちはと挨拶を返してくれる。結城さんはジャージ姿で腕まくりをして、腕は泥だらけだ。
「すごい。何ですかこれ。イネ?」
「赤米を植えてたんだ。今終わったところ」
赤米は古代から食べられていたと考えられる稲の一つだ。種皮や果皮に赤い色素が含まれる。また、穂の先から伸びる突起上のノギと呼ばれる部分も赤いため、秋に出穂した様子は火に例えられる。
味はあまり良くないらしく、食用にはされないが、その色から、神饌に用いられることがある。複数の神社で赤米神事というものが行われていて、そこでこのお米が使われるのだ。これは取りも直さず古代の人々が赤米を食べていたということを意味する。赤米は環境の変化に強いため、昔の人でも比較的容易に栽培できたのだろう。
「秋に収穫して、皆で食べる予定なの」
「へえ、いいですね。楽しそう」
「今年初めての試みだから、うまくいくかどうか分からないけどね。うまくいったら秋月さんにもおすそ分けするよ」
「わあ、ありがとうございます。楽しみ」
水田はかすかに揺れる水面に青空を映していて、とてもきれいだ。赤い穂が整然と並び、風に揺られている光景を想像する。うまいこと実るといいなあ。
「収穫は秋だから、合わせてどんぐりクッキーなんかも作れるといいなと思ってるんだ」
「ああ、いいですねえ。図々しいお願いですが、もし良かったらそれもおすそ分けを……」
「もちろん」
どんぐりは縄文時代にはすでに食べられていた食材だ。どんぐりとはクヌギやナラなど、ブナ科の植物の果実の総称だが、多くのどんぐりはあくが強く、食べるためにはあく抜きが必要となる。細かく粉末状に砕き、水に晒したり煮沸したりしてあくを抜く。
粉末状にすることから、食べ方としてはそのまま茹でておかゆ状にしたり、つなぎと混ぜて焼くことでクッキーやハンバーグ状にしたりする。つなぎには里芋や、動物の血、あるいは肉、鶏の卵などが使われたと考えられている。
同じ堅果でいうと、栗や胡桃の方が手間がかからない分よく利用されたようだ。青森県の三内丸山遺跡では栗の樹が栽培されたことが分かっている。
ちなみにどんぐりの中でもシイの実はあくが少ないため、生でも食べられるし、炒ると香ばしくておいしいらしい。
結城さんが手を洗いに水道のあるところへ移動する。道すがら、結城さんに缶詰の件を話してみた。
「というわけで、蜂の子の缶詰とイナゴの缶詰があるんですけど、結城さん、興味ありますか?」
「ううん、やめとく」
悩む様子もなく遠慮された。
「去年研究室で同じような缶詰買ってきた人がいたんだけど、研究室メンバー全員手を付けようともしなくてね。だから回りにも聞くまでもなく興味ある人いないんだ。ごめんね」
残念。他を当たろう。
再び学食。入り口からカウンターの方を見ると、千里さんがいたので中に入り声をかけた。ちょっと座って待つよう言われたので、手近なテーブル席に座って待つ。ニ、三分で千里さんが来て私の向かいに座った。
「その服、どうしたんですか?」
いつもの簡単な白衣とエプロンではなく、もう少し本格的なコック服になっている。ダブルボタンで、首周りと袖口には緑色のラインが入って、腰から下は同じ緑色のエプロン。頭の上には三角巾ではなく白い帽子だ。
「今月から正社員になったから、変わったんだ」
「へえ、おめでとうございます」
「もうちょっとモラトリアムでいたかったんだけどね、それでタイミング逃して一生フリーターというのも避けたいからね」
正社員やモラトリアムやフリーターという言葉を聞いて、将来に対する焦りが少し顔を覗かせる。
「千里さんは料理が好きだからこの仕事に就いたんですか?」
「それもあるけど、バイトしようと思ったときにたまたま募集してたからというのと、学食ならつぶれることもあるまいと思ったのもある」
「ふうん」
「仕事にしてしまったから、これから料理嫌いになるかもしれないな」
真面目な顔でそんなことを言う。
「でも、好きなことがあって仕事にできるのはいいと思います。私、あんまりそういうのなくて。ちょっと将来が不安で」
「別にやりたいことがないといけないということもないし、深く考えなくていいと思うよ。」
「そうですか……。でももっと不安なのは、やりたいやりたくない以前に、何らアピールするところのない私を雇ってくれるところがあるのかどうかというところで」
「アピールね。何をアピールできたらいいと思う?」
「え? えっと……。サークルでこんなことしましたとか、アルバイトでこんなことしましたとか……」
「ふうん。じゃあサークルなりアルバイトなりをやればいい」
「う……」
痛いところを突かれた。絶句している私を千里さんは横目で見やる。
「それも嫌なら、アピールできなくても雇ってもらえるところを見つけるしかないね。あるいはフリーターで時間稼ぎながら男を捕まえて専業主婦になるという手もある」
それはそうだけど結婚できるかどうかも危うい。
「うう、ありがとうございます……とりあえず参考になりましたということで、この件は以上で」
「参考になったならよかった」
将来に悩むのは今日のところはこの辺にしておこう。
「ところでプロの料理人たる千里さんは興味ありますか? 昆虫食」
「昆虫?」
「はい」
「昆虫を食べるって話?」
「はい」
「ここで興味があると言ったらどうなるの?」
警戒し始めた千里さんに、にこっと笑って答える。
「就職のお祝いに蜂の子とイナゴの缶詰をプレゼントさせて頂くことになります」
「ああそう……それなら興味あるよ」
「えっ。本当ですか」
「うん。食べてみたいと思ってた」
ここでもすげなく断られるだろうと予想していたので、驚いた。千里さんは料理が好きなだけあって、食べ物には並々ならぬ興味があるようだ。
聞くと、今年の初詣は、南房総の高家神社に行ったという。磐鹿六雁命という料理の神様を祀っている神社だ。詳しくは知らなかったが、千里さんが由緒を教えてくれた。
その昔、景行天皇が東国巡察で安房の浮島の宮に行幸された折のこと。付き従っていた磐鹿六雁命が海からとった鰹と白蛤を膾にして天皇に供したところ、天皇はその料理の技術に深く感じ入ったという。そして磐鹿六雁命に膳大伴部の氏姓を賜り、子孫は大膳職として宮中の食に携わることとなったという。
料理の祖神であり、醸造や調味料の神としても祀られていることから、料理関係者や醸造関係者から厚く崇拝されているらしい。
「そのころの食べ物って、膾とか羹とか醤とか、聞くだけでおいしそうって思うんですよね。正体は分からないのに」
「膾は刺身、もしくは刺身を酢で合えたもので、羹はスープと思えばいい。醤は、いろんなものを発酵させてできた調味料だね。醤から、味噌や醤油が作られることになる」
じゃあ磐鹿六雁命が造ったのは鰹と蛤のお刺身かあ。やっぱりおいしそうだ。
「神社のお祭りは興味深いね」
千里さんが、高家神社のお祭りの話をする。曰く、足つきのまな板に載せた魚を、烏帽子に直垂を着用した料理人が、包丁とまな箸を使い、手を触れずに捌いていくのだそうだ。これを庖丁式という。
「秋月さんはよく知っているだろうけど、全国の神社に神饌ってあるでしょ。あれもすごく興味深い」
完全にそのままではないにしても、古代の調理法や技術が保存されている、と千里さんが言う。料理のことはあまり分からないけど、昔どういう食材が食べられていたとか、どんな風に調理されていたとか、お祭りの形で確かに連綿と受け継がれてきたのだろう。
数日後の夕方、三果と学食前で待ち合わせた。試食会である。試食会といっても食べるのは千里さん一人だけど。
待ち合わせ場所に現れた三果は、なんだか浮かない顔をしている。
「どうかしたの?」
「あー、うん。片方なくなっちゃった。缶詰」
「なくなった?」
蜂の子の方がなくなったらしい。とりあえず中に入ろうかと言い、二人で学食に入った。
中ではちょうど千里さんがテーブルの上にお箸をや小皿、水の入ったコップを準備していた。お箸がなぜか三膳。
「こんにちは。ゆみえちゃんの友人の高科です。新年会の時はありがとうございました」
「こんにちは。その節はどうも」
三果と千里さんが挨拶を交わす。そうだ、ちょっと前にここで新年会をやったとき、三果は幹事をやっていたので、二人は顔見知りなんだ。
「じゃあ早速ですが」
三果が鞄からビニール袋を取り出す。この前は袋がよれて見えなかったが、袋には道の駅という文字に続いて信州伊那の里とプリントされていた。
「まずこれ、イナゴの佃煮です。差し上げます」
「おお、どうもありがとう」
千里さんがお礼を言い、缶詰を手に取る。
「それでですね、申し訳ないんですが、蜂の子の缶詰がなくなってしまったんです。なのでイナゴだけ」
「なくなった?」
イナゴの缶詰を眺めていた目を三果に向け、私と同じ台詞を返す千里さん。
「昨日の講義が終わってサークルが始まる前までは少なくともあったんですけど、ついさっき、気づいたらなくなってて。サークルでお土産くれた子と会うから話題に上げようと思ってて、サークル前は意識してたから、その時点では確かにあったんですけどね」
「ずっと鞄に入れっぱなしだったの?」
「うん。ただ、サークル中は鞄ごと体育館の更衣室の中だけどね。貴重品だけ体育館に持ち込んでるんだ。体育館の更衣室のロッカーは鍵も何もないただの棚みたいなのだから、誰でも持っていけると言えば持っていける」
わざわざあんなの持っていく人がいるとも思えないんだけど、と三果が付け加えた。
千里さんが少し考える顔をした。
「ちょっと思うところがないでもないけど、一旦置いておこう」
「何ですか?」
「後でね。とりあえず、イナゴ食べようか」
「この前言った通り、食べるのは千里さんだけですからね。なぜかお箸、三膳ありますけど」
慌てて念を押す。
「見たら気が変わるかもしれないと思ってね」
にやっと笑いながら千里さんは缶詰の蓋を開ける。
きれいなてかりを帯びた、こげ茶色のイナゴが、びっしりと詰まっていた。植木鉢の下のダンゴムシや身を寄せ合って越冬中のテントウムシを連想する。
「うわあ、すごいね、これ……」
「見た目、イナゴそのままだね」
三果と言葉を交わす。
千里さんが小皿に数匹……いや、数個? のイナゴを出した。白いお皿の上に出たことで、より観察しやすくなった。
羽や後ろ足の関節から先は、食べたときに食感が良くないということで、お好みで取り除いたりそのままだったりするらしいが、この缶詰のイナゴは丁寧に除かれている。その他は何の変哲もないイナゴだ。何の変哲もないというのは、食べ物として見た場合は少なくとも私にとっては大問題で、もうちょっと変哲のある状態になっていてもらいたいところだった。特に顔の中で大きな複眼が黒く光沢を放っているのは、まだ生きているんじゃないかと思うほどで、見ていると全身に鳥肌が立ってきた。
「目が……」
魚の目が苦手な人って言うのはこういう気持ちなんだろうか。そして、お皿の上のイナゴの中で、一つ二つ他より大きなイナゴがいたりして、同じ形なのに様々な大きさがあるというのがまた生々しく野生を感じさせて、実に気持ち悪い。これが海老であれば、大きいのがあってラッキーと思うところなんだけど。
千里さんがお箸を伸ばし、一つイナゴを取り上げた。
「これ食べるのは思ったより勇気がいるね」
と言ったかと思うと、千里さんはイナゴを口に放り込んだ。表情一つ変えず咀嚼している。
「ど、どうですか」
「んー」
ごくりと口の中のものを飲み込み、千里さんは口を開く。
「佃煮の味だね。イナゴそのものの味はよくわからないけど、まあおいしいと思うよ。ご飯に合うという話もよく分かる。食感はぱりぱり、だね」
そう言って、もう一つイナゴを口に放り込む。三果が少し顔をしかめた。
「吐きそうになりません? 食べている人にこんな聞き方するのもなんですけど」
「まあ、最初だけね。最初を乗り切れば平気だよ。二人も遠慮せず食べていいよ」
「あ、そうだ、さっき思うところがあるって言ってたのは何だったんですか?」
三果がやや強引に話をそらした。そう、私も聞きたい。千里さんがそういう言い方をするとき、たいてい私の思いもよらない話が始まるのだ。
千里さんは気を悪くした様子でもなく、言った。
「ああ、茜って子が盗ってったのかなって思って」
「えっ? ……何の話でしたっけ?」
三果が戸惑い、私と千里さんの間で視線を往復させた。
「蜂の子の缶詰がなくなった話だったと思う」
一応、答える。
「茜が盗った? でも彼女は苦手で、一度突き返したって」
「苦手だからこそ欲しかったんじゃないかな」
「はあ……。どういうことですか?」
千里さんは引き続きイナゴを食べながら話す。
「その茜さんは、拒食症じゃなかろうかと思ったんだ」
「拒食症? な、何で? ちゃんとご飯食べてますよ。よく食べるなあって思うくらい」
「拒食症にもいろいろあるけど、一つのパターンとして、何かを食べたらすぐに食べたものを吐くというのがある。栄養を吸収する前なら太らないという考え方だね。その子は毎回食事の後にトイレに行くというから、そのパターンに当てはまりそうだと思った。
吐く方法として、一番手軽なのは指を喉の奥に突っ込むことだ。その際手の甲辺りが歯に当たるので、常習的にその吐き方をしている人は傷やタコができる。空手の練習でタコができたというのはおそらく方便で、本当は吐きダコなんじゃないかな。
そういう人は吐き易くするために水をたくさん飲むという。そして、胃酸によって歯が弱くなり、虫歯やその他の口内の病気にもなりやすくなる」
「え……」
三果が目を丸くしている。私はその茜という子を直接知らないけど、三果にとっては半信半疑ながらそれなりにショックだろう。
三果が黙って考え込んでしまったので、私が代わって質問する。
「それで、蜂の子とはどういう関係があるんですか?」
「さっき高科さんが僕に吐きそうにならないかと聞いたのと同じ発想だけど、茜さんも蜂の子を口に含むことで吐き気を催そうとしたのかなと思ったんだ。指を使うより楽だろうし、手の甲を傷つけもしないし。ワーム系が苦手という彼女にとっては良い催吐剤に見えたんだろう」
「催吐剤?」
「食中毒が発生したときとか、異物や毒物を誤飲したときなんかに、胃の中のものを吐かせるために使う薬のことだよ
へえ。そんなのがあるんだ。
「そういえばお土産もらったとき、あの子、缶詰を熱心に見詰めてた気がする」
少し考え込む様子を見せた後、三果は千里さんに視線を向けた。
「もし本当に拒食症だったら、病院に連れて行けばいいんでしょうか」
「そうだね。まずは心療内科や精神科がいいと思うよ。カウンセリングなんかも必要かもしれないけど、必要なら病院で言ってもらえると思う。ただ、友達に言われて素直に行くかは何とも言えないけどね」
「ありがとうございます。病院行くよう働きかけるだけはしてみます。早速彼女に会ってきます。今日はありがとうございました」
そう言って鞄を手に立ち上がりつつ、私を見る。
「ごめんね、それ、私の分まで食べといて」
食べる気なんて元々なかっただろうに、「私の分」も何もあったもんじゃない。そう私が突っ込む間もなく、三果は足早に去っていった。
「相変わらず行動が早いこと……」
座ったまま三果を見送ると、窓の外に桜の樹が見えた。だいぶ散り始めているが、まだまだピンク色の花がついている。
桜という名前の語源の説の一つにサキムラがサクラに転じたというものがある。草が集まってクサムラ、竹が集まってタカムラ、花の咲くのが集まってサキムラだそうだ。そんなことを思い出しながら目の前に視線を転ずると、イナゴムラとかムシムラとか、そんな言葉を思い浮かべてしまう。
この気持ちいい春の陽気の中、虫を食べながら拒食症の話をするという過ごし方はどうなんだろうか。
「どうする? 食べる?」
千里さんの言葉に我に返る。
「そういえば手軽じゃない吐き方って、どういうのですか?」
三果に倣って話をそらしてみた。とっさにそらしただけに、あまり気持ちよくない話題を取り上げてしまった。
「ああ、チューブを使う方法があってね」
「チューブ?」
嫌な予感がする。
「まず背筋を伸ばして上を向いて、口を開ける。チューブの先を上あごに沿わせ、そのまま喉の奥に少しずつ入れていく。引っ掛かりを覚えたときは、つばを飲み込むようにごくりとやると、スムーズに行くらしい。あらかじめ長さを測っておいて、胃まで到達したことが分かるようにしておいて……」
「ストップ! すみません、もういいです」
予想外に大きな声が出た。イナゴよりこっちの話の方がよくない。聞いているだけでこみ上げてくるものがある。
「イナゴなんてかわいいもんだという気がしてきました……」
千里さんがさっきから平気で食べ続けているのを見て、麻痺してきたような気もする。一つ食べてみようかな。
黙ったまま箸を手にとる。千里さんも黙ったまま待っている。気が変わらないうちにと、思い切って口に放り込み、軽く噛む。うん、佃煮だ。それだけ確認して、水で流し込んだ。
「はい、ごちそうさまでしたっ」
「おいしかったでしょ」
「ええ、まあ。でももう十分です」
口の中に何かが残っているような気がしてしょうがないので、もう一口水を飲み、一息つく。ふう。
「蜂の子、残念でしたね」
「そうだねえ。ただ僕もイモムシの類はちょっと苦手なんで、少しほっとしてる」
持ち帰るならタッパー貸すよという千里さんの言葉を丁重に辞退し、千里さんがタッパーにイナゴを詰めるのを見ていた。
「そういえば三果には話したんですけど、私、カエルなら食べたいなと思ってたんです。あと鶴とか雉とか」
「鶏が好きなんだね。ああ、だからこの前唐揚げ定食だったのか」
「そうなんです……って、何で知ってるんですか?」
「いや、あの時そこらへん歩き回ってたから。だから缶詰を二人で見てたのも知ってたよ」
全然気付かなかった。何でだろう。きょとんとする私に気付き、千里さんが言う。
「あの日すでにこの服だったから、気付かなかったのかもね」
「ああ、なるほど……。冬の間の桜の樹みたいなもんですね」
例えの意味が分からないようで、今度は千里さんがきょとんとしている。
後日三果に、茜さんの事を聞いてみた。
「素直に病院行ってくれたよ。本人も苦しんでいたみたいで」
やっぱり食べては吐いていたらしい。
茜さんには、単刀直入に聞いたのだそうだ。茜さんとしては、蜂の子のことを聞かれてもしらばっくれる準備はできていたが、いきなり拒食症かと聞かれることは全く想定しておらず、目は泳ぐわ顔は強張るわ、答えを聞くまでもない状態だったということだ。
「そう。ひとまず安心だね」
ありがとう、と言った後、三果が思い出したように私に聞く。
「その後、イナゴ食べた?」
「ああ、うん。一個だけ。ほとんど飲み込んだけど。味はおいしかった、というか、調味料の味というか」
「蜂の子、未開封だったから返してもらえたんだけど、また試食会する?」
「いや、もういいや」
しばらくは元の食文化に戻りたい。鰹と蛤の膾に舌鼓を打ちたい。あれから虫を見ると胃が重くなる気がする。
「それにしても気付けなかったのがショックだったよ。毎週会ってたのに」
「毎週会ってるからこそ、変化に気付きにくいんじゃないかな。急激に痩せたりしなければなかなか気付けないでしょ」
「でも千里さんは話し聞いただけなのに気付いたからね」
「あれは気付ける方がおかしいと思う」
三果は少し笑った。
「今度、お礼がてら千里さんに蜂の子あげてくる」
「そっか」
千里さんが、芋虫を苦手と言っていたのを思いだす。
「うん、きっと喜ぶよ」
その後、缶詰のことなどすっかり忘れたころ、千里さんから呼び出されて一緒に蜂の子を食べることになろうとは、そのときの私は知る由もなかった。
蛍を見ながら和泉式部を思う 矢野窮 @ta1234
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