手負い蛇
安良巻祐介
『怒りは突然に私の頭へ飛び付く。
それはとぐろを巻いた黒い蛇のような形をしており、喉をさかのぼって来る。つまり、元々は腹のあたりにいるのだけれど、ああ何だか今体をほどいているなとか、ちょっと考えぬ間に随分小さくなったなとか、ちろちろと舌を出しているなとか今胃の壁の辺りを撫でているなとか、いつもはそういうことを何となく意識するだけで、いざそれが上がってくるとぎょっとする。
焼けた細い牙がこめかみのあたりに突き通り、自分でもびっくりするくらいかっと目の前が真っ白になる。
口を開けて、はあはあと犬のような生臭い息をして、手近なものに喰らい付きたくなる。
とりあえず鉛筆やペンなどばりばり噛み砕いてみる。インクがどす黒い血のように垂れて少しは気が晴れる。一方で破片が口の中に刺さって痛む。全く馬鹿馬鹿しいが仕方がない。実際、蛇に咬まれたとでも思うしかない。
怒るという事は動物的な行動のようでいて、実際のところひどく人間的である。思う相手と、思っている自分とがあって、だいたいその思っている自分の方に火焔の如く憤怒する。何故自分はかくあるのか。何故自分はこのように思うているのか。それらにどうしようもなく牙を突き立てたくなって、蛇が飛び付くのだ。
具体的な激昂のきっかけは、いつも自分でもよくわからない。腹の中の鬱屈が少しずつ少しずつ濃くなって、胃の腑の奥でとぐろ成す形に知覚されだした時、そろそろかなと思いはするが、タイミングを測れたためしがない。
蛇はひどく気まぐれで、そのくせ動作は俊敏で、炎の牙を持っており、牙の中の毒は遅効性である。
焼けつく痛みと怒りの後、ぼんやりとしている時に、何もかもが酷く愚かで哀れに見えるのは何もかも自分のせいだという事実を、普段覆い隠している壁を突き崩して見せてくれる啓蒙的な毒だ。
壁はまたすぐに練り上がってしまうが、この束の間の自己視のために僕は、黒い蛇の牙の一撃をどこかで待ち侘びている風でもある。…』
黒い蛇の皮を財布に収めたその男は、このようなメモ書きを片手に、往来に倒れているところを発見された。
運ばれていった彼がどうなったか、誰も知らない。
手負い蛇 安良巻祐介 @aramaki88
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