15:エピローグ
りんごを剥いていた手を止め、そっとシンクに落とし込む。果物ナイフを手に、リビングへと歩み寄る。自然と漏れてくるだらしなく息を、慎重に、音を殺しながら吐き出す。
突然うちへやってきた友人は、四年間付き合った彼と婚約したことを告げた。
「これで、よかったんだよね……」
彼女はテーブルに頬杖をつき、左手にはまった指輪を見つめながら、自分を納得させるように呟く。私は友人の背後に立った。
「何言ってんのよ。よかったに決まってんじゃん」
自分の声が潤んでいることに気づいた。目から溢れそうになる涙をこらえながら、ぜったいよかったに決まってんじゃん、と本心をそのまま言葉にする。
そうだ、私はうれしいのだ。他人の幸せでしかないのに、こんなに心を動かし感極まっている。
中学から高校まで、彼女とは親友と呼べるほどの仲を築いてきた。この子の恋人のこともよく知っている。恋人の彼を交えて三人で食事をしたこともある。もし出会う順番が違っていれば私からアプローチしていたかもしれないと思えるほど好印象な男性だった。
ただし付き合っている彼女からすれば不満も多々あったらしく、その都度愚痴を聞かされ、ときに同情し、たまに説教じみた叱責なんかもして、あたかも自分のことのように悩んできた。
そうだよね、よかったんだよね。彼女はひとりごちる。
「完璧な人生なんてないけどさ、結局彼とはいろいろと泥臭い喧嘩もしたし、いまだに埋まりきらない亀裂もあるけど、そういうことなんだよね。そういうの全部含めてお互いが支え合えるって……確信、なんてそんな大層なものはないけど、きっと、これでよかったんだよね……」
私は深く頷く。彼女の頬が安心したように緩んだ気がした。後ろ姿でもそれが分かる。
私は、右手にしたナイフを握りなおした。
「迷うのは今晩だけだよ。これから忙しくなるんでしょ? そんなことも言ってらんなくなるって」
言いながらナイフを水平に持ち、彼女の背中に突きつける。およそ数センチの距離。刃の先端を一度制止させる。骨の間をうまくすり抜け、心臓を一刺しするイメージを高めた。少しずつ、刃の位置を調整していく。彼女はまだ指輪を見つめている。気づいた様子は一切ない。
あんたは報われていいのよ。あれだけ悩んだんだもん。それは私が一番よく知っている。私もこれでいいと思っているし、涙が出ちゃうほどうれしい。あんたが幸せになってくれて、本当。
――これは本心だ。
紆余曲折あった恋愛を経てついにゴールした彼女を、これからも応援していきたい。今後の結婚生活で悩み事があればまた聞いてあげたい。そして、無事に子どもが産まれたら、私にも抱っこさせてほしい。
まぎれもなく、これは本心なのだ。
なのに右手が動く。何の理由もなく行われる残虐な行為を体感してみたいと、身を震わせる。
彼女の小さな背にナイフをあてがったまま私は動きを止めていた。この地点こそ、ぎりぎりで抑制が効くボーダーラインだった。
頭の中でシンバルみたいなものが鳴り響いていた。このボーダーラインを超えてしまいたいと。頭蓋骨の内壁で反響し、私を正常じゃなくしていく。喉がからからに乾く。手のひらに汗が沸く。奥歯を噛みしめながらラインに耐える。
超えろ、超えろ、と悪魔が蠢き出す。悪魔はいつしかあどけない少女へと変貌し、口元に無邪気な笑みを浮かべていた。
とろけるような妄想に視界が歪んだまま、私の記憶は分断された。
* * *
我に返ると、あのコンクリート打ちっぱなしの部屋にいた。視線を手元に落とす。私はベッドにうずくまるようにしてアップルパイを頬張っていた。
異臭にも似た甘い香りが辺りに漂っていた。両手はパイの残骸で汚れている。指の間からは白みがかった液体が滴っていた。液体は清潔なベッドシーツを汚す。
「ワンちゃんみたいだね、美加ちゃん。お行儀わるいよ?」
振り返ると、薄桃色のワンピースを着た少女がいた。背の高い椅子に座り、足をぶらつかせて笑っている。
「そんなに美味しかったの?」
私は唾を呑んだ。その瞬間、まろやかな甘みが喉を通った。その味は魔術的だった。舌にいつまでも絡みつき、パイの具はすとんと胃になじむ。食べているはずなのに、口にした次にはまたその味を欲している。食べないと目が眩んできて、これではいけないと脳が判断し、勝手に手が動くようだった。
私は、いままで体験したことがないほど、お腹を空かせていた。
大皿のものはほとんど食べ尽くしてしまっていた。あれだけ大きかったパイがこの中に収まったんだ。不思議な思いで自分のお腹をさする。ぐう、と恥ずかしい音が鳴った。顔を赤らめながら少女を見返す。
自分より何歳も下であるはずの少女は、子の過ちを赦し受け入れる母のような穏やかな笑みでこちらを見ていた。
私は両手で皿を持ち、汁を啜る。この空腹の中、いくら恥ずかしがろうがそうせずにはいられなかった。それにあれだけ嫌がっていたはずのアップルパイが異常に美味しく感じられる。旨みは頬の内側や歯の隙間に染み着き、咥内がぴくぴくと痙攣するほどだった。皿の表面に残った具を吸い集め、舌でまんべんなく舐め取った。
少女の手が、私の髪に触れる。くりくりといじるように撫でられ、ひどく幸福な気分になる。何かまだ夢の続きを見ているようだった。
「おいしい?」
私は皿を舐めながら必死に頷く。
「おいしい」
「もっと欲しいの?」
導かれるように、何度も頷く。照れくささで頬が上気した。
「うん……ほしいの、もっと」
少女は私の手を取って立ち上がらせた。彼女に手を引かれながら、私は自分の手に残った汁をしゃぶった。膝の力が抜け、カーペットをずらしながら引きずられていく。
口の裏側に残った具の一部を見つけ、それを何度も咀嚼する。そうすることで胃が喜び、お腹の奥が熱を上げた。
きぃ、と錆びた音を立て、部屋の扉が開かれる。扉の向こうから漂う香りに、大切に噛んでいた具を思わず飲み込んでしまった。
「美加ちゃんがそう言うと思ってね、美味しいの、もっともっと集めてあるんだよ」
とてつもなく広い、厨房のような部屋だった。左右に調理台やオーブントースター、コンロや調理器具の棚が陳列されている。その中央にうず高く、何かが積み上げられている。
それが香りの正体だった。
「今度はなにを作ろうか? ムースにシャーベット、それからフルーツパフェ? それともシンプルに――」
少女の声はほとんど耳に入らなかった。四つ足で這うようにして進む。鼻をひくつかせると、そのたび宙に舞う成分が粘膜に漂着するようで、脳みそがとろけちゃいそうで、涎がぼたぼたと垂れた。手元に落ちていた大きなあめ玉を口に含む。あめ玉には細い管が数本くっついており、素麺をすするみたいに吸い上げた。
積み上げられた食材に倒れ込む。よく見もせず手探りで掴み当てたそれは赤黒い肉の塊で、口に含むと、むっとするような臭みとともに原生の肉汁が溢れだした。
「よっぽどお腹が空いてたんだね、美加ちゃん」
犬のように顔を埋めつづける。白滝のように指に絡みついてきた黒い糸を歯で噛みちぎり、ねっとりとへばりつく脂を舐め取った。
「そのまま、食べたままでいいから聞いてね」
少女が背後を横切る足音がした。調理台に向かい、包丁で何かを切り刻みはじめた。
「明日からはね、美加ちゃん。あなたは明日から、何でもない日常を送るんだよ。本当の美加ちゃんは、どこにでもいる普通の人なの。あなたはこれからも、何の話題性もない、よくある平凡な一生を送っていかなければならない。争いとか、差別とか、絶望感とか……気が狂うほどの痛みや、死ぬほどの苦しみも、美加ちゃんの生涯には無縁であるはずだった。でもね、これだけは知っていてほしいの。この部屋で体験したこと、見てきたことは、この世のどこかに必ず存在する光景だということ。みんないつか、こんな体験をするはずだった。していなければいけないし、あるいは、しているはずなの。誰しもがそういう思いを抱えて平然な顔して生きている。怪物の檻に錠をかけたまま中々解こうとしない。本当は苦しくて、痛くて、妬ましくて、満たされなくて……」
少女の声の変化に反応し、急速に食欲が失せていく。
私は食材の塊から顔をあげる。少女は包丁を置き、泣き出しそうな顔でこちらを振り向いた。
「ごめんね、全部わたしのわがままだったの。美加ちゃんはもう十分知ってくれたと思うの。それに、ほら……だれだって一人はさびしいものでしょ?」
だからもう、放してあげる。
弱々しく笑う少女の姿は、徐々におぼろげになっていく。ふとまばたきをした瞬間、すっと消えて居なくなった。
そこで映像が途切れた。
* * *
右手から力が抜ける。果物ナイフが指からすり抜け、フローリングに落ちた。友人が怪訝に振り返る。手からナイフが離れた途端、私はその場にへたりこんでしまっていた。
「どうしたの? 顔色が悪いけど」
それから友人は、私の泣き顔を笑う。
「自分のことでもないのに、そんなに泣いちゃうんだ? ほんと良い人だよね、あんたって」
私は照れ隠しに頭を掻き、笑い返しながら、咥内に違和感を覚えた。
「そうだ、りんごを剥く途中だったんだ」
あわててナイフを拾い上げ、両膝に手をついて立ち上がる。逃げるようにキッチンに戻った。
シンクに転がっていたりんごを取り上げ、水道水で念入りに洗う。私は注意深くリビングを窺い、キッチンへと向き直った。
唇の端からこぼれそうになる唾液を、手の甲で拭う。奥歯に残った肉片を咀嚼し、ゆっくりその味を確かめてから、三角コーナーに吐き捨てた。
咀嚼 小岩井豊 @yutaka_koiwai
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