14:咀嚼しながら迎える世界の終わり、あるいは妄想

 渋谷に大型旅客飛行機が落ちた。

 スクランブル交差点の中心で。

 巨大な鉄の塊は、黒々とした煙を吐き出し、向こうの景色を分からなくしている。

 これはひとつの『世界の終わり』を暗示しているようだった。それも都内で、もっとも人の行き交う場所で。終わりは終わりでも、これみよがしに、とでもいうようで。


 五階のカフェの窓際で、その様子を見ていた。

 消防隊や警察官が行き交い、道路は封鎖された。バスやタクシー、一般車も追い出され、鉄道も入場規制を行う。報道陣が機材を抱え、人混みをかき分けてやってくる。衆人は携帯を片手に、凄惨な現場を撮影する。撮るのはもちろん建造物じみた大きさの鉄塊の全景と、原型も分からないほどすりつぶされてしまった肉の破片と、足下で炭化した手足などの末端物。そんなものがいくつも辺りに散らばっている。それを見て嘔吐した痕跡を、人々は避けもせず踏んで歩く。


 わたしはアイスティーを啜る。いったいどうして、この街に飛行機なんかが落っこちてきたんだろう? 果たして、渋谷の上を通る航路なんてあっただろうか?

 ひとしきり考えて首を振る。起こりえないことなんてない。何故かしらわたしには確信めいたものがある。たとえとうてい理解できないことだって、いつかはきっと起こってしまうのだと。


 この世には怪物がいる。ときに醜い異形として、あるいは地上のどの生物にも分類されない巨大さで、もしくは他者へと寄生し、身体だけでなく思考や人格までも奪う。姿を眩まし、人混みに紛れてしまうときだってある。そこに一定の意志や目的はなく、完全な不条理である。 


 ただひとつの法則として、それら怪物や異形が発現する場には必ず人間が介在しているということだ。これは必然とも言える。人と不条理は密接に関係しているのだ。ひとつひとつの行為にそれなりの理由をつけ、もっともらしい根拠をでっちあげているだけだ。複雑化した要素の上で成り立つ彼らにおいて、本質や本能といった自然の摂理はもはや意味を成さなくなっている。近年その傾向が顕著になっている。今では十年前に再構築した公式でさえ崩壊し、通用しなくなってきた。なのに正常は保たれていると盲信したまま、また理解をひとつ超え、そのたびその異常性を飲み込み、そんなことを繰り返していくうち、いよいよ本物の終わりが到来しようとしている。


「まるで昔流行った予言者みたいだ」


 右から左へ、流れていこうとした言葉をかろうじて受け止める。声を発したのはわたしの隣に座る青年だった。彼の存在はずっと前に認識していた。望遠レンズのカメラを構え、窓越しの交差点を黙々と撮影していた。青年は一度横目にわたしを捉え、胸元にカメラを落として頬杖をつく。


「だけどあんたの予感は間違いじゃない。なんだって終わりがあるだろう? いくら道理から外れたっていつかは死ぬし終わりもする」


 青年はカメラのストラップをたすき掛けのようにして、おもむろに席を立つ。彼が店を出ていくのを追って歩いた。

 青年のことはよく知っている。彼はわたしの『予感そのもの』だ。あるいは妄想ともいえる。わたしがそれを感じたとき、必ずそばに姿を見せる。

 事故現場へと駆けていく人の流れに逆らうように進んでいく。坂の多い路が続く。どうしようもなく不便で傾斜のきつい坂道だったが、左右を見ると洒落た雑貨店や古着屋が並び立っている。石階段が多く、しかも段差の高低差もそれなりにある。背の低いわたしはたまに膝に手をつきながら段を踏まなくてはならなかった。そういった都会の路地らしからぬ険しい道のりを無目的に進む。やがて人の気配が薄くなると、途端に青年は歩調を緩める。


「ときにあんたは、自身を取り巻くこの環境をどう思う? 世界が自分の意識だけで生成された、架空の外界体験じゃないかと疑ったことはないか? つまり今、五感で感じ取っている事象のすべてが幻覚で、実際のあんたは脳だけの存在かもしれない。脳だけの、ってのはそのままの意味で。あんたの身体は元からなくて、たとえば培養液なんかに浸かった脳みそがコンピュータの配線につながれてぷかぷか浮いているだけの存在かもしれないってことだ。水槽の脳だな。それだけあんたにとって理解不能なことが次々起きている。どこかの奇特な科学者がおもしろ半分でこんな悪趣味な映像を見せている。血や汚物の臭いを無理矢理嗅がせて自分に嫌な思いをさせている。そうに違いない。そうでなきゃ納得できないだろう。いちいち不条理とまともに付き合ってたら気が滅入ってしまうからな。陳腐な独我論でも唱えないとね」


 わたしは歩みを早め、青年の正面に回り込んだ。彼の濁った三白眼と視線を付き合わせる。

 彼は、知っているくせにこんなことを言う。使い古された独我論は、どう陳腐と言い捨てたところで結局は願望の裏返しでしかなく、そうであってほしいという願いでしかないこと。現実逃避のための道具でしかないのだ。いくら冗談めかしたってこの事実は動かない。たとえわたしが水槽の脳であったとしても。故障しているのが、脳であっても、世界であっても、わたし個人に訪れる結果は同じだ。


 人智を超えた存在、異形、怪物、理性と倫理をはき違えた人間たち。

 起こりえないことが今も世界のどこかで起こっている。それも限りなく現実に則した形で――少しずつ、その常識や法則を覆しながら。これは決定的な『ずれ』だ。『ずれ』が重なりそのまま駐在するとそれはもう『ずれ』ではなく、ただ『日常によくあること』として背景の一部にとけ込んでしまう。常識ならまだしも、万物の法則さえねじ曲げる。これが故障でなくてなんだろう?

 わたしの気持ちを代弁するように青年は口を開いた。


「そう、今発生していることは『起こりえないこと』だ。『起こりえないこと』と『奇跡』は似ているが、突き詰めれば全くの別物、似て非なるってことだな。万にひとつの可能性で起こるのが『奇跡』で、万にひとつの可能性でも起こらないのが『起こりえないこと』だ」


 陽が落ち、夕日が街を焼いた。夕焼けを遮るように立つ青年の顔は影が落ち、表情を分からなくしている。


「この数十年、人類は革新的な進歩を遂げた。同時に、起こりえること、起こりえないことの法則が乱れ始めている。変化の波に乗り、『ずれ』は人目につきにくい箇所を中心に根付き、異常性を持ちはじめた。技術や科学、経済や言語から宗教まで、文化というのは相互に深く関連し絡み合っているが、その複雑な構造を完全に把握しているものは少ない。多くの目には限りなく現実に沿った変化としか映らず、あってはならない変化であると受け止める者もほとんどいない。あんたのような直感で感じ取る人間にしても、この事態に気づくやつは数えるほどしかいない」


 青年はわたしを指さした。

 わたしは自分の顔に手をかける。違和感を感じ、瞳を巡らせた。

 視界の端に赤ぶちの眼鏡があった。慣れない手つきでつるはしを触り、眼鏡の位置を調整する。


「あんたは元から眼鏡をかけた女の子だった。ふとした違和感はあるだろう。だけど生き物には多かれ少なかれ順応性というのがある。得た違和感は即座に脳内で処理されるだろう。気にとめる暇もないほどの早さでね。こと人間に至ってはたった数千年単位でこれだけの変化を受け入れてきた。この程度の順応は造作もないことだ」


 誰しも、自分の意識には絶対の自信を持つものだ。この感情、思考は自分だけのものだと。もし個の意識すら認められなくなったとき、まともな思考は失われ、やがて錯乱状態に陥ってしまう。防衛本能の一種である。起こりえない現実から目を逸らし、ありもしない幻覚として内部変換される。裏を返せばこれは正常である証拠だった。

 そのようにして人は変化に気づかず、異常性を飲み込んだまま、決定的な『ずれ』の中で生きていく。本物の終わりがやってきていることにも気づかずに。


「順応は鈍感と似ている。昨日までこうだったこと、こうでなければならなかったこと、その価値が失われつつある。記憶や習慣ってのは信用ならない。いや習慣だけに関して言えば、明日なにが起こってももう驚かない、という意味での習慣なら確かにあるだろう。明日がだめでも数日後に、数日後がだめでも数週間後には当たり前になっているだろう。極端なことを言えばだけどね。むしろこちらから変化を求めに行くかもしれない。なんせ刺激そのものを飽食した世代だ。こめかみに空いた穴から羽毛に覆われた蛇が出てきたって、『そういうこともあるだろう』と受け止めてしまうかもしれない」


 明日には何が起こるのか。わたしだってもう、何があったって驚かないかもしれない。この目でいろいろなものを見てきた。奇形揃いの劇団に、人を喰らう黒い毛玉の怪物、最新の違法薬物が横行するクラブに、成人もしていないような少年少女たちの切腹ショー。これらも、たとえばの話だけど。

 許されるか許されないか、そこに倫理はない。歴史を振り返りながらやり残したことはないかと吟味し、潜在的な好奇心がまだ足りないとさらに上を欲する。過度な規制があれば尚更だ。禁忌とされるものほど目新しく、背徳的でそそられる。蹂躙し尽くせば、やがて青年の言うような飽食のときが訪れる。そのときというのが、まさに今日なのだ。わたしが目にしてきたことだって、もう目新しさはないのだろう。

 咀嚼、と青年は言う。


「今はただ、口に含んだものを咀嚼するだけの時代だ。次に皿へと運ばれてくるものは何か、唇を舐めながら、大した危機管理もなく待ち惚けている。無暗に満腹中枢だけが満たされ、空しく時間は過ぎていく。ほんとうの満足も知らないまま、満足の意味を見紛う者もいる。愚かってのはこういうことだろう。己の咀嚼物には様々な味覚に溢れている。甘く、辛く、苦く、酸っぱくもあり――そんなことにも気づかないやつらに忠告しておきたいことが、あんたにもあるんじゃないか?」


 夜が背後から迫ってくる。いずれ日付は変わるだろう。青年の背中を眺めながら帰路に着く。渋谷はどうなっただろう。災厄に飽きた人々が復帰した交通網に乗り、布団で横になりながら、暗い部屋でスマートフォンと睨めっこをする様を想像した。


 明日は何が起こる?


 カエルが空から大量に振ってきて、衛星機が地表に叩きつけられ、大規模なデモが行われると各国が戦力を保有する。大戦争の歴史が刻まれ、集団自殺のブームがやってきて、政府が人口削減案を掲げる。泥状の未確認生物が排水溝から這い出て、大災害が各国同時に発生し、最新兵器の実験によって巨大生物が生まれる。作物が育たなくなり未曾有の飢饉が人々から余裕と優しさを奪い、すっかり人類が弱り切ったところで、果ては恐怖の大王が十年遅れで再来する。

 たとえば未来がそうであると知っていたとき、わたしはどうするだろう? 街を駆け回り、世界の危機だとふれ回ることが出来るだろうか。わたしのこれは、妄想でしかない。だけど青年は予言と呼ぶだろう。こんなにふざけた妄想なのに、彼は大真面目な顔して。


「起こりえないことはない。これはあんたが教えてくれたことだ。あれから俺の人生観は一変した。そう、起こりえないことはないんだ。何も恐いものなんてない、そんな考えで暮らしてはいけない。自分に理解できないことはある。そして、そいつを少しでも理解しようなんて考えちゃいけない。そうだろう?」


 そういう風に生きている。彼もわたしも。息を潜めるように暮らし、常に危険を意識し、注意深く微細な変化を観察し、適応と順応の違いを見極める。大事なのは、ただ異形や不条理の存在に怯えているだけではいけないということだ。意志や目的を求めてはいけない。理解できないことを理解できないと知った上であえて観測し恐怖を受け入れる。


「世界が終わるとしたら――あんたならそれこそ、飽きるほど、幾度となく夢想しただろうな。たとえばそうだな。最後くらいべたに巨大隕石でも落としてみようか」


 隕石はでたらめなスピードで空間を切り裂きやってくる。無条件で残酷な光が、暗い空をかき消す。網膜を焼くような明るさに目が眩み、間もなく衝撃波を伴いながら大型の地震とともに地盤がひっくり返される。人々は長いこと空中へ投げ出されたあと、跡形もなく引き千切られ、無数の肉片となり地割れの底へと飲み込まれる。さらに間を置かず直径数万キロメートルの飛来物が激突し、地球は形を変えながら砕け散る。

 そういう終わりがやってくるとして。


 交差点の中心に立つ。旅客機の鉄屑があちこちに散らばり、そこかしこに死骸が遺棄されていた。

 青年と並んで立ち止り、すっかり重くなった眼鏡の重みを感じ取る。つるはしの両端に手を添え、目を閉じる。きぃんと、静寂が辺りに流れていた。

 入れ違いに、どこからともなく音楽が聞こえた。壊れかけのラジオから漏れる音みたいだ。どこか懐かしい、それでいて誰もが知っているような、昔から親しまれ続けた音色と古めかしい歌声。

 わたしだったら、多分そうなる。

 イヤホンをして音楽に耳を澄ませるのだ。宙を浮きながら、終わりを迎えるその瞬間まで。誰かと手を繋ぎながら潔く落ちてしまおう。

 そんな風に、ただひとつ変わらない自分を確かめていたい。


「その隣にいるのが、俺だといいんだが」


 彼らしくない言葉に、わたしは笑う。


「そうだと、いいかもね」


 つるはしから手を離す。鼻にかかった重みが失せ、赤ぶちの眼鏡は足もとの虚空に消えてなくなった。

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