蛇足と呼ばれるもの。あるいはプロローグ
空はどこまでも蒼く続く。自分が支配していた世界の面影が残る光景を見下ろし。
屋上の柵に寄り掛かり、視線を下に向ければ、大学の構内で右往左往する人々の姿が見える。だからと言って、何かをする理由も無ければ、義理も無い。
いっそあの時に死ねていれば楽になれたのにと下らない事を考える。
「外間ちゃ…… 外間君、私のこと…… まぁ、忘れてるわよね」
背中からかけられた声に振り替えれば、白衣を纏った少女がそこにいた。ウェーブがかったアッシュブロンドの長髪と、幼いが大人の顔が印象深い。白衣の下はシンプルなシャツとタイトスカート。
けれど、外間は彼女の名前を思い出せない。失われたものが多すぎて、理性で予想する切っ掛けすらつかめない。ただ、ただ、消えた心のどこかがズキリと痛みを突きつけてくる。
「すまない、なんと呼べばいい?」
「それくらい、思い出して欲しいと思うのは無茶ぶりかしら?」
カツカツと、ヒールを響かせてその
外間と同じものを見ようと、ひょいひょいと背伸びしている姿はとても愛らしく。けれど彼女には、まぎれもなく自分と同じ大人の空気がある。
そこまで考えて、外間は乾いた笑いを浮かべる。あまりにも大人と呼ぶには滑稽な自分の行動を思い出したのだ。
「悪いが、ユイですら名前を聞くまで彼の事を思い出せなかったのだろう?」
「大人でしょ、それくらい。どうにかして見せなさい」
随分と痛い所を突いてくる。それこそユイか、木藤宗次郎に聞けば彼女の事は分かるかもしれない。けれどどうしようもなく動けなくなった自分にそんな勇気は無くて、ただ苦笑いを返す事しか出来ない。
「それで、この先どうするの外間君?」
「それが、君に関係あるのか?」
「ええ、心中でチャラにするつもりだったけど。借りがあるもの」
外間はようやく理解する。あの時に
【リベリオン】の因果反転の効果を自分に集中させたのだ。因果は確実に巡るが、何に対して戻るかは介入の余地がある。その隙を彼女は突いたのだ。
結局のところ彼女が味方したいと思ったのは、自分ではなく彼らで。それがあの結末につながった。ただそれだけの話。
「どんな借りが、どれだけあるのかも……」
「ええ、聞きなさい。彼らに、真摯に聞けば教えてくれるわ」
それこそ、今ここで残された弾丸を自分の頭に撃ち込もうかと一瞬悩んで止める。それをやってしまっては余りにも情けない。どちらも救いようがないが、ならば今横に立つ彼女に対して少しでも埋め合わせが出来る選択肢を選んだ方がマシだ。
「まったく、失恋直後の人間に。随分と無茶を言う」
「失恋ねぇ、失ったのは愛…… いいえ、宝くじの当たり券程度のものでしょ?」
彼女のあまりにざっくばらんな表現に、外間は苦笑を浮かべる。
自分が愛した、自分を愛した広兼由依が生き返る可能性はゼロでは無かった。ただそれだけ、自分が失ったのはその程度のものだったのだと気が付いたのだ。
「ああ、だが良いのか? 俺はまだ広兼由依を愛しているぞ?」
「死人とは勝負出来ないじゃない。だからそれで良いの」
どうやら自分には彼女に対して随分と大きな借りがあるらしい。あるいは愛されているのか。そして、それに応えていなかった事も良く分かる。そうでなければ無造作に彼女の記憶を消費するような事はしなかった。
顔に手をやり、眼鏡を直そうとして苦笑いする。もうあのセルフレームもこの手にはない。いつの間にか消えてしまっていた。外間の胸にはまだ宗次郎への憎しみと妬みも、今生きている広兼由依への恨みも。もう死んでいる彼女への恋も残っている。
けれど、それを受け止めた上で。歩き出せる。
意外な程軽く、足は動いて外間は柵から離れて進みだす。いつかまた迷うだろう。もしかすると再び彼らに対して刃を向けることもあるかもしれない。だがそれでも、今この瞬間は彼らに恥を忍んで頭を下げようと、そう思える。
名を知らぬ彼女に右手を軽く振って、外間は屋上から出ていった。
◇
(少し、意地悪だったかしら?)
一人残された屋上で、ナインは空を見上げる。どこまでも蒼い空が広がっている。けれどよく見ると
はたして、時間が動き出したこの世界がどうなるのか。ナインにも分からない。外間の世界は充分な熱循環が発生せず、熱量死に向かうことが確定していた。
この世界もそうなる可能性はゼロではない。
だがこの蒼い空を見る限り、その心配はなさそうだとも感じる。
そんな希望を抱く程度には、この世界は暖かかった。
(今の王様は、ユイちゃんと木藤君のどちらなのかしら?)
そんなことを考えて笑う。ナインにとって世界の仕組みも、支配者も大して意味は無い。普通でなくとも構わない。自分が彼のそばに寄り添えるのなら、なんだって良かったのだ。
それはそれとして、住みやすく、心地いいのなら嬉しいが。そういう意味で彼ら二人の世界は揃っている。どちらが上でも差は生まれない。
だから、知らなくても構わないのだ。
それよりも、真実を知った外間がちゃんと自分の所に来てくれるかどうかの方が余程重要だ。彼は意気地なしなところがあって、足を踏み入れるまでグジグジと悩むタイプなのは分かってる。
けれど、自分もそれを止められなかったのだから。木藤宗次郎や広兼由依が来てくれるまでこんな風に彼を助けようと、思っていなかったのだから文句は言えない。
手を伸ばせばよかったのだ、体を捧げ繋がって、それだけで満足せず。彼の心に。
そうすれば、もっとマシな展開があったのかと思考して。けれど、今以上の結末を思いつくことは出来なかった。だから、これで良いのだ。だからナインは、彼が自分の権利と義務を知って戻って来た時にどう抱きしめようかと思いを馳せる。
そしてそこでふと、気が付いた。
(ああけど、処女をあげたのは。二人に聞いても分からないか)
もしももう一度、彼と床を共にすることがあったなら。その時は初めての男の事を盛大に惚気てやろうと決意する。まぁそこまで辿り着けるかは定かではないが、一度体だけを求めあう関係になれたのだから。
今度は別の、心まで分ちあう所までいきたいものだとナインは――
蒼い空の下で、悪い女の顔で笑みを浮かべるのであった。
◇
どこまでも高い青空から降り注いだ日の光の眩しさに、宗次郎は目を細める。
どこか慌ただしい街の匂い、行きかう人並みの圧力。状況を理解しようと右往左往する人々の中で、彼は視線を前に向けなおす。自分の一歩先を少女が歩む。
フリルが多用された少女らしいワンピースを、軍服の装飾で飾り立てた黒のドレス、言うなればミリタリーロリィタに身を固め。両手を白の手袋で、そしてセミロングなスカートの奥まで伸びるハイソックスで手足を隠し。
それに現実離れしたショートカットの銀髪。碧眼の周りに赤いセルフレームが彩を添えているが。そんな彼女がくるりとこちらに振り返る。
その表情には希望と喜びがあるが。けれど少しだけ大人な表情で、自分が置き去りにされた気分が湧き上がった。
「笑わないの? 木藤君」
「いや、今は無理やり笑う場面じゃない気がしてな?」
くすくすと、
「うん、ボクも戸惑ってはいる。アレでだいぶん手足も良くなったから」
こちらを向いたまま彼女は、白い手袋に包まれた手を太陽に向ける。ユイ曰くその内側にあった黒いひび割れは薄くなり、多少動きも良くなったとのことだ。それがどこまで真実なのか、直接目にしていない宗次郎には分からない。
だが、それを疑う意味も無いので、信じることにしている。
人並みの中で、彼女は迷いなく。あるいは意味もなく前に進む。それは自分の中にある彼女のイメージとは違うものであり、どうにも戸惑いが隠せない。
「なぁ、ユイ」
「なに、木藤君?」
彼女は、自分が恋した時と同じなのだろうか? そこまで考えて、ようやく宗次郎は笑みを浮かべた。違うに決まっている、記憶を失いながら前に進んだ自分が変わっていくのと同じように、彼女もまた変わっていくのだ。
「何でもない」
「そう、ならいいけど」
「ああいや、一つだけ確認がある。木藤って呼び方はワザとだな?」
ゆらゆらと、後ろ向きで歩く。彼女の碧眼。それが、セルフレームの向こう側で、ふと遠くなる。これまでのユイよりも少し深い。恋する少女ではない何かが見えた。
「うん、欲しいのは。昨日じゃないから」
ああ、彼女にとって。
けれど、その上で彼女は知らないのだ。木藤宗次郎と
真夜中に、海からの帰り道で見せたあの笑顔を、彼女は憶えていないのだ。
「だから、木藤君。ボクに、明日を頂戴」
蒼い空の下、雑踏の中。聖女の顔で笑みで呟いて――
けれどそれと同時に、無粋なスマートフォンの着信音が彼らの時間を引き裂いた。
慌ただしい人並みの中、宗次郎は怒りと共にスマートフォンの画面をタップする。
「はい、もしもし! 今この瞬間、電話する用事があるんですかぁ!?」
『ふん、お前が世界を終わらせたくないのなら。意味がある話だ木藤宗次郎』
名前は見ていないが、予想通りの外間春夫。たぶん、自分が尊敬していた大人のハズなのだが、その気持ちは既に燃やし尽くした後だ。けれど、伊達や酔狂で此方に連絡は取ってこない。そんな確信はあった。
『こちらとしては個人的な要件もあるのだが、後回しだ。空を見ろ』
その警告と同時に、あれはなんだ? と周囲から不安げなざわめきが聞こえる。空に走った
それは、瞳であった。
総体として巨大な赤い球体、申し訳程度に四方に伸びたパーツはあるいは四肢なのだろう。けれど黄色に輝く
「見た感じ、
『コードHの先兵だ、単純な出力ならば
ああ、そうだ。すっかり終わった気でいたし。これから先平和な日常が続くと思い込んでいたが。まだまだ世界は紡ぎ終わっていない。何もしないで手に入る程、自分たちの明日は軽くない事を思い出す。
「ああ、けどアンタよりは弱いだろ?」
『……ふん、実力で勝ったわけでもない癖に』
スマートフォン越しに糞くらえと罵倒を返し、通話を切ってポケットの中に強引に突っ込んだ。周囲の人々は慌てて逃げ出し。残っているのは自分とユイの二人だけ。
「木藤君」
「ああ、行こうぜ。一緒に、明日へ」
広げた手の届く先、あるいは夜を切り裂く蒼。ここにあり、確かに世界を継ぎ紡ぐ
「来い、
輝く世界の中で、蒼が
鋭く赤い爪、羽の如く背中から突き出した
まだ答えを出す必要はない。それが生きるという事なのだから。自分の後ろに座った彼女とどう歩むのかはその先で決めればいい。
それが、世界を紡ぐ事なのだと、彼は知っているのだから。
継王蒼機ザナクト ハムカツ @akaibuta
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