最終話

 意識を取り戻してから約ひと月後の、12月上旬。

 その後順調な回復を見せ、薫は無事退院した。


 退院後もしばらくは身の回りの補助をするために、巡は一時的に薫の部屋へ戻り……以前と変わらない生活が、少しずつ戻ってきた。



 退院の知らせを受けた綺羅から、明るいメッセージが届いた。


『薫さん、退院おめでとう!回復が順調で、本当に良かった!!

そういえば、もうすぐクリスマスだよね。

久しぶりに3人で、薫さんの全快祝い&クリスマスパーティしない?もちろん、薫さんの体調に無理のない範囲で♪』



「薫!綺羅ちゃんから、全快祝いとクリスマスパーティしようって!」


 メッセージを確認した巡が、嬉しそうに薫にそう伝える。

 リビングのソファに凭れて本を読んでいた薫は、巡の声にふと顔を上げた。


「……そうか。クリスマスか。

なんだか、そういうものからすごく遠ざかっていた気がするな……」


「だよな。

——薫、めちゃくちゃ遠いところ彷徨ってきたもんな。

綺羅ちゃんにOKって返事して大丈夫か?」


「もちろんだ。

今やすっかり忙しくなった彼女の話もいろいろ聞きたいしな——楽しみだ」

 そう答えると、薫はふっと柔らかな笑顔を見せた。



 この部屋に戻ってきてから、薫はこんな風に穏やかな顔で微笑むことが増えた。

 今までは一度も見せたことのなかった、静かに凪いだ表情だ。


 そんな諸々のことに、嬉しいとか、良かったとか……

 そういう言葉は、まだ一度も言えていない。


 なんだか、とんでもなく気恥ずかしくて。



「薫の元気な様子見たら、綺羅ちゃん喜ぶな」


 心のどこかを微かに擽られるような気持ちを押し隠し、巡はそんな返事を返した。









 クリスマスらしいチキンなどの料理を適当に買い揃え、綺羅が買ってきたケーキにキャンドルを灯し、久々にシャンパンを開け、3人のクリスマスパーティは和やかに始まった。

 綺羅が、薫と巡にプレゼントを準備していた。


「え、なんだろこの包み?綺羅ちゃん、開けていい?」

「もちろん!薫さんと巡くん、いっせーので同時に開けて♪」

「じゃ、行くぞ巡。せーのっ」

 大きく膨らんだ柔らかい包みを同時に開けて出てきたのは、いかにも暖かそうな半纏だ。

「薫さんと巡くん、色違いなの!薫さんは青、巡くんは赤のチェック柄……あはははっ二人とも似合う〜!ダサ可愛い!!♡」

「これはいいな。夜なべの仕事にぴったりだ」

 薫は予想を大きく超えた満足顔で、愛おしげにその柔らかな生地に頬ずりする。


「ね、いいでしょ?

でも薫さん、くれぐれも無理はしないでよね!」

 綺羅のそんな言葉に、薫はひとつ深く息を吸い込むように穏やかに微笑む。

「そうだな。

俺も、この機会に少しのんびりしてみようかと思ってるんだ。どうせ今は仕事も全部ストップにしてるんだし……

このまま、冬が終わるまでは長期休暇にするつもりだ」

「え、そうなの!?うあ、それすごくいい!漫画家は休暇なんてろくにないもんねー」


 綺羅の生き生きとした笑顔を、薫は優しい眼差しで見つめる。


「綺羅も、プロで漫画家をやっていく苦しみがわかるようになったみたいだな。……その成長ぶり、嬉しいよ」

「今の私がいるのは、全部薫さんと巡くんのおかげ。どれだけ感謝しても足りないと思ってる。

二人とも——本当に、ありがとう。

薫さんがお休みの分も、私頑張るからっ!!」

「ほんと、綺羅ちゃん立派になったよなー。

綺羅ちゃんの漫画はさ、前向きで、いつもキラキラしてて。この世界すごくいいなあって思いながら読んでる。ずっと応援してるから」

 巡も、綺羅と出会った頃を思い出すように懐かしげな顔で微笑んだ。


「それにしても、薫さんが長期休暇なんてちょっとびっくり。今までの薫さんはそんなこと絶対言わない気がしてたから」

「だろ?

このワーカホリックな薫が休暇とかとるわけないって、実は少し心配だったから……長期でのんびりなんて言い出して、俺も思い切り驚いた。

これまで俺、薫にはずっとおんぶに抱っこだったからさ。この休暇の間は、俺が薫をおぶって歩くって約束してる」


 そんなことを言いながらどこか照れ臭そうにする巡に、綺羅は心から嬉しそうな笑顔を向けた。

「あら。巡くん、なんかすごくオトナになったー!カッコいい♡」

「お前があんまりしつこく言うから、今回は特別におぶわせてやるけどな。

何度も言うが、年寄り扱いとかはやめてくれよ」

 どこか納得のいかないような顔で、薫がぶつぶつとこぼす。

「だから年寄り扱いじゃないって!……いや、ちょっとそれもあるか?」

「ほおー。

じゃ休暇は取り下げだ。来月から仕事再開……」

「あーー、今のは冗談だからっ!怒んなよー!」

「あはは、やっぱ相変わらずだねー」


 そんな話で笑い合いながら、久しぶりのパーティは賑やかに盛り上がった。









 綺羅が帰った後のリビングを片付けようとする薫を、巡はまるで何かを待ちきれない子供のように引き止めた。


「なあ、ここの片付けは後で全部俺やるから。

薫、ちょっとここ座って。——渡したいものがある」



「……」


 どこかぎこちなく巡の横へ座る薫に、巡はシンプルなブルーのラッピングの包みを差し出した。


「開けてみて」



 中から出てきたのは、絵本だった。

 真っ赤な表紙の。



「…………

巡、これ——」



 驚いたような表情の薫に、巡は心なしか複雑な顔で呟く。


「処分した本、取り戻したかったけど……できなかった。

ごめん。

新しいの買うしかなかった。


——もう一度、受け取ってくれる?」



「…………


ありがとう、巡。

——嬉しいよ」


 巡の言葉に、薫は少し気恥ずかしそうに手の中のプレゼントを見つめた。



「薫。

俺、伝えたいことがあるって、言ったよな。

真面目に聞いてくれ」


 巡は、そんな薫をまっすぐに見つめ、静かに呟く。



「——俺、薫が好きだ。


兄としてじゃなく。

もっとずっと、大切な存在として」



 一切包み隠さないその告白に、薫は心臓の鼓動をそのまま伝えるかのように小さく肩を揺らした。



「——巡……


それは……本心なのか?

お前……俺のために、無理やりそういうことを言ってるんじゃないのか……?


もしそうだとしたら、今すぐにやめてくれ。

そんなことをされても、俺の人生最大の失敗がますます酷く抉られるだけだ」


 どこか翳った眼差しで巡を見つめ返す薫に、巡は一層瞳に力を込めて答える。


「病院でも言っただろ?あんたをキスで呼び戻したって。

それでもまだ、俺の気持ちを疑ってる?


俺が、今までずっとあんたの気持ちに気づかなかったのと同じように……

あんたも、俺の気持ちに気づかなかっただけだ。

俺が、あんたに群がってくる女の子たちを裏でせっせと追い払ってたの、知らなかったろ?」


 改めて驚いたように自分を見る薫に、巡はどこか悪戯っぽく微笑む。



「こんな気持ちは、絶対に知られてはいけないと思ったし……

それ以前に、自分自身がこの気持ちに気づいてはいけないと……必死に、そう思ってきた。


けど——

あんたが俺に、心の奥を見せてくれて……

あの時、あんたを失いそうになって。

初めて気づいた。

今まで、一体何してたんだ俺……って。

意識のないあんたの顔を見つめて、痛いほどそれを思い知らされた。

一言も気持ちを伝えないまま、俺はあんたと別れるのか——って。


感情ってさ。

結局、そこに生まれたものが真実、としか言いようがないんだよな。

正しいも間違いもないし、ましてや誰かにジャッジされるものでもない。

お互いの中に、同じ想いが生まれたっていうことは……神様がGoサインを出したんだと、俺はそう思う。

——例え、誰がなんと言おうと。


自分の人生は、一度きりだ。

生きてる間に、本当に大切な人を愛せなければ……生きている意味がない。

実はすげえシンプルなことが、怖いくらいはっきりと見えた気がした」


 巡は、静かに黙ったままの薫の手を取ると、ぐっと力強く握る。



「……俺は、あんたの隣を歩きたい。

これからも、ずっと」



「…………」


 そんな巡の瞳の奥を、薫は何かを確かめるようにじっと覗き込む。



「——巡」


「ん?」



「ならば……

勝手なこと、言ってもいいか」


「何?」




「これからは——

お前が、俺の弟だということを……忘れてもいいか」



「————え?」




「お前は、俺の弟ではなくて……

それよりも大切な、たった一人の存在だと……これからは、お前をそう思いたい。

——それでもいいか?」



 たどたどしいような薫のそんな言葉に、巡は思わず泣き出しそうな笑顔になった。



「————なら。

俺も、あんたをもう兄とは思わない。

ずっと側にいたい、この世でたった一人の大切な人だと——そう思うことにする。

……それでもいいよな?」




 冷たく立ち塞がっていた強固な柵が、やっと取り払われたかのように——

 互いに、こわごわと……おずおずと近づく。


 薫の頬に触れた巡の指に、思わず薫の肩がびくりと震える。


「キス、してもいいか」

「————……」


「実は、病院であんたを呼び戻したときは、手にキスしただけだった。

あんた、酸素マスクしてたからな。

あの時から、もう待ちきれなかった」



「————

そんなに待ってたなら……仕方ない」



 微かに笑い合い——

 優しく、唇が重なる。



 頬に触れていた巡の指が、薫の白い首筋を辿り……やがて、逞しい腕が薫のしなやかな肩を強く抱き寄せた。











 穏やかに澄んだ正月の空を、二人はのんびりと歩きながら仰ぐ。

 近所の小さな社へ手軽な初詣をした帰り道だ。



「こうやって、ただ一緒にぶらぶら歩くのって……もしかしたら、初めてじゃないか?」

 巡が、深く一つ深呼吸をしてからそう呟いた。


「うん。初めてだ」

 そんな言葉に、薫は嬉しそうに微笑む。


「……なんか嬉しそうだな」

「こういうの、実は憧れてた」

「え……ただの散歩に?」


 ちょっと可笑しそうにそう問いかける巡に、薫はどこかムスッとしたような視線を向ける。

「考えてもみろ。

今まで俺がどれだけ日々の締め切りに追われていたと思う?

青空と陽射しの下をこうして何も考えずにただぶらぶらするなんて……こんな幸せ、絶対に手が届かなかった」


「そうか……

確かに、そうだよな」


「それに——

お前とこういう時間が作りたくて、今回長期の休暇を取ったんだ。

こんな風に、お前とゆっくり話したり、一緒にいろいろ楽しむなんて、今まで一切できなかったからな」




「————」


 これまでにない薫の素直な言葉に、巡の胸の奥が思わずぐっと熱くなる。


 こういう時に限って、上手く気持ちが言葉にならないのだ。

 心の奥には、数え切れないほどの想いが湧き出しているのに。



「……なら、この状況は、薫の長年の念願が叶ってる……ってことか」

「その通りだ」


 当然のようにそんな返事をする薫を、巡はただじっと見つめた。



 言葉にはならないけれど。

 ——こんな気持ちで誰かを見つめたのは、初めてだ。




 そんな巡の眼差しに気づいた途端、薫はその白い肌をかっと耳まで染め、ぐいっと巡を睨み返した。


「——おい。

そういう目は……」


「——愛してる。薫」


「……だっだからそういうのは……っ!!」


 次第に熱を持ち始めた巡の視線と言葉に、薫はわたわたと実にわかりやすく動揺する。


 ……ああ。

 こういう薫、見たことない。

 そして恐らく誰も、こんな薫見たことない。

 はああ。ちょっとヤバい。かわいすぎるマジで。


「……あーー。なあ薫っ!そろそろ帰らないか!?」

「え、なんでだよ?まだこんなに明るいのに家に閉じこもる気か」

「だってほら、なんていうか外じゃできないこともいろいろあったりするわけだし……」

 そんな巡の言葉に、薫は改めて恥ずかしげにぐっと巡と距離を取る。

「昼間からうだうだする気は俺にはないぞ。

それよりな、今日はお前と一緒にやりたいことがあるんだ」

「え……何だよ?」

「餅つき」


「——はあ?餅つき!?冗談だろ!?」

「冗談じゃない。これも昔からの大きな夢だった。

よお〜しせっかくだから臼と杵から厳選しようじゃないか、行くぞ巡。うーんホームセンターに行けばあるのか?とにかく初売りで餅つきセットを買うなんて縁起がいい」

「臼と杵って……ちょっと待っ……」


「ん?

いつも俺の隣にいてくれるんじゃないのか?——巡」


 そう囁くと、薫は言いようもなく美しい微笑で巡を見つめる。


「…………」


 卑怯だろ。

 こういう時に、そういう言葉とそういう顔は。



「————あー。はいはい」

「ハイは一回!」





 こんなふうに。

 この世で一番大切な人と、ゆっくり歩いていく。

 何気なく、笑い合いながら。


 悩み、苦しみ、絶望を味わったその末に——やっと手にした幸せ。

 この幸せを、力一杯抱きしめて。



 今、お互いの手の中にあるもの。

 その意味を——

 それがどれだけ得難いものかを、俺たちは知っている。


 だからこそ。

 お互いを見失わずに、俺たちは歩いていける。



 この先も——きっと、ずっと。




 生まれて初めて訪れた不思議な安らかさを味わいながら、巡は明るい陽射しの中を行く薫の背を見つめていた。




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薫る風、巡りきて aoiaoi @aoiaoi

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