第4話

 手術を終えた薫は、そのまま集中治療室へ運ばれた。


 広範囲の怪我ではないものの、頭部を強く打っていた。

 外科的な手術は無事済んだ、と医師から説明があった。


 あとは、意識が戻るのを待つだけだ、と。



「意識がいつ戻るかは、私からはなんとも言えません。

——今の状態が長期化しないことを祈るしかありません。


容態の急変など万一の場合に対応するため、身内の方の付き添いをお願いいたします」


 医師は、硬い表情でそう言った。




「綺羅ちゃん。

今日は、ありがとう。

——ごめん」


「ううん。

何か必要な時は、なんでも言って。

……じゃあ」


 巡も綺羅も、口にする言葉を見つけることができないまま、ただ小さくそう挨拶を交わす。

 カバンを肩にかけて病院を出る綺羅の背が、なんだかやたらに小さく心細く、巡の視界から消えていった。






 静かな病室。

 酸素マスクをつけた薫の微かな呼吸音と、その心音など命の動きを測定する機器の小さな音が、ただ規則的に続いている。


 気づけば、外は既に夜の闇に変わっている。

 自分は一体何時間ここでこうしているのかも、もうよくわからない。



 医師の言った通り、薫は頭部以外の大きな傷はほぼ見受けられない。

 まるで何事もなかったような静かな顔で、自分の横で眠っている。



「……なあ。

意識がないって……ほんとかよ?」



 巡は、その穏やかに美しい寝顔に、小さく話しかけた。



 いつものように、何か返ってくるんじゃないか。

 俺に限って、そんなことになるはずがないだろう?

 平然と起き上がって、さらりとそんなことを言うんじゃないか。

 その安らかな顔を見つめるほど、そんな気がして。




「————」



 返事のない静寂が、激しい痛みになって巡に襲いかかる。


 ……薫は本当に、このまま俺を置いて行ってしまう気なのかもしれない。



「……薫。

いつもみたいに、ムカつく台詞言えよ」


 そう呟いて、笑おうと思った瞬間——

 不意に、涙が溢れた。



 一度溢れ出した涙は、もうどうやっても止めることができない。

 嫌になるほど苦しく、熱く、やりきれないものが、とめどなく頰を伝ってボロボロと零れ落ちた。



「頼む。


薫。

戻ってきてくれ。

——ここに」



 一緒に過ごしていながら……

 俺たち、ちゃんと話したことなんかなかっただろ。

 一度も。



 なぜ、何も言ってくれなかった?


 ——なぜ、俺は、何も言わなかったのか。



 今思えば……お互いにとって、一番大切だったはずのことを。




 涙を拭いもせず、巡は独り言のように心に沸く言葉を取り留めなく零す。



「——なあ。


俺さ。

『眠れる森の美女』って、あのお伽話。

すげえ嫌いだったんだよ。

愛する王子のキスで姫が目覚めるなんて、あんまり都合いい気がして。


でも——


大切なひとを、失いたくない。

どうにかして。

何が何でも、目覚めさせたい。

王子は、それだけを祈ったんだよな……」



 こんな我儘ばかり言ってきた出来の悪い弟が。

 非の打ち所のない完璧な兄の王子になど、なれるはずがない。



 それでも……

 この想いは、お伽話のあの王子なんかよりも、遥かに上だ。


 そうだろ。

 だってあんたは、俺のたったひとりの人なんだから。



 座っていたベッドサイドの椅子を、静かに薫の側へ引き寄せた。

 白い掛け布団の上に置かれた薫の綺麗な手に、静かに触れる。



 自分を、ずっと守り続けてくれた……華奢なのに、強い、美しい指。


 自分の両の掌で、ひんやりと動かないその指をそっと包み……深く、自分の指と絡ませる。

 そのまま引き寄せ、白く滑らかな手の甲を自分の額へ強く押しつけた。



 そして、眠り続ける姫の意識の奥へ届けるかのように——その手の甲に、恐る恐る唇を寄せる。



「……あんたに、言わなきゃならないことがあるんだ。


だから——

帰ってきてくれ。

薫」



 有り得ないほどに熱を持った唇を、そのまま手の甲に静かに押し当てた。

 陶磁器のようなその白さと冷たさが、巡の脳に恐怖となって伝わる。



 行くな。


 手の甲から、ゆっくりと指へ——巡は何かに憑かれたように、唇で薫を温めた。



「戻ってこなきゃ、俺が追いかけるからな……」


 そんな無我夢中の言葉と共に、身体の中で熱された息が唇から漏れ、薫の指を伝う。




 もう一度、会いたい。




 巡の熱で微かに温まった薫の手を再び両手で包み——

 巡は、ただ一心に祈った。









 ふと、巡は目を覚ました。

 早朝の光に、窓が微かに染まっている。


 昨夜は、薫の横で手を握ったまま、自分も眠りに落ちてしまったようだ。




「…………」



 目覚めたばかりの瞳で、薫の指に絡ませた自分の指をぼうっと見つめる。


 昨日起こったことは——

 やはり、夢だったなんて安易に誤魔化したりはできないらしい。





「……夜明けだってさ。


————薫」



 呼んだことのない声で、兄を呼ぶ。

 否定し、押し殺し続けた、その想いを込めた声で。




「…………」



 その瞬間——

 不意に感じた、何か説明のしようのない気配の変化に……巡は思わず、自分の握りしめている薫の指先をじっと見つめた。





「————……」




 ————動いている。




 自分の指が動いているのではなく。


 間違いなく……自分以外の力が、微かに手の中で動いている。





「…………薫……


薫————!!」



 思わず、その名を叫ぶ。





「…………」




 酸素マスクをつけたままの瞼が、微かに動いた。

 少しずつ——うっすらと、瞳が開く。




 やがて、はっきりと目を開いた薫は、横で必死に自分を覗き込む巡をゆっくりと見た。



「薫…………」




「…………巡……


……酷い顔だな」




 マスクの下で、薫の唇が微かにそう動く。




 巡の目から、新たな光の筋が無数に頰を伝い落ちた。











 体調が安定するまでの間は面会謝絶が言い渡され、4日目。

 巡は、可能な限り薫の側にいた。



 意識が戻り、記憶障害や後遺症等の心配もほぼないとの検査結果が出たにも関わらず、薫の顔色は暗く翳ったままだ。

 医師からも、食欲がなく、表情や眼差しにも生気のない様子が続いていると説明された。


「この状態のままでは、退院までには予想以上に時間がかかるかもしれません。

今一番必要なのは、回復したいという本人の気力です。

——事故以前に、彼は何か気がかりなことや、悩み事などを抱えていましたか?

できるならば、彼が喜ぶような物や気分が明るくなる話題などを向けて、気力が少しでも戻るよう積極的に働きかけてあげてください」


「——ありがとうございます」


 医師の真摯な言葉に、巡は深く頭を下げた。



 薫は、依然自分と視線を合わせようとしない。

 会話も、必要最低限だ。


 理由は、そこにある。

 ——間違いなく。








「——なあ、薫」


 ベッドの半身を起こし、何となく空を眺め続ける薫に、巡は話しかける。


「……ちゃんと飯食わなきゃ、治るもんも治んないだろ。

先生も心配してた」



「俺は、ここ最近失敗続きだ」


 空を見上げたまま、薫は微かにそう呟く。


 そんな薫の言葉を、巡は思わず聞き返した。



「……え?」



「——ここへ戻ってきては、いけなかったのに」





「…………おい。

今、なんて言った……」


 薫の口から漏れた信じ難い言葉に、巡の心拍がぐわりと激しく胸を叩く。



「戻ってきてしまうなんて。

後悔と苦しみしかないこの場所へ。


例え身体が元通りになっても……俺の居場所は、どこにもない」



「——待てよ。

さっきから、なんでそんな言葉ばっかり……


あんたが戻ってくるのを散々祈った俺の気持ちなんか、どうでもいいってのか……」



「——俺は、自分の心の奥を、うっかりお前にぶちまけた。

絶対に、お前に見せてはいけないものを。


そんなものを見せてしまって……

俺はこれから、お前に一体どんな顔をすればいい?


あの部屋も、出るつもりだった。

行き先を隠して、連絡先も変えて。

どこにいるか、もう探せないように……お前の前から消えるつもりでいた」



 ここで初めて堰を切ったように、薫は痛みに満ちたものを絞り出すように巡の前へ吐き出す。



「……そして、あの事故で、意識を手放して……


あの時……

多分、本当に消えるチャンスだったのに。

——お前が、引き止めるから」



「————」



「お前が……

ずっと昔の、幼いお前が。

『にいちゃんだけに話したいひみつがあるから、ここに戻ってきて』って、笑うから。


何度も、戻れないと言ったのに……

そうしたら、『にいちゃんが来ないなら、ぼくがにいちゃんのとこにいく!』と、とうとう泣き出して。


——だから、慌てて戻ってきた。

仕方なく。


…………お前のせいだ」



 ゆっくりと視線を巡へ向けると、薫は無表情のままそう呟いた。




「————……


そうだよ。

そうやって、俺があんたを引き止めたんだ。

あんたをここに呼び戻したくて……何度も、そう繰り返した」


「…………」



「あんたに、伝えなきゃいけないことがある」

「今更何を——」

「もし俺が、あんたと全く同じ気持ちでいるって言ったら……

どうなんだよ?」



「…………


それは……

どういう意味だ……」



「そういう意味だ。


俺はあんたを、キスで目覚めさせた。

『眠れる森の美女』みたいにな」



「————嘘をつくな」


「嘘じゃない。

なら——今ここで、やってみせようか」




「…………」


 そこで薫は初めて、血の気のなかった頰を微かに染めてぐっと黙った。




「だから。

あんたに置いていかれちゃ、困るんだ。


——これからもずっと、俺の側にいてくれないと……俺はきっと、生きられない。


わかったか。

俺を死なせたくなければ……

生きようと、ちゃんと思ってくれ。薫。


あんたがなんと言おうと——

俺はもう、あんたの側を離れないからな」




 熱を含んで揺らぐ巡の瞳が、薫の瞳をしっかりと捉える。



 その揺らぎに共鳴するかのように——

 薫の瞳の奥に、小さな火が微かに灯った。




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