第3話

 それからひと月後の、10月の初旬。

 巡は、薫の部屋から出て行った。




 兄の、あの瞳の奥を、見てしまった。



 まだ馴染まない部屋の冷えた空気の中、巡は思わずベッドの毛布にぐいと頭からくるまる。



『——巡くん、本当に気づかないの?』

 綺羅の言葉が、今更のように脳の奥を過ぎる。




 ——薫が求めているのは、他の誰でもなく……



「————」


 そこから先を、どうしても考えることができない。

 自分の脳が、そこから先に踏み入ることを禁じるかのように。



 そんな思いを——

 兄は、ずっと一切表に出すこともなく、ただ静かに自分の側にいた……

 そういうことなのか?





「…………」



 絶対に見つめたくなかった自分自身の心の奥の扉が開きそうになり——

 その恐怖に、巡は固く目を閉じる。





 そう。


 俺が、綺羅にああやってあからさまにまとわりついたのは……

 薫と彼女を、結ばせたくなかったからだ。


 ——彼女が、兄を奪っていきそうだったから。




 俺は、自分の心の奥にそういうものが蠢いていることに、今まで気づいていなかった。

 ……いや、そうじゃない。

 何かが蠢いているその気配を、無意識に踏み潰し、ないものにした。

 ——いつでも。




 一旦ガタガタと緩み始めた扉は、もう抑え込むことができないかのようにボロボロとその奥のものを外へこぼし始める。



 俺の兄だ。

 触るな。

 ——支え合うことのできるたった一人の存在に、手を出すな……誰も。


 ずっと、そう思ってきた。


 薫に近づきそうな女子の気配を感じる度に、柔らかく、優しく、あくまで心地よく、その敵を牽制した。

 それでもうまくいかなければ——自分が、その女に先に告白した。

 なりふり構わず口説いて、自分のものにした。



 そうすれば……

 そいつが、兄を奪うことはない。

 薫が、誰かに触れられることはない。


 薫の隣にいるのは、俺だ。

 誰にも、ここは譲らない。



 綺羅に対しても……

 扉の向こうから、自分の意識の奥に低く呟く自分自身がいた。

 今思えば、はっきりと。



 けれど。

 綺羅には勝てないのかもしれないと——

 一瞬、そう思った。

 兄の感情を本気で揺さぶった女は、今までに綺羅だけだったから。


 それでも仕方ないと。

 そう思いかけた。


 ——あの瞳の奥を見つめるまでは。





 絶対に開けることは許されないはずの扉。



 けれど——

 もしも薫が、その扉に手をかけるとしたら——



 違う。

 手をかけて欲しいと。

 その扉を、薫に開けて欲しいと。


 俺は、そう望み始めている。






 ————怖い。


 絶対に、駄目だ。





 眠りなど訪れない混乱した巡の脳は、そうしてぐるぐると同じ場所を激しく回り続けた。









『——巡くん!?

薫さんが……』



 11月に入った、肌寒い土曜の午後。

 アパートの部屋にいた巡のスマホから、酷く混乱してパニック寸前の綺羅の鋭い声が響く。


「……薫が……

薫がどうしたの、綺羅ちゃん!?」


『——交通事故で……

意識がないの。

……今、病院で……これから緊急手術になるって……』

「綺羅ちゃん、病院ってどこ!?すぐに行くから!」

『病院は——』


 強い衝撃で停止しそうになる思考を必死に動かし、病院名を何とか記憶に叩き込む。

 とりあえず思いつくものをリュックへ放り込み、巡は玄関を飛び出した。




 アパートの最寄り駅から20分ほど電車に乗り、降りた駅からタクシーで約10分。

 その間、巡の手足の小刻みな震えは止まることがなかった。

 冷え切った両手の指をぎりぎりと組み、額へきつく押し当てる。




 ——神様。

 誰でもいい。


 助けてくれ。




 薫の瞳の奥を覗いたあの日から、薫とは一言も口をきいていなかった。


 言葉を交わすどころか——

 顔を合わせることすらできなかった。



 彼の心の奥を知り。

 自分自身の気持ちに気づいてしまえば……

 もう、自分と兄の間に何が起こってもおかしくはない気がした。

 そのことが、たまらなく怖かった。


 そうやって兄から遠ざかっていた時間が、今は胸が掻き毟られるように悔やまれる。


 自分の想いなどそっちのけで、ずっと温かく守ってくれた……そんな、たったひとりの兄を。

 一言も、気持ちを伝え合うことのないまま——



 俺は……

 薫と、もう二度と——。




 頼む。

 待ってくれ。


 ——頼む。



 巡は、ひたすら祈った。










『手術中』の赤いランプの灯る、分厚いドア。

 その横の椅子で、綺羅と巡は固く体を硬直させてそのランプが消える時を待つ。



「——薫さんのマンションの管理人さんが、出版社へ連絡をくださったの。

私が薫さんの部屋に同居してたことや、最近漫画家としてデビューしたことなんかを知っててくださったみたいで。マンションのすぐ前の通りで事故が起きたらしくて。

その事故の直前に、薫さんから管理人さんに慌てたように連絡が来たらしいの……

『昨夜処分に出した、赤い表紙の絵本をやはり手元に置いておきたいから、業者に渡さずに一旦保管してほしい』って。

管理人さんが、今業者が引き取っていったところですって答えたら、その直後に薫さん、そのトラックに追いつくためにエントランスから駆け出していったって……そう言ってた。

そんな薫さん、想像ができなくて……」


 綺羅は、機械のように無表情にそんな経緯を話す。




「————……」


 綺羅の説明を時間をかけながらやっと理解し終えると、巡は一層深く俯いた。



「巡くん、引っ越したんだね。

今日、初めてそれも知って、驚いて……

何だか私、もう頭の中がぐちゃぐちゃなの。


——薫さん、部屋で一人で……

その赤い絵本って……何だったんだろう」




 赤い表紙の絵本。


 それは、俺がまだ小さい頃、薫の誕生日に贈ったものだ。

 ——間違いなく。


 薫の本棚には、あんな真っ赤な絵本は他に一冊もなかったのだから。


 本好きな兄のために、自分なりに一生懸命選んだつもりだった。

 改めて読めば、なんとも幼く他愛ないものだが……表紙の色の通り、素直に心が明るく温かくなるような、そんな小さな物語。




 それを。

 捨てようとして……追いかけて。





「————なにやってんだよあいつ……」



 そんな微かな呟きは、綺羅の耳にまで届かずに消えた。





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