ヴュステンラントの神様
谷樫陥穽
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空は秋らしく、抜けるように晴れわたっていた。
市下から、周辺の村々から、集まった人々は広場にはとうてい収まり切らず、広場の周囲の建物の窓という窓から、あるいは屋根の上から、国を救った若い女王の戴冠を見ようと大勢の人々が身を乗り出していた。やがて壇上に鎖帷子と深紅の
ひときわ大きな声がわき起こった。
レキュアはその歓声に応えようと、右手を中空へと伸ばした。
思い出したくもない、あの惨めでみすぼらしいだけの故郷の村を出てから三年。一つの国を手の内にするには決して長い時間でないだろう。だが、レキュアの本当の目的はこの国を手に入れることではなかった。
そして、この日をともに目指そうと戦ってきた仲間達。
彼らと過ごし日々は、レキュアにとって、この王冠よりも価値のあるものだ。しかし、それさえも、この王座まで登ってきた目的に比べれば霞んでしまう。
望んだものではないとはいえ、この高みに辿り着いた以上、彼女の本当の望みをかなえるために、その地位こそを『天秤』の一方に載せるのだ。
民衆の歓声が、おおお、という地鳴りのような低音を伴った。レキュアはそれに応えるように、ゆっくりと右手を振った。だが、歓声はやがて耳障りなざわめきを伴うようになり、レキュアは異変を悟った。
「このたびのレキュア将軍による王位の継承につき異議を申し立てる」
男にしてはやや高めの、しかしよく通るグワテマの声が広場を貫き、民衆は水を打ったように静まりかえった。レキュアはバルコンの端に歩み寄り、周囲を見渡した。バルコンの真下、宮城の正面扉の前に、禿頭痩身の文官の姿があった。グワテマが何かをやらかすだろうということは事前に知らせがあったので、レキュアはそれほど驚かなかった。眉を顰めたのは、グワテマの傍らに見慣れぬ男の姿があったからだ。後姿で顔は見えない。男は後手に縛られ、猿ぐつわをかまされているように見えた。一人の兵士が手首に繋がる紐を持ち、後に控えている。
「レキュア、無視しろ」
左後方に控えていたレートルが鋭い声を発した。「ゲッショー、頼む」
「くそ、グワテマめっ」
右後方にいたゲッショーは白いケープを翻してバルコンの奥に消えた。
だが、レキュアはそんな二人の行動も声も意識の外にあった。レキュアの目はグワテマが連れた男の姿に吸い付けられていた。裾の長い黒いチュニックは豪奢ではないが、農民や市井の職人が身につけるような粗末なものでもなかった。そして、微かに緑がかって見える黒髪が、記憶の中のある男を思い出させた。
(まさか……あの男が)
「レキュア将軍は王位に就く資格を持たない。アジューリ三世の血筋に繋がるとの自称は嘘であった。それをこれから皆に示す」
「無礼であるぞグワテマっ!」
バルコンの手すりを乗り越えんばかりにしてレートルが大声を上げた。
「レキュア女王は亡きパトル王太子の許嫁。しかもパトル殿下が直々に後継者として指名した方だ。王位に就くになんの不足がある」
グワテマはゆっくりと振り向いた。半眼に閉ざされたような細い目からは相変わらず何の表情も窺い知ることはできない。隣の男は群衆の方を向いたままだ。
「王太子は王にあらず。しかもレキュア将軍は王太子と婚姻をされていない。王太子は軍司令官として後継を指名する権限はあれど、王権の行く先を自ら決めること能わず。然ればレキュア将軍の戴冠の根拠は王家の血筋と貴兄ら貴族の後盾による元老院での承認のみ。となればこのいずれか一つでも満たされなければレキュア将軍は王位に就けぬ」
「屁理屈をこねるなっ。この国を滅亡から救ったのは誰だと思っている!」
そんなことはレキュア自身が一番わかっていた。隣国の侵略から国を守り切ったのはレートルやクララ、クラウソらの若き貴族や平民出の軍人達だ。レキュアはただ彼らを結びつけだだけ。それによって分不相応に祭り上げられ、彼らの輪の中ではしゃいでいたに過ぎない。
だが、折角手に入れた王位を、今、まさに目的が叶うという時に手放すわけにはいかなかった。それは、彼らの厚意や遺志を無駄にすることに他ならない。たとえそれがレキュア一人の身勝手な意図だったとしても。
「さて、我がここに連れ出したる者をご存じか、レキュア将軍」
グワテマはそう言って、傍らの男を振り向かせた。鋭い目に薄い唇、こけた頬、どこか薄笑いを貼り付けたような表情だ。憔悴しているように見えるが、仮にそうであったとして、元々周囲の温度を下げるような荒んだ印象の男であったことをレキュアは思い出す。
間違いない。あの男。レキュアがこの三年というもの探し続けた男に他ならない。
「レキュア、何もいうな」
小声で鋭くレートルが叫ぶ。レキュアはもとからそのつもりだったが、男にこんな形で再会したことで、動揺していないわけがない。それをレートルも感じ取ったのだろう。
「では、お教えしよう。この男、戦乱の裏で暗躍を重ね、世界をさらなる混乱に陥れた諸悪の根源〝緑の呪術師〟である」
おお、という声が広場に集った民衆からわき起こる。それほどに緑の呪術師の名は人口に膾炙していた。ただし、それはグワテマの言うような治安と平和の敵としでではなく、民衆にとってはむしろ義賊的な英雄であった。それを知らぬはずはなかろうに、グワテマは自らの放った言葉の余韻と民衆からわき起こった不穏なざわめきを楽しむように、周囲を眺め渡す。〝緑の呪術師〟は、レキュアの方を向いたまま、一言も発することなく、魂を抜かれたかのように立ち尽くしている。
「子供だましもいいかげんにしろ、グワテマ」
レキュアの隣でレートルが叫んだ。「〝緑の呪術師〟など、誰も会ったことも見たこともない。これがその男ですと言われて、すぐに信じる者がいるか! それほどまでにお前は我々や民衆を愚弄するか?」
「では、この男に問うてみよう。お前は〝緑の呪術師〟と呼ばれた者であるか?」
「その通りだ」
男は間髪をおかず、淡々と応えた。
「名をなんという」
「マグダフォン」
その一瞬後、レートル達がわざとらしく大声で笑い、すぐにその笑い声が民衆に飛び火する。広場が嘲笑に包まれる。だが、グワテマは表情一つ変えず、むしろ愉快そうな態度で前の民衆と後のレキュア達にゆっくりと視線をめぐらせた。
レートルは片手をかざして民衆をなだめる仕草をし、グワテマに皮肉めいた笑顔を向けた。
「もう、いいぞ、グワテマ。レキュア女王の戴冠の余興としてはいささが下品だったが、久々に愉快に笑うことができた。さっさとその陰気な芸人を連れてこの場を去るがいい」
「〝緑の呪術師〟であるマグダフォンに問う」グワテマはレートルの挑発を無視した。「お前は先王メラトルを殺したか」
「いいや」
「では、誰かにメラトル王を暗殺するような呪いをかけたか」
「ああ、かけた」
広場が一瞬にして静まりかえった。グワテマはそのことに欠片の関心も示さぬ様子でさらに男を問い詰める。
「誰にだ。お前がその者に呪いをかけたという証拠はあるか」
「王宮に出入りの仕立て屋だった。首筋に赤い小さな十字の痣がまだ残っているだろう」
その仕立て屋の名を呼ぶ声、走り出す一部の群衆、墓を掘り返せと叫ぶ者たちさえいる。
声を失ったエートルにグワテマは淡々と語る。
「私は過ぐる日、この男を捕らえ、そしてさきほど真実しか話せなくなるように自らに呪いをかけさせた。その結果は聞いての通りだ。仕立て屋の墓を暴くのも良かろう。さらに、その呪いをかけるよう教唆した者の名前も聞けるやもしれない。だが、今は別のことを明らかにするのだ。〝緑の呪術師〟よ。あそこに立つ女に、お前は以前会ったことがあるか」
「ああ、ある」
「その場所は?」
マグダフォンの虚ろな目はしっかりとレキュアを捉えていた。そして、そのとき初めて彼は返答に躊躇したように見えた。しかし、彼自身の意図に反したように力なく口が開きかけた。
「それは……」
一瞬のできごとだった。レキュアの場所から見えたのは、マグダフォンを縛る縄を持っていた者が、何かにはじき飛ばされるように倒れた様子だった。そして、バルコンの陰から飛び出したゲッショーの手には白刃がきらめき、それは何の抵抗も受けることなくマグダフォンの腹を貫いた。マグダフォンは崩れ落ちる寸前、レキュアの方に笑いかけたように見えたが、それはレキュアの錯覚だったのかもしれない。
「やめてー!」
レキュアの叫び声が静まり返った広場にこだまし、闇の呪術師がその悪行にふさわしい最期を遂げて、石畳の上に倒れる音がその末尾に重なった。
レキュアは自分の身体に変化が生じたことがわかった。顔や全身の皮膚がちりちりと焼けるような気がした。足に力が入らなくなった。思わずバルコンの手すりに片手をかけたが、レキュアの両足はもはや彼女の体重をほとんど支えきれなくなっていた。傍らにいたレートルが、レキュアを助けようとのばしかけた手が中空で止まっていた。その目には驚きと恐怖の色を浮かべ、口は何度も開きかけては紡ぐ言葉を見つけることができずにまた閉ざされた。
ああ、そうだった。レキュアはすぐに思い出すことができた。三年前、〝緑の呪術師〟にかけられた二つ目の呪いは一時的なもの。術者が死んだら解かれてしまう。そうであれば、レキュアが今、どのような外見になっているのか、想像するのは簡単だった。ねじれた足、病の痕の残る肌、醜い貌。
広場の民衆にざわめきと慄きが広がる。グワテマさえもが、口を半開きにして、目を見開き、レキュアの姿を見上げている。彼もこのようなことが起きるとは予想していなかったのだろう。
しかし、レキュアにとっては、全てどうでもよいことだった。レートル達への裏切りも、グワテマの勝利も、民衆の恐怖も、このあとの王国の行く末も。ましてや、自分が就いたばかりの王位を追われるだろうということも。
〝緑の呪術師〟マグダフォンは死んだ。三年前にレキュアが差し出した『もの』を取り戻すことは、もうできない。それは喜びや美しさとは無縁な、文字通り地を這い残飯をあさる惨めな人生から抜け出そうとさせる、たった一つの思いだった。それが取り戻せないと分かった今、レキュアが生きる意味などなかった。
レートルの腰の剣に目がとまる。いっそここで殺してもらえないだろうか。だが、レキュアは貴族でも騎士でもなく、その本質は人の施しで生きることが精一杯の女だった。ゴミは片付けなくてはいけない。せめて他の人達に迷惑をかけないように。
ためらいがちながら、さしのべられたレートルの手には、脱いだ王冠を渡し、レキュアはバルコンの入り口に向けて
「……レキュア、どこへ行くんだ」
震えるレートルの声が背中にかかる。久しぶりに地を這う感覚は慣れないせいか、なかなか思うように身体がうごかせない。だが大丈夫。すぐに思い出す。階段だって降りられる。杖を手に入れれば、どうにか立って歩くこともできるだろう。
「帰るわ」
今さら、そんなことできるわけない、と思いつつ、それが今のレキュアにとって唯一の答えだった。
「思い出したくもないふるさと。遠い遠い『荒れ地の
ヴュステンラントの神様 谷樫陥穽 @aufdemmond
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