庭
@zen2124
第1話
庭
この京都の山里の古い屋敷には、赤く美しい着物とともに、そのかつての所有者であるひとりの女性にまつわる伝承があった。彼女はその屋敷にある庭を愛していた。
その伝承と庭が織りなすであろう美しさを信じ、当時、荒れ果てていた庭の手入れを始めた若い男がいた。
庭は、伝承に可能な限り誠実に図化し、彼の手と彼の僅かばりの資財によって、何年も何年もかかり、本当に美しい庭にすることができた。その頃には彼の人生は終盤に差し掛かっていた。
これは、彼がいつものように庭の手入れを終え、屋敷の中でうたた寝をしてしまった日の秋の夜の出来事である。
その日の夜は特別な夜であった。
その日の夜は不思議で幻想的な現象を引き起こした。
遠い時を超えて彼女の想いを思いやりながら、丁寧に手入れをされたその庭に、抽象化された彼女の魂が、その庭とその晩の特別な空気によってかたちを与えられたのだ。
夜の穏やかな風が庭と屋敷の木の壁を緩やかに伝っていった。
柔らかい母親の優しさを思わせる少し甘い香りのした微かな風に気づいて、彼は目を覚ました。彼にはその香りが庭に植えたどの木の花の香りなのかすぐにわかった。
かつてこの屋敷にはひとりの女性がいた。ここで恋に落ち、子を産み、悩み、笑い、悲しみ、そして最期もここで迎えた。
気づくとさっきまで部屋の中にあった着物が消えて無くなっていた。彼は自分が寝ている間に盗まれたのではないかと思い、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。気持ちが動転しながら周囲に目を走らせると、開け放たれた木戸の向こうの庭の中に、光り輝くその着物が見えた。
その赤い着物は、まるでこの夜の月の明かりの中に溶け出して消えていき、再びこの庭で結晶化されたかのような美しさで女に身に付けられ、その美しい絹の生地と織りの文様を光り輝かせていた。その不思議で幻想的な佇まいは、かつての着物の所有者である彼女であると思わせるのに十分であった。赤い着物はそれ程までに自然に彼女に身に付けられていた。
彼はその幻想的な光景に何故か敬いの気持ちになり、自ずと正座の体制で彼女を見ていた。
彼女が動くたびに着物の足元の裾が綺麗に揺れた。その微かに揺れる姿から、彼女のこの屋敷でのかつての様々な思いが感じ取れるような気がした。
月が薄い雲の断片を透かし、その存在の輪郭をぼかしながら光をこちら側へ届けていた。
庭に流れる小川の音は、彼女の事をよく知る友人のように、優しく語りかけているように感じられた。
顔は見えないが、踊るような軽やかな微かな動きは彼女の嬉しさを表現しているように見えた。
あれから幾重の時が流れたのかはっきりとはわからないが、それは幾千もの永い永い時の流れを彼に思わせた。そのくらい目の前で起こっていることが遥か遠い昔のことのように感じられた。
彼女のその姿は、赤い鉱石が月の光を受けて静かに光り輝いているようであった。その鉱物の内部はたくさんの粒子の結晶で成り立っていて、そのひとつひとつの粒子にかつての彼女の思い出が、この夜の月明かりに照らし出されているかのような、彼女の着物の動きを見ているとそんな印象を感じ取らずにはいられなかった。
彼女には私のことは見えていないようであった。私はこの世界に入ることはできない。純粋さを保ちながらこの庭の美しさだけが私の目に写っていた。
彼の庭師の仕事は辛いものだったし、普段働いている職場を少ない給与のため辞めようと思ったこともあったが、自分にとって特別なこの仕事を辞めることはできなかった。そんな貧しい彼の暮らしぶりを見てほぼ全ての知り合いは彼から遠ざかっていったし、仕事には誇りを持っていたにせよ、経済面の世間体から彼自身も自らの事を恥ずかしく思い、他人との関わりを避けていた。だから庭師の仕事は、彼の全てであった。
ふと気がつくと彼女は消えていた。庭はいつものように綺麗に整えられていたが、彼女が存在していた時の特別な夜の空気は感じられなくなっていた。
着物は元の場所にいつものように飾られていた。
「あれは・・・」
彼はその恍惚とした情景を彼の中にとどめようともう一度記憶の中のその情景に入り込もうとした。しかしその感覚は徐々に遠ざかっていき、ほとんど消えて無くなってしまった。
もう仕方がないか、と諦めて目を開けるとひとつの扇子が、正座をして座る彼の膝先に、まるで几帳面に彼の正面と並行になるように置いてあることに気がついた。
彼はそれを手に取り、その扇子を開いてみた。
薄暗い月明かりだけを頼りに彼は目を凝らした。そこには筆で書かれた文字だけが、おそらく、ゆっくりと心込めて書いたであろう丸みのある伸びやかな線でこう書かれていた。
うれしきを何につつまむ唐衣たもとゆたかにたてと言はましを
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