台風少女

くるみ

台風少女

 秋、中頃のことであった。


 少年がこの町に越してきたのはほんの一か月ほど前。母は既に亡くなり、父の転勤が原因だった。

 彼のこの町に対する第一印象は、田舎と呼べるほど山に囲まれているわけではないが都会と呼べるほど発達もしていない、中途半端な町というものである。発展途上国ならぬ発展途上町、もしくは開発に失敗した町。大きな川が一本流れ、緑の丘がぽつぽつと点在している。大きなマーケットが一二個あるものの、どこも若干廃れた印象があった。

 高層ビルの立ち並ぶ街出身の為、彼にはより顕著にそれが思われたのだろう。


 彼は元来よりやんちゃ坊主と称される類の子供だった。普段人の行き来がない川、そこに架かる橋の手すりから飛び出し、僅かな足場の中で友人と背中を押しあい、川に落ちて、一週間ほど酷い風邪を引いたことがある。偶然、本当に偶然そこに消防車が通り助けてもらった。何故そんなことをやったのかと不思議に思う人がいるかもしれないが、しかしただ、彼にとって、面白そうだからという理由以外ないのである。そのことは本人も自覚していた。

 母が死んでから、そういったことは一切無くなっているが。


 その日は台風が来ていた。強烈な台風である。風が吹き荒れて、ガンガンと窓を叩き、横殴りの雨が一帯を襲っている。暴風警報を知らせる放送がテレビに流れ、画面下には該当地域名が書かれている。航空写真には大きな台風の目が一つ、南西から北東へと列島をなぞるように進んでいた。

 休校になったことを喜び、しかし退屈な時間だとリビングで寝転がっていると、学校でできた少ない友人からこんな電話がかかってきた。


――なぁ! ちょっと外で遊ぼうぜ!


 彼はその言葉を聞いて、微かに、何馬鹿なことを言っているのかと思うのと同時に、心の隅で確かにおもしろそうだと心を弾ませた。というのも、ここら一帯では、台風など夜間に通り過ぎてしまい、子供の起きている明るい時間に通ることなど滅多にないからだ。また同時に、彼は最近、そうした出来事に踏み込めていなかったからである。

 いったいどれだけ強い風が吹いているのか。どんな強い雨が降っているのか。ただ身を持って知りたい。今日は家から出るなと、今朝になって少し遠くへ出張中の父から電話越しに伝えられたけども、彼にとってそんなものどうでもいい。

 この提案は、彼の心の空白を埋めるのにはもってこいであった。

 窓の外に視線を向けると、透明なガラスに雨が打ち付けられては下に流れ落ちている。少年はニヤリと笑って、電話越しに友人へ待ち合わせ場所を話すと部屋で着替え、一目散に扉から出ていく。

 木々は大きくしなったまま戻らない。雨風の音が強く、大きく響いていた。


 それから何十分か経ったのち、

 結論から言うと、待ち合わせ場所にその友人が来ることは無かった。それも当然、わざわざ死地に子を送り出すような親はいないように、友人もまた、彼の両親によって行く手を阻まれてしまっていたのだ。もちろん、それは少年の知らぬところ。

 

 雨の匂いが鼻につく。

 冷たい水が風の勢いにのって体へと打ち付ける。風は横に吹いており、傘の意味など到底ない。体はもはやびしょ濡れで、濡れていない部分を見つけることが不可能なほどであった。薄い服が体にべったりと張り付いて、得も言われぬ不快感を感じさせ、雨はさらに強く降り注ぎ、霧のようになって視界を塞いで、少年は一人ぼとぼとと寂し気に、重い足取りで帰路につく。冷たい体が風でさらに冷やされた。


 あぁ寒い。苦しい。苦しい寒い……。

 

 そんな言葉が少年の心の中で怨念のように呟かれる。

 肩に組んでいる両手はカタカタと震え、その肩は小刻みに揺れ、くちびるは赤紫色に変色していた。強い風が彼を押し倒さんとばかりに吹き付ける。胸が張り裂けそうなほど強く脈打ち、耳に残るほどうるさく響いて、冷や汗が雨と一緒に流れ落ちる。指先が凍ってしまった。もはや自然の拷問だった。

 彼の中にあるのは、ただ一心に友人を恨む心だけである。

 いつになっても待ち合わせ場所に来ない、気違い《キチガイ》の

友人だ。奴さえいなければ、こんなつらい目に合わなかったのに。


 死ぬとはこんな苦しみを覚えるのか。


 胸が痛い。本当に胸が斬り裂けてしまいそうだと少年は思った。

 そんなときである。


――あんた! そんなとこで何やってんの!


 少年に少女の声が届く。二階建ての家だ。全体的に青みがかった家の二階から聞こえてきたのだ。顔は見えなかったが神々しく輝いているようだった。

 少年がうろたえるようにしてその場に静止すると、又もやこう声がかかる。


――いいから! 早くこっち来て!


 怒鳴るような、叱るような、気迫のこもっている垢ぬけたおとなっぽい喋り方。

 少年は身体を震わせながらゆっくりとその家に向かった。




 転校して、少年に友人と呼べる友人はほとんどいなかった、それこそ先程少し嫌いになった奴くらいである。子にとって、少なくとも彼にとって愛の化身とも呼べる母を亡くした、都会から来た少年とどう付き合っていけばいいのか、同級生たちも分からなかったのだ。だから彼は、口をほとんど開かず、より孤独へと歩を進め、やんちゃ坊主というものから離れていくことになる。

 そんななか、彼にたった一つ、真に心がときめく出来事があった。それは同じ学校の少女の存在に強く惹かれたことである。いままでのどんなデンジャラスなことよりも胸が躍っている、一目惚れだった。

 少年の数少ない友人の話だが、彼女は『台風少女』と呼ばれているらしい。彼女も転校生のようで、転校してきて少し経つ頃にはもうその名がついていた。それを聞いて、一体全体、どうしてそんな名前がついたのか想像もできなかった。にしても酷いあだ名だと、少年はそう呼ばないことを決めたが、その続きを聞いて、中学生ながらあぁと納得した。


 曰く、普段は一人なのだが、いつも不機嫌で、荒れているだとか。

 曰く、何処かの高校生とひそかな恋人関係だとか。

 曰く、不良グループの一員で、すでに男をしっているだとか。


 彼女の、積極的に人とかかわらない姿勢が、いきなり現れた大人びた美しい顔立ちに相まってそんな噂を作り出したのだろう。けれどもどうか、少年にはそれが嘘のように思えなかった。事実として、彼女を見るといつも怒って見えるからだ。主に一番最初の、噂から最もかけ離れたところにある彼女の『像』が台風少女というあだ名をつけさせたのだろうと思った。

 その他にもそんな感じの風潮で、数多もの噂に囲われた少女に心がときめいてしまうのであった。


 けれども少年は遠くから、彼女がときおり憂いの帯びた目で外を眺める姿や立ち居振る舞いをながめるだけで直接的なアプローチをすることは無かった。彼女に届かないラブレターを何通も書いた。囁かない愛の言葉を何度も呟いた。けれども哀しきことに、彼にそれを実行するだけの勇気はなかったのである。彼にとって、その、彼女を眺める時間すら至福であって、なんだか彼女のことを誰よりも知っているような優越感に浸れるのだ。

 彼女は授業中、うつ伏せで寝ている。彼女はよく、他行の女子と喧嘩している。彼女の家には、業後、何人かの青年が入っていき、うるさく奇声を上げる。

 艶めかしい噂を聞くたびに、少年の中にはごうごうと燃え上がるような怒りが湧いて出てくるのだ。そして同時に、それでこそ彼女であると、勝手に自分で像を作り上げていたのである。


 そうして違う日、ストーカー紛いに彼女をそれとなく後ろからつけていると、一瞬見失った後、一枚の真白い紙が落ちていることに気がついた。震える指先で開いた。


『うざい』


 その一言だけである。

 その一言が、彼に重く響いていた。


 少年が風呂の中で回想に浸っていると、凛とした、けれどもどこか無頓着な声で言葉をかけられた。


「ほら、服なら兄貴のをここに置いといたから、早く出なさい」


 ザーザーとした雨の音、洗濯機がグルグルと回る音だけが聞こえる。

 少年は風呂を出て、渡された服を着たのち、少女の元へ向かう。リビングでソファに座った彼女は、少年を真っ直ぐに睨みつけていた。

 その足を組む姿勢が、なんともいえない表情が垢ぬけて大人っぽく見え、どこか煽情的である。


「あんたさ、なんであんなとこにいたの? ねぇ、馬鹿なの? 台風の日に外に出ようなんて馬鹿か気違いしかありえないもの」

 

 彼女はやはり不機嫌だ。

 初めての会話は、彼女の一方的な罵倒であった。

 少年が何も答えられず床に座っていると、彼女は続けてこう話す。


「もうすぐ台風の目で晴れるらしいから、それと同時にこの家から出ていきなさい。それまでは居ていいけど」


 テレビの予報では、あとニ三時間後で晴れマークがついていた。

 少年はありがとうと言おうとしたが、言葉は出てこない。緊張で、口が上手く動かないので、どぎまぎと心が強く動いているのだ。

 今まで見ているだけだった女の子に、いきなり正面向いて話せる男子がいるだろうか。少なくとも彼は話せないタイプの人間であった。


「まあいいわ。好きに過ごしてなさい。わたしは部屋に戻るから」


 そういって彼女はその場を離れようとしたが、あぁでもと考え直すと「あんたもついてきなさい」と少年に言う。いいのか、と彼が聞き返すと、彼女は、こっちにもいろいろあるのよと言った。

彼女はきっと、好意を持って助けたのではない、偶然何となくの事なのだ、と子供ながらにそう思った。


 彼女の部屋は、存外、女の子らしい部屋であった。

 フワフワのベッドに南向きの窓には白いレースのカーテン。東側の勉強机には教科書が整頓されている。

 少年は、もっと荒れた部屋だと思っていたために目を見開いてしまう。なんて言ったってあの『台風少女』だ。それこそ、態度も部屋も何もかも、今の台風のように荒れているとばかりに考えていたのだ。


「なに? 思ったよりきれいだって? 余計なお世話よ」


 彼女の言葉はやはり強い。

 風の音が響いている。

 彼女が勉強すると机に向かおうとしたところで少年は、このまま会話が終わるのも惜しい気がして、しどろもどろになりながらも次のように聞いた。


「どうしていつも、そんな風なんだ」

「そんなってどんなよ。わたしがわたしであることに理由なんていらない」


 強い語調でそう話す。


「もっと、ほら、喧嘩しないで、他の人と仲良くするとか……」

「誰もが、人と仲良くしたいわけじゃないの。べつに、わたしにとって友達とかどうでもいいから」

 

 続けて、冷めた口調でそう話した。

言い返すことなど、その冷徹さの前では不可能だと感じさせられた。


 その後、彼女は机に向かって勉強を始める。何かに恐れ、取りつかれたような集中の仕方である。

 少年にはその空間が神秘的なものに見えていた。




 外は晴れていた。台風の目である

 彼は少女に連れられて、その家の玄関にむかう。

 この時、彼女と自分以外の音がないことに、ふと彼は気づいた。こんな日だ、普通の家族ならだれかはいるはずなのだが、この家からはそれが全くないのである。

 少年は、少女との最後の話にこんなことをきりだした。


「この家は……君しかいないのか?」


 彼女の動きがピタリと止まる。しかしまた、無視してすぐに動き出した。


「分かるでしょ」とだけ彼女は言った。

「……わからない」と少年は答えた。


 少女は彼をキッと睨みつける。それは彼女が、少年なら分かるだろうと確信していたからだ。彼女は少年の母親が亡くなっていることを知っていた。


「早く出てけ……早く出てって!」


 彼女は叫んだ。

 

 少年は急いで靴を履く。靴が水を吸ってぐじゅぐじゅと不快感を催した。少年は彼女に向けて、「変わらないといけない」とだけ話した。ぐっと下唇をかむ。彼女は何も言わなかった。


「おい、そいつ誰だ」


 そんな時である。低い音で少女に向けて声が掛けられる。

 ドアの外に男がいた、少年より四五才ほど年上の、太い眉で四角い顔、いかにも不良と言った、ガキ大将をそのまま大きく成長させたような男である。

 その男は、少女を見つめた後、少年めがけてガンを飛ばした。少年は、この男が噂の男なのかと思った。


 少女は、その男に向けて、少年が名古屋から越してきた級友だと紹介した。続けて、台風の中で困っていたから家に入れただけで、他意はない、これから帰すところだといった。

 男は探るような視線を少年に向けると、ふんと鼻を鳴らし、いったいどうしてそんなことをしたのかと少女に尋ねる。有無を言わさない貫禄のある声であった。

 さっき言ったはずよ、と彼女は冷たく返す。


 その喋り方が、少年には大人びた卑猥さを兼ねているように思えた。凛とした表情が、身体の大きな男に立ち向かう姿勢が、彼の中の『彼女の像』に重なってそう思えてしまうのだ。少し怒りに染めたその表情が、よりそれを増長させた。


「いいや、そんなはずはねえ。お前みたいなやつが、たかだか台風に襲われていたなんて理由で人を家に入れるものか」


 少女はうるさいなあと、少年にギリギリ聞こえるほどの音量で呟く。

 頭をガシガシと掻いた後、怒るような口調でこう言った。


「だいたい、あんたはなんでここにいるのよ。兄貴と一緒にどっか行ってたんじゃないの」

「あの人からは何も言われてないさ。俺はただ、単純にお前が心配だっただけだ」

「家の中にいるのに、何を心配するのか、わたしには全くもって分からないのだけど」

「はっ、お前みてぇな泣き虫が何を言うか、嘘にも程があるぞ、どうせ部屋の中でびくびくしていたんだろう」

「わたしは、 弱虫なんかじゃ……!」


 男は、いきなり、少年の体を掴むと扉の外に追い出して、自分は中に入り、扉を占めた。ばたんと音が鳴る。家の中から男の怒鳴り声が聞こえた。


 少しの間、少年は何が起こったのか分からないと転んだままであったが、なんだか、関わってはいけないような気がしてその場から去ろうとしたところで、しかし心のどこかでそれを否定する自分がいることに気がついた。ずっと怒鳴り声が聞こえていた。


 少年は、扉の前で動けずにいる。心の中で、これは嫌われたなと思った。なんせあんなふうに怒鳴られたのだ。嫌われたに決まっている。だから扉から目を逸らしていた。

 いつの間にか時は過ぎていたようで、空の端には雲が迫ってきている。


 扉の開かれる音がした。きっとあの大男だ。あいつが自分をシバきに来たのだ。けれども体は動かなかった。

 かっと、足の止まる音がした。

 一瞬の後、腕を強く引っ張られる。細い指で、強く少年の腕を握っている。彼女であった。


 その時の少年は、あの男が追ってこないかがただひたすらに心配であったのだが、どうしてかあの男が家から出てくることは無かった。


まだ台風の目の中にいる。

少女と少年は走り走り走り、なんだか駆け落ちのようだと彼は思った。

列車の通る橋の下に潜り込むと、彼女は唐突に笑いだした。そこに、今までのような冷たさはなかった。楽しげに、こんなことを言うのである。


「なんであんなとこにいたの? 早く帰ればよかったのに」


 君が心配だから、なんて洒落た台詞は言えない。だから彼はこんなことを聞き返した。


「一体、君には何が起こってるの?」


 それは何か特定した質問ではなく、彼女全体の、ある意味どれか一つでも知れればいいというものであった。

 彼女に関して、断片的な情報はいくつも得られたが、結局のところ何もわかっていないのである。


「何が……ね。なんかもう、よくわかんないの、いろんなことがありすぎて」


 そうして彼女はぽつりぽつりと語り始める。

 聞いてみればよくある話。彼女は寂しそうに、ときおりしゃくりあげては嗚咽を漏らして話した。

 

 両親が亡くなったこと。兄が地元の不良グループに入ったこと。さっきの大男にしつこく付きまとわれていること。

 ショックから、人と付き合う気が出来なくなったこと。


 話し終わった頃、もう既に雨が降っていた。彼女は帰ろっかと笑って言う。


――服、忘れてるよ。


 そんな言葉を付け加えて。

 振り向くと彼女がいた。

 怒ってないの、そう聞くと彼女は怒っていると答える。けれども同時に、変わらないといけないとも言った。


 強烈な台風には、ぽっかりと穴が空いている。


 少年はこれから、少女のことを台風少女と呼ぶことにした。


 

 

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