チロとわたし

奥森 ゆうや

チロとわたし

 65歳になる年の春、私は42年間勤めた土木会社を退職した。

 真面目に勤めてきた私を、気のいい同僚たちは、ついでの花見の席で朗らかに送り出してくれた。

 退職の記念として贈呈されたのは銀の腕時計、上等な時計ひとつ持っていなかった私はなんて気の利いたプレゼントだと喜んだ。毎日それをつけて時折仕事の日々を思い出すのが、この頃の私の楽しみだ。辛いこともあったが、それ以上に良いことがあった。 


――そうして退職してから、早三ヶ月が経とうとしていた。




「お父さん、そろそろお昼ですよ。ご飯にしましょう」


 縁側から妻が、庭で鉢の植え替えをしていた私に向かって呼びかける。もうそんな時間かと呟きながら、溜めていた汲み置きの水で手をじゃぶじゃぶと洗い家に入る。


 梅雨が過ぎて以降、乾いた暑さが日に日にましてそろそろ冷房も入れなくてはいけない。電気代がな、と思いながら扇風機のスイッチを入れて、風向きを自分に向け食卓に着く。


「今日は素麺かあ」


 夏場になると麺が多くなる。昨日は冷麺だった。ズルルと啜るとショウガの風味が香った。二人だけの食卓はごく静か、時折風に吹かれた風鈴がチリンチリンと音を立てる。


 妻との間には娘と息子が一人ずついるが巣立ってしまった。今では県外で各家庭を持ち、賑やかに暮らしている。二人の生活は時々物足りなくもあるが、夫婦ともに持病は無く健康に生活出来ている。寂しくもあるが、元気ならいい。健康はお金で買えないとはよく言われたものだ。


「なあ、母さん。午後からホームセンターに買い物に行こうと思ってるんだが付き合ってくれないか」

「良いですよ。何買いに行くんです?」


「ホースのパッキンが壊れたんだ。水漏れしてるから変えないとな」

「そうですか、ならこれを片したら出かけましょう」

 妻は私の分と妻の分の皿を重ねて台所へ運んだ。


 わたしの性分は決して亭主関白ではないが、自分の分の皿は片付けない。いつも妻がやってくれる。昔ながらの夫婦だ。

 近頃は台所に立つ男性も増えたと聞くが私は立つつもりは無い。台所の事は妻に信頼して全て任せている。




 車で近くのホームセンターへ行きホース売り場でパッキンを探した。パッキンの種類を選んでいると家庭用ゴミ袋を片手に持った妻がやって来た。


「有りましたか」

「うーん、どっちにしようか迷ってるんだが……」


 二つの商品を持ってジッと見比べる。品質に大差ないだろうが、職業柄どうもこういう細かいことは気になる。暫く迷って私は高い方のパッキンを持って「よっし、これにする」と頷いた。


 レジでゴミ袋とパッキンの分の代金を支払いその場を後にする。入り口付近に近づくと右手にふと、ある物……いや、ある生き物・・・の姿が目に入った。


「母さん少し見て行こうじゃないか」


 そこはペット売り場だった。新設されたわけでもないのだが、やっぱり働いている時なんかは余裕がなかった。ショーケースには大小さまざまな仔犬が入れられている。猫の姿も少しだがあった。引き寄せられるようにショーケースに近づくと中にいる仔犬と目が合った。三ヶ月の雌の茶色のプードルだった。


「ぬいぐるみ見たいねえ」


 妻がガラスを愛おしそうに指で突く。プードルはガラス越しに妻の指を舐めようとガラスをぺろぺろしている。隣のケースにはチワワがいて、値段を見ると54万円とある。


「ごっ、54万だってさ、高いなあ」

 古い知識と合わない。この頃のペットブームでどうやら価格は急騰しているようだった。


「お父さん」

「ん?」


 妻はショーケースを見つめている。


「家で犬飼えないかしら」


 一瞬何を言い出したかと思考が固まる。


「何を言いだすんだ。飼った事無いだろう。無理さ」

「理恵子も啓太も出て行っちゃったでしょ。2人で寂しいじゃない」

「確かになあ。でも飼った事無いだろう、ちゃんと世話しなきゃダメなんだぞ」


 少し説教くさいかとも思ったが、妻は時折そんなことを言い出すのだ。


「子供だと思って育てましょうよ。1匹いれば賑やかになるわ」

「……ダメだ。行くぞ」


 そう言って妻を強引に引き剥がして帰った。


 しかし、私達は1週間もしないうちにそのホームセンターを訪れることになる。

帰りには小さなプードルの仔を連れて。

 こうして私と妻と仔犬の共同生活が始まった。




 プードルの仔には散々迷った挙句、チロという名を付けた。モモやジャスミンなどの名も候補に挙がったが、離れて暮らす娘に相談したところチロが可愛くて良いんじゃないかとのことでその名前にした。


 そうして私たち夫婦は本屋で買った育て方の本を頼りにしつけを開始した。


「チロ、トイレはここでするんだよ」


 トントンとトイレを叩く。チロはきゅうんきゅうんと鳴きながらケージの外に出たいとケージの入り口をかいている。


「さあ、水を飲むんだ」

 チロは私の声に呼応するようにペロペロと水を飲んで暫くして腰を落とすモーションをした。「あ、トイレ!」と呟いてチロの体を持ち上げてトイレの上に置く。するとチロはその上でおしっこをした。


「出来たじゃないか、チロ。お利口さんだね」


 本に書かれている通り大げさに褒める。するとチロは再び水をペロペロと飲んで再びおしっこをするという事を繰り返す。どうやら褒められたのが相当嬉しかったらしい。


「母さん、チロがずっと水を飲んでるんだが」

「チロちゃん、あんまりそんなにたくさん水を飲んではいけませんよ」


 妻は部屋の真ん中で洗濯物を畳みながら口元に笑みを浮かべてそう言う。私はケージの中に手を突っ込んで水を飲み終えたチロの背をよしよしと撫でている。


 再びトイレを終えるとケージの入り口を開けてチロをケージの外に出した。チロは尻尾をフリフリとしながら私に向けて歩いてくる。「おお、よしよし」と言いながら抱き上げるとチロは私の腕の中で丸くなりケッケッと器用に背をかいている。軽くてまるでぬいぐるみのようだ。


 手を口元に持って行くとペロペロと指先を舐め、そしてカジカジと指を噛むような仕草をする。本に確かあった。噛み癖が付くから指を噛ませてはいけないと。指をチロの口元から離し背を撫でる。するとチロは気持ちよさそうに大きな欠伸をする。


「可愛い娘が出来ましたね」


 妻は畳んだ洗濯物を持って立ち上がる。妻は忙しいせいかチロにあまり構わない。欲しがったのは妻なのに気づけば私の方が夢中だ。チロを床におろしガラガラの玩具を振る。「ほらあ、チロ。こっちだよ」と小さい子をあやすように呼びかける。チロは玩具に食いついてグングンとそれを引っ張っている。チロの口から玩具を取り上げ投げるとそれを追いかける。玩具の落ちた先でチロは遊んで持ってこない。

「持っておいで」と言うと「まだ無理ですよ」と洗濯物を運んでいた妻が笑った。


 お手もおすわりもすぐ覚えた。インターネットで調べて知ったのだがプードルというのは賢い犬種らしい。「お前お利口なんだってな」と撫でるとチロはお手をした。




 一番楽しみにしていた出来事がやって来た。散歩だ。私はいつも健康のため妻と外を歩いているのだが、その時すれ違う犬と飼い主が羨ましかった。今度は自分たちの番と意気込み、リードと首輪を揃えた。色は女の子だからピンクを選んだ。茶色い毛に良く映えてとても似合っている。「よーし美人だぞ」と褒めてチロを玄関で降ろした。

 チロは動かなかった。ガクガクと震えている。怖いのだろうか。


「チロちゃんおいで」

 妻が門扉の所で呼びかけるとそろりそろりと歩んで膝に飛び乗った。


「こーらお散歩にならないでしょ」


 妻は笑う。抱えて家を出ると降ろし道路に出た。歩きたくないというチロを引っ張り道を歩く。最初は道草するようにトボトボと歩いていたのだが、暫くすると慣れてきて先を行くようになった。慣れて良かったなと妻と顔を見合わせた。団地の角を曲がったところで視線の先に別の犬が見えた。パグだ。チロよりがっしりしていて少し大きい。パグはどんどんと近づいて来る。向こうの飼い主の女性と目が合った。


「こんにちは」

「こんにちは」

 住所くらいは知っているけれど、話したことがない人で温厚な人のようだった。


「小さいですね、何歳ですか」

「4ヶ月です」


「まあ、可愛らしい」

「いえいえそんな」


「お名前は何て言うんですか」

「チロです」


「チロちゃん、チロちゃん」


 するとチロは近寄っていく。パグとも目と鼻の先だ。噛みつかれやしないかと内心ドキドキする。そんな心配をよそにチロはパグと匂いの嗅ぎ合いをしている。


「まあ、チロちゃんお利口さんね」

「良かったなあチロ。お友達が出来て」


 パグは名前を太郎くんといった。それから五分程立ち話をして太郎くんとは別れた。十分ほど散歩する中で二組の犬と出会ったが、その二組ともとチロは相いれなかった。チロが警戒して先に吠えてしまったからだ。一組はチワワでもう一組は柴犬だった。「吠えちゃダメじゃないか」と咎める声を無視してチロは歩いた。十五分程の散歩を終え、私達は家に入った。チロはご満悦といった表情だ。


「これからは毎日行けるんだそ」


 わたしの言葉にチロは嬉しそうに尻尾を振った。

 風呂場でチロの足を洗い拭いてやるとリビングに向かって水を飲んだ。暫くするとチロはケージの中のベッドで眠ってしまった。どうやら初めての散歩で疲れたらしい。私もそれを見ているうちにウトウトと眠ってしまっていた。




 飼って2ヶ月、初めてのトリミングに連れて行く日がやって来た。美容院には事前に予約を入れたが、どの日もいっぱいで、ようやく1ヶ月先に予約が取れた。


 私が運転をしながら妻がチロを膝に抱いて連れて行ったが、車に乗るのが初めてだからか臆病にずっと震えていた。内向的な彼女の性格が少しずつ分かってきたような気がする。 


 ペットショップに着いてもずっと妻の腕の中で震えていて、ペット売り場の前を通るとケージの中の犬たちの鳴き声に小さくなっていた。


 トリミングのコーナーに行くと優しそうなお姉さんたちが彼女を出迎えてくれた。


「いらっしゃいませー」

「予約してた長野ですけど」

「チロちゃんですね、先に狂犬病の注射証明書をお預かりします」


 妻はバッグから証明書を取り出して店員に渡す。店員がそれを机に置いたのを見て妻がチロを渡す。


「ハーイ、チロちゃん。キレイキレイしましょうね」


 チロは普段知らない人に抱っこされるとバタバタと暴れるのだが今日はなぜか暴れない。さすが慣れた店員さんだなと感心する。


「3時頃には終わります。終わったらお電話しましょうか?」

「いえ、その頃に迎えに来ます」


「それじゃあ、お預かりします」

「よろしくお願いします」


 私と妻はトリミングコーナーを後にした。出るとき店の前のプードル6千円という表示が目に入る。


「結構するんだなあ」


 驚いて妻と話した。チロのためを思うと惜しい金には思われなかったのだが。


「毛が多いから高いんですよ」


 妻はくすくすと笑う。トリミングが終わるまでまだ3時間もある。お金もそうだが時間も人間さま並みにかかるものだなと思った。むしろ長い。


 私は妻と近くのショッピングセンターで食事をして時間つぶしショッピングモールをうろついた。途中ペット用品売り場を覗いて、チロの洋服を買う。


 結局、その洋服はチロが大きくなった事により直ぐに入らなくなってしまったのだが、娘の部屋を改造した通称チロの部屋に今でも飾ってある。




 チロが来て初めての誕生日がやって来た。妻はケーキを手作りすると張り切っていた。犬の食事の本を片手に妻は台所に立った。


「小麦粉三十グラム、牛乳大さじ二杯、それと……」


 ブツブツと本を読みながら材料を混ぜ合わせている。私は面白いものを見るような心地でそれを覗き見る。チロもまた台所の入り口までやって来てお座りしてそれを見ている。


「チロ、ケーキだぞ。美味しいぞ」


 ケーキとは聞き慣れない言葉だとでも思っているのだろう。首を傾げ不思議そうにしている。いつも分からない事があると首をそっとくるりと捻る癖があるのだ。


「ケーキだ、ケーキ」

 私は妻の横でデコレーションクリームの味見をした。顔をしかめる。


「味が無いじゃないか」

「犬用ですから」


 妻はクリームを焼き上げたスポンジに塗っている。少しいびつに塗り終えてケーキは完成した。


 皿に10センチ大のケーキを乗せて妻はそれをリビングへ運ぶ。チロはそれを懸命に追いかけた。部屋の中程で彼女用のランチョンマットを敷いてその上に乗せる。


「待てよ、待てよ」


 チロはお座りをしている。5秒ほど待たせて妻は「よっし」という掛け声と共に自身の足をパンッと打ち鳴らす。チロは動かない。

 予想外の反応に妻は戸惑う。


「チロちゃんケーキよ、美味しいよ」


 チロはくんくんと鼻でかぎながら、不審物をさぐるようにケーキを調査している。

仕方が無いので妻は人差し指でケーキをすくいチロの口元へ持って行った。くんくんといぶかし気に嗅ぎながらそれを舐める。すると美味しい物を知ったと喜んですぐさまケーキに取り付いた。口元を真っ白に汚しながらケーキにかぶりついている。

私はそれをカメラに収めた。チロは夢中でケーキをむさぼり続け、半分ほど食べたところで妻がそれを止めた。


「食べ過ぎだからね、また明日」


 そう言って妻は皿を持ち上げた。チロはケーキを追いかけたが台所には入れない。

妻が冷蔵庫に片付けたのを見ると悲しく見届けている。


 私が口回りを拭いてやろうとティッシュを持って行くと珍しくチロは怒った。プリプリ怒って私から少し離れたところで口回りを舐めて股を舐めた。


 翌日もチロは食べかけのケーキを喜んで食べた。以降ケーキという言葉は我が家の禁句となった。チロをぬか喜びさせるからだ。


 禁句な言葉はそのほかにもある。『散歩』『おやつ』『ご飯』だ。とにかく賢いチロは様々な言葉を覚えた。中でもお気に入りの言葉は『お母さん』だ。全身を振り乱しながら大仰に喜ぶ。ちなみに『お父さん』の言葉には尻尾さえ振らない。彼女はお母さんっ子なのだ。



 

 チロが居なくなった。2歳半の頃の出来事だ。その日は妻が1人で散歩に連れて行っていた。妻をグングンと引っ張り歩いている所で、グイッと引っ張った隙に首輪がすっぽりと抜けてしまった。妻は勿論慌てて追いかけたそうだ。


 しかし、とても速く通りの角を曲がったところでチロは姿を消した。6時になっても妻は帰らず、あまりに遅いと心配して電話をしたところで事態は発覚した。帰宅すると妻は涙目でどうしようと膝を抱えて玄関で座り込んだ。私は掛ける言葉が見つからなかった。


 その晩、妻と話し合い『迷子犬探し中』のポスターを作成することにした。ポスターを作るのは不慣れな事であったがチロのために頑張った。チロは今も寒空の下で震えている、そう思うと頑張らずにはいられなかった。


 夜の11時頃まで粘り精一杯の分かりやすいポスターを作製した。翌日、私と妻は朝一番に出かけ、近所のスーパーや交番、コンビニにポスターを張らせてほしいと頼み込んだ。どこの店も快く張らせてくれて、20枚ほどのポスターを張り終えて帰宅した。電話が待ち遠しかった。ポスターには自宅の電話番号と妻の携帯番号との両方を載せた。普段は家にかかって来る電話は見慣れない番号だと取らないが、チロの情報かもしれないと思ってすべて取った。


 その甲斐があってか殆どは勧誘の電話であったが、中にはチロを見かけたとの情報もあり私達は情報のあった地区にいそいそと出かけてチロを探した。道で会う人会う人にポスターを渡し聞き込みしたが一向にチロは見つからなかった。


 どうしようと項垂れているとポスターを渡した30代程の女性が「もしかしたら保健所に居るかも」と言って保健所のホームページが有る事を教えてくれた。すぐさま自宅に飛んで帰り私達は2人でパソコンにかじり付く。飼い主募集中の画面を夢中でスクロールさせるとそこに見慣れた姿を見つけた。


「チロ!」


 妻は口元に手を当てて涙を浮かべた。私は直ぐさま収容されている保健所に電話し飼い主だと名乗り出た。保健所の人によるとチロは新しい飼い主が決まっており発送する寸前だったという。保健所の人が新しい飼い主となるはずだった人に電話で事情を説明すると快く手を引いてくれたとの事だった。私達は急いで車を飛ばし、隣の市にある保健所を訪れた。保健所には数えきれない程の犬たちが居た。中には殺処分される犬たちもいるのかと思うと心が痛かった。


「こちらです」


 足を止めて犬たちを眺めていると職員についてくるよう促された。部屋の壁いっぱいに沢山重ねられたケージの中程にチロはいた。


「チロ!」


 妻がそう呼ぶとチロは喜んで尻尾を振った。100年ぶりの再会の如くチロは喜んだ。職員が檻から出し妻に渡した。チロは妻の腕を駆けあがり肩に腕を乗せる。妻は泣いて喜んでいた。


「もう、居なくなるんじゃないぞ」


 私自身も泣きそうになりながらチロの背を撫でた。次の散歩からは抜けないハーネスを使用するようにした。以降チロが居なくなることは無かった。




 チロと妻と私の3人の生活は幸せだった。しかし、その3人の生活にピリオドを打つ日がやって来た。妻が他界したのである。


 67歳だった。早すぎる妻との別れに心の準備が出来ていなかった私は呆然とした。急性心筋梗塞でお別れを言う暇さえなかった。


 病院で妻を看取った私は項垂れる様にして自宅に帰った。妻と一緒だった。業者に畳の間に妻を寝かせてもらいお礼をいうと業者は引き上げて行った。業者が引き上げた頃合いを見てチロが妻のそばへ寄る。妻の枕元へ行きユサユサと尻尾を振っている。


「くうーん」と悲し気な声に、私は涙を堪えきれなくなった。


「チロ、お母さん死んじゃったんだ……」


 最期の方は声にならなかった。私はチロの背を撫でた。チロは相変わらず尻尾を振っている。その晩、チロを妻のそばで眠らせた。珍しくチロは夕食を食べなかった。出す人が妻で無く私だったからか、悲しさのあまりご飯が喉を通らなかったのかは分からない。犬の気持ちは正直分からない。きっと妻は分かっていた。


「母さん、ありがとう」


 妻の枕元で私は呟いた。




 妻の四十九日が過ぎて私は墓参りをする事にした。チロと一緒だ。墓は自宅から車で10分ほどの所にある。助手席にチロを乗せ後部座席に妻の好きだったガーベラの花を乗せた。


「チロ、お母さんとこ行くぞ」


 お母さんとの言葉にチロは喜んで尻尾を振った。墓地の駐車場から墓までをチロと一緒に駆け上がる。いつもは妻と来た道だった。信心深い妻はお彼岸やお盆などのお参りを欠かさなかった。ご先祖様に感謝しなきゃというのが彼女の口癖だった。


「母さん、チロも来たよ」


 墓石を見上げてそう言った。墓を掃除して上から水を掛けると、墓石はきらりと光り蒼天までその光は伸びているような気がした。

 



 妻のいない生活は大変な事も多かった。洗濯機の使い方も分からないし料理もほとんど卵焼きしか作れず大変苦労した。それでも生きていくしかなかった。そして振り返ると必ずチロが居てくれた。妻の残してくれた宝物だと思っている。

 チロは5歳になった。今度犬ごはんの本を片手にケーキを手作りしようと思う。チロは覚えているだろうか、妻の作ったケーキのあの味を。



(了)

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