第一章 その2
日課と夕食と湯あみを終えた凜瑛は、室に入るなり
原因として思い当たることはただひとつ。宗熙に命じられたあの箏の独演だ。
百人近くの娘たちが
選んだ演目は〈天龍〉。
〈天龍〉は運指が速く、
そんな過去を思い出しながら凜瑛が指をはしらせると、古木の
「見事なものだな」
賛辞を
「
直々の下問には答えてもよいはずだが、先に「主上」と女官が低く呼びかけた。
「賜った
「ああ、試験中の身で受け取るわけにもいかないのか。ならばそうだな。その箏もひさびさに奏でられて喜んでいよう。しばらく貸してやろう」
「──!」
宗熙の一言に、
国宝級の箏を宮女にも満たない娘に貸与するとはなにごとか。宮城のしきたりに
「これの
そう
──大変だったのがそのあとだ。
宗熙が去り、顔を上げた娘たちの目は貸与された名器に
そしてようやく解放された凜瑛が昼食に向かったところ、その室には娘が三十人ばかり、それまであわただしかった話し声がぴたりとやんだ。
『姫大将軍のひとり娘』『
そうして落ち着くところはたいていおなじだ。
『
──わかっている。背が
その年頃は凜瑛自身も通ってきた道、目くじらを立ててもしかたがないし、自分というわかりやすい標的がいることで、ほかのだれかが
凜瑛は話題の
午後の課題は
そして室にもどるなり寝台に倒れ込んで、現在に至る。
重い身体を横たえてようやく、凜瑛はほうと一息つく。それもつかの間、横になった視界に飛び込んできたのは
(あああ……)
その箏に朝の一件を思い出した凜瑛は、思わず
思い出したのは、娘たちの前で箏を奏でたことではない。
自分は〈天龍〉を弾きこなす技巧があるとの
凜瑛の演奏は、ひとまず宗熙を満足させることはできた。しかし、皇帝宗熙の皮を
あのときの、
どうして。そう思う一方、しかたない、とささやく声がある。
(皇帝陛下、なのだものね……)
宗熙はもう自分の知る子龍とはちがうのだろうか。それとも見つづけていれば昔の子龍の
(子龍
その名をつぶやくだけであたたかい気持ちが満ちるのに、春の夜の室内はしんと冷えている。外はもっと寒いことだろう。あいかわらず室の外には気配を感じる。ほかの娘にもこうして
現実に見ることは
掛け布をかぶったまま一呼吸、二呼吸──いつしか凜瑛はなつかしい思い出に落ちていった。
今朝は早朝からすっきりと晴れて、早春の空だというのに
午後には
まさに
『
そう母は言うけれども、箏が
「凜」
その呼びかけに、凜瑛ははっと顔を上げた。
「子龍師兄さま!」
「今日は訓練に来ないのか?」
子龍の長い
まさか今日、子龍師兄さまが来るなんて。完全に時間配分をまちがえた。自分の要領の悪さに凜瑛はさらに落ち込んだ。──くやしい。
「──行きたかったのですけれど、練習が終わらなくて」
凜瑛はすこし苦い口ぶりで譜に視線を落とした。それもこれもすべて、望みもしない箏の手習いのせい。思わず箏に当たりそうになった凜瑛だが、しかし子龍は気にした様子もなく、ひょい、と譜を取り上げた。
「あっ」
「へえ、〈
「おわかりになるのですか?」
譜には題は書かれていないし、〈天龍〉は音数が多い。譜を一目見ただけでわかるのは、それなりに楽器を弾けるということだ。
子龍の武人の一面しか知らない凜瑛は
(あ……)
──いつも
〈天龍〉は龍に
思わず
「これが弾けるのか。すごいな」
「すごい……ですか?」
「ああ、凜は
そう言うと、子龍は曲を口ずさみはじめた。
(あ……)
それは、凜瑛が思っているよりずっと速い曲だった。譜で追えるのは音の並びだけ、曲調も速さもわからない。箏の師は先入観を持たせないようにと曲をさらうまでは
けれども子龍の歌に乗って、曲の実態が伝わってくる。かっこいい、と子龍が評したのもわかる。それまで重く感じていた一音一音が
(これが〈天龍〉……)
「
そう言われても、宮中の本物の演奏を知っている子龍の前で弾くなど、恥ずかしくてできない。しかし子龍は
「凜は
その
「凜の演奏が聴きたいんだ」
その子龍の一言が凜瑛の心を貫き、その後の凜瑛の箏に向き合う気持ちを変えた。
(──!)
そのとき、凜瑛の感覚が
外から気配を感じ、体中に
凜瑛は目覚めたことを
気配がするのは
どうやら押して開くように細工がされてあったらしい。室内は昨日のうちにくまなく調べたはずなのに、細工を
窓から降り立つ気配。──たしかに室内に、人が、いる。
しかしその人物は、凜瑛を
足音はなく、息もひそめてたしかに近づく気配。凜瑛は
窓から
──間合い!
凜瑛はするりと
ギンッ、と
そして剣を力押しで
「何者!」
それに対して、ふっと
「あいかわらず
(この声……)
問題は、なぜ、いま、凜瑛に
「陛、下──」
驚きのあまり、凜瑛は
「問題ない。
そう命じると、
そして宗熙は凜瑛と向き合うと、ふっと
「ひさしいな」
すこしやわらかくなった宗熙の表情、それが過去の
そしていまの宗熙の目は朝会ったときの、他人を見るような目とはちがっていた。宗熙は自分のことをたしかに覚えている。
「かれこれ二年ぶりか」
(
凜、と昔のように呼んでもらえる気がして、凜瑛の胸がとくとくと高鳴った。
まずは皇帝
凜瑛が頭の中をぐるぐるさせていると、宗熙のほうから切り出してきた。
「こんなかたちで再会することになろうとは思わなかった」
しかしその
「後宮入りは
「……!」
それは三年前の春──伯苑の後宮入りを
「そんなおまえがいまここにいる。どういう心境の変化だ?」
「それは──」
伯苑の後宮と子龍の後宮。あのときといまとでは凜瑛にとってはおおきく事情が異なるが、後宮入りそのものが嫌だと言って断っていたのだから宗熙にしてみれば状況はおなじ、当然
(子龍師兄さまの後宮だったならわたしは──)
しかし当人を前にしてそのようなことは言い出せず、凜瑛は言いよどむ。
「武の道はあきらめたのか」
「いえ! あきらめてなどおりません」
「ではなぜここにいる」
「それは────陛下をお守りするためです」
「なに?」
思わぬ返答を受け、宗熙は
「いま宮城では警護の数を増やしているとお聞きしました。そこで後宮にも警護は必要だというので、
宗熙は意外な返答に目を丸くしていたが、なるほどな、とごちた。
「武官になる前に、まずは後宮に
(腕試しだなんて……)
そんなたいそうなことは思っていない、そう返そうとした凜瑛だが、
「──変わらないな」
そうつぶやいたその表情。きびしい中にもかすかに宗熙の目許がやわらいだ気がして、凜瑛は思わず見入ってしまい、反論しそびれた。
三年前、武官になると言い張っていたのは伯苑の後宮入りを
ずっと会いたいと願っていた。けれどもとても遠い相手で、もはや
(子龍師兄さま……)
まさか夢ではなかろうか。自分はもう
そんな凜瑛の前でなにやら考え込んでいた宗熙は、「なるほどな」といま一度うなずいて、あらためて視線を向けた。
「あれからも鍛錬を続けていたのか」
「はい。一日も欠かさず」
「そうか。
その言に「前線?」と凜瑛が小首をかしげると、宗熙が
「伯苑の件を知ってここに来たのだろう?」
「ええ。宮城内で災難に
宮城の警護を増やしはじめたのは、伯苑が
「その災難に見舞われた場所というのがここ、後宮だ」
「え!?」
凜瑛は息を
伯苑の
側にいられない場所だったとはいえ、皇帝が
(だからわたしを……?)
凜瑛は、
事の重大さをあらためて知って、凜瑛は手のひらを
「なんだ、知らずに来たのか。まあ、伯苑の件はそうそう気安く話せることではないから知らなくても無理はないな。──だがそういう理由で来たというなら得心がいった」
(え?)
きびしい声音が変わったわけではない。ただそのときなぜか、
そしてその予感どおり、宗熙は用は済んだとばかりに凜瑛に背中を向けた。
「巻き込まれる前にいますぐ帰れ」
凜瑛は
「俺が
「──! わたくしは! ここに物見
凜瑛は思わず声を上げた。花窓の細工に気づけなかったこと、そして父の持ちかけてきた話に便乗したことはたしかだ。けれども自分は、推薦状や腕だめしのために後宮に来たわけではない。──ただ、もう一度会いたかった。その会いたかった本人から否定されて、帰れと言われても、
「実戦は鍛錬とはちがう。命が
「わかっております。その
「前線と知らずにか?」
そこを突かれると厳しい。凜瑛が言葉を
「──また
「──!」
やや
「現場であれどこであれ、わたくしの願いは陛下をお守りしたい、ただそれだけです」
このようなかたちで終わりにしたくなかった。
宗熙は危険だから巻き込まれる前に帰れと言う。だが言った宗熙自身は、命を危険に
「命の危険に晒されてもか」
「鍛錬の日々はここに在るためにあったのだと思っています。任務のために自身の身に危険がおよんだとしても
その言葉に一点の
「長兄は先の陛下にお仕えし、次兄もまた陛下にお仕えしております」
振り向きざまのまま聞く宗熙に、凜瑛は
「わたくしも姫世凱の
聞き終えた宗熙はしばし思案するように
「その言葉、受け取っておく」
身にあまるお言葉です。そう答えつつ、つづく宗熙の言葉が
「だが約束しろ。絶対に
「──!」
許された。──けれども、新たに付けくわえられた条件。それは許されたうちに入るのだろうか?
「警護の身で、陛下に先んじてそのようなこと……」
できるはずがない。まだ未熟だと、腕が足りないと言われたのも同然だ。しかし任にある以上、腕が足りずとも、この身を
「心配せずとも俺には警護がついている。おまえより数段
「娘たち?」
「そうだ。伯苑の事件は
それも初めて聞く事実だった。選秀女のなかに手練れがまぎれ込んでいたということか。伯苑も女の園ということで気を許していた面もあったのだろうが、皇帝が女相手に不覚を取ったということ、そのような手練れの
「後宮は、当人だけでなくその一族、そして一族に関わる者すべての欲望が
自分には宗熙の護衛につく腕は足りない。しかし直接宗熙を守ることはできなくとも、選秀女の娘たちの動向を見張ることはできる。それは間接的に宗熙に害が
宗熙から下された新たな命に、凜瑛は「
「それとこれの警護もだな」
宗熙が向けた視線の先にあったのは、
「ずいぶんと腕を上げた」
「……わたしだと気づいていらっしゃったのですか?」
自分と知って
「幸い、目はいいほうなのでな」
その返答で察した。目が合ったのは顔を
「わかっていらっしゃったなら、なぜあのような
箏を聴きたいならこうして
「
「え?」
「楽器は
宗熙の言に凜瑛は
たしかにみな座るべき席は決まっていた。席の決まっていなかった凜瑛がつくべき席も、当然わかっていたことになる。凜瑛が
「なんのために……」
「さあな。おまえに
凜瑛は感じなかったが、みなの前で非礼を
「ここではよくある
宗熙はそうつづけた。娘たちが持てるすべてで
「どんな
自分が新入りに
「指は
「はい、
そう答えると、「
しかしそれも一瞬のこと。宗熙はより目を険しくして告げた。
「宮中にいる者はみな敵だと思え」
「え?」
「悪意は常に
厳しい言いようだと思ったが、この後宮で兄天永を失いかけた宗熙には、そう思えてしまってもしかたがない。
「至らず申しわけございません」
自身の不注意が宗熙に二年前の事件を思い出させて、厳しい言葉を言わせてしまったのだろう。不快な思いをさせたことに凜瑛が頭を下げると、宗熙は
その視線の先にあったのは、
「──ああ、あれでは武器になるまい」
そう告げると、宗熙はためらいなく
「これも貸してやる」
皇帝である宗熙を除いて、本物の
「──
そんな凜瑛に、宗熙はかさねて告げた。
「くれぐれも警戒を怠るなよ」と。
華陽国後宮史 龍は桃下に比翼を請う/九月文 角川ビーンズ文庫 @beans
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