序
その晩、
桃之夭夭 灼灼其華──そんな歌が聞こえたような気がしたが、目を
(ここで〈
凜瑛の指先が、
凜瑛を呼び出した父は、
お帰りなさいませ。任務お
父であるとともに師父でもある『姫世凱』に稽古をつけてほしかったのだ、自分は。
さて、あらためて父になんと告げたものか。そんな
桃の
おおきくなったな。いくつになった。
そのような内容だった気がする。だが今回、父が任務に出ていたのはほんの一ヶ月、あらためて
聞き
「──はい?」
凜瑛が
「ああ、その剣の
「そうです。先月の十四の祝いにいただきました」
戦場においては不動如山、鉄の
「どうしたのですか、父上」
訊ねた凜瑛に、世凱は答えることなく「十四か……」と花を見上げて目を細めた。
「これから花の盛りだな」
──ますますもってらしくない。
たしかに凜瑛の
(お酒は入ってなさそうだけど……)
父は
「後宮に入らぬか」
「──はい?」
(えっと……)
凜瑛が理解するまでの間、世凱は凜瑛に視線を向けることなく、桃花をじっと見つめていた。
「後宮というと……
「そうだ。
世凱は青年の名を口にするのをはばかった。
新帝の名は
「世子であられた彼の君の
「そこに入れ、と」
「
──だからいまさら年を訊いてきたのだ。
父に呼ばれたとき、その可能性に思い至らなかった
「知らぬ相手でもない。悪い話でもないだろう。各省の
父の
「父上ご自身はどうお考えなのですか」
「なに?」
「父上がわたしに剣を教えられたのはなにゆえです。
「わたしとて姫家の娘、一族に
そう問う凜瑛自身わかっていた。凜瑛にはふたりの兄がいる。ともに一族に恥じぬ武人で、れっきとした姫家の
けれど。
(なら、どうしてわたしに剣を持たせたりしたの───)
「凜瑛!?」
いままでの鍛錬の日々を否定されて、こみ上げてきたのは
駆ける。駆ける。
ずいぶん庭園の奥へと入りこんでしまった。だが果てまでいっても自邸の
──
桃之夭夭 灼灼其華──
夜闇に
「
桃の葉の合間から漏れる月明かり、木の枝に
「凜?」
まさかこのような夜に凜瑛が外に出ているなど思いもしなかったのだろう。よほど考えごとでもしていたのか、青年のほうも駆けてきた凜瑛に気づいていなかったらしい。
なにがあった。青年はあわてて枝から飛び降りたが、凜瑛に
「すごい顔だな」
「見ないでくださいませ!」
凜瑛はあわてて顔を
「邸に来ていらしたなら、声を
凜瑛はうつむいたまま告げた。顔を上げられない理由は汗と涙だけではない。先ほどとはちがう理由で顔が赤らみ、鼓動が速くなっている。
「師兄さまも父さまの稽古を受けにいらしたのですか?」
このようなところ、子龍にだけは見られたくなかった。そう思いながらも凜瑛がなんとか平静を
「……まあ、な。宮城で将軍とお会いしたのでな」
「師兄さま?」
おおらかで
どうして──と思った凜瑛は、
「あ……」
──だからあの歌だったのか。
満開の桃花を
──聞かれたくなかったと思った。
子龍にとって後宮は、ただ娘が納められるだけの場所ではない。
「伯苑の後宮に入るのか」
──彼だからこそ呼べる、双子の片割れの名を。
子龍は
双子とはいえ一方は
そんな子龍に居場所を
生母叡正妃の妹、叔母の叡夫人から姫家に招かれ、叔父の世凱から
そのような凜瑛が、兄伯苑の後宮に上がる──その現実に、さまざまな
「入りません……!」
「──え?」
「たしかに父さまからお話はいただきましたが、わたしは伯苑さまの後宮に入ったりしません!」
父に言えなかった言葉がするりと凜瑛の口を
それは双子の兄伯苑に対する複雑な思いゆえか、かつて自分が住んでいた後宮に妹分が連れ去られてしまう
「悪くない話だろう。なぜ受けない?」
悪い話ではない、ということは、けっして手放しで祝福しているわけではない。──いまの凜瑛はそれだけで十分だ。
「わたしは! 後宮に入るために
わたしが好きなのは師兄さまだから、とは口にできなかったものの、実際に言ったこともおおきな理由のひとつだ。
いままでの凜瑛の努力をなかったものとして、ただの一名家の
──花として
想いを口には出せず、凜瑛は
「──そうか」
そう言った子龍の表情。ほっと息をついてゆるんだその子龍の顔を見て、凜瑛はどきりとして、またうつむいてしまった。
──いまの顔を忘れない。きっと、いつまでも。
「行くわけ、ないじゃないですか……」
凜瑛は先ほどよりも顔を赤く染めながら、そう小さくつぶやくことしかできなかった。
それから三年。
咲き
***
「後宮に入らぬか」
「──はい?」
三年の間にぐんと背も
おかげで打ち込む体勢でかまえていた足が行く先を失い、凜瑛は
「後宮というと……
「そうだ。
父世凱もまた三年前とおなじ言葉を返した。
父皇帝の急死により第二公子宗熙が皇弟となったのは四年前のこと。だがそれからの数年の間にふたたび
二年あまり前、宮城内で新皇帝天永が
「宗熙様の後宮が開かれるにあたって、
「伯苑兄さまの試験のつづきですか?」
「いや、天永様は後宮を開く前に譲位してしまわれたので、天永様のときの選秀女の娘たちは帰された。はじまっているのは宗熙様の後宮の新たな試験だ」
三年前に天永の後宮入りをかたくなに
名門姫家には
そのような
──しかし。
(宗熙さま──子龍
今回の後宮は天永のものではない。かつての第二公子宗熙──つまり凜瑛の師兄こと子龍の後宮だ。三年前にはまったく考えも
その子龍の後宮入り。
三年前には思いもよらなかった申し入れに、凜瑛の心音がとくとくと速まりはじめた。
「わたしにそこに入れ……と」
三年前とは異なる意味で、凜瑛の
天永の突然の譲位宣言より子龍は宮城から出ることが
皇帝になれば私人として、妹
「いや! そなたが後宮入りを望んでいないのはわかっておる! よくわかっておるぞ!」
「……え?」
「これは武官になりたいと望むそなたの希望を
三年前、天永の後宮入りの話のあとに凜瑛が泣いて
武官登用と後宮入り、このふたつがどうして結びついたものか。
「と、申されますと?」
と問い返すと、よく
「そなたは武官としての宮城務めを望んでいただろう? 宮城ではいま、天永様の一件を
「試験の内部に?」
そうだ、と世凱は
「すでにほかにも
「そのお役目に選ばれたのがわたしだと?」
「
世凱はうなずきながらつづけた。
「試験をこなしつつ、陛下の警護を任せる。試験の期間は半年ほど、もうその大半は終わっているが、この任を無事務めあげたのちはその実績をもって
その申し入れに凜瑛は息を
武官として宮城に仕えたい。凜瑛のその望みを
──しかしなにか
(えっと……)
あらためて思うところを語ろうと口を開きかけた凜瑛だったが、
「どうだ?」
「………」
娘の期待に
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