第一章 その1
「すでに試験に臨んでいるほかの娘たちと
宮城の一室で
──父世凱の申し入れからわずか三日後、凜瑛はくわしい事情など聞かされないうちにあわただしく宮城に上がることになった。
宮城の案内やしきたりなどなんの説明もないまま
「試験に
泣き言は聞かぬという
「たとえ陛下のお目に届かぬとも、陛下にお仕えする身には変わりありません。
その命に凜瑛はさらに一段頭を下げた。
そのあと凜瑛は
凜瑛はいま一度、持ち込んだ荷物に過不足がないか、
湯あみの間も室に
目覚めたのはまだ
(まさかわたしひとりに与えられた宮殿でもないだろうし……)
感覚を
「はい?」
ふり返ると不寝番らしい女官がすたすたと歩み寄ってくる。その足音から、足取りはしっかりしているが武芸を修めた者ではないらしい、などとあたりを付けながら凜瑛は
「何用にございましょうか」
「新入りの娘ですね。
報せ? と凜瑛が小首をかしげると、「ああ、間もなくです」と女官は歩廊の先に視線を移す。すると。
ゴォン────
おおきな音がひとつ、宮殿の外で鳴り
その音を合図ににわかに宮殿内があわただしくなった。各室からばたばたと音がして、四半時もせぬうちにすこし離れた室からひとりの娘が飛び出してきた。娘は染めのない
女官に「こちらです」と
(……軍隊?)
「みなさん、おはようございます」
娘たちの前に先ほど凜瑛を呼び止めた女官が進み出ると、「おはようございます!」と娘たちの唱和がつづいた。
「健康な身体づくりは健全な朝の目覚めからはじまります。今日も一日健康に留意して試験に臨んでください」
「はい!」
「………」
あまりに想像とちがう光景に凜瑛が
「姫凜瑛」
「──はい」
女官はなにも言わなかったが、こちらに来いということだろう。凜瑛は向けられた多くの視線に
「この
凜瑛の後宮入りはあまりに急な話だったので、父から選秀女の試験についてほとんど話を聞く時間はなかった。だがしょせんは宮城内のこと、戦争まっただ中の前線に送り込まれるわけではない。なにがあろうと
(……父さま、さすがにこれは聞いていなかったわ……)
いま凜瑛は多くの視線を一身に浴びている。それくらいでは動揺しないが、いま凜瑛をたじろがせているのは、娘たちのその目線の位置だ。
凜瑛が
──凜瑛の前に並んでいたのは嫋やかな女人などではなく、凜瑛よりいくつも若い、まだ
娘たちに交じって朝の鍛錬らしきものをこなして、つづいて宮殿の
今度は直立ではなく、石畳には
席の数は百あまり、宮殿で見かけた娘よりずいぶん数が多いと思ったが、いつの間にか娘たちが増えていた。試験中の娘は凜瑛とはべつの宮殿にもいるらしい。席は決まっているらしく、娘たちは迷うことなく腰かけてゆき、その場でとまどっていた凜瑛が女官にうながされたのは中央の席だった。
新参の自分など末席でいいものを、と思ったものの、演目が示されて演奏がはじまると、前後左右に人がいるおかげで
(たしかこの曲を習ったのは──)
弾き慣れていたことで心に
あのときの凜瑛はたしかに、武官になりたいと言って後宮入りを断りつづけていた。しかしそれはあくまで天永の後宮入りを
とはいえ凜瑛はけっして天永自身を
伯苑自身にはなにも問題はない。もし、後宮が伯苑のものではなく、まったく会ったことのない相手のものだったなら、凜瑛があそこまで拒むことはなかっただろう。ただ、伯苑は子龍の
だが、それが子龍の後宮となれば、話はまったく別だ。
(はじめに持ち込まれたのが子龍
きっと自分は
だから子龍の後宮入りの話を持ち出されたとき、たしかに
準備があわただしく、ばたばたしているうちに父に真意を伝えそびれてしまったが、立場はどうあれ、子龍にもう一度会えることがただただ嬉しかった。
しかし、子龍との再会で頭の中がいっぱいだった凜瑛を現実に引きもどしたのが、今朝の一件だ。
朝、新たにくわわった凜瑛に向けられた娘たちの目──その目が無言で
──その年で?
世の娘たちが嫁ぐのは十六、七歳。いま十七歳の凜瑛はその
(たしかにそういう年なのよね……)
三年前、天永の後宮入りの話を切り出されたとき、凜瑛は十四歳になったばかりだった。あのとき話を受け入れていれば、三年早く宮城に上がっていた。つまり、いま凜瑛の周りにいる娘たちと同年代だったということだ。
しかし時の流れは
(彼女たちが子龍師兄さまのお妃候補……)
自分がここに送り込まれたのはあくまで警護役として。妃としての評価などなんの関係もない、そう思っていたし、皇帝のお妃さまなど凜瑛とは無関係の遠い世界の出来事で、実際に妃になる娘がいるという実感もなかった。
しかし選秀女の試験をおこなっているのだから、だれかが妃になる。先ほど凜瑛を見つめていた娘のだれかが。もしくはここに居並ぶ娘たちのだれかが。もしかしたらいま
妃でなくとも、
思考が先々へと勝手に走りはじめて止まらない。凜瑛の胸の奥で息苦しさにも似たなにかがおおきくうねる。
呼吸が重くなって、それでも
びんっ──
音をたてて、凜瑛の
「やめ!」
すぐさま女官が声をあげ、演奏が止まる。みなが頭を下げて顔を伏せたので、凜瑛もそれに
はじけた弦は、
「演奏を中断させてしまい、申しわけございません」
「姫凜瑛ですか。楽器の手入れも務めのうち、仮に主上の
「はい、心得ました」
手入れと言われても、凜瑛は後宮に昨日入ったばかり、この箏もあらかじめ用意されていたものだ。
弦が切れたのは自分の心が
「なんだ。名花の箏が
その場にあるはずのない男性の声。凜瑛の
女官たちもひれ
(あ……)
その姿を見たのはほんの
(子龍師兄さま……)
そして現れたのは子龍──
「見かけない顔だな。新入りか」
問われたのは自分ではないが、自分のことを語っているのだと思うと、石畳に伏せた凜瑛の顔がにわかに
宗熙の問いかけに、「本日からくわわった者にございます」とこの場を仕切っていた
「お
「なに、本日からか。ならば手入れはその者の責めではあるまい。持ち込みを許した名器というわけでもないのだろう?」
「
つづく子龍の声音には、まったく
(それとも、もしかしてわたしだって気づいていない……?)
先ほど女官から名を呼ばれたが、子龍が来る前のことだ。聞こえていなかったかもしれない。一瞬目が合った気がするが、子龍からすればこちらは大勢の娘たちのなかのひとりで、娘たちの真ん中にいる凜瑛とは
(子龍師兄さま……)
いま子龍がどのような表情をしているのか見てみたい。しかしいまの子龍は皇帝、許しなく顔をあげて玉顔を拝することはできない。二年前までは直接
「
子龍はそう言ってうなずくと、こちらに声を向けた。
「
呼びかけられて、凜瑛の
その居姿は凜瑛の知っている子龍とはちがう。
「
傲岸な居姿そのままに、宗熙が命じる。やはり気づいていない──それとももう自分のことなど忘れてしまったのか。
凜瑛の前には
覆いの
凜瑛はひととおりの手習いはしているが、宮城の
「──仰せのままに」
凜瑛はひとつ頭を垂れると、用意された箏を
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