最終話 垓下の歌
項羽は諸将を呼び集めた。
残った酒樽を開け、全員に分け与える。僅かばかりの食料もすべて兵士に配った。
誰もが終末を予想することができた。
明日、城を出て江南へ帰る。そう項羽は言った。
まるで旅先から故郷へ戻るような、軽い口調だった。
「わしの後に続くなら、道は切り開いてやろう。他の
広間のあちこちですすり泣きをする兵士が見られた。
その声はどこから起こったのであろう。
『力は山を抜き』
そう始まった。
項王を讃える歌のようであった。それは何度か繰り返された。
『気は世を
項羽もその声に気付いた。すっ、と立ち上がり、剣を抜く。
歌にあわせ、剣を振るい、舞う。
季布は項羽から目を離すことが出来なかった。それほど美しかった。
彼はため息をつき、涙を流していた。
『時に利あらずして』
叫ぶような声だった。項羽もぐっ、と上を向いた。
何度も、その言葉は繰り返された。これが、この場にいる将兵の思いを集約したものだったのだ。
時が、天が我らを滅ぼそうとしているのだ、と。更に、繰り返す。
『時に利あらずして、
騅とは項羽の愛馬である。この時、すでに戦場において斃れていた。
項羽は大粒の涙をこぼした。激情が顔に浮かんでくる。
彼は自ら朗唱を始めた。
「騅ゆかざるを、如何にすべき」
項羽の声に皆が和した。
広間に集まった者はみな涙を拭おうともしない。
ふと歌が途切れ、静かな瞬間が訪れた。
項羽が、最後の言葉を発するのを待つように。
そして項羽は虞姫を見た。
「虞や」
そしてもう一度。虞や、と歌う。
「汝を如何にせん」
虞姫の背中を冷たいものが走った。
(わしもすぐに向かう。だから先に行き、待っておれ)
項羽の声が聞こえた。
死にゆく者の声を
自分も死者の列に加わるのだ。
ただそれだけの事なのだ。
その時、虞姫は自分を見詰める視線に気付いた。
彼女を必ず守ると言ってくれた男。季布。
彼の顔色が変わったのが分かった。
季布は座を蹴るように立ち上がり、虞姫の方へ向かって走る。
剣を抜いていた。えっ、と虞姫は思った。
「逃げろ、虞姫!」
季布が叫ぶ。
視線を戻した先には、項羽が立ちはだかっていた。
項羽は、虞姫に向け剣を振り降ろした。
金属がぶつかり合う匂いと共に、虞姫は、季布の身体ではね飛ばされていた。
季布の剣が、項羽の長剣を受け止めていた。
血走った目で季布を睨み付ける項羽。
「邪魔をするな。季布」
「ふざけるな。虞姫は私の妻だ。手出しはさせん」
だが、もとより項羽に敵う筈もない。季布は剣を失い、床に転がる。
項羽は一歩踏み込もうとして舌打ちした。
季布をかばうように虞姫が覆い被さったのだ。
そのふたりの背中へ、嫉妬に狂った項羽の剣が叩きつけられた。
命は、無いはずだった。
だが、周囲の将兵が項羽に取り
項羽の剣は、季布の背中と、虞姫の顔を切り裂いていた。
虞姫は血に塗れた顔で項羽を睨み付けていた。
項羽は憑き物が落ちたように、座り込んだ。
季布は虞姫を抱きかかえるように、広間を出た。
「大丈夫か、虞姫」
顔を布で押さえた彼女は気丈にうなづいた。
致命傷ではなかったが、決して消えない傷になるのは間違いなかった。
一方、季布の傷も軽いものではなかった。出血が止まらなかった。
「すまない。また守ってやれなかったな」
謝る季布に、虞姫は少しだけ笑みを浮かべ、首を横に振った。
ありがとう、と彼女の唇が動いた。すぐに顔をしかめる。
「ああ、すまん。傷に障るな」
季布は彼女を抱きしめた。
「お前だけでも落ち延びさせてやりたいが……」
もはや季布自身が動けなくなりつつあった。
未明、城門を開き項羽は突出して行った。
漢軍は一斉にそれを追った。
項羽を討ち取ったものは候に封ずると、劉邦が宣言したからだ。
それを項羽はものともせず、ついに包囲の突破に成功した。
静まりかえった垓下の城内で血まみれの男女を見つけたのは、樊噲の部下だった。
「季布どの。生きておるのなら、おれのところに来るか」
駆けつけた樊噲は呼びかけた。
「ああ、投降する。この女も一緒だ」
項羽が討ち取られたのは、それから間もなくのことだった。
劉邦は季布を殺せと命じた。
滎陽での事は忘れておらぬ、と怒鳴り散らした。
荒れ狂う劉邦の前に立ったのは参謀の張良だった。少女のような顔に苛立ちも顕わに、劉邦の胸ぐらを掴む。
「だったら忘れさせてやろう。強制的にな」
「ちょ、ちょっと待て張良。お、お前だって怒っていただろう。策を見抜かれたと」
「当然だ、私は参謀だからな。だがお前は君主だろう。有能な人材を斬るのがお前の趣味なのか」
それに、と、張良は息をついた。
「降伏したものまで殺してどうなる。降伏出来ないとなれば、誰だって死ぬまで抵抗するようになるだろう。季布を許すことが天下取りに繋がるのだ」
分かった。劉邦は表情を一転させた。
傷ついた季布の看護を夏候嬰に命じ、項羽の残党を追う。
傷が癒え、劉邦に拝謁した季布は、正式に漢王劉邦の臣下となった。
その日、韓王信とともに季布に会うことになった張良は、彼の隣に立つ少女に目をやった。
頬にまだ新しい大きな傷がある。だが不思議と痛々しい感じは受けなかった。
「この傷は、季布どのをかばって項羽につけられたものだと聞きましたが」
張良はゆっくりと、彼女に話しかけた。
虞姫は微笑み、うなづいた。
「触っても、よろしいか」
虞姫は一瞬とまどった風だったが、傷のある頬を張良に向けた。張良は、細く長い指でその傷をなぞった。
「何故だろう。決して醜くない。むしろ美しく感じるのだが。どうだ、信」
張良は後ろの韓王信を振り返った。
「だから言っただろう。とても美しい人だ、と。傷さえも美しいのさ」
「なんだ、お前は最初にこの方に会ってからデレデレだな。私を嫉妬させるつもりか」
季布が口を挟んだ。
「失礼ですが。韓王さまと、軍師どのは一体どういう関係なので……」
ああ、と張良は笑顔を見せた。
「私は、この男の妻になるのだ。見てのとおり、私は女なのでな」
愕然とする季布と、すべて事情を知っているふうの虞姫。
虞姫と張良は、顔を見合わせて笑った。
その後、季布は漢の要地で、行政官として抜群の実績をあげ、劉邦の信頼も厚かったという。
楚歌の静寂 了
楚歌の静寂 ~虞姫 別伝~ 杉浦ヒナタ @gallia-3
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