最終話 『憧憬』

 地を叩く水の音が、頭の中を撹拌する。

 激しい雨音はやがて弱まり、垂れる水滴へと取って代わる。規則正しく、小さな鼓動へ。おそらく、終着はここ。


 最初に感じたのは、手足のむず痒さだった。

 痺れた爪先をもぞもぞと動かして、次に頭を軽く揺らす。あちこち拘束されていて動かしづらい。特に右手を捕らえる力が最も強いようだ。

 亨は手の先にある温もりを、ぎこちなく握り返してみた。


「矢賀崎さん!」


 薄く開けた目に、白い光が差し込んだ。

 ベッドの上に寝かされた亨は、左手に点滴を打たれ、胸には数本の端子が貼付けられていた。彼の脈動に合わせ、トントンと脇の計器がリズムを刻む。

 右手に握ったのは、目を赤くした摩衣の手だった。


「ここは病院か……」

「二日も寝てたんですよ。先に退院しちゃいましたよ、もう」

「悪かった。ごめん」


 軽口を叩いていた彼女の顔は、次第に皴くちゃに歪み、下を向いて鼻を啜り始める。

 トントントン――。

 病室にいるのは、亨と摩衣の二人だけだ。


“あなたが割ったからよ”


 摩衣の背後に、金木犀の花を見た気がした。亨のはここだ。瀬那はここにいる。もう砕かなくていい。

 看護師が覗きに来るまで、彼らは口も利かなかった。

 お互いの温かさだけで充分だった。





 軽傷だった摩衣と違い、亨は退院にその後一週間を要した。脳の精密検査は慎重を極め、医者に大丈夫だと太鼓判を押されるまで、それだけ掛かった。


 しばらく定期通院は必要なものの、全ての検診をクリアし、数字の上では健康体である。歩く際に少々片足を引き摺るくらいで頭痛も消えた。残念ながら、頭の中身は万全でもない。未だに彼の記憶にはぽっかり空いた穴が多く、これは病院で治療できないだろう。


 入院中、摩衣は彼の仕事を請け負ってくれた。ギャラリーを再開し、契約者と打ち合わせて、展示を手伝う。夜は病院に見舞いに来て亨へ報告したあと、名残惜しそうに帰って行く。そんな一週間がようやく終わり、今日は久々に亨がギャラリーへ出る番だった。


 彼女には、いくらか省きながらも、瀬那山と魚の話はその発端から現在までをまとめて伝えた。特に質問もなく最後まで聞いた摩衣は、「不思議な話ですね」と感想を漏らす。

 疑わないのかと問う彼には、魚は命の恩人だからと笑った。「私も魚の作り方を覚えないと」そんな風に返されては、亨の方が黙ってしまう。


 ギャラリーでの一日が終わり、そろそろ店仕舞いという頃、大学帰りの摩衣が顔を出した。

 閉場作業を手伝いながら、彼女は質問を一つ口にする。事の発端から気にしつつも、まだ解答の得られないものだ。彼女も自分なりに、亨の経験を理解しようと考えを巡らせていた。


「魚は、どうして絵に合わせて現れたんでしょう」

「ん、俺もそれは疑問だった。欠片が絵に結び付いてるんだろう。俺の中で混じって・・・・しまったんだな」


 絵のモチーフに水景が多かったのは、魚のせいかとも思えた。時空の枷から外れた魚、そしてその棲み処である欠片は、彼に大きな影響を与えてきた。彼の描く絵は、その表出ではないだろうか。


 納得したのか微妙な顔の摩衣は、もう一つ、これは質問というよりお願いを切り出す。見たい彼の作品があるのだと言う。


「大抵は見てるだろ。売った絵は手元に無いし……」

「リストには、ギャラリーにあるって書いてました。作品番号一番、『憧憬』」

「一番?」


 覚えの無いタイトルと番号に、彼は眉根を寄せた。二階のパソコンで自作の行方を調べた時から、彼女は未見の作品があると知って気にしていたそうだ。

 リストの誤記入じゃないのかと訝しがりつつも、彼は一階の作品保管室に向かう。


 狭い室内に二段ラックが一つ、額装したものは白楼画廊に預かってもらっているので、ここにあるのは剥き出しのキャンバスばかりだ。

 半信半疑で端から絵を引き出し、内容と裏に記した数字を確かめる。“1”と書かれた絵は、棚の下隅、最後の一枚だった。


 制作年も在り、彼が高校一年の時という記述に言葉を失う。いや、本当に驚いたのは、描かれた絵そのものだろう。

『憧憬』は人物画だった。瀬那――或いは架空の少女の正面像、これが四枚目・・・だと直感で悟る。


「下手くそだな」

「そうでもないですよ。それに……ちょっと私に似てます」


 自分の言葉が恥ずかしかったのか、彼女の顔に朱が差す。確かに摩衣に似ている。だがこの時、亨が頭に浮かべたのはスマホと車だ。


 欠片は時間の流れとは無縁の存在である。スマホが発火することも、大きな自動車事故が起こることも、彼は深層で理解していた。だからこそ、これらを自分から遠ざけたのだ。彼の奥底には、いくつもの欠片が積もってている。


 摩衣はもっと絵を見ていたかったようだが、彼はさっさと片付けて帰宅を促した。

 小雨の中、外へ出た亨はシャッター下ろす。背後から傘を差し掛ける摩衣は、彼がいつまでも振り返らないので名を呼んだ。


 亨が復帰すれば、以前のような日常が取り戻せる。制作も再開するだろうし、描きたい題材がいくつも浮かぶようになった。しかし、と彼は摩衣へ向き直る。

 彼には病院から頭を悩ませた宿題があり、いつまでも答えを出さずに逃げられるものではなかった。


「なあ、俺は半端者だ。記憶も不確かで、事故を引き寄せるらしい」

「みたいですね」

「近くにいると危ないぞ」

「で?」

「よく考えてくれ。次は君が入院するかもしれないんだ。ギャラリーの仕事だけなら大丈夫だと思うけど、二人で残ったりするのは――」

「嫌なんですか? 私といるの」

「嫌なもんか。一緒にいてほしい……ずっと」


 返事の代わりに、摩衣は亨へ一歩身を寄せる。くっつこうとした彼女へ、亨はポケットから取り出した鍵を押し付けた。


「何の鍵ですか?」

「自宅のアトリエだよ」

「……タイミングはどうかと思うけど、嬉しいです。ありがとう!」


 電車移動になった摩衣を見送るため、彼は傘役を奪って駅まで同行する。


「鍵があるからって、勝手に入るなよ」

「たまにはいいですよね?」

「横着しないで、連絡しろ」

「矢賀崎さん、連絡しにくいんですもん。スマホ持ってくださいよう」


 明日には買いに行くつもりだった彼も、摩衣の様子が楽しくて電話不要論でからかう。こんな他愛のないやり取りを、二度と手放してはいけない。もう絶対に間違えやしないと心の中で彼女に誓った。


 橙色の街灯が、重なって歩く二人の影を伸ばす。

 ピチャンと水の撥ねた音が、どこからか聞こえた気がした。




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魚の声は雨音に似ていた 高羽慧 @takabakei

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