最終話 『憧憬』

 最初に感じたのは、手足のむず痒さ。

 痺れた爪先をもぞもぞと動かして、次に頭を軽く揺らす。

 右手の先にある温もりを、握り返してみた。


「矢賀崎さん!」


 薄く開けた目に、白い光が差し込んだ。

 ベッドの上に寝かされた亨は、左手に点滴を打たれ、胸には数本の端子が貼付けられていた。

 彼の脈動に合わせ、トントンと脇の計器がリズムを刻む。

 右手につかんだのは、目を赤くした摩衣の指だった。脇の丸椅子に腰掛けた彼女が、握り返す手に力を込める。


「ここは病院か……」

「二日も寝てたんです。先に退院しちゃいましたよ、もう」


 半笑いで軽口を叩く彼女の顔は、次第に皴くちゃに歪み、下を向いて鼻を啜り始めた。

 トントントン――。

 病室にいるのは、亨と摩衣の二人だけだ。


あなた・・・が割ったからよ”


 ――俺のは、ここだったのか。彼女を失った俺が、全てを砕いたんだな。


 看護婦が覗きに来るまで、彼らは口も利かなかった。

 お互いの温かさだけで、充分だった。





 軽傷だった摩衣と違い、亨は退院にその後一週間を要した。

 脳の精密検査は慎重を極め、医者に大丈夫だと太鼓判を押されるまで、それだけ掛かったのだ。


 しばらく定期通院は必要なものの、全ての検診をクリアし、数字の上では健康体である。

 歩く際に少々片足を引き摺るくらいで、頭痛も消えた。

 残念ながら、頭の中身は万全でもない。未だに彼の記憶には、ぽっかり空いた穴が多く、これは病院で治療できないだろう。


 入院中、摩衣は彼の仕事を請け負ってくれた。

 ギャラリーを再開し、契約者と打ち合わせて、展示を手伝う。夜は病院に見舞いに来て、亨へ報告したあと、名残惜しそうに帰って行く。


 事故はスマホでゲームをしながら運転していた青年が、急ブレーキを踏んだことで発生したそうだ。そこへ摩衣の車が追突し、さらに脳梗塞を起こした運転手がトラックで突っ込んだ複合事故だった。

 摩衣は前方不注意で減点は食らったものの、享からの電話については伏せて話したらしい。病室で聴取を受けた彼も余計な発言は控え、偶然居合わせた善意の救助者で通す。


 彼女には、いくらか省きながらも、瀬那山と魚の話はその発端から現在までをまとめて伝えた。

 特に質問もなく最後まで聞いた摩衣は、「不思議な話ですね」と感想を漏らす。

 疑わないのかと問う彼には、魚は命の恩人だからと笑った。

「私も魚の作り方を覚えないと」そんな台詞に至っては、亨の方が黙ってしまう。


 そんな一週間がようやく終わり、久々に亨がギャラリーへ顔を出す日となる。

 ギャラリーでの一日が終わり、そろそろ店仕舞いという頃、大学帰りの摩衣が顔を出した。

 閉場作業を手伝いながら、彼女は質問を一つ口にする。

 事の発端から気にしつつも、まだ解答の得られないものだ。彼女も自分なりに、亨の経験を理解しようと考えを巡らせていた。


「魚は、どうして絵に合わせて現れたんでしょう」

「ん、俺もそれは疑問だった。欠片が絵に結び付いてるんだろう。俺の中で混じって・・・・しまったんだな」


 絵のモチーフに水景が多かったのは、魚のせいかとも思えた。

 時空の枷から外れた魚、そしてその棲み処である欠片は、彼に大きな影響を与えてきた。

 彼の描く絵は、その表出ではないだろうか。


 納得したのか微妙な顔の摩衣は、もう一つ、これは質問というよりお願いを切り出す。

 見たい彼の作品があるのだと言う。


「大抵は見てるだろ。売った絵は手元に無いし……」

「リストには、ギャラリーにあるって書いてました。作品番号一番『憧憬』」

「一番?」

「それだけ画像も無いんです。サムネイルすら」


 覚えの無いタイトルと番号に、彼は眉根を寄せた。

 パソコンで自作の行方を調べた時から、彼女は未見の作品があると知って気にしていたそうだ。


 リストの誤記入じゃないのかと、訝しがりつつも、彼は一階の作品保管室に向かう。

 狭い室内に二段ラックが一つ、額装したものは白楼画廊に預かってもらっているので、ここにあるのは剥き出しのキャンバスばかりだ。


 半信半疑で端から絵を引き出し、内容と裏に記した数字を確かめる。“1”と書かれた絵は、棚の下隅、最後の一枚だった。

 制作年も在り、彼が高校一年の時という記述に言葉を失う。

 いや、本当に驚いたのは、描かれた絵そのものだろう。


『憧憬』は人物画だった。

 瀬那そっくりの正面像、これが四枚目・・・だと直感で悟る。


「これは……?」

「下手くそだ」

「そうでもないですよ。それに……ちょっと私に似てます」


 自分の言葉が恥ずかしかったのか、彼女の顔に朱が差す。

 確かに摩衣に似ている。

 だがこの時、亨が頭に浮かべたのは携帯電話と車だ。


 欠片は、時間の流れとは無縁の存在である。

 携帯が発火することも、大きな自動車事故が起こることも、彼は深層で理解していた。

 だからこそ、これらを自分から遠ざけたのだ。

 彼の中には、いくつもの欠片が深く刷り込まている。


 摩衣はもっと絵を見ていたかったようだが、彼はさっさと片付けて帰宅を促す。

 外に出てシャッターを下ろした亨はポケットから鍵を取り出し、隣に立つ彼女へ手渡した。


「何の鍵ですか?」

「自宅のアトリエだよ」

「ありがとう……ございます!」


 電車移動になった彼女を見送るため、彼は駅まで同行する。


「鍵があるからって、勝手に入るなよ」

「はい……。たまには?」

「横着しないで、連絡しろ」

「矢賀崎さん、連絡しにくいんですもん。携帯持ってくださいよう」


 明日には買いに行くつもりだった彼も、摩衣の様子が楽しくて、携帯不要論でからかう。

 こんな他愛のないやり取りも、これからは増えるはずだ。

 彼女の小言とも長い付き合いになるだろう。


 橙色の街灯が、笑い合って歩く二人の影を作る。


 ピチャンと水の撥ねた音が、どこからか聞こえた気がした。






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魚の声は雨音に似ていた 高羽慧 @takabakei

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