32. 正しい欠片

「おい、くすぐったいだろっ」


 身体から出た青い小魚は、服の中を気ままに泳ぎ回って亨を困らせる。

 散々と遊んだ挙げ句に、魚は目の前の御影石へと飛び込み消えた。お返りなさい、そう迎える石の声が亨のうちにも響く。


 夜の展望広場――あちらこちらを飛び回ったせいで、ここへ来るのは随分久しぶりにも感じた。そうするのが当然とばかりに、彼は両手を石柱に密着させる。


『始まりに立ち会ったのね』

「俺の親は、何を約束したんだ?」

『あなたを生き返らせたのは、私の我がまま。ごめんなさい』

「謝らなくていい。教えてくれ」

『生き返らせるには、代償が要る。見合うだけの大きな代償が』

「そりゃそんな神業、無償で出来るとは思わないけど……まさか、それが親父たちか?」

『ええ。二人は自分を削って、あなたを生き延びさせた』


 人の本質は何か、哲学者や宗教家は有史以来ずっと頭を悩ませてきた。魂と呼ばれる核があるとか。霊体が骨肉を支配しているのだとか。


 瀬那の話では、どれも違う。人とは記憶の欠片かけらが積み重なったものだと語る。喜怒哀楽それぞれに彩られた細かな思い出が、幾重にも層を成して人を形作っているのだ、と。


「過去の集大成が人だと?」

『過去とは限らない。未来の記憶もあれば、選ばれなかった記憶もどこかに落ちてる』

「それは……ああっ! それが魚の見せた世界か」

「そう」


 人の欠片を取り出せば、魚の形になって産まれるらしい。それが瀬那、この地を守ってきた島の力だった。


 両親の願いを聞き入れた彼女は、二人の欠片をにえにして亨を甦らせる。しかし、ことわりに反した行いを全うするには、その程度の犠牲では足りなかった。


 死に引きずり込もうとする理は何度も亨を襲い、それを防ぐのにも欠片が必要とされる。延々と欠片を消費した亨は、高校三年の火事の日、両親を使い切ってしまった。


「それじゃあ、父と母は俺の代わりに死んだんじゃないか!」

『最初に助けた時点で、二人の欠片を大量に使ってしまったから。もっと早くに消えてもおかしくなかった』

「……俺も消えるのか?」

『そうならないように力を貸したのです。あなたにも』


 欠片を使って生き延びさせたのも、亨が天寿を全うできるように自分たちが犠牲になったのも、両親が自ら望んだ結果である。そして、それを実現してやったのが瀬那だった。


『全てを秘す約束も、人に守らせるのは至難の業。責めるつもりはありません』

「あんなヒントを残してたらね」

『絵を描いていたとは。あなたが乗り越えていくことを、二人は期待したのでしょう。応えてあげて』


 両親が犠牲になったと考えて欲しくない――それは無理と言うものだろう。ただ、二人の望みが理解できる程には、亨も歳を食ってしまった。批難するのはお門違い、嘆くにも……もう済んだ過去だ。


『あなたから生まれた魚も多い。これだけいれば、死に抗えるはず』

「その割には、ボロボロだよ」

『│あなた《・・・》が割ったからよ。さあ、急いで』


 まだ分からないことが多い。瀬那への想いは虚構なのか。瀬那とは結局、何者なのか?


『人の欠片が吹き溜まって、島が出来た。魚の王とでも、天魚とでも呼べばいい』

「天女……ではなくて、天魚か。瀬那なんて女性はいないと?」

『あなたが欠片を混ぜ合わせただけ。私に体なんて無い』


 残酷な宣告だが、こうなれば亨も唇を噛んでそれを認めた。瀬那は彼が作った虚構の人物だ。


 欠片には、時間も空間も存在しない。過去もあれば、未来もある。選ぶ未来も欠片なら、選ばない未来も欠片だ。亨は欠片を割り砕いたため全部が混じり、そこに想像の瀬那まで擦り込んでしまった。

 正しい欠片を集め直せと、天魚が急かす。


『ほら、早く――』

「生き返らせたのは“我がまま”って言ったよな。どういう意味だ?」

『私の目の前で子が死ぬのを、黙って見ていられなかった。その結果、あなたが苦しむのを知っていても』


 何とも人間臭いだと、亨は苦く笑った。今でこそ島だが昔は人だったのか、それとも最初から天女なのか。ともあれ古より土地を見守り、奇跡を起こす存在というなら、やはり神とでも呼びたくなる。

 考え込み出した彼に、もう一度声が急ぐように促した。


「何に急げと?」

『今回はまだ間に合う。魚が尽きないうちに、堂々巡りを抜けて』


 その言葉に戸惑った彼は、左手を岩から離して広場の入り口へ振り返る。


「間に合う……?」

『彼女を失えば、あなたはまた砕いてしまう』

「……摩衣か! ここは摩衣が帰った直後なんだな? くそっ、早く言ってくれよ!」


 悠長な話しぶりは、やはり人の道理が分からない神様だと悪態をつく。

 スマホを持っていない自分に腹を立てつつ、亨は丘を下りるべく駆け出した。坂を大股で走り、落下するようなスピードに身を任せる。


 しずくが彼の頬を濡らした。降り出した夜雨が、街を湿らせていく。

 連絡さえつけば摩衣を止められるだろう。手近な民家に駆け込んで電話を借りる、頭にぎったその案を、亨は却下した。押し問答になると時間を浪費するだろうし、全力疾走なら家まで五分と掛からない。


 話の通じる民家を探せば良かったと後悔したくないのなら、ちぎれそうな勢いで足を動かすだけだ。こんな考えを巡らせている間にも、丘を下り切って平坦な街路に移る。


 情けないことに、急に勾配が変わった地面に足がもつれ、もんどり打った彼は肩から道に倒れた。スマホを持たない主義に加え、日頃の運動不足も呪うべきだろう。

 実際に呪詛を吐きながらすかさず立ち上がり、また彼は走る。肩口の痛みを無視して、一路家に向かった。


 息が荒れ、規則正しい呼吸からは程遠い。無様に大きく開いた口で、雨粒と一緒に酸素を取り込む。どんなやり方であろうが、早く走れればそれでいい。腕を大きく振って、身体を前へと送り込むのみ。


 家まで二分半という速度は、高校生時代でも達成出来たか怪しい偉業だろう。

 自宅が見えたことでラストスパートを掛けようとした亨は、家の前に軽自動車が停まっていることに気づく。摩衣はすぐに帰らず、彼が丘から下りてくるのを待ってくれていた。エンジンは掛けっぱなしで、テールランプが赤く光る。


「おーいっ!」


 走る足は緩めず、右手を挙げて車に向かい叫んだ。


「摩衣、こっちを見ろ!」


 彼の願いは届くことなく、非情にも彼女の車が発進する。膝が落ち、街路に崩れた亨は、体に残る全ての息を吐き出して彼女を呼んだ。


「摩衣! 止まれえーっ!」


 走り去る車は加速こそすれ、止まる様子はない。彼は再び立って勝手口を目指す。

 苛々と鍵を鍵穴に差し込み、ドアを開け放って、ダイニングに土足のまま上がった。照明のスイッチを濡れた手で叩き付け、壁に掛かる受話器をつかむ。

 08067――数字を押す指が途中で止まった。


「ああっ! 番号は?」


 数字覚えの悪い自分に嫌気がさす。電話の脇に吊されたコルクボードに手を伸ばし、留められたメモを引きちぎって顔の間近に寄せた。

 手書きされた携帯番号に沿って、一つずつボタンを押し込んでいく。呼び出し音が聞こえるや否や、摩衣の声が耳に飛び込んで来た。


『矢賀崎さん?』

「すぐに車を止めろ! 今、どこだ?」

『ええっ、今? ちょうどギャラリーの前を――』


 ドラム缶をぶっ叩いたような大音響が鼓膜に刺さり、亨は思わず電話から耳を遠ざける。


「摩衣!? 摩衣、どうした!」


 回線は繋がったままだが返事は無い。衝突事故――彼は自分の馬鹿さ加減に、手にした受話器を床に叩き付けそうになる。

 亨だった。彼が電話したことで、摩衣の注意が散漫になった。


「俺のせいかよ!」


 まだ間に合う。


“衝突を起こした車に、大型トラックが突っ込んだ二重事故が発生して――”


 摩衣の死因なら病院で聞いた。まだ最初の事故が起きただけで、問題はこの次、大型トラックによる連鎖衝突だ。


『大丈夫ですかぁー』


 追突した相手なのだろう、小さく間延びした呼び掛けが受話器から聞こえる。二つの事故の時間差に賭け、本格的に降り出した外へと走り出す。


 丘から自宅よりも近いとは言え、ギャラリーまでの追加コースには心臓と肺が悲鳴を上げる。しかし、摩衣を助けるには今度こそ寸刻を争う。

 間に合ってくれ、そう何度も心で叫びながら、夜道を二度、三度と折れ進んだ。吐きそうな気持ち悪さを懸命に飲み下す。雨足がまた強くなった。


 四回目の曲がり角の先に、車道を占拠するセダンと濃紺の軽自動車が見える。車の傍らに立つビニール傘を差した人影へ、亨は雨音に負けじとへ叫んだ。


「救急車は!」

「い、今、呼ぶところです」

「まだ呼んでなかったのかよ!」


 乱れた息では喋るのも辛く、それ以上喋らずに男を睨んだ。

 近くで見ると男はかなりの若さで、追突された高級セダンの持ち主には似合わない。セダンに貼付けられた若葉マークが、これまた不釣り合いだ。

 必死で息を整えた亨は、役に立ちそうにない青年へ指示を出す。


「警察も呼べ」

「あっ、でも、示談で構わないので――」

「いいから呼べ!」


 男の他には野次馬もおらず、頼れるのは自分だけだ。軽自動車の運転席を覗くと、気を失った摩衣が開いたエアバッグにもたれ掛かっている。


「どうだ、間に合ったぞ……」


 車体が軋み、ドアは多少開きにくかったものの、彼が力任せに引くと言うことを聞いた。彼女の腹の辺りを探り、シートベルトのロックを外す。


「摩衣、おい!」


 頬を叩いても反応が無く、起こすのは諦めて彼女を車から引き摺り出すことにした。

 両脇に手を入れ、正面から抱き寄せるようにして身体を動かす。さして重くはないだろうという予想は甘く、彼女にグニャリとしな垂れかかられて亨の方が呻く始末だ。


 車から全身が出たところで、一旦、慎重に摩衣を横たえた。雨が容赦なく彼女を叩き、濡れたアスファルトに彼女の髪がへばりつく。びしょ濡れになるのを謝っても、彼女は無言のままだった。


「あんまり、動かさないほうがいいんじゃ……」

「黙ってろっ」


 口だけ出してくる男を恫喝して、摩衣の傍らに深くしゃがむ。出来るだけ車からは離れたい。


 彼女の首と膝の裏に腕を通そうとした時、道路の向こうにトラックが現れた。僅かに蛇行する二トントラック。居眠り運転か知らないが、これが惨事の主因に違いない。

 急がなければ、そう焦る彼を、軽自動車が横からドンと押し飛ばした。


「なんっ……!?」


 アスファルトを転がりつつ、邪魔をする車へ目を向ける。顔を袖で乱暴に拭い、雨で霞む相手へ目を凝らした。

 彼を押したのは濃紺の自動車、ではない。同色、同サイズのマッコウクジラ、作品名は『無明むみょう』だったか。


 摩衣の元へ再度ダッシュする亨を、クジラが体で押し戻す。迫る危機から彼を救おうという巨体が、今は峻険な壁となってしまった。

 回り込もうとカーブを描く彼を追い、クジラも街路の上でUターンする。


 また立ち会わせる気か――亨が妨害者・・・を睨んだ。空中を突進して来たクジラを、寸でのところで伏せて躱す。

 摩衣を看取れとでも――。


「ふざけんな!」


 クジラが旋回する隙に摩衣へと駆け寄った亨は、彼女の体に腕を回してがっしりと抱いた。


「来いよ……摩衣ごと弾いてみろ!」


 トラックは減速することなく、亨たちへと突っ込んで来る。

 そのヘッドライトに照らされた二人を、クジラの尾鰭が打ち払った。絡み合った二人の身体が、水飛沫を上げて歩道へ滑り飛ぶ。


 運転手が起きたのか、急ブレーキと共にタイヤが壮絶に軋んだがもう遅い。トラックは軽自動車へ、そしてクジラへと激突し、大量の青い光が撒き散らされた。


 摩衣の愛車から煙が立ち上がってすぐ、炎が車を舐め尽くす。爆発音と共に、砕けたフロントグラスや金属片が吹き飛んだ。

 彼女を庇うべく覆い被さる亨の脚へ、車から外れ飛んだ細い金属棒が突き刺さる。トラックのサイドミラーの支柱だ。とどめは彼の頭部へ。


 舞い上がった軽自動車のルーフが直撃し、亨は黒い無明へと沈む。

 土砂降りになった雨が、何もかもを洗い流した。

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