決め手

湯煙

決め手

 ある日仕事を終えて帰宅すると、グラスに入れた牛乳を飲んでいた娘から唐突に訊かれた。


「父さんが母さんと結婚を決めた理由は何?」

「いきなりどうしたんだ?」


 風呂上がりでタオルを肩にかけ、拭き終えたばかりの髪はまだ光っている。唐突な質問した娘の表情は特に笑みを浮かべているわけでもなく、興味本位で訊いてきたのか判らない。

 鞄をテーブルに置き、椅子に座った。


「ほら? 母さんって明るくて楽しいけれど、家事は苦手でしょ?」

「まぁ、そうかもな」

「料理だって父さんの方が上手だし、今では私の方が全然上手」

「ふむ」

「掃除は手抜きするし、洗濯もね。若いときの写真見たの。スタイルが良かったのは認める。でも……」

「なかなか厳しいね」


 彼氏でもできて、結婚について考えているのかなと想像した。もう二十代も半ばだ。そういう相手が居てもおかしくない。

 ジャケットを脱いで、鞄を置いた椅子の背もたれに折ってかける。


「だからどこが良かったのかなぁって。性格?」

「それももちろんあったね」

「他には?」

「何だと思う?」


 今夜は友達と食事してカラオケ行ってくるとメールで連絡があった。だから妻が帰ってくるのはまだ先になる。本人が居ないのを見計らって聞いてきた娘は「うーん」と考えている。


 娘の問いに全て答えるのは難しい。それは細かい理由が積み重なっているから。

 一番の理由は、一緒に居てとにかく楽しかったからだ。杓子定規な見方をしがちな私にとって、良く言えば自由、悪く言えば適当な妻の視点や考え方はとても刺激的で、どんな話をしていても楽しかった。


 しょうもない話も面白かった。家にあったゴルゴ13が初めて触れたで、高校生になるまではずっと隠れて読んでいたと聞いたときには、目の前で微笑む……ワンレングスの長い髪でスーツでキメている妻の、若いときの様子を想像して大笑いした。

 だって、スタイルが自慢の妻は「ほら! 胸に萌えろ」「腰のくびれに欲情しろ」と言う人だった。それがゴルゴ13でだなんてまったく想像できなくてなぁ。


 娘が話した妻の家事については、私の部屋へ遊びに来るたびに感じていた。得意じゃないというのは判っていた。一人暮らししていた私の方が上手だったから、結婚した当初、料理は作り方を教え、そして今では不得意ながらも普通に食べられるところまでになった。

 米をとぐ時に、食器用洗剤を使おうとしたことを思い出し、つい苦笑してしまう。

 鮭を焼くだけなのに、毎回焦がさずにパサパサでボロボロにできるのはある意味テクニックだとすら不思議な感動を覚えたのも覚えている。


 掃除もそう。

 TVや棚の裏側など掃除することすら思いつかない人で、いや、判っていても面倒がってやらないんだが。

 だから私が週末にやるようになった。嫌々やって貰うより自分でやった方が気楽だったしね。

 今では娘がやってくれるようになり、とても助かっている。


 洗剤で手荒れが酷いものだから、食器を洗う、風呂、クーラーや換気扇の掃除は私の役割にすぐ決まった。

 娘が生まれてから小学四年になるまでは、洗濯機を使えない汚れ物の早朝と帰宅後の洗濯が大変で、世のお母さん達を心から尊敬したものだ。


「わかんない」

「そうだろうね。でもそれは仕方ないんだよ」


 お手上げというように肩をすくめる娘は、台所へ空いたグラスを持っていき洗い出す。何故急に気になって訊いたのかを確認しようかと思ったが、やめた。

 女性のことなど、娘であってもよく判らない。長年一緒にいる妻でも、何を考えているのか判らないことがしばしばある。世代が違えば育った環境が違う。感覚も違って当たり前だ。人様に迷惑をかけない限り、娘の感覚、価値観は大事にしてやりたい。


「教えてくれないの?」

「教えるのは構わないけれど、納得できないかもしれないよ?」

「それでもいいから」

「……理由はいろいろあるけれど、決め手になったのはお茶だね。母さんが淹れてくれるお茶がとても美味しかったんだ」

「確かに母さんのお茶は美味しいよね。でも……それで結婚決めたの?」

「ああ、そうだよ」


 娘は眉間に皺を寄せている。私の感覚がやはり判らないんだろう。

 だが、本当のことだから、理解できなくても納得して貰うしかない。


 いろんなことが苦手な妻だが、お茶を淹れるのはとても上手だ。

 香り、程よい渋みのある味、口に含んだときの温度。

 特別高い茶葉を買っているわけではないけれど、妻が淹れてくれるお茶は美味しい。同じ茶葉を使っても妻と同じようには淹れられない。

 今でも職場や外出先で飲むお茶を飲むたび、帰宅したら妻にお茶を淹れて貰おうと思う。


 そう、あの時、プロポーズすると決めたとき考えたんだ。

 食事は日に、夜食をいれても四回だろう。

 でもお茶ならもっとたくさん幸せを感じられるだろうと。結婚したら、毎日、たくさん幸せを感じられるだろうと思ったんだ。この人と一緒に居られる喜びを確認できると思ったんだよな。


「あれだけ家事が苦手な母さんと、お茶のために結婚したなんて信じられない」

「納得できない?」

「父さんがいいんだからそれでいいんだけれど、納得は……しないかな」

「ああ、私はいいんだ」


 「ふーん」と言い、肩のタオルで髪を拭きながら自室へ娘は歩いて行く。


「ただいま、遅くなってごめんね」


 妻の声が玄関から聞こえた。慌ただしく入ってきて「食事は?」と訊く。


「ああ、これから。食べてこなかったの?」

「ジュース飲んで歌ってきただけ。……お蕎麦茹でるわね」

「ああ、着替えて来る」


 ジャケットと鞄を持って立ち上がる。蕎麦なら時間もかからずできるだろうし、風呂に入るのは食後だなと思い、


「食後、風呂に入る前にお茶入れてくれないか?」


 そう言って部屋へ向かう背中に


「今日はお高い茶葉よ? 実家から送ってきたの」


 背中を向けた妻が、鍋に水を張りながら答える。


「それは楽しみだね」

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決め手 湯煙 @jackassbark

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