明日の黒板

青い月（初稿）

　こんばんは。こんなにたくさんの語り部がいる中、僕の話を聞きに来てくれてありがとう。お礼というわけじゃないけど一杯ご馳走するよ。ジンにトニックウォーターを混ぜただけのシンプルなカクテルだ。けど材料にはこだわりがあってね、タンカレーのＮｏ．１０にウィルキンソンのトニックウォーター。もう１０月だってのに、今日は随分と暑かった。ジントニックはこんな日にピッタリな飲み物だと思う。

　さて、それじゃあ僕の話をさせてもらおう。人生ってのは結局のところ、可能性を失っていく過程なんだと、僕はそう思っている。だから卒業式のあの日、僕は彼女に気持ちを伝えた。告白しないという可能性を捨てた結果、告白したという事実を掴めたんだ。それが正解かどうかは別として。

　退屈な式と最後のホームルームが終わった後、僕は適当な空き教室を見つけて春子にメールを送った。ああ、ラインもスマホもない時代の話だからね、みんな二つ折りのガラケーさ。春子には前日の夜に連絡して時間を作ってもらってはいたけど、場所がどこかは決めていなかった。案の定クラスの教室には何人かの生徒がいつまでも残っていたから、我ながら良いやり方を選んだと思う。手持ち無沙汰でタバコを吸いたくなったけど、思いとどまった。卒業した日にケチをつけられるのも癪だし、それに春子はタバコが嫌いだ。机の上に出しっぱなしになっていた乳鉢を手の中で転がしてみると、中の黒い粉末がさらさらと踊った。そういうどうでも良いことほど、不思議とよく覚えているもんだ。

　しばらくすると春子がやってきた。こんな状況だ、僕がどんな用で呼び出したか、彼女の方も気づいていたに違いない。少しだけ頬を赤く染め、目をそらそうとする彼女が愛おしかった。その気持ちは僕の心臓の鼓動を加速させ、それと同時に尻込みしようとする僕の背中を後押しした。僕は彼女に好きだと伝えた。どんな内容だったっけ。そういう肝心なことほど不思議とよく覚えていないもんだ。

————ごめんなさい。

　それが彼女の答えだった。私は家族とドイツへ行くから、と。

　ダメで元々と告白したものの、振られたのはやっぱりショックだった。だけど物分かりが良いのが僕の長所だ。そうか、それじゃしょうがない、と引き下がって、ふたりで玄関に向かった。

　振られた後の気まずさを少しでも紛らわすために、僕は彼女が外国へ行くことになった経緯を聞いた。彼女の父親はドイツの医療機器メーカーの日本支店に勤めていて本社へ出向することになった。彼女自身も向こうで医学部に進学するチャンスなので、一緒に行くことにしたそうだ。ドイツに留学すると、試験や授業料とかで有利な点がけっこう多いらしい。翌日の飛行機で発つと聞いた時はあまりに急だと驚いたけど、父親は本社の決算に合わせて正月明けから単身赴任していて、寂しいから早く来てくれって催促していたそうだ。良い歳してまったくしょうがないよね、と彼女は俯き気味に笑っていた。

　１階への階段を降りたところで、僕は先生に用事があったのを思い出したと言って、春子とは玄関で別れることになった。本当は用事なんてなかったんだけど。別れ際、彼女は僕の袖を掴んで何か言おうとして、小さく首を振って微笑み、またね、と言った。僕も、うん、また会おう、と返した。

　夜にはクラスで打ち上げが予定されていた。高校の卒業式の打ち上げなんていったい何の意味があるんだろうと思ったけど、一応は僕も参加することにしていた。春子は明日の早朝の飛行機だから行かないと言っていた。僕も乗り気になれなかったけど、それも悔しいから意地を張って行くことにした。電車に乗って家に帰るのも面倒だから、校内をぶらついて時間を潰そうと思った。辺りを見回してみると、そういう生徒は僕のほかにも結構いるみたいだった。

　僕は男子バレー部の部室に入って、埃っぽい畳の上に寝転がった。こう見えて僕はバレーボールに青春を費やしていたんだ。全国大会出場まであと一歩だった。相手のブロックと向き合った時のひりついた緊張感を思い出すと、今でもゾワっと全身が粟立ってくる。攪乱是勝利をモットーに掲げた結果、セッター以外の全員が平均的にスパイクを打つ変なチームが出来上がった。積極的にリベロにバックアタックを打たせる監督なんてウチくらいのものだろう。あれでよく結果を残せたものだ。

　窓から射し込む白い光が宙に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。それを眺めながら色々な思い出を辿ってみると、不思議と涙が一筋こぼれた。高校生活に思い入れなんて無いと思っていたのに。

　気がつくと日が暮れようとしていた。部室の中は薄暗く、朱に染まっていた。眠っていたわけじゃないけれど、まぁ同じようなものだ。喉がヒリヒリと痛んだから自販機で暖かいココアを買って、自分のクラスの教室に行ってみた。黒板には色とりどりのメッセージが書かれ、寄せ書きみたいになっていた。空いているスペースがあったから、頑張れ、と書き足してみた。その横にシンプルな飛行機のマークも。

　僕は学校を出て駅前のファミレスへ行った。例の打ち上げだ。割と仲の良いクラスメイトのひとりに、なんでカラオケ来なかったんだよ、と肘でつつかれたので適当にごまかした。それから皆と当たり障りのない話をして、当たり障りのない別れを言って家に帰った。風呂に入ってベッドに横になったけれど、うまく眠れなかった。

　眠れないまま何も考えずに横になっていた。僕はそうやって時間を潰すのが得意なのかもしれない。窓の外が白み始めた頃、ふと卒業証書を忘れたことに気がついた。鞄の中を探してもやっぱり見つからなかった。きっと教室にでも忘れてきたんだろう。春子に告白することで頭がいっぱいだったから、その前後が一番怪しい。そう結論付けた僕は、忘れ物を取ってくる、という書き置きをダイニングのテーブルに残して始発の電車で学校に向かった。急ぐ必要はなかったけど、人がいない時間が良かったから。卒業した翌日に学校に行くのは、やっぱりちょっと恥ずかしい。

　学校に着いて自分の教室へ向かった。玄関の鍵は部活の朝練をする生徒のために開けられていたけど、ひやりとした廊下に人の気配は感じられなかった。卒業証書は案の定、僕が座っていた机の中に入っていた。やれやれ、とため息を吐く。大仰な筒を掴んで帰ろうとすると黒板が目に入った。なんだろう、何か違和感がある。そう感じた僕は、黒板に近づいて自分の書いたところをよく見てみた。頑張れ、そして飛行機のマーク。それは春子へのエールでもあり、自分へのエールでもあった。そして目立たなかったけど、その飛行機の横には青い三日月が書き添えられていた。何のことかよく分からなかった僕は首をひねると教室を後にした。

　廊下の窓から見える空は青く、そこに白い線を引きながら飛行機が飛んで行った。沈みかけの満月も見えた。そんな冬の朝の光景が僕には眩しすぎて、目の奥がじくりと痛んだ。

　そして５年後、僕はドイツへ行くことになる。大学院に進学した僕は、ゼミの教授が参加する国際学会について行った。フランクフルトは石畳とコンクリートの高層ビルが共存する綺麗な街だった。僕のほかにもゼミの学生が２人来ていたから、僕らは教授をほったらかしてビールを飲んでいた。ドイツに数あるビールの中で、ヴァルシュタイナーが僕のお気に入りだった。その爽やかな味わいと小麦の香りは、ソーセージをはじめとするドイツ料理にとても良くマッチした。空気は肌寒かったけど、外で食事することを好むドイツ人たちに倣って、僕らも外のテーブルで宴会を楽しんでいた。

————その時、僕は春子を見かけた。

　いや、それはきっと気のせいだ。春子じゃなかったと思う。顔はよく見えなかった。だけど、日本人であるのは間違いなかった。黒のカットソーにジーンズを履き、グレーのコートを羽織っていた。足元はニューバランスの白いスニーカー。そして同じ年頃のドイツ人の男性と、腕を組んで楽しそうに歩いていた。ドイツの女性ファッション誌の１ページを見ているようだった。

　僕は卒業式のあの日から、ふとした瞬間に後悔することがあった。例えば春子がドイツに行くことを決める前に告白していれば、彼女は向こうに行くことをやめたかもしれない。大学生の一人暮らしなんて普通のことだ。理由さえあれば、いや理由なんかなくたって、日本に残ることを選ぶなんて簡単だ。あるいは僕が春子を追ってドイツに行くことだってできた。それを諦めた理由をここで話すつもりにはなれないけど、例えどんな事情があっても、その全てを投げ打って僕は春子を追いかけるという選択肢を選ぶことだってできたはずだ。そんな思いがずっと僕の周りに纏わり付いていた。

　だけどそのドイツに暮らす日本人女性を見た瞬間、かろうじてアクティブだった僕の青春の１ページは思い出のバインダーに綴じられることになった。すごく身勝手なことだけど、僕は春子もその日本人女性と同じように暮らしているんだと、そう納得できたんだ。春子はドイツで暮らすことを選んだ。僕がドイツへ留学するという可能性を失ったように。その結果、僕が日本で暮らすという凡庸な現実を手に入れたように。そこには「もしも」も「可能性」もなくて、「現在」があるだけだ。

　さて、このジントニックもまた、可能性を失ったもののひとつだ。ギムレットとかマティーニとか、もっと「ありがたみ」のあるメジャーな姿にだってなれたのかもしれない。けどこのジントニックだってなかなか美味しかっただろう？名前だけ見れば安い居酒屋でも出されるような凡庸なカクテルではあるけれど、きちんと作ればホテルのバーで出されるような美味しいものになる。凡庸だって、突き詰めればバカにできないもんだ。そんな人生も悪くない。

　ところで、ジンを使ったカクテルにはブルームーンていうのがあるんだ。紫色なんだけど、ブルームーン。それはふたつのメッセージを持っている。花言葉みたいに。ひとつの言葉は「真実の愛」で、もうひとつの言葉は「その告白は受け取れない」だ。あの青い三日月が何を意味していたかは分からない。なんの意味もなかったのかもしれないし、あるいはそれは彼女が描いたものですらなかったかもしれない。だけどそれは僕の中に未確定な、可能性のるつぼと言えるような領域を残していった。あれから２０年も経って、僕の中の可能性はどんどん目減りした。確定した部分がほとんどだ。あの頃のように心が敏感に震えるようなこともなくなった。だけど僕の心の片隅には、小さな青い三日月が今でも鈍く光っている。それが夜空に輝くことは二度と無い。それは遠い青春の残照だ。この歳になって、そういうものが残っているのも悪くないって、ようやく思えてきた。

　そういえば、あのとき物理実験室にあった乳鉢の中の黒い粉末は何だったんだろう。あれもまた、僕の中に残った未確定なもののひとつだ。