永遠より紅い谷
木古おうみ
第1話
もう三百年前から何も変わらないようなこの谷底の町にも、予兆はあった。
鍛冶屋で使う炉が急に壊れた。秋の始めなのに、冬のように寒くなった。夕暮れ、巣に帰る椋鳥の群れに鴉が混じるようになった。
そして、今日鍛冶屋の煙突に白い旗が上った。
まだ夜の色をした空の下で揺れる狼煙がわりのそれを見て、僕は兄を揺り起こす。
「兄さん、旗が」
兄は一度肩で僕の手を押し返したが、すぐ目を開けた。
兄は右手で上体を起こし、乱れた布団を整えようと肘から先のない左腕が宙を掻いた。昨日まではまだ手首があったような仕草に、心臓を握られたような気持ちになる。
兄は僕を気にも留めず、外を眺めて目を細めた。窓が反射する紺色の光で、筋の浮いた喉がさらに細く見え、病人のようだと思った。
「入って来たんでしょうか」
兄の背中にそう呟くと、
「さぁな、銃持ってこい」
僕は棚の上で埃をかぶった猟銃を下ろす。胡桃の木でできた冷たい銃底をなぞると、光沢を失った木目が現れ、指先が黒く汚れた。
外に出ると、銃を持った大人たちが円になって集まっていた。日は昇ったが、すり鉢状に抉れた窪地にあるこの町は、上から垂れ込める木々と崖の影でいつも仄暗い。
「明け方、あたしが見つけたんだよ。化け物だ。若い女の格好してた」
中央に兄の働く鍛冶屋の親方がいて、その肩から生えてきたように首を覗かせるおかみさんが言った。
「どこから入ったんだ」
「奴ら何にでも化けるからな」
「子どもは家に隠したな」
口々に言う大人たちのひとりが僕に目を留め、少し悩んでから、「お前はその背丈なら大丈夫だろう」と呟いた。
親方は兄の首から提げた銃と、肘から先を縛った服の袖を見て、
「
「自分で持てます」
僕が言うより早く兄が答える。
「手分けして探そう。お前たち兄弟は離れるなよ」
親方の声を合図に大人たちは散り散りになった。上空で、椋鳥に混じって鳴く鴉の声がした。
僕たちは町外れの祠へ続く山道を歩いていた。兄は銃底を痩せた腹に押しつけるように支えている。
「化け物を見るのは初めてだ」
僕が独り言のように呟くと、背を向けたままの兄が言った。
「最近は来てなかったからな。前は老人の姿だった」
「何にでも化けるんですね」
「それか何匹もいるのかもな。奴らを撃つなら頭を狙う。化け物は普通死なない。だが、頭を狙えば……」
「僕たちと違いますね」
兄は何も言わなかった。
まだ両親がいた頃は年中嵐が訪れ、その度に町が荒れた。今はそれもなくなったが、代わりに谷の向こうから化け物が来るようになった。
きっと、化け物の脅威と引き換えに、この町は嵐を消してもらったのだろう。
遅い、という声に視線を上げると、少し先で兄が立ち止まっていた。いつの間にか祠まで来ていたらしい。触れると粘った汁を垂らす葉に囲まれた社は、塗装が剥げてささくれ、中には何もない。
兄は黒く湿った土に、直に腰を下ろした。僕もその隣に座る。立てかけられた銃の先に、木の影から町が見下ろせた。
まばらに並ぶ鍛冶屋は上から見ると、黒い昆虫が羽を休めているようだ。普段は赤い塵の混じった煙が夕陽のように空を染める。
昔、父がこの町は製鉄業で成り立っていると言った。
僕も一度、鍛冶屋の中に入ったことがある。焼けた鉄が運河のように流れて、太い動脈を流れる熱い血を想像した。触れようとする僕を押し留めたとは、今はない兄の左手ではなかったか。
風もないのに祠の裏で木の揺れる音がして立ち上がると、兄が座ったままこちらを見た。
「離れるなって言われただろ」
「はぐれませんよ」
「違う。見張れってことだ。お前が町を出たがってたのはみんな知ってるから」
僕は口の中で言葉を転がし、
「昔のことです。今は思ってません」
と、だけ答えた。兄はやっと視線を外した。
「お前も俺もこの町からは出られないからな……」
鋳造された鉄が何になり、どこに行くか、僕は知らない。
ぬかるむ土を踏み、進む。
振り返ると、兄の隣で青い煙が揺れるのが見えた。鍛冶屋で働くと、煙草をもらうようになる。この町の葉を使い、この町でできた薄い紙で包んだ紙巻。一生この町の空気を吸う暗示のようで昔は嫌だったが、今は机に転がったものをたまに吸うこともある。兄は咎めなかった。
祠の裏に回って、布きれに包んでおいた一本の煙草と軽いマッチ箱を取り出し、火をつける。草木しかないはずの流れる煙の先に、華奢な背中があった。
思わず煙草を落とすと、背中がくるりと回って、長い髪を垂らした少女に変わる。彼女は自分の唇に埋まりそうなほど強く指を押し当て、黙れと示した。僕が頷いたのに安心したのか、今度は手招きして、屈むように命令した。化け物は少女の姿ではなかっただろうか。
「ねんざ、治せる?」
少女が震えた声で言った。
「やったことないよ」
泣き出すかと思ったが、彼女はそうと答え、座り直しただけだった。動かさなかった方の足が泥で汚れている。
土の上で煙草の火が燻るのを見て、少女が言った。
「吸っていい年なの?同じくらいかと思った」
「君はいくつ?」
「十五」
「じゃあ、全然違うよ」
彼女は肩を竦めた。
「私、崖から落ちて来たの」
「よく無事だったね」
「無事じゃないわ。足も動かないし、ここがどこかもわからない」
僕が町の名前を言っても、ぴんと来ないようだった。
「そんな町、地図になかったわ」
「地図っていつの?」
「いつのって?」
僕は彼女が落ちてきたという崖を示し、わずかに明暗の違う地層が幾重にも重なったその表面に、白く抉れた細い線が入っているのを見せる。
「昔、洪水があったんだ。この線のとこまで水に埋まったんだよ」
祠にあったはずの像か何かも、それで押し流されたのだろう。
「それでこの辺りの地形がぐちゃぐちゃになったから、どことも繋がりがないこの町は忘れられてるのかもしれない」
彼女は聞いたことがないと首を振った。
「それ、いつの話?」
「もう三百年も前だ」
「洪水ってよくあるの」
「昔はね。今はもうない。その代わり化け物が来るようになった」
少女は顔を強張らせた。
「化け物ってどういうこと……」
「僕も詳しくないけど、ときどきどこかから町に紛れ込むらしい。見た目じゃ人間と区別がつかないんだ。姿はそのときによって違う。老人だったり、若い女のひとだったり」
日が木影に隠れて、落ちた影が少女の顔を半分だけ黒く染める。
「化け物は何をするの」
「町を襲うらしい。でも、襲われたことはないよ。その前に大人が何とかしてるから」
「その化け物って、倒せるの?」
「猟銃で撃てばいいみたいだ」
少女は表情を崩して「弱いのね」と笑った。
「でも、撃たなきゃ死なないんだって」
「撃てば死ぬんでしょ。普通の人間みたい」
「そうかな」
沙門、と遠くで兄の声がした。
「沙門って、誰?」
「僕だ」
今行きます、と叫んだが、鬱蒼とした黒い茂みに呑まれて届いたかわからない。
「呼んだのは?」
「赤名」
少女はまた笑い、振動が傷に響いたのかわずかに顔を歪めた。
「昔のひとみたい」
「よくある名前だよ」
「そう? 名前まで私の町と全然違う。あ、もしかして、向こうにいた腕がないひと?」
一瞬、腹の底に黒い澱が貼りついたような気持ちになったが、そうだと答えた。
「僕の兄だ」
「全然似てない。銃も持ってたし、怖そうなひとだった」
「そうかな」
兄を恐ろしいと思ったことはなかった。ただ、昔はよく、あの皮膚が薄く眼尻の微かに赤い目で睨むように見られたときは、視線が刃のように感じた。
「お兄さんに敬語で話すの?」
「みんなそうじゃないかな」
「きっと沙門の家は厳しいのね。お父さんとお母さんは?」
僕は首を振った。
「洪水のときに流されて、それからわからない」
少女は、小さな声でごめんなさいと言った。静寂が満ちて、鴉の鳴き声が不穏に響く。
「まだ、どこかで生きてるかも……」
僕が笑うと、彼女の顔も少し明るくなった。
「探しに行こうと思わないの?」
僕は首を横に振る。
「兄弟ふたりだけでずっと暮らしてるの」
「何とかなってるよ。兄さんはもう鍛冶屋で働いてるし」
「仲がいいのね」
「今はね。昔は違った」
僕は片手に煙草を包んでいた布を握っていたのを思い出し、
「脚を出して」
少女は身体を退けるようにして、動かない脚を差し出した。僕は近くに落ちていた枝を拾って、彼女の足元に座る。血は出ていない。添え木を当てて、布をくぐらせるために足首を掴むと、氷のように冷たかった。
「僕は家を出たかったし、兄さんには嫌われてたと思う。でも、町は子どもが外に出るのを許さなかった」
少女の膝が跳ねた。白いふくらはぎが、あの夜の雨のように冷たく膨れ上がるような気がする。
「あるとき嵐が来て、町がひどく荒れた。僕はそれに隠れて逃げ出そうとしたんだ。鍛冶屋から斧を一本盗んで。雨風の中、僕を探しに来た兄に腕を掴まれて、斧で押し返した。柄のはずだったのに、刃の方だった。針みたいな水しぶきと一緒に、赤い血がさっと散ったのを覚えてる……」
少女は無言で僕を見つめていた。しばらく唇を震わせていたが、長く静かな呼吸の後、
「それで、どうなったの」
「覚えてない。気づいたときにはもう嵐が去ってた。川縁で目が覚めて、町に下りた。兄さんを見つけたとき、僕に駆け寄ってきて、戻ってきてよかった、って。それだけだ。腕のことは何も言わなかったんだ」
袖に、あの日右手だけで、大人の両腕よりも強く握られた感触がまだ残っているようだ。
「それから町を出ようと思ったことは一度もないよ」
少女は自分の膝を見つめて、帰りたいと呟いてた。
「私もお兄ちゃんがいるの。喧嘩して町を出て、逃げてるうちにここに来ちゃった。私、帰れる?」
「今は出ない方がいいと思う」
「どうして?」
「町に化け物が入ったんだ。女の子の姿だって」
「それ、私のことじゃないの……」
僕たちは目を見合わせた。
「町のひとに知らせてくるよ。それまでここにいて」
僕は立ち上がった。
「足、ありがとう」
彼女は不恰好に巻かれた布を指した。
「きっと仲直りできるよ。時間はたくさんあるから」
そう言うと、少女は目を伏せて微笑んだ。
僕が祠をぐるりと回って、茂みを出るのと「沙門」と呼ぶ声がしたのは同時だった。
「どこ行ってたんだ」
苛立った声で言う兄は肩で息をしている。
「兄さん、化け物じゃない。あの子は人間でした」
兄は怪訝な顔をしたが、徐々に表情を打ち消した。
「わかった、後は大人たちに任せる。もう戻るぞ」
肩に置かれた右の手の平が冷たく、重く、懐かしかった。
入れ違いで山道へ入った大人たちを見送って、僕たちは家に帰った。空の裾が橙に染まり、部屋には既に薄暗闇が満ちている。鴉はまだ椋鳥よりも響く声で囀っていた。
少女は家に帰れただろうか。銃声は聞こえなかった。化け物ではなかったと思いたい。
「終わったみたいだな」
敷いたままの布団を踏んで、外を見る兄が言った。並んで立つと、窓の向こうに、鍛冶屋の白い旗が消え、鬼火のような灯がともっている。
「兄さん、僕もそろそろ鍛冶屋に行ってもいいですか」
兄は驚いたように目を見開き、唇から小さく歯を覗かせて笑った。
「そうだな。仕事はゆっくり覚えればいい。時間はいくらでもあるから」
細い煙突からたなびく煙が、血か、小窓から帯になって差し込む夕陽のように赤かった。
父と母が消えた洪水の日も、その前も、三百年前からずっと見てきた光景だ。僕はふと、死なない化け物とはどのくらい生きるのだろうと思った。
僕たちより遥かに生きるのならば、それはもう、きっと永遠しかあり得ないだろう。
永遠より紅い谷 木古おうみ @kipplemaker
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