明日の黒板

佐倉奈津(蜜柑桜)

春夏秋冬の物語

 青く澄んだ春の空。太陽の光は柔らかい。校舎の屋上、緑のビニールみたいな床にプリーツスカートが二人分広がる。その横には三年間伸び盛りに伸びて大の字になる手足。


「今日でここに寝っ転がれるのも終わりだねぇ」

 秋菜が太陽に目を細めて言った。

「冬樹に殴られるのももうお終いだー」

「夏男が寝てるから起こしてあげてるんじゃない」

「春子と秋菜の余興の練習もな」

 二つの高い声が重なる。

「やだそれ言わないでー!」


 笑い合う声が弾ける。高校という縛りから抜ける解放感と、ここで得てきた、たくさんの充実感。ぶつかるところ無く空に上がっていく声は、今の自分たちそのものみたいだ。


 秋菜が手を前に出して「よっ」と起き上がった。つられて春子も身を起こす。

「結局三年間、同じクラスでラッキーだったよね」

「ほんと、春子の男苦手もすっかり無くなったよな」

「だって夏男、逃げる隙もないほど話しかけてくるんだもん」

 寝転がったまま笑う夏男の額を、春子の細い指が弾く。秋菜は隣の春子の肩にもたれた。

「二人とも微笑ましいくらい仲がいいよね」

 横で冬樹がスマートフォンを取り出し、いつものように電子書籍を読み始めた。


 春子と秋菜、夏男と冬樹はそれぞれ違う中学だった。秋菜と夏男が幼馴染だったので、高校で一緒になった時に、それぞれの親友の春子と冬樹も自然と一緒に過ごすことが増えていったのだ。気が付けば登校から昼休み、部活のない時には下校まで、四六時中一緒だった。


 卒業式だからと言って、四人に涙はなかった。きっと大学に行ってもしょっちゅう遊びに行って、今度は飲みに行ったりもするのかな。そんな風に、秋菜は横に並ぶ三人の顔を見て思った。


「最後のホームルームまであと少しかぁ」

「あ」

 夏男の呟きに、春子が何か思い出したように立ち上がると、パンパンとスカートの埃を払う。

「私、先生のとこ行かなきゃ。先戻るね」


 じゃ、また、と屋上の錆びついた扉の中へ春子が消える。すると春子を見送る秋菜の背後でガバッと夏男が飛び起き、頭を抱えた。

「うーーあぁーやっぱ言うべきかなぁ」

 夏男は髪の毛に力一杯、掌を当てるものだから髪が変に浮いており、台詞以上に格好悪い有様この上ない。

「なぁ秋菜ぁ、どう思うよ?無条件で一緒に居られるのは今日までだよなぁ」

「まだ悩んでんの?」

 その丸まったブレザーを、秋菜はわざと大きく叩く。

「大丈夫だよ。だって春子、男嫌い治っても積極的に話すのは夏男だけでしょ。三年間の時間をなんだと思ってるのよ。平気。夏男はいいやつだし」

「そうかなぁ」

 ようやく手の力を抜いて、頭を膝に乗せたまま、夏男の情けない顔が秋菜の方へ九十度向いた。秋菜は芝居がかって大きく二本指を立ててやる。

「わ、た、し、が言ってるんだから大丈夫だよ。ね。私、春子と先生と写真撮りたいから先に戻る!」


 秋菜は最後に一発夏男を叩き、扉へ小走りに向かう。勢いよく開けた扉にその姿が吸い込まれると、軽快に階段を降りる足音がだんだん遠のいていった。


「そっか、うん。今日が男の見せ場だよな」

 情けない顔は何処へやら、夏男はガッツポーズをとった。

 冬樹はスマートフォンの画面を見るふりをしながら夏男と反対側に寝返りを打つ。

「俺はお前のそういう所が、ほんとどうしようもないと思うよ」

「は、何言ってんだ?」


 背中に聞こえる間抜けな返事に、冬樹はため息をついた。


 ※※※


 屋上から階段を駆け下りてきた秋菜の足が、廊下を進むにつれてだんだんのろくなる。


 ––あーあ、何やってんだか。


 廊下は暖房とさよならした春の暖かさで、ついこの間まで窓際のヒーターにピタリと寄り添っていたのが嘘みたい。しかし秋菜の浮き立った心は一気に冷めてしまった。そんな自分も嫌だった。


 ––春子も夏男も喜ぶならこれほど良いことないじゃない。春子みたいなのにはきっと、夏男しかいないんだし。春子だってそう思ってるよ。


 何しろ春子が物怖じせずに楽しそうに付き合ってるのは夏男だけなのだから。いくら冬樹でも、どこか緊張しているところがある。


 ぼうっとした気分で窓の外を見ると、桜の木が枝にほんのり染まった花をつけ始めている。秋菜の方に向いている咲いたばかりの花は、逆光のせいで白い花びらに微かに灰色の影を作っている。


 窓から聞こえる生徒たちのはしゃぐ声をどこか遠くに聴きながら、廊下を教員室に向かってへ歩いていると、ちょうど向こうの角を誰かが曲がってきた。


「あ、秋菜」

 春子だった。秋菜を見つけて小走りになる。瞳にあがった水滴を隠そうと、秋菜は急いで、大仰に欠伸のポーズをとった。

「さやちゃん先生、いた?写真撮りに行こうと思ってたから一緒に出れば良かった。なんの話?」

「えっと…実はね、驚くかもしれないんだけど…」

 秋菜の前では珍しく視線を逸らした春子は、両手の指を何度も組み替えてなかなか次の言葉を続けない。


「なぁに、どうしたのよ」

「う、あ、あのね…」


 誰に聞かれるわけでも無い廊下なのに、春子はそっと、秋菜の耳打ちをする。

 その言葉に秋菜は凍りつき、すぐさま夏男の顔が頭をよぎった。


 −−嘘でしょ…


 自分はさっきなんてことを言ってしまったんだろう。

「春子、ちょっと待って、そんな…」

 驚きでうまくろれつが回らない。その時、後ろから秋菜が今一番聞きたく無い声が響いた。

「春子!」

 夏男だった。三年間、幾度とあった状況で、この後は笑い声が絶えなくなるのがお約束だったが、今日は違う。夏男は駆け寄ってくると、二人の間に入った。

「ちょっと後で話があるんだけど、ホームルーム後いいか?秋菜は冬樹と本屋だって」

 秋菜が初耳の予定を早口で言うと、夏男は「頼むよ」と目配せをした。

「じゃ、さやちゃん先生のところ行こうぜ」

「うん、秋菜もほら」


 もう教員室へ足を踏み出す二人に、秋菜は言葉を挟むタイミングを失った。

 頭を殴られたようなショックに、屋外からのざわめきも前を行く二人の上履きの音も別世界のもののように聞こえる。


 ※※※


「お前…そんなことする意味あるのか」

「うるせぇ付き合えっ!うぐっ…後輩たちへの訓示だよ!」


 鼻水声を混じらせながら、夏男は薄暗い教室の扉を開けた。


「いいから冬樹、見張ってろよ。誰かきたら即逃げる」

 手から乱暴にライトを奪われ、冬樹は仕方なく教室の外の壁に寄りかかってぼんやり廊下を眺めた。


 先に帰れと言われた冬樹だが、日も暮れてから突然、涙声の夏男に呼び出された。予想はついていた。

 ––春子に振られた、なんだ海外行くとか。しかも…くそもう終わりだ、いやこれは人生訓だ––


 興奮してまくし立てる夏男の気を鎮めるためにも、冬樹は気が乗らないながら、夜中の校舎への侵入協力に渋々付き合ったのだった。


 若干、すまない気持ちもあった。春子が卒業したらすぐに海外に行くことは聞いていたのだ。ただ、感情的になるから秋菜と夏男には最後まで黙っていてくれ、と言われていたため、話すわけにもいかなかった。


 教室の中からチョークを打つ硬質な音が聞こえる。何年も聞き慣れた音、書き手の性格が出る音だ。今は雑で早い。パワーポイント講義が多いという大学に行ったら、もうしばらく聞くことは無いんだろう。


 誰もいない廊下。複雑な気持ちで冬樹は目を閉じた。そして教室内の腐れ縁の馬鹿者を思い、その幼馴染の明るい声を思い、いつもその隣にあった笑顔を思った。


 −−うまくいかないもんだな…。

 とはいえ、自分が他に何かしてやれることがあったか、それも、彼ら以外の人と付き合った経験の少ない冬樹にはわからなかった。


「できたっ」


 カランとチョークが投げ捨てられる軽い音がし、冬樹は教室の中を覗いた。そして捨て鉢な笑みでぱんぱんと手を払う夏男の視線の先、黒板の文字に脱力した。


「…お前、やっぱ馬鹿だ」


 最後の掃除で美しく磨き上げられた黒板には、『人なんてみんな孤独なんだ!!!』という文字が少年漫画のタイトルロゴのような勢いで書かれていた。

「いいんだよ!高校終わって外に出てみろ、無条件で一緒にいれるなんて思うなよ!思いが報われなきゃなぁ、どうせ孤独なんだよ!!」

「いいから騒ぐなよ、見つかるぞ」

 やべ、と夏男はパーカーの袖で乱暴に目をこすると、床に放った運動靴を拾い上げる。人気のない校内に、靴音は何であれ響くのだ。


「冬樹、急いで出るぞ」

 夏男が靴下の足の爪先だけ使って走り出す。

「ったく…なんて言うかなぁ…」

 その背中についていきながら、やれやれと冬樹は手に持つスマートフォンのメッセージアプリを起動した。人に関わるのは苦手だが、どうも三年間、周りの三人のおかげで放っておくことが出来ない性質が感染ってしまったらしい。


 ※※※


 翌日、散々泣いて重い夏男の頭の横で、うるさく冬樹からの着信が鳴った。

『出るの遅い。お前、俺のライト返せ』

「は?」

『昨日の夜、お前教室に置きっ放しにしただろ』

「あー…悪りぃ…でも今、まじ気持ち悪」

『取ってこい。付き合わせた詫びに上乗せすっぞ』


 そのようなわけで文句を言うこともできず、夏男は再び教室へ足を運んでいた。

 寝不足で吐きそうな胸のむかつきと、窓から射すうららかな春の陽気が似合わなすぎて、情けないがまたも泣きそうになる。


 もう戻ることもないと思った教室の前で、夏男は一瞬躊躇した。後先考えずに書いてしまったが、いま思い出せばあの文面は恥ずかしい。消えない想いをあんな形で書き殴って、大学生になるにもかかわらず、あまりに子供染みたか。

 やるせない気分で目を閉じて教室の扉を勢いよく開き、なるべく黒板を見ないように入ったが、やはり視界の端にそれは映る。


 だが、予想しなかったそれに、夏男は黒板を直視した。


『わたしがいるよ!!!!』


「なん…誰だこれ…」

 昨日の夜、夏男が白チョークで書いた孤独の叫びの上に重なる赤いチョーク。


「一人なんて言うなバカぁぁぁぁ」


 誰もいないと思っていた教室の後ろの方から、涙声が聞こえてきた。

 振り返ると、秋菜が赤いチョークを握りしめて立っていた。

「な、秋菜?なにやってんのお前!?」

「なっ夏男のっ…ずっとっ…私がいるからぁぁ…孤独なんて言うなばかぁぁぁぁ」

 しゃくりあげながら秋菜の目からぼろぼろ涙が溢れている。

「春子行っちゃうからってっ…狡いかもしれないんだけどっ…私だって…っ夏男なんでずっと気づいてくれないのぉぉっ」


 赤子のように手放しで泣く秋菜に、夏男はただもう動揺してしまって、おろおろと聞いた。


「え、まじで、ちょっと落ち着け」

「春子海外行くなんて知らなくて…っ…昨日夏男、告白せっついたの後悔してっ…」

 おずおずと近づいた夏男にさすられながらも、秋菜は話し続けている。鼻水をすすりながら。

「ごめんんんんっ…うええっ…しかもあの子好きな人いるって知らなくてぇぇ…っ」


 妹かのように思っていた秋菜の突然の告白に、失恋の傷も吹っ飛び、顔が火照るのを感じながらもぽんぽんと背中を叩いて聞いてやっていた夏男は、最後の一言に静止した。


「ちょっと待て、秋菜、春子の好きなやつ知ってるのか?」

 腕の中の秋菜は頭を振る。

「俺も好きなやつがいるってしか…てか、そもそもお前、なんでここにいるんだ?」

「え、朝、冬樹と一緒に…」

 言いかけ、秋菜の言葉が止まった。そして顔をあげた秋菜と夏男の目が合い、二つの叫び声が重なった。


 ※※※


 春休みに入った学校は静かだ。階下の教室から上がるバカァっという高い声は、窓を抜けて屋上までよく聞こえた。冬樹は灰色の扉に寄りかかり、ふっと笑みをこぼした。


 ––やれやれ、世話のかかるやつら。


 夏男に引っ張られる形で毎日一緒にいた仲だ。見ていればすぐに分かった。春子に話しかける夏男を寂しそうに見る秋菜の視線。体育祭で夏男と二人三脚になった時の紅潮した顔。分かりやすいと思ったが、夏男は夏男で春子しか見えてないようだったし、春子は春子で男慣れしてないだけ男の気持ちには鈍く、夏男の態度が仲良しの男子の普通と思っていた感があった。側から見ている冬樹には、何とも不憫な光景だった。


 ––夏男には、まぁ悪くはないだろ。春子だって向こうに行ったら、誰かに落ちるかもしれないんだし。


 いつものように電子書籍を読むのも勿体ないほどの青空。高台に建つ校舎の屋上から見る眺めは、冬樹たち四人が毎日見てきたものだ。今日はうっすらと白化粧した富士山の山頂までが、高層ビルの向こうにのぞいていた。


 風の少ない、穏やかな春の朝だ。


 雲ひとつない空に、飛行機がスッと線を引いていく。太陽の眩しさに目を細めて、上空高く小さく見えるその機体を追った。そういえば、春子のフライトは午後って言ってたっけ。


 音楽でも聞こうかとポケットのスマートフォンに手を伸ばした時、ちょうど聞き慣れた着信音が鳴った。四人お揃いで決めた、何度となく聞いた着信音。


 怪訝に思って画面を見ると、短いメッセージが光っている。


『空港でもう一回会えない?』


 冬樹の背中の向こうから、慌ただしく階段を駆け上がる二つの足音が近づいてきた。

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