後
私の中には、罪悪感が強く残っていた。私のしたことは褒められることじゃない。
卒業式の翌日の放課後。私は学校にいた。
私は茶道部の副部長を勤めていたのだけれど、今日は後輩たちに来るように言われていた。
毎年茶道部では卒業式の翌日、後輩が三年生に卒業祝いとしてお茶をたてることになっていた。
呼ばれた時間より少し早く着いたので、時間をつぶそうとして気がつくと、私の足は自分の教室に向かっていた。
教室は、昨日と変わらないように見えた。
けれど、私は教室に足を踏み入れ、黒板を見て気がついた。
黒板には「卒業おめでとう」という言葉の周りに、寄せ書きをしたはずだ。
けれど今は「おめでとう」の部分が消され、代わりに「もっと早く言えばよかったー、俺のバカ。明日からどうやって頑張ればいいんだ!」と、勢いのある殴り書きがあった。
「夏男君……」
私は反射的につぶやいていた。書いたのは彼しかいない、と思った。
昨日、ここで、彼は告白をした。
上山春子さんに。
卒業式の朝、階段の踊り場で夏男君が上山さんに話しているのを聞いた時、私は驚きのあまり目の前が真っ暗になった。かばんを握りしめた手に、跡が残ったことにもしばらく気づけなかった。
ああ、やっぱり、彼には彼の好きな人がいたんだって強く感じた。
二年の時、同じクラスだったから上山さんのことは知っている。
彼女は明るくて、だけどそれが押し付けがましくない。一歩引いて周りを見れる人だった。見た目も可愛らしく、とても素敵な人だった。
夏男君にぴったりだって思った。
だから、彼への想いはもう忘れようと誓った。
なのに…………。
私は、教室に向かう上山さんの後を追いかけてしまった。あまりにも気になって。
そして聞いてしまった。彼が振られてしまうのを。
上山さんが出てくる前に階段に隠れて、もう一度教室に戻ろうとして、見てしまった夏男君の顔はとても寂しそうだった。
声をかけられるわけもなかった。そうしたら、私が盗み聞きしていたことがバレてしまうから。
私には励ます資格も勇気もなかったんだ。
改めて、私は黒板の殴り書きを見つめた。
あの後、戻ってきて書いたんだろうか。
いつも優しい彼だから、こんな風に感情を出すことがあるなんて驚きだ。それだけショックだったんだろう。
好きな人に振られるのがどれだけつらいのかなんて、私にはわからない。私は試みもしなかったから。
けれど、でも。
私の中のあなたは、いつだって輝いてた。どんな時だって。
落ち込んでいるままのあなたなんて、似合わないと思うんだ。
だから――
私は気づくと、チョークを手にしていた。黄色。
届かないのなんて、わかってるけど。
白い走り書きの横に、一画一画ゆっくりと想いを込めて書いた。
「明日から少しずつでも頑張ればいいと思うよ。」
しばらく書いた文字を見つめてから、私はチョークを置いた。
こんなの、自分の願望の押し付けだ。私はそう思って笑った。
その時、廊下の窓からゴーという音が聞こえて、何気なく教室の入り口に目を向けた。彼女が乗った飛行機だろうか。
「――えっ」
そして、教室の入り口から私を見ている彼と目が合った。
どちらかといえば丸みを帯びた輪郭。優しげな目元。
見間違えようがない。夏男君だ。
「あ、えと」
突然のことで何を言えばいいのかわからない。いつから、そこにいたのだろう。
「…………」
夏男君の表情は何を考えているのか、読み取れない。彼は、部屋の中にそのまま入ってきた。
彼は私の横に立った。腕を伸ばしたら届く距離。そんな距離まで、彼に近づくのははじめてだった。
「……ちょっと、嫌なことあってさ。心が落ち着かなくて」
黒板を見ながら、彼は軽い口調でそう言った。
「えっ?」
「これ、書いたの俺なんだ。昨日の夜、証書を忘れて取りに来たついでに、すっきりしようと思って書いた」
話を聞かれたことなんて知らない彼は、何でもないような顔でそう言った。どうやら、階段ですれ違ったことは覚えていないらしい。当たり前か、彼はショックを受けていたんだから。
「でもさ、一晩たって考えたらこんなのひどいじゃんって思って。せっかく、みんなで書いたのにさ。なんだか汚してしまったみたいで。だから、消そうと思って来たんだけど」
そこまで言って、彼は私に顔を向けた。頭一つ分私より背が高いから、当然少し見下げる感じになる。
「森川さんってさ、優しいな。こんな落書きに返事書くなんて」
彼から、名前を呼ばれたのはそれが最初だった。どうやら、名前はちゃんと覚えてくれていたらしい。名字でも嬉しかった。
ああ、それだけで十分だ。
だって、私はひどい人だから。盗み聞きしたんだから。本当は優しくなんてないから。
「そう、かな」
気恥ずかしくて、それだけ言うのがせいいっぱい。
「そうだよ、俺だったらこんなの消してる」
彼は口元を緩めた。
「このままでいいな。せっかく書いてくれたんだし」
「いや……別に、私が勝手に」
「いいんだ」
「……、そ、そう」
きっぱりと首を振る彼に、私は何も言えなかった。
きっと、これはチャンスなんだろう。告白するとしたら。
でも、そんなの私の自己満足だ。
夏男君が欲しいのは、私の想いなんかじゃない。春子さんの想いだったから。そんなことしても、彼が混乱してしまうだけだ。
もう、十分。十分だ。こうして話せただけで。
この一瞬のために、きっと、私はここに来たんだ。
「ねぇ、江口君」
「うん?」
だから、せめて最後に一つだけ。勇気を振り絞って声に出す。
「前を向いて頑張ってね」
彼は、きょとんとした顔をしてから気を引き締めた……つもりなんだろう。
元々優しげな顔しているから、あまりそうは見えなかった。
それは、なんとも彼らしい表情だった。
「おうっ、森川さんもな」
エールを返してくれた眩しいほどの笑顔を、私はきっと忘れないだろう。
教室の窓から見える青空が、どこまでも透き通って見えた。今しも、学校を飛び越えた飛行機が、白い線を青い黒板に描いているところだ。
空を飛ぶ飛行機のように、私の心は軽くなりはじめていた。きっと、これでいいのだと。
明日の黒板 泡沫 希生 @uta-hope
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